『京極堂シリーズ』京極夏彦――ミステリーにおけるシンボリズム。
2006/11/16/Thu
※ネタバレ注意!
本のタイトルではないですがご容赦を。
ネタバレ注意とありますが、なるべく各作品ごとのトリック的なことに関しての分析は控え、横断的に読み解くことで、ミステリーの天敵「ネタバレ」はしない方向にこの記事は書いてみようと思います。 まあ文学的に読み解いてみよう、という話です。
私はまだ『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』『狂骨の夢』『鉄鼠の檻』までしか読み終えていない。しかし、『姑獲鳥』の時から思っていたのだが、彼の「妖怪論」に対し、非常にポスト構造主義的な、ニューアカデミズム的な印象を持った。だからこそその後漁るようにシリーズを読んでみたのだが。
ということでその辺から読み解いてみよう。
まず各作品から私がぱっと思いつくキーワードをあげてみる。
『姑獲鳥』:そのまま「妖怪論」。タイトルや、鬼子母神などの妖怪論から見た「母性」。
『魍魎』:「幻想小説」。新興宗教的な「宗教」。「少女」。
『狂骨』:「妖艶な女性」。そのまま「宗教」。「精神分析」。
『鉄鼠』:禅を主体とした「宗教」。「母性」と「少女」。伝統工芸をモチーフにした「芸術」。
まとめよう。「妖怪論」「女性性」これは共通だ。『絡新婦の理』ではその辺がテーマになっているようなので、機会があれば読んでみたい。次に「宗教」、「芸術」、「精神分析」。ここまで上げるといかにもニューアカデミズムの主題と繋がることがわかる。私はニューアカデミズムとは、精神分析学でいう「無意識層」への注目が主題になっていると考える。「幻想小説」などはその無意識層の活動がわかりやすい形で表出したものだ。
まず「妖怪論」。これは構造主義の祖、レヴィ=ストロースが「神話・説話」に対してとったアプローチと類似している。神話を構造的に読み解くことで、時代を縦断した人間の「集合的無意識」的なものを解き明かそうとする。この説明で十分な気がするが、少し京極作品には私なりの解釈を加えてみよう。
妖怪。これは神話の「ドラゴン」などの、幻想的怪物と似通っている。というのは、彼らは後に想像的な・絵的なイメージが与えられたり、論理的解釈が加えられたりしたが、神話が説話的に語り継がれているだけの頃は、「純粋なシニフィアン」だったと推測できる。純粋なシニフィアンとは、シニフィエをもたない、つまりその言葉が意味する対象を持っていないということだ。つまり、意味する対象が曖昧な記号だったのだ。「神」や「霊」も同じものだったろう。これらはシンボルという意味では、究極的なシンボルである。初めからサイン的・一義的に何かを意味することを拒否している記号なのだ。これらは人間のパトス(情念)とリンクしやすい。情念というものは人間は「行動」においてそれを示すことができるが、「悲しみ」や「恐れ」などといった情念は、意味する対象の本質は曖昧なのである。「情念」は、同じく意味する対象が曖昧な、純粋なシニフィアン・究極的なシンボルである「妖怪」や「ドラゴン」という記号に共鳴してしまうのだ。簡単な例をあげよう。パトスは哲学ではロゴスと対比される。しかし、ロゴスと対比されるものにはもう一つ「ミュトス」という概念がある。これはそのまま「神話的なるもの」なのだ。「ミュトス」と「パトス」は哲学の世界において、「主観的なもの」として排除されてしまう。
ラカンの論を借りれば、不完全性を内包した言語構造が無意識的な主体エスに投影的に影響するということを考慮すると、曖昧なシニフィエを持つシニフィアン同士という点で、換喩的に無意識層に影響してくるのではないか、という推論も可能だ。
簡単に言おう。京極堂は、「それを妖怪だと思えば妖怪だ」と言う。妖怪は存在しない、だが存在する。当然である。「妖怪」というシニフィアンは、歴史上語り継がれてきた、シニフィエが曖昧なシニフィアンとして存在しているからだ。シニフィエが曖昧だからこそ、それを構造的に分析することで、昔の日本人の集合的無意識・情念を読み解くことが可能である。そういうスタンスだ。これはまさにレヴィ=ストロースの研究とだぶる。また、京極堂というキャラクターが、フィールドワークを行わないタイプで、文献のみからそれを読み解くという姿もストロースとだぶる。まあ京極堂は古本屋で研究者ではないという決定的違いはあるが……。
構造主義は他文化との「比較」分析を行う。京極堂はそれは行わない。あくまで京極堂の「妖怪論」は作品全体へ影響する「暗喩」として述べられる。構造主義は、集合的無意識的な人類共通の無意識があるとして、それらがどのように「暗喩」されたかを比較分析により読み解く。
デリダの言葉を借りるならば、京極堂シリーズ中の「妖怪論」は「散種」的に作用し、構造主義は、シニフィエが曖昧なシニフィアンに「多義性」を求めている、という違いもあるだろう。このあたりが「ポスト」構造主義的といえる。
細かくなってしまった。ここはこの辺で切り上げる。
次に「女性性」。これは以前の記事で書いたが(『プレーンソング』書評、『知の挑戦』書評)、もう一度おさらいしておこう。ポスト構造主義は芸術や宗教の根源になる「無意識層」に着目している学問のトレンドだと私は考えている。トレンドにすぎないと言えばそうだろう。私は演劇から芸術論に入ったので、芸術的視点から学問的アプローチとしてのラカンやデリダなどのポスト構造主義に注目している。
誤解を排除するのが目的のロゴスのみで成り立っている学問、特に自然科学では、マクロの場においてさまざまな問題に直面していることも実情としてある。そういったロゴス中心主義的な知の体系、そのもの自体を、中村雄二郎氏は『魔女ランダ考』において「近代的知」と読んだ。「近代的知」自体を批判しているのではない。「近代的知」がとりこぼしてきた、ロゴスに縛られない「知」を見出すという意味で、中村氏は「パトス(情念)の知」「演劇的知」「臨床の知」という概念を見出す。中村氏は「パトスの知」を読み解くのに、「女性」と「子供」という概念を掘り下げた。そこでは近代的知がとりこぼしてきたであろう知の片鱗がいくつも垣間見えたのだ。つまり、「パトスの知」は、ロゴス中心主義的な「近代的知」では推し量れない知の姿をもって、「女性性」にその片鱗を表したのである。
ロゴスそのものは意識で思考する。つまり「意識層」内で留まる(もちろんその構造なりは輪郭をぼかして「無意識層」に投射されているのかもしれないが)。デリダがロゴス中心主義を批判したことも、こう考えれば私のポスト構造主義観とリンクするだろう。
京極堂シリーズに登場する女性キャラは、ほとんど妖怪そのものとリンクしている。そうでなくても、事件の重大なキーパーソンとなる。上のキーワードで言えば、「宗教」「芸術」「精神分析」以外のキーワードと関連している。「芸術」以外は学問と関連が深い。先ほどの論点の視点で見れば、「学問」はロゴス中心主義的、つまり「男性性」と関連があることはわかるだろう。
作者はこの「女性性」、「男性性」を暗喩させることで、「パトスの知」的な曖昧なシニフィエを表現しているのではないだろうか。
「宗教」、「芸術」については、上で書いたように「無意識層」が時代を縦断して集団的に表出する現象を強く反映しているものと言ってよいだろう。これを「集合的無意識」的なものと考えても私は構わないと思う。「幻想小説」は「芸術」の範疇になろうが、時代の縦断だけではなく、同時代を横断的に広がっている「文学的知」の一側面を暗喩したものではないだろうか。「精神分析」については、ポスト構造主義との関連を今更言及する必要もなかろう。
以上が、私が『京極堂シリーズ』をニューアカデミズム的・ポスト構造主義的な匂いがするといった理由である。
このポスト構造主義は仏教思想と相性が良いと思われる。実際ラカンなどは自分の論と禅的な思想との共通性に触れいていたし(ローマ講演)、デリダの哲学は、その言語の差異という点に着目して得た「差延」という概念をもって(前記事「複雑系」を参照下さい)、アリストテレス的論理性「A≠非A」を、崩していると言える。これは「一は全、全は一」という仏教思想につながりそうな、「≠」を批判した「間」の哲学とも言える。
こういったところからもポスト構造主義的な匂いを感じるのかもしれない。
特に『鉄鼠』においては、言葉・論理からもっとも離れた位置に存在する宗教・思想である「禅」を、みごとに小説内の言葉として表現している。これこそ学問では不可能な、小説内の言説だからこそ可能な、「近代的知」がとりこぼした「知」の共有の好例ではなかろうか。こういった共有を「文芸的知」によるもの、と表現しても構わないだろう。
「女性性」についても似たようなことが言える。E・ノイマンは「グレートマザー・テリブルマザー」という元型の分析において、女性性を「母性」と男女という意味での「女性性」の交差する二軸によって表現した。そこでノイマンは、xy平面的なその座標の極、つまり無限大で逆の極に反転する、つまり+∞から-∞に移行する場合を示唆した。私の考えでは、極に近づけば無意識層の深層に向かう方向と理解している。私は、この極の反転こそが深層の心性を震わせる「劇的なるもの」の本質の一つではないかと考えている。わかりやすく言うと、「生」を意味する女神と「死」を意味する女神の反転だ。例をあげるなら、まさに『姑獲鳥』の鬼子母神だ。テリブルマザーからグレートマザーへ。作者は「鬼子母神」と「姑獲鳥」というシニフィアンで、その劇的反転を暗喩している。
また、前述の仏教思想になぞらえるなら、この反転の論理は無限回廊的な仏教思想と親和性が高いと言えよう。
(※以降はネタバレを多く含みます。)
また『狂骨』において作者は『夢』を取り扱った。これこそ無意識と深く関係するモチーフだ。夢で作者は他者との同一化を表現した。これこそ、他者との同一化は「演劇的知」と関係する。他者と同一化するのが演劇だからだ。これはひいては全他者との同一、つまり自然との一体化の一部分を示す。仏教では「部分は全体、全体は部分」だ。そうなると、これは仏教の基本思想である「自然との一体化」と同義になる。先程のデリダ哲学でいうならば、他者との同一化とは「差異」を取り除くことだ。自己の「差異」というのが、主体の周りを円形に取り囲む形の境界ならば、他者と同一化することによりその境界を取り除くことはイコール自分を取り巻く世界=自然とも同一化することになる。このモデルだと他者との同一と世界=自然との同一が「同義になる」イメージが湧きやすいだろう。
また、同一化のもっとも身近な例は男女の性交だ。『狂骨』では密教を通してそこにも踏み込んでいる。
『魍魎』においては「匣」が重要な意味を持っている。この「匣」はロゴス中心主義の暗喩であろう。デリダの「差延」から生まれる「誤解」を排除してきたロゴス。箱とは境界をきっちりわけるものだ。中と外の中間がない。差異の境界に曖昧さがないものの暗喩となる。それはまさにロゴスである。この「匣」に二人の男性は女性をつめこむ。無意識層を換喩する「女性性」をつめこむ。これは男性の欲望をよく表現している。男性にとっては非論理的な、わけのわからない女の勘などの思考を持つ女性を恐れ、憧れ、熱望してロゴスという「匣」に閉じ込めるのだ。このことからこの作中での「匣」を少し無理に換喩すれば、現代の男性的な、科学中心主義的な、ロゴス中心主義な現代社会を表現し、批判しているともとれる。
確かに男の一人は科学者である。もう一人は幻想小説家だ。私は小説家というのは、全体の傾向としてパラノイア的傾向があると考えている(ここでは浅田彰氏の「スキゾ/パラノ」的な解釈でお願いしたい)。パラノイアは象徴界より想像界の軸の方が強い。なので想像を象徴化する。小説家は想像を言葉にする。スキゾイドは逆だ。想像界が比較的弱いため、無機質な物にも人間に対するような愛情や拘りをもつことが多い。この小説家はどちらだったのだろう。彼は現実に起こったことを小説にしていた。デビュー作は登場人物二人の「問答」が主体だ。そういう意味では象徴界を想像界で補填する裏返しの作業として小説を書いたとも考えられる。しかし、想像界が弱いということは大文字の他者が主体エスに影響しやすいということになる。彼は「箱の中の少女」を現実に見て、それを言語的に「シンボリック」に「象徴的」に理解してしまった。言語的なので少女への共感は湧かないだろう。そうして「箱の中の少女」という「言葉」にエスごと囚われた彼は、それを想像界において、つまり目に見える形で、無機質に対する愛情と同じ形で再現しようとした。彼はスキゾ的人間だったのではないか、そんなラカン風精神分析の仕方も可能である。
(※ネタバレここまで)
……と、個々の作品の書評になってしまいそうなのでこの辺でやめておこう。
まとめると、ポスト構造主義的な、仏教思想的な視点でこのシリーズを読み解けば、(意識的か無意識的かわからないが)非常に緻密な計算によりメタファーが組み合わさっている作品群であることがわかる。
メタファーが主体であるということは、言葉のシンボル性をメインに活用した「シンボリズム」となる。本来このシンボリズムは、文芸においては詩や詩的小説や幻想小説で重きをおかれるものだ。それがロジック主体の推理小説、ミステリーへ導入されている。このことについて考えてみよう。
そもそもミステリーは「神秘」を意味する。神秘をロジックで解明するのがミステリーという作品群だ。しかし、ウソツキパラドックスやデリダの言葉の不完全性でもわかるように、ロジックだけで説明できないことは多数ある。なので、ミステリーでは謎解きをしていても、「穴」を残す。それが社会派ミステリーでは人間の情念であったりしたのだ。このクラインの壷の「穴」に比喩可能な不完全性こそ、ミステリーの面白さの本質ではないか、と私は思う。表層ではロジックづくめでありながら、不安感を醸し出す作用のある、無意識に換喩できる不完全性さ、「穴」を残す。ロジックが完璧であればあるほどこの「穴」は、「ロゴス」と「ミュトス・パトス」の対比的に、お互いに対照させられる。この関係性が、ミステリーの美しさともいえるものではなかろうか。
うーん、まだ書き足りない気がしますが、今日はこんな感じでよろしいでしょうか……。
本のタイトルではないですがご容赦を。
ネタバレ注意とありますが、なるべく各作品ごとのトリック的なことに関しての分析は控え、横断的に読み解くことで、ミステリーの天敵「ネタバレ」はしない方向にこの記事は書いてみようと思います。 まあ文学的に読み解いてみよう、という話です。
私はまだ『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』『狂骨の夢』『鉄鼠の檻』までしか読み終えていない。しかし、『姑獲鳥』の時から思っていたのだが、彼の「妖怪論」に対し、非常にポスト構造主義的な、ニューアカデミズム的な印象を持った。だからこそその後漁るようにシリーズを読んでみたのだが。
ということでその辺から読み解いてみよう。
まず各作品から私がぱっと思いつくキーワードをあげてみる。
『姑獲鳥』:そのまま「妖怪論」。タイトルや、鬼子母神などの妖怪論から見た「母性」。
『魍魎』:「幻想小説」。新興宗教的な「宗教」。「少女」。
『狂骨』:「妖艶な女性」。そのまま「宗教」。「精神分析」。
『鉄鼠』:禅を主体とした「宗教」。「母性」と「少女」。伝統工芸をモチーフにした「芸術」。
まとめよう。「妖怪論」「女性性」これは共通だ。『絡新婦の理』ではその辺がテーマになっているようなので、機会があれば読んでみたい。次に「宗教」、「芸術」、「精神分析」。ここまで上げるといかにもニューアカデミズムの主題と繋がることがわかる。私はニューアカデミズムとは、精神分析学でいう「無意識層」への注目が主題になっていると考える。「幻想小説」などはその無意識層の活動がわかりやすい形で表出したものだ。
まず「妖怪論」。これは構造主義の祖、レヴィ=ストロースが「神話・説話」に対してとったアプローチと類似している。神話を構造的に読み解くことで、時代を縦断した人間の「集合的無意識」的なものを解き明かそうとする。この説明で十分な気がするが、少し京極作品には私なりの解釈を加えてみよう。
妖怪。これは神話の「ドラゴン」などの、幻想的怪物と似通っている。というのは、彼らは後に想像的な・絵的なイメージが与えられたり、論理的解釈が加えられたりしたが、神話が説話的に語り継がれているだけの頃は、「純粋なシニフィアン」だったと推測できる。純粋なシニフィアンとは、シニフィエをもたない、つまりその言葉が意味する対象を持っていないということだ。つまり、意味する対象が曖昧な記号だったのだ。「神」や「霊」も同じものだったろう。これらはシンボルという意味では、究極的なシンボルである。初めからサイン的・一義的に何かを意味することを拒否している記号なのだ。これらは人間のパトス(情念)とリンクしやすい。情念というものは人間は「行動」においてそれを示すことができるが、「悲しみ」や「恐れ」などといった情念は、意味する対象の本質は曖昧なのである。「情念」は、同じく意味する対象が曖昧な、純粋なシニフィアン・究極的なシンボルである「妖怪」や「ドラゴン」という記号に共鳴してしまうのだ。簡単な例をあげよう。パトスは哲学ではロゴスと対比される。しかし、ロゴスと対比されるものにはもう一つ「ミュトス」という概念がある。これはそのまま「神話的なるもの」なのだ。「ミュトス」と「パトス」は哲学の世界において、「主観的なもの」として排除されてしまう。
ラカンの論を借りれば、不完全性を内包した言語構造が無意識的な主体エスに投影的に影響するということを考慮すると、曖昧なシニフィエを持つシニフィアン同士という点で、換喩的に無意識層に影響してくるのではないか、という推論も可能だ。
簡単に言おう。京極堂は、「それを妖怪だと思えば妖怪だ」と言う。妖怪は存在しない、だが存在する。当然である。「妖怪」というシニフィアンは、歴史上語り継がれてきた、シニフィエが曖昧なシニフィアンとして存在しているからだ。シニフィエが曖昧だからこそ、それを構造的に分析することで、昔の日本人の集合的無意識・情念を読み解くことが可能である。そういうスタンスだ。これはまさにレヴィ=ストロースの研究とだぶる。また、京極堂というキャラクターが、フィールドワークを行わないタイプで、文献のみからそれを読み解くという姿もストロースとだぶる。まあ京極堂は古本屋で研究者ではないという決定的違いはあるが……。
構造主義は他文化との「比較」分析を行う。京極堂はそれは行わない。あくまで京極堂の「妖怪論」は作品全体へ影響する「暗喩」として述べられる。構造主義は、集合的無意識的な人類共通の無意識があるとして、それらがどのように「暗喩」されたかを比較分析により読み解く。
デリダの言葉を借りるならば、京極堂シリーズ中の「妖怪論」は「散種」的に作用し、構造主義は、シニフィエが曖昧なシニフィアンに「多義性」を求めている、という違いもあるだろう。このあたりが「ポスト」構造主義的といえる。
細かくなってしまった。ここはこの辺で切り上げる。
次に「女性性」。これは以前の記事で書いたが(『プレーンソング』書評、『知の挑戦』書評)、もう一度おさらいしておこう。ポスト構造主義は芸術や宗教の根源になる「無意識層」に着目している学問のトレンドだと私は考えている。トレンドにすぎないと言えばそうだろう。私は演劇から芸術論に入ったので、芸術的視点から学問的アプローチとしてのラカンやデリダなどのポスト構造主義に注目している。
誤解を排除するのが目的のロゴスのみで成り立っている学問、特に自然科学では、マクロの場においてさまざまな問題に直面していることも実情としてある。そういったロゴス中心主義的な知の体系、そのもの自体を、中村雄二郎氏は『魔女ランダ考』において「近代的知」と読んだ。「近代的知」自体を批判しているのではない。「近代的知」がとりこぼしてきた、ロゴスに縛られない「知」を見出すという意味で、中村氏は「パトス(情念)の知」「演劇的知」「臨床の知」という概念を見出す。中村氏は「パトスの知」を読み解くのに、「女性」と「子供」という概念を掘り下げた。そこでは近代的知がとりこぼしてきたであろう知の片鱗がいくつも垣間見えたのだ。つまり、「パトスの知」は、ロゴス中心主義的な「近代的知」では推し量れない知の姿をもって、「女性性」にその片鱗を表したのである。
ロゴスそのものは意識で思考する。つまり「意識層」内で留まる(もちろんその構造なりは輪郭をぼかして「無意識層」に投射されているのかもしれないが)。デリダがロゴス中心主義を批判したことも、こう考えれば私のポスト構造主義観とリンクするだろう。
京極堂シリーズに登場する女性キャラは、ほとんど妖怪そのものとリンクしている。そうでなくても、事件の重大なキーパーソンとなる。上のキーワードで言えば、「宗教」「芸術」「精神分析」以外のキーワードと関連している。「芸術」以外は学問と関連が深い。先ほどの論点の視点で見れば、「学問」はロゴス中心主義的、つまり「男性性」と関連があることはわかるだろう。
作者はこの「女性性」、「男性性」を暗喩させることで、「パトスの知」的な曖昧なシニフィエを表現しているのではないだろうか。
「宗教」、「芸術」については、上で書いたように「無意識層」が時代を縦断して集団的に表出する現象を強く反映しているものと言ってよいだろう。これを「集合的無意識」的なものと考えても私は構わないと思う。「幻想小説」は「芸術」の範疇になろうが、時代の縦断だけではなく、同時代を横断的に広がっている「文学的知」の一側面を暗喩したものではないだろうか。「精神分析」については、ポスト構造主義との関連を今更言及する必要もなかろう。
以上が、私が『京極堂シリーズ』をニューアカデミズム的・ポスト構造主義的な匂いがするといった理由である。
このポスト構造主義は仏教思想と相性が良いと思われる。実際ラカンなどは自分の論と禅的な思想との共通性に触れいていたし(ローマ講演)、デリダの哲学は、その言語の差異という点に着目して得た「差延」という概念をもって(前記事「複雑系」を参照下さい)、アリストテレス的論理性「A≠非A」を、崩していると言える。これは「一は全、全は一」という仏教思想につながりそうな、「≠」を批判した「間」の哲学とも言える。
こういったところからもポスト構造主義的な匂いを感じるのかもしれない。
特に『鉄鼠』においては、言葉・論理からもっとも離れた位置に存在する宗教・思想である「禅」を、みごとに小説内の言葉として表現している。これこそ学問では不可能な、小説内の言説だからこそ可能な、「近代的知」がとりこぼした「知」の共有の好例ではなかろうか。こういった共有を「文芸的知」によるもの、と表現しても構わないだろう。
「女性性」についても似たようなことが言える。E・ノイマンは「グレートマザー・テリブルマザー」という元型の分析において、女性性を「母性」と男女という意味での「女性性」の交差する二軸によって表現した。そこでノイマンは、xy平面的なその座標の極、つまり無限大で逆の極に反転する、つまり+∞から-∞に移行する場合を示唆した。私の考えでは、極に近づけば無意識層の深層に向かう方向と理解している。私は、この極の反転こそが深層の心性を震わせる「劇的なるもの」の本質の一つではないかと考えている。わかりやすく言うと、「生」を意味する女神と「死」を意味する女神の反転だ。例をあげるなら、まさに『姑獲鳥』の鬼子母神だ。テリブルマザーからグレートマザーへ。作者は「鬼子母神」と「姑獲鳥」というシニフィアンで、その劇的反転を暗喩している。
また、前述の仏教思想になぞらえるなら、この反転の論理は無限回廊的な仏教思想と親和性が高いと言えよう。
(※以降はネタバレを多く含みます。)
また『狂骨』において作者は『夢』を取り扱った。これこそ無意識と深く関係するモチーフだ。夢で作者は他者との同一化を表現した。これこそ、他者との同一化は「演劇的知」と関係する。他者と同一化するのが演劇だからだ。これはひいては全他者との同一、つまり自然との一体化の一部分を示す。仏教では「部分は全体、全体は部分」だ。そうなると、これは仏教の基本思想である「自然との一体化」と同義になる。先程のデリダ哲学でいうならば、他者との同一化とは「差異」を取り除くことだ。自己の「差異」というのが、主体の周りを円形に取り囲む形の境界ならば、他者と同一化することによりその境界を取り除くことはイコール自分を取り巻く世界=自然とも同一化することになる。このモデルだと他者との同一と世界=自然との同一が「同義になる」イメージが湧きやすいだろう。
また、同一化のもっとも身近な例は男女の性交だ。『狂骨』では密教を通してそこにも踏み込んでいる。
『魍魎』においては「匣」が重要な意味を持っている。この「匣」はロゴス中心主義の暗喩であろう。デリダの「差延」から生まれる「誤解」を排除してきたロゴス。箱とは境界をきっちりわけるものだ。中と外の中間がない。差異の境界に曖昧さがないものの暗喩となる。それはまさにロゴスである。この「匣」に二人の男性は女性をつめこむ。無意識層を換喩する「女性性」をつめこむ。これは男性の欲望をよく表現している。男性にとっては非論理的な、わけのわからない女の勘などの思考を持つ女性を恐れ、憧れ、熱望してロゴスという「匣」に閉じ込めるのだ。このことからこの作中での「匣」を少し無理に換喩すれば、現代の男性的な、科学中心主義的な、ロゴス中心主義な現代社会を表現し、批判しているともとれる。
確かに男の一人は科学者である。もう一人は幻想小説家だ。私は小説家というのは、全体の傾向としてパラノイア的傾向があると考えている(ここでは浅田彰氏の「スキゾ/パラノ」的な解釈でお願いしたい)。パラノイアは象徴界より想像界の軸の方が強い。なので想像を象徴化する。小説家は想像を言葉にする。スキゾイドは逆だ。想像界が比較的弱いため、無機質な物にも人間に対するような愛情や拘りをもつことが多い。この小説家はどちらだったのだろう。彼は現実に起こったことを小説にしていた。デビュー作は登場人物二人の「問答」が主体だ。そういう意味では象徴界を想像界で補填する裏返しの作業として小説を書いたとも考えられる。しかし、想像界が弱いということは大文字の他者が主体エスに影響しやすいということになる。彼は「箱の中の少女」を現実に見て、それを言語的に「シンボリック」に「象徴的」に理解してしまった。言語的なので少女への共感は湧かないだろう。そうして「箱の中の少女」という「言葉」にエスごと囚われた彼は、それを想像界において、つまり目に見える形で、無機質に対する愛情と同じ形で再現しようとした。彼はスキゾ的人間だったのではないか、そんなラカン風精神分析の仕方も可能である。
(※ネタバレここまで)
……と、個々の作品の書評になってしまいそうなのでこの辺でやめておこう。
まとめると、ポスト構造主義的な、仏教思想的な視点でこのシリーズを読み解けば、(意識的か無意識的かわからないが)非常に緻密な計算によりメタファーが組み合わさっている作品群であることがわかる。
メタファーが主体であるということは、言葉のシンボル性をメインに活用した「シンボリズム」となる。本来このシンボリズムは、文芸においては詩や詩的小説や幻想小説で重きをおかれるものだ。それがロジック主体の推理小説、ミステリーへ導入されている。このことについて考えてみよう。
そもそもミステリーは「神秘」を意味する。神秘をロジックで解明するのがミステリーという作品群だ。しかし、ウソツキパラドックスやデリダの言葉の不完全性でもわかるように、ロジックだけで説明できないことは多数ある。なので、ミステリーでは謎解きをしていても、「穴」を残す。それが社会派ミステリーでは人間の情念であったりしたのだ。このクラインの壷の「穴」に比喩可能な不完全性こそ、ミステリーの面白さの本質ではないか、と私は思う。表層ではロジックづくめでありながら、不安感を醸し出す作用のある、無意識に換喩できる不完全性さ、「穴」を残す。ロジックが完璧であればあるほどこの「穴」は、「ロゴス」と「ミュトス・パトス」の対比的に、お互いに対照させられる。この関係性が、ミステリーの美しさともいえるものではなかろうか。
うーん、まだ書き足りない気がしますが、今日はこんな感じでよろしいでしょうか……。