天使に唾を吐きかける。
2007/09/17/Mon
野島直子氏著『ラカンで読む寺山修司の世界』が面白い。ある程度ラカン論を理解していないと、寺山修司という個人像そのものに影響を与えかねない内容だが、タイトルにラカンを冠していることだしまあいっか、と。それに、寺山修司という人は2ちゃんの「コテは叩かれてナンボ」的な「誤解されてナンボ」な人だとわたしは勝手に思っているので、割とすらすら読めた。
「個人像に影響」と書いたが、それはたとえば、第二章の「デビュー作の模倣問題と鏡像段階」に関して。これは現代風に言えば「中二病」である。寺山への人格批判的な論に対抗しての叙述であるので仕方ないところはあるかもしれないが、「ちょっと擁護し過ぎじゃない?」とほんのり思ってしまう。「特別じゃなく、普通の少年としての寺山」みたいなことなんだろうけど、誤解生みそうかな、とふと思ったりもした。
なんか、父殺しが難しい日本社会では、倫理的なもの(父の名「とか」)を求道するなら、明恵上人みたいなマゾヒスティックなものがないと難しいのかなあ、とすら思えてきたのはわたしが野島氏の術中にはまっているからだろう。いや、いいんだけど。
さて、これを挙げたのは、久しぶりに書評書くかー、とかってわけではなく、なんていうか、うーん……。
たとえば、文芸批評における精神分析的批評について。
こちらの『批評理論入門』なる本における精神分析的批評の概略などは、あまりにお粗末である。文章量の割当の問題として粗雑になったのならまだいいが、この筆者の理解が完璧に「間違っている」からである。これだから文学者は(ry――やべえ、今日は大人しくしとこ。
まあそこから説明してみよっかー……。大人しくなんて書いたが面倒なので極論的に進める。
まずその一。精神分析及び深層心理学とは、人間の無意識を解釈する道具としての理論である。だから、物語における「登場人物の無意識に精神分析理論を当てはめる」という手順が(小説ならば「語る主体」なり「作家性」なりという「人間の無意識」に近づくためのステップとして、あるいは理論の補助線として比喩的に扱うのなら「あり」だが)、「登場人物の無意識を解釈するのが目的」となってしまっては「間違っている」となる。
バカでもわかるだろう。物語の登場人物に無意識なんてないのだ。
無意識は、それを語ったり演じたりしている「主体」にしかない。
演劇や映像などは、人間の無意識の集合体的作品となるので、少しややこしくなるが、小説ならばその作品における「語る主体」は固定しやすい。
一応断っておくが、ここで言う小説における「語る主体」や「作家性」は、作家本人と無茶苦茶関連はしているが、等しいものではない。たとえば、古代遺跡にテクストらしきものが刻まれてたとする。考古学者はそのテクストを「私(たち現代人)へのメッセージだ」と思うからそれを解析する。この場合、その古代文字を記した古代人本人ではなく、古代文明そのものと等価的な「語る主体」を、彼は心の中に設定しているのだ。
この受取手にとっての「語る主体」≠作家本人というのが、その二に繋がる。
フロイトがヒステリーの原因として挙げた性的トラウマについて、フロイト自身が「トラウマになった事件が事実であるかどうかは関係ない(主観的事実が大事)」と後に訂正した。
確かに「語る主体」を解釈するのに、作家本人に纏わるデータは大事だが、あくまでもそれは、その小説作品における「語る主体」にとっては、補助的データに過ぎない。論文なら引用みたいなものであり、論旨を補佐するものでしかない。ここが先の文学者はわかっていない。彼女は「作家本人のデータ」を精神分析的に読み解こうとしている。それはその作品の解釈ではなく、作家本人について本人だか他人だかが記した「自伝」の解釈となる。彼女はそれを「作品解釈の補助線」として用いていないのだ。
この二点は、精神分析を齧っただけのわたしですら「初歩的な論理」だと思っている。先の文学者はその初歩的なところを既に間違っているわけだ。補助線として用いるべきことを、精神分析的批評の主目的のように書いている。
ならばどうすればいいのか、間違いじゃない具体例を示せと言われたなら、冒頭に挙げた『ラカンで読む寺山修司の世界』を読むとよい、という話である。寺山の少年期句集の書き換え行為なども、以上の論を「ひねくれて」理解すれば、感覚的に面白く読めるであろう。
以上はわたしの「ああ、もう、これだから(ry」的な呆れた感の短絡的な説明であり、個人的に気になるところだけ大急ぎで補足しておく。
まず、同じ無意識を解釈する理論でも、ユングの元型理論などは、そもそも物語の登場人物的なものを介しての解釈理論なので、これを登場人物に当てはまるのは普通に正当である。
次に、その一で言った、「登場人物に無意識があると思い込んでしまう主体」とは、わたしが以前にオタク文化の傾向として批判した姿勢と全く同じ構造なのである。
これが問題なのだ。
たとえば、こちらの記事でも触れているが、「涼宮ハルヒは内閉的気質者である」論程度なら、無意識の解釈レベルまで行っていないし、遊びでは「あり」だ。
しかし、だ。
アニメだろうが小説だろうが、登場人物の無意識を解釈しようとして「あれ? なんかおかしくね?」と違和感を覚えられない、即ち、無意識的に「登場人物に無意識があると思い込んでしまう」オタクや文学者を、わたしは批判する。
「登場人物なんてフィクションだろ……、常識的に考えて……」という思考あるいは生理的違和感が、何故彼らに生じないのか。
それは彼らが、無意識的に、アニメなり物語なりの世界に「生きてしまっている」からである。
これはTPOで使い分けるなんてことはできない。意識化されていないのだから無意識と呼ばれるのである。
無意識的にアニメなり物語の世界に繋ぎとめられた彼らの主観世界においては、他者であるわたしたちは、フィクション内で簡単に殺されたりレイプされたりする「登場人物・キャラクター」と等価なのである。
感情的に言わせてもらおう。「お前らキモイ」。
先の文学者の他に、もう一人間違った理論の使い方をしている人を挙げておこう。はてなダイアリーにおけるラカン論の対象aを説明する記事にも貼られている、この記事だ。この人などは明らかにエロゲのキャラに無意識があると思い込んで論を述べている。先の文学者と同じように、物語と現実(ラカン的な意味で)の区別がついていないのだ。
論が間違っているだけなら普通に指摘すればよい。しかし、こういう人たちは、批判したら批判する他者を登場人物化して見るのだろうなあ、と思ってしまっているので、わたしはヒステリー(精神分析の文脈で)的に述べている。ヒステリーの語らいにおける能動者は/Sという「現実的なるもの」だからだ。
このブログにおいては、オタク文化における「無意識的に登場人物に無意識があると思い込んでしまう主体」のことを、アニメキャラを対象aと思いたがる人たちとして何度か批判している(記事1、記事2、記事3、記事4)。
彼らの心的構造は、記事3の中で挙げた映画『マトリックス』による喩えで言うなら、「それが仮想現実だと知りつつ、現実世界の厳しさや汚さから逃避したいがために、コンピュータと取引し現実世界の住人を犠牲にして、仮想現実に留まりたがる登場人物」に対するものと同じである(浅はかな人なら「お前も映画の登場人物を現実的に見ているじゃねーか」と反論しそうだから断っておくが、これが先に述べた「理論の説明補助として比喩」である)。
また、この「無意識的に登場人物に無意識があると思い込んでしまう」ことが、欲望の隠蔽にもなることは、先の『マトリックス』による喩えで理解されるだろう。
ここで、先に挙げたエロゲのキャラに無意識があるとして論を述べている彼について考えよう。
この文章からは、「エロゲは泣けるから、立派な作品なんだい」みたいなエロゲファンの言い分と同様の気持ち悪さがわたしは感じられる。
大体エロゲを哲学やら精神分析やらで「お化粧」して論を述べている人に傾向的なものだが、彼らは、「オナニーしていること」即ち彼ら自身が感じているはずの「エロス」を執拗に隠蔽したがる。オナニーは別に悪いことじゃないと「頭で」わかっていながら、オナニーを「背徳的行為」として捉えているのではないだろうか。だから、自身がその作品に対してエロスを感じオナニーしたことを、「一見」清潔そうな学問的理論でひた隠すのではないか。「泣けるから」という彼らの論の裏側には、「オナニーしている自身のエロス」の言い訳がある。自身のエロスを隠蔽しようとして、わざわざ「泣けるから」とか学問的言葉とかを言いたがるのだ。だから、彼らの論は、精神分析論を用いているのにも関わらず、自身の中にあるエロスを神経症的に避ける言説となっているのだ。
全然隠蔽されてないけどね。
喩えるなら、小手先の演技で自分というものを隠そうとする新人役者に対する気持ち悪さと言えばわかりやすいだろうか。
彼らの言説は、「(゚д゚ ∩)アーアーキコエナーイ」の「アーアー」に過ぎない。
この「オナニーしているエロス的な自分」を避けようとする行為は、潔癖症的と言えるだろう。
斎藤環氏著『戦闘美少女の精神分析』では、「90年代後半のオタク」たちは「斜に構えた熱狂」を楽しんでいるのであり、虚構と現実の区別がついている、とされ擁護論が展開されているが、こういった潔癖症的な傾向や、「無意識的に登場人物に無意識があると思い込んでしまう」心理は、前掲書内のオタクが、
=====
作品を神聖化して奉ってしまったら、それはたんなるマニアとかファンに堕落してしまうでしょうね。
=====
や
=====
漫画はしょせん紙とインクで作られた幻想であったことに、彼は「初めて」気がついたのです。ここホントは笑うところなんですけどね、でもちょっと、シャレになってないっす。
=====
などと述べている、「(前部族としての)マニア」の心理と酷似してはいないだろうか。
余談になるが、ふと思い出したのでこの記事を貼っておこう。なんとなく。
話を戻すと、ここで、わたしの「スキゾ的仮面を被りたがる非スキゾ的現代人」論に掘り当たる。
自我として本質的な「欲望する自分」を隠蔽するための所作として、「無意識的に登場人物に無意識があると思い込んでしまう」ことや、「自身の中にあるエロスを神経症的に避ける」ことがあるのではないだろうか。超自我的な無意識の表出として、これらの所作が生じているのではないだろうか。
確かに、先の文学者もエロゲ論の人も、「欲望する主体」という地面を離れた言説に見える。つまり、彼らもまた、佐藤亜紀氏の言う「エモい人」であり、町田康氏の言う「ヤバい人」であり、笙野頼子氏の言う「知感野労」であり、「スタイリッシュ主義」「クール主義」であり、「多数派としての権力者たる消費者たち」であり、「穏やかでなければならない強迫症者」であり、「空気が読めない奴に対するイジメ」を「しなければならない」若者と同じ心的構造をしているのだ。
これらを大雑把にまとめるならば、要するに、現実界から遊離した場所に留まりたがるフェティシストたち、ということになるだろう。
こういう人たちの、欲望という地面から離れた印象、現実界から遊離しているような印象、潔癖症的な印象を、わたしは「天使」と表現している。死の欲動的なるものから逃れたがる種族。
わたしは、そんなキモイ天使になるくらいなら、びっこを引きながら地面を歩きたい。
「書を捨てよ、町へ出よう」ではなく、わたしは、天使に唾を吐きかけよう。
そういう話である。
「個人像に影響」と書いたが、それはたとえば、第二章の「デビュー作の模倣問題と鏡像段階」に関して。これは現代風に言えば「中二病」である。寺山への人格批判的な論に対抗しての叙述であるので仕方ないところはあるかもしれないが、「ちょっと擁護し過ぎじゃない?」とほんのり思ってしまう。「特別じゃなく、普通の少年としての寺山」みたいなことなんだろうけど、誤解生みそうかな、とふと思ったりもした。
なんか、父殺しが難しい日本社会では、倫理的なもの(父の名「とか」)を求道するなら、明恵上人みたいなマゾヒスティックなものがないと難しいのかなあ、とすら思えてきたのはわたしが野島氏の術中にはまっているからだろう。いや、いいんだけど。
さて、これを挙げたのは、久しぶりに書評書くかー、とかってわけではなく、なんていうか、うーん……。
たとえば、文芸批評における精神分析的批評について。
こちらの『批評理論入門』なる本における精神分析的批評の概略などは、あまりにお粗末である。文章量の割当の問題として粗雑になったのならまだいいが、この筆者の理解が完璧に「間違っている」からである。これだから文学者は(ry――やべえ、今日は大人しくしとこ。
まあそこから説明してみよっかー……。大人しくなんて書いたが面倒なので極論的に進める。
まずその一。精神分析及び深層心理学とは、人間の無意識を解釈する道具としての理論である。だから、物語における「登場人物の無意識に精神分析理論を当てはめる」という手順が(小説ならば「語る主体」なり「作家性」なりという「人間の無意識」に近づくためのステップとして、あるいは理論の補助線として比喩的に扱うのなら「あり」だが)、「登場人物の無意識を解釈するのが目的」となってしまっては「間違っている」となる。
バカでもわかるだろう。物語の登場人物に無意識なんてないのだ。
無意識は、それを語ったり演じたりしている「主体」にしかない。
演劇や映像などは、人間の無意識の集合体的作品となるので、少しややこしくなるが、小説ならばその作品における「語る主体」は固定しやすい。
一応断っておくが、ここで言う小説における「語る主体」や「作家性」は、作家本人と無茶苦茶関連はしているが、等しいものではない。たとえば、古代遺跡にテクストらしきものが刻まれてたとする。考古学者はそのテクストを「私(たち現代人)へのメッセージだ」と思うからそれを解析する。この場合、その古代文字を記した古代人本人ではなく、古代文明そのものと等価的な「語る主体」を、彼は心の中に設定しているのだ。
この受取手にとっての「語る主体」≠作家本人というのが、その二に繋がる。
フロイトがヒステリーの原因として挙げた性的トラウマについて、フロイト自身が「トラウマになった事件が事実であるかどうかは関係ない(主観的事実が大事)」と後に訂正した。
確かに「語る主体」を解釈するのに、作家本人に纏わるデータは大事だが、あくまでもそれは、その小説作品における「語る主体」にとっては、補助的データに過ぎない。論文なら引用みたいなものであり、論旨を補佐するものでしかない。ここが先の文学者はわかっていない。彼女は「作家本人のデータ」を精神分析的に読み解こうとしている。それはその作品の解釈ではなく、作家本人について本人だか他人だかが記した「自伝」の解釈となる。彼女はそれを「作品解釈の補助線」として用いていないのだ。
この二点は、精神分析を齧っただけのわたしですら「初歩的な論理」だと思っている。先の文学者はその初歩的なところを既に間違っているわけだ。補助線として用いるべきことを、精神分析的批評の主目的のように書いている。
ならばどうすればいいのか、間違いじゃない具体例を示せと言われたなら、冒頭に挙げた『ラカンで読む寺山修司の世界』を読むとよい、という話である。寺山の少年期句集の書き換え行為なども、以上の論を「ひねくれて」理解すれば、感覚的に面白く読めるであろう。
以上はわたしの「ああ、もう、これだから(ry」的な呆れた感の短絡的な説明であり、個人的に気になるところだけ大急ぎで補足しておく。
まず、同じ無意識を解釈する理論でも、ユングの元型理論などは、そもそも物語の登場人物的なものを介しての解釈理論なので、これを登場人物に当てはまるのは普通に正当である。
次に、その一で言った、「登場人物に無意識があると思い込んでしまう主体」とは、わたしが以前にオタク文化の傾向として批判した姿勢と全く同じ構造なのである。
これが問題なのだ。
たとえば、こちらの記事でも触れているが、「涼宮ハルヒは内閉的気質者である」論程度なら、無意識の解釈レベルまで行っていないし、遊びでは「あり」だ。
しかし、だ。
アニメだろうが小説だろうが、登場人物の無意識を解釈しようとして「あれ? なんかおかしくね?」と違和感を覚えられない、即ち、無意識的に「登場人物に無意識があると思い込んでしまう」オタクや文学者を、わたしは批判する。
「登場人物なんてフィクションだろ……、常識的に考えて……」という思考あるいは生理的違和感が、何故彼らに生じないのか。
それは彼らが、無意識的に、アニメなり物語なりの世界に「生きてしまっている」からである。
これはTPOで使い分けるなんてことはできない。意識化されていないのだから無意識と呼ばれるのである。
無意識的にアニメなり物語の世界に繋ぎとめられた彼らの主観世界においては、他者であるわたしたちは、フィクション内で簡単に殺されたりレイプされたりする「登場人物・キャラクター」と等価なのである。
感情的に言わせてもらおう。「お前らキモイ」。
先の文学者の他に、もう一人間違った理論の使い方をしている人を挙げておこう。はてなダイアリーにおけるラカン論の対象aを説明する記事にも貼られている、この記事だ。この人などは明らかにエロゲのキャラに無意識があると思い込んで論を述べている。先の文学者と同じように、物語と現実(ラカン的な意味で)の区別がついていないのだ。
論が間違っているだけなら普通に指摘すればよい。しかし、こういう人たちは、批判したら批判する他者を登場人物化して見るのだろうなあ、と思ってしまっているので、わたしはヒステリー(精神分析の文脈で)的に述べている。ヒステリーの語らいにおける能動者は/Sという「現実的なるもの」だからだ。
このブログにおいては、オタク文化における「無意識的に登場人物に無意識があると思い込んでしまう主体」のことを、アニメキャラを対象aと思いたがる人たちとして何度か批判している(記事1、記事2、記事3、記事4)。
彼らの心的構造は、記事3の中で挙げた映画『マトリックス』による喩えで言うなら、「それが仮想現実だと知りつつ、現実世界の厳しさや汚さから逃避したいがために、コンピュータと取引し現実世界の住人を犠牲にして、仮想現実に留まりたがる登場人物」に対するものと同じである(浅はかな人なら「お前も映画の登場人物を現実的に見ているじゃねーか」と反論しそうだから断っておくが、これが先に述べた「理論の説明補助として比喩」である)。
また、この「無意識的に登場人物に無意識があると思い込んでしまう」ことが、欲望の隠蔽にもなることは、先の『マトリックス』による喩えで理解されるだろう。
ここで、先に挙げたエロゲのキャラに無意識があるとして論を述べている彼について考えよう。
この文章からは、「エロゲは泣けるから、立派な作品なんだい」みたいなエロゲファンの言い分と同様の気持ち悪さがわたしは感じられる。
大体エロゲを哲学やら精神分析やらで「お化粧」して論を述べている人に傾向的なものだが、彼らは、「オナニーしていること」即ち彼ら自身が感じているはずの「エロス」を執拗に隠蔽したがる。オナニーは別に悪いことじゃないと「頭で」わかっていながら、オナニーを「背徳的行為」として捉えているのではないだろうか。だから、自身がその作品に対してエロスを感じオナニーしたことを、「一見」清潔そうな学問的理論でひた隠すのではないか。「泣けるから」という彼らの論の裏側には、「オナニーしている自身のエロス」の言い訳がある。自身のエロスを隠蔽しようとして、わざわざ「泣けるから」とか学問的言葉とかを言いたがるのだ。だから、彼らの論は、精神分析論を用いているのにも関わらず、自身の中にあるエロスを神経症的に避ける言説となっているのだ。
全然隠蔽されてないけどね。
喩えるなら、小手先の演技で自分というものを隠そうとする新人役者に対する気持ち悪さと言えばわかりやすいだろうか。
彼らの言説は、「(゚д゚ ∩)アーアーキコエナーイ」の「アーアー」に過ぎない。
この「オナニーしているエロス的な自分」を避けようとする行為は、潔癖症的と言えるだろう。
斎藤環氏著『戦闘美少女の精神分析』では、「90年代後半のオタク」たちは「斜に構えた熱狂」を楽しんでいるのであり、虚構と現実の区別がついている、とされ擁護論が展開されているが、こういった潔癖症的な傾向や、「無意識的に登場人物に無意識があると思い込んでしまう」心理は、前掲書内のオタクが、
=====
作品を神聖化して奉ってしまったら、それはたんなるマニアとかファンに堕落してしまうでしょうね。
=====
や
=====
漫画はしょせん紙とインクで作られた幻想であったことに、彼は「初めて」気がついたのです。ここホントは笑うところなんですけどね、でもちょっと、シャレになってないっす。
=====
などと述べている、「(前部族としての)マニア」の心理と酷似してはいないだろうか。
余談になるが、ふと思い出したのでこの記事を貼っておこう。なんとなく。
話を戻すと、ここで、わたしの「スキゾ的仮面を被りたがる非スキゾ的現代人」論に掘り当たる。
自我として本質的な「欲望する自分」を隠蔽するための所作として、「無意識的に登場人物に無意識があると思い込んでしまう」ことや、「自身の中にあるエロスを神経症的に避ける」ことがあるのではないだろうか。超自我的な無意識の表出として、これらの所作が生じているのではないだろうか。
確かに、先の文学者もエロゲ論の人も、「欲望する主体」という地面を離れた言説に見える。つまり、彼らもまた、佐藤亜紀氏の言う「エモい人」であり、町田康氏の言う「ヤバい人」であり、笙野頼子氏の言う「知感野労」であり、「スタイリッシュ主義」「クール主義」であり、「多数派としての権力者たる消費者たち」であり、「穏やかでなければならない強迫症者」であり、「空気が読めない奴に対するイジメ」を「しなければならない」若者と同じ心的構造をしているのだ。
これらを大雑把にまとめるならば、要するに、現実界から遊離した場所に留まりたがるフェティシストたち、ということになるだろう。
こういう人たちの、欲望という地面から離れた印象、現実界から遊離しているような印象、潔癖症的な印象を、わたしは「天使」と表現している。死の欲動的なるものから逃れたがる種族。
わたしは、そんなキモイ天使になるくらいなら、びっこを引きながら地面を歩きたい。
「書を捨てよ、町へ出よう」ではなく、わたしは、天使に唾を吐きかけよう。
そういう話である。