そんな程度
2014/07/03/Thu
水の入ったバケツがある。
このバケツにタオルで蓋をする。
逆さにしてみよう。
水はこぼれる。
水の入ったバケツがある。
次の蓋は、漏斗だ。
バケツと同じ直径の漏斗。細い方の口はとっても小さい。
逆さにしてみよう。
同様に水がこぼれる。
だけどおそらく、タオルのときよりかは、こぼれない。
ペットボトルを逆さにしても、脈を打つようにしかこぼれないのと同じ。
あ、あれ横方向にぐるぐる回して中の液体に渦を作るようにすると一気にこぼれるよ。
前者が剰余享楽、後者がファルス的享楽だ。
ファルス的享楽を説明するとき、もっとも適当にする説明として、「ファルス的享楽ってのは水鉄砲だよ」とわたしは言う。
さて今度は、空になったバケツに水を入れてみよう。
タオルで蓋をしたバケツは、そのまま水を入れられるだろう。
漏斗で蓋をしたバケツには、水は入れにくかろう。
これが「男性的抗議」なんじゃねえのかなあ。ってのは前記事で書いたことだな。
まあタオルも蓋がないときよりかは入れにくくなるけどさ。
このタオルはスクリーンでもある。
そのスクリーンには、その主体の頭の中の出来事が映し出される。
投影だな。
対象aとはヴェールで隠すようなことでもある。
そのヴェールに、人は妄想を映し出す。
ヴェールの向こう側には、実は何もない。
風呂場のカーテンの向こうに、シャワーを浴びる女の姿が見える。
映画でよくあるシーン。
しかしそれは映画と同じ。カーテンをスクリーンとして、映像を浮かび上がらせているだけ。
カーテンを開けると、そこには、答えなど、真理などない世界がある。
完全なる迷子の世界が。
煩悩を滅却すると、そんな世界に落とされる。
それは地獄でもある。無限の地獄。
解脱なんてそんないいもんじゃねえよ。
映像をきれいに映し出せるスクリーンの人なら、煩悩の世界にいた方が幸福でいられるだろうよ。
一方。プロジェクターとかなかなかきれいに映像が出ない素材ってあるじゃん。
スクリーンとして低品質な素材。
そんな人なら、向こう側の方がまだマシってだけ。地獄の方がね。
向こう側に行けないけどな。
そんな程度の話っすよ。
仏教も宗教化してしまったからなんか大仰な話になったのだろうよ。
あんま解脱に期待しすぎるのもどうかなーって思うな。
その期待が煩悩なわけだし。
友人とか、恋人とか、家族とか、そういうものは
人間の頭の中のものでしかないのですから
妄想の産物と何ら変わりありません。
あらゆる意味でバーチャルなものです。
そんなものにあたかも実体があるかのように考えると
人間の関係には、欺瞞というか、
何か無理をしているような違和感が生じて来るのです。
「解脱に対する期待」が、「何か無理をしているような違和感」だったりしねえかい。
それは「煩悩」だったりしねえかい。
これ空亦復空なり。
まあでも、カーテン開けちゃったんだろうなあ。
恋人を殺した直後のときを思い出してみ。
そのとき、煩悩は滅却されていただろう。
解脱していただろう。
殺す直前に鬱状態だったなら、余計にそうだろう。
「無というトランポリン」の向こう側を見ちゃったのだろう。
まあうん、いいや。
わたしがやってる精神分析は、「魔女のする精神分析」なんだよね。どうでもいいけど。
このバケツにタオルで蓋をする。
逆さにしてみよう。
水はこぼれる。
水の入ったバケツがある。
次の蓋は、漏斗だ。
バケツと同じ直径の漏斗。細い方の口はとっても小さい。
逆さにしてみよう。
同様に水がこぼれる。
だけどおそらく、タオルのときよりかは、こぼれない。
ペットボトルを逆さにしても、脈を打つようにしかこぼれないのと同じ。
あ、あれ横方向にぐるぐる回して中の液体に渦を作るようにすると一気にこぼれるよ。
前者が剰余享楽、後者がファルス的享楽だ。
ファルス的享楽を説明するとき、もっとも適当にする説明として、「ファルス的享楽ってのは水鉄砲だよ」とわたしは言う。
さて今度は、空になったバケツに水を入れてみよう。
タオルで蓋をしたバケツは、そのまま水を入れられるだろう。
漏斗で蓋をしたバケツには、水は入れにくかろう。
これが「男性的抗議」なんじゃねえのかなあ。ってのは前記事で書いたことだな。
まあタオルも蓋がないときよりかは入れにくくなるけどさ。
このタオルはスクリーンでもある。
そのスクリーンには、その主体の頭の中の出来事が映し出される。
投影だな。
対象aとはヴェールで隠すようなことでもある。
そのヴェールに、人は妄想を映し出す。
ヴェールの向こう側には、実は何もない。
風呂場のカーテンの向こうに、シャワーを浴びる女の姿が見える。
映画でよくあるシーン。
しかしそれは映画と同じ。カーテンをスクリーンとして、映像を浮かび上がらせているだけ。
カーテンを開けると、そこには、答えなど、真理などない世界がある。
完全なる迷子の世界が。
煩悩を滅却すると、そんな世界に落とされる。
それは地獄でもある。無限の地獄。
解脱なんてそんないいもんじゃねえよ。
映像をきれいに映し出せるスクリーンの人なら、煩悩の世界にいた方が幸福でいられるだろうよ。
一方。プロジェクターとかなかなかきれいに映像が出ない素材ってあるじゃん。
スクリーンとして低品質な素材。
そんな人なら、向こう側の方がまだマシってだけ。地獄の方がね。
向こう側に行けないけどな。
そんな程度の話っすよ。
仏教も宗教化してしまったからなんか大仰な話になったのだろうよ。
あんま解脱に期待しすぎるのもどうかなーって思うな。
その期待が煩悩なわけだし。
友人とか、恋人とか、家族とか、そういうものは
人間の頭の中のものでしかないのですから
妄想の産物と何ら変わりありません。
あらゆる意味でバーチャルなものです。
そんなものにあたかも実体があるかのように考えると
人間の関係には、欺瞞というか、
何か無理をしているような違和感が生じて来るのです。
「解脱に対する期待」が、「何か無理をしているような違和感」だったりしねえかい。
それは「煩悩」だったりしねえかい。
これ空亦復空なり。
まあでも、カーテン開けちゃったんだろうなあ。
恋人を殺した直後のときを思い出してみ。
そのとき、煩悩は滅却されていただろう。
解脱していただろう。
殺す直前に鬱状態だったなら、余計にそうだろう。
「無というトランポリン」の向こう側を見ちゃったのだろう。
まあうん、いいや。
わたしがやってる精神分析は、「魔女のする精神分析」なんだよね。どうでもいいけど。
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