びろーん
2015/07/22/Wed
ほんとこう、人間がタナトスないしは神性や仏性がない生き物なら、わたしもすっぱりあきらめられるんだがなあ。
人間をあきらめられるんだが。
神性や仏性が誰にでもあるとする精神分析は、わたしをあきらめの悪い女にする。
それがないように見える人も、実は心の奥底にそれがあるのではないかと。
だからいろいろ書いてしまう。
自分にタナトスないしは神性や仏性がない生き物だと思う人や、性関係をしても気持ち悪さや違和感や罪悪感などまったく持たないと思う人は読まなくていいよ。
君たちは精神分析では論外の人だから。精神分析不可能な人たちだから。
え、さて。
タナトスの言い出しっぺフロイトは、エロスとタナトスを「天上において永遠に戦い続ける二者」というものだと考えている。エロタナ二元論、グノーシス的な考え方。ちなみに今のライトノベルとかだいたいグノーシス的な世界観なのでフロイトとか今生きていれば結構はまるんじゃないかとすら。
ところが、「性関係は存在しないのが現実」とするラカン論は、エロスとタナトス二元論になっていないんだな。
どういうことか。
むちゃな考えであると思うが、ラカン理論は、タナトスがエロスの雛形だと考えた方がいろいろ辻褄が合う。
タナトスとはここでは「性関係は存在しない現実に向かう本能」としているわけだから、これを代入して書き直すなら、「性関係は存在しない現実に向かう本能が、性関係をしたがる欲望になる」ということになる。
矛盾してんじゃん。そう、矛盾しているのだ。人間の欲望は根本的なところに矛盾があるものなのだ。
矛盾とか書いたけど、仏教の「煩悩」って概念がそういうものなのだね。「煩悩とは己を煩わし悩ませるものであり、それから解脱しようというのが人間の本願であるのだが、人間は煩悩を生きたがる」と。これって「性関係は存在しない現実に向かう本能が、性関係をしたがる欲望になる」と似たような話なわけじゃん。
ここを少し考えていきたひ。
もう少し命題を精確に書いておこう。
人間は、「性関係は存在しない世界の本能」が、「性関係をしたいという欲望」になる。
なぜこうなるのか、というのが、人間という種に特徴的な習性としてある、alienationという狂気である。
「性関係は存在しない世界の本能」がalienationという狂気によって「性関係をしたいという欲望」に変わる。
さてalienationについて、ラカンは次のようなたとえを述べた。
あなたは強盗と出会う。強盗はあなたに「金か命か」という選択を迫る。あなたは命欲しさに金を渡す。金を受け取った強盗はあなたを殺す。あなたは金も命も失う。
おそらくここで述べられている「強盗」が、ビオンの言うところの「自分のことを考えてくれる者」であり、「あまりに強力な思考を考えるにふさわしくない」「特定域の電磁波しか甘受できない電波望遠鏡」であろう。
ビオンのこの表現では、「あまりに強力な思考」はそのままでいられる。「考える者」が「特定の電磁波しか甘受できない」だけである。
しかし、この「考える者」「電波望遠鏡」は、ラカンの言う「強盗」なのである。
「あまりに強力な思考」に対し、「金か命か」と脅迫し、金を受け取ったらそいつを殺してしまうのがこの「特定の電磁波しか甘受できない電波望遠鏡」である。
こうやって人は「あまりに強力な思考」を殺してしまうのである。それが殺されてしまう。
ビオンはクライン派系統の分析家であるが、ラカンとクラインは精神分析家として一部意見を同じくしていたものの、意見が相違する点もあった。精神病についてである。
クラインは、人間誰しも精神病的な部分があるとした。ラカンはそれを批判した。たとえば、妊娠について、誰しも一部が妊娠しているということはありえない、それと同様に、人間誰しも一部が精神病であるということはない、と。
ビオンの考え方も、「あまりに強力な思考」が「人間誰しも持つ精神病的な部分」だとすれば、クラインと同様の考え方であることがわかる。
クラインやビオンの考え方だと、なぜ非精神病者は精神病にならないのか、という問題が残ってしまう。
ビオンは「あまりに強力な思考」が「特定の電磁波しか甘受できないポンコツ電波望遠鏡」「考える者」を「待っている」と表現したが、ラカンのたとえだとこれは成り立たない、誰が「強盗」がやってくることを待つであろうか。
「自分を考えてくれる者を待っている」ということは、自我理想を待っていることであろう。ラカンは精神分析の終わりにおいて自我理想は罷免されるべきだと考えていたので、それを「強盗」と表現した、などと考えられる。
ビオンのこの考え方は、クライン派において通底する、「死の欲動を愛によって克服する」という考え方に通じる。死の欲動の世界そのものである「あまりに強力な電波」は、「自分のことを考えてくれるポンコツ電波望遠鏡」を待っている。これがクライン派における「愛」である。その「愛」が成就するすなわち「自分のことを考えてくれるポンコツ電波望遠鏡」がやってくることによって、死の欲動の世界から脱出できる。
そういった筋書きがクライン派の考えである。
一方でラカンの考え方は、クライン派における「死の欲動を克服する」「愛」とは、「強盗と出会うようなこと」だなる。
「あまりに強力な電波」である「それ」は、「考える者」を待ってなどいない。なぜならそれは「強盗」であるゆえ。
このようにラカンの「愛」を「強盗」のようなものとして考えるのは、彼のもう一つのたとえ、「ワニの口」にも表れている。このたとえは乳児期における母子の性関係について述べたものである。
「愛」というものについては精神分析においてもさまざまな解釈があるが、一般的にお乳を吸う赤ん坊とその母親との関係とは愛情関係であるとされるであろう。
また、このようなある種の完全なる愛情関係を他の心理学では「母子カプセル」などと表現するが、ラカンは「母子カプセル」の存在を認めていないと考えるべきである。このことはこの記事で述べた。
ラカンにおいてお乳を吸う赤ん坊とその母親との関係は、-φという記号で表現される。-φとは、「性関係を恐怖する」事態を示す記号である。
ラカンが「ワニの口」というたとえで表現していたのは、お乳を吸う赤ん坊は母との性関係を恐怖しているということである。
このような話は納得できない人が多かろうが、自閉症研究においてはむしろラカンの考えの方が有効である。よく言われるのが「自閉症の子どもは抱っこしたらのけぞる」というものである。この時その子どもは抱っこされるという性関係を恐怖しているからのけぞっていると言える。
また、自閉症療育において一時期流行ったファシリテイテッド・コミュニケーション(以下FD)という手法がある。具体的なやり方は長くなるので説明しない。「奇跡の詩人」事件を調べてもらえばわかるであろう。
FDは現在では科学的にその有効性が認められていない疑似科学とされているが、FDを支援する人たちは以下のような主張を述べていた。いわく、「障害者に母親などという支援者がぴったりと体を密着させることによって、障害者は安心を感じ、普通ではできなかった能力を発揮することができるのだ」というもの。これについてある実験が行われた。FDをしている障害者の脳波を測ってみたところ、障害者は緊張状態にあることがわかった。それは痛みや不快感を覚えたときになるものである。これにより上記の主張が覆されたばかりではなく、障害者にとっては、鞭を打たれながら課題をこなしているようなことだとわかったのだ。
体をぴったり密着させるというkとは、われわれの感覚では愛情関係となる。しかし、障害者の脳にとってはそれが鞭を打たれているようなものとして処理されている。
これらの事例により、ラカンの言う「ワニの口」すなわち幼児が性関係を恐怖する事態は具体性を伴う。
まあなんだ「スキンシップっていう愛情表現が苦痛に感じるから障害なんだ、それを治療するためにやはりスキンシップは必要だ」とかって反論が浮かんだが、それこそ「ヒステリーの治療は正しいペニスの反復投与である」とか「現実を教えてやるよ」と言ってレイプする奴の考え方とどう違うのかという。
でなんの話だっけか。
まあ要するに、ビオンとかクライン派は、「母子カプセルは存在する」前提で論理を組み立てている、ってところだな。
ラカン派は「母子カプセルは存在しない」と考える。
なので、「それ」は「考える者」など「待っていない」。「考える者」の到来は「強盗」との遭遇のようなものとしてあるとなる。
また、ビオンなどのクライン派の考えは、フロイトがグノーシス的な表現で述べた「エロスとタナトス二元論」で理解可能である。
根源にエロスとタナトス両方があるから、「それ」は「考えてくれる者」を「待って」いたり、「死の欲動を愛によって克服する」となるわけだ。
ラカンはそこが違う。
ラカンは、いわば、エロスとは元々はタナトスであるとしている。タナトス一元論的な考えをしている。
ゆえに、元々タナトスであるそれは、エロスという「強盗」や「ワニの口」と出会うわけだ。
いやそれはどうだろう、と思うかもしれない。うん、どうだろう。とはいえ、ラカンがレエルとして示しているのは、エロスの存在しない世界(相、という表現の方がいいかもしれんが)であるのは間違いない。
一元論というのは勇み足だったが、タナトスが現実である、としたのがラカンなわけである。
次に、この「タナトスという現実」「性関係は存在しない世界の本能」がどうやって「性関係したいという欲望」に変わっていくかを見ていこう。
「性関係は存在しない世界の本能」がどうやって「性関係したいという欲望」に変わるのか、それがが、人間という動物の特徴的な習性、あるいは現代精神医学が健常さとしての人間性そのものとも考えるalienationという狂気である。
ラカンはalienationを狂気だと述べている。
alienationとはaの症状でもある。aとはラカンの言う現実(レエル)に対し、それを塞ぐものでありそれに通じる穴でもある。この両価的な性質を「膜」と表現されることも多い。具体的には半透膜などを考えればよい。ある条件では物質を通し、ある条件では物質が通過するの塞ぐもの。
「半分は通過することができるんだからいいんじゃないの」など思われたりするかもしれないがいいかどうかはともかく、その半透膜によって人間の欲望はつねに「レエルにおける欲望」と区分されかつ通じている。
「性関係は存在しない世界の本能」と「性関係したい欲望」は、半透膜によって区分されかつ通じている。
これは、「性関係したい欲望」からすれば、つねにその欲望自身に自分の欲望を邪魔する成分が含まれているということだ。
ここにおいて仏教の煩悩という概念とあてはまってくる。「人間の本願は煩悩からの解脱であるが、煩悩を生きたがるのが人間である」という考え方。
またこれがすべての神経症の病理であるとも言える。欲望自体にそれを否定する成分があるゆえに、人間は欲望を満足させられない。神経症の病理はすべてこういうものだと。仏教で言えば「人間の本願は煩悩からの解脱であるが、煩悩を生きたがる」のが神経症という症状なわけである。
さてここで、クライン派の「人間は誰しもちょびっとずつ精神病」に戻ろう。いわば精神病と健常な精神あるいはラカン派で言えば神経症は、グラデーションになっている、というのがクライン派の考えである。自閉症研究で言えばそれこそ今や正式名称にもなった自閉症スペクトラムの考え方である。人間誰しもちょびっとずつ自閉症であり、自閉症成分が濃いのが自閉症と診断される、という話である。
ラカンはこのような考え方を否定する。先にも書いたように、そういう話だと、なぜ非精神病者が精神病の症状を示さないのか、非自閉症者が自閉症という症状を示さないのか、という問いに答えられない。こういった問いを無効化してしまう考え方であるからだ。
いやまあ精神病はともかく個人的には臨床してたら自閉症スペクトラムって考え方はすっきりすんだけどね。というか、わたしの臨床経験からくる印象論としては、自閉症という群が大きい円としてあって、その中のある性質が共通する小さな円が定型発達者という群である、という。集合論で書けば、自閉症⊃定型発達者ということだと思う。精神構造の多様さとしては、定型発達者すなわち健常者より自閉症者の方が多様である。なのでそういった意味に通じるものとして自閉症スペクトラムって考え方はありだと思うが話がそれたのでやめよう。自閉症の話はなしで。
このように考えると、「aという半透膜」という考え方が重要になる。クライン派の言う通り、人間誰しもちょびっとずつ精神病であるならば、なぜ非精神病者は精神病者にならないのかは、「aという半透膜」を想定すれば解決する。半透膜的な性質によって、非精神病者は精神病にならずに済んでいるのである。
と書くといろいろ文句言われそうである。この問いに対する答えは、「父の名があるかないかという違いがある」というのが一般的である。精神病者は父の名が排除されていて、非精神病者は父の名があるから、非精神病者は精神病にならない、という答え。
それも間違いではない。なぜなら、現実と幻想が区分されているあり方が父の名なのである。よって、父の名とはaを含意する。ラカンは父の名とaについて混同するような書き方をしている場合が多いが、それはこういうことである。
この考え方ならば、「なぜ非精神病者は精神病者にならないのか」という問いにも答えられるし、「精神病者と非精神病者は父の名が排除されているか否かで峻別される」という従来の理屈にも矛盾しない。
以上の考え方は、わたしは数年前から構想していたが、うまく表現できなかった、というかいつもの幻想描写として描いたことはあるが、それに精神分析用語をあてはめることはできなかった。
それを書いてみようと思ったのは、小笠原晋也の論文を読んだからである。彼の「ラカンの『科学と真理』における三位一体と Filioque について」(pdf注意)から引用する。
Lacan は,彼れの教えにおいて,存在の真理の現象学的構造 、a/φbarre の可能性の条件を「父の名」と呼んでいる.三位一体の観点からは,父の名は聖なる霊気と等価であると言うことができよう.
彼のこの考え方に触発されて、わたしが今までぼんやりと考えていたことを言語化してみたわけだ。
彼の論とは食い違うところもあると思われるが、ラカンが「父の名」という言葉で示したものは、aでもありレエルでもあるような彼自身の書き方に沿って考えなければならないと思うのだ。
フロイトが考えたようなエロスとタナトスの二元論は、父の名という概念によって二元論ではなくなる。
エロスとは、タナトスを代(理)表(象)するシニフィアンにすぎない。エロスというシニフィアンは、タナトスを指し示す。
エロスという仮象は、タナトスという現実を指し示している。
仏教の煩悩という概念で言えば、「煩悩は幻想にすぎないが、その煩悩は、煩悩から解脱したいという人間の本願を指し示している」となる。
このことに気付くのが、父の名との出会いである。
とはいえ、仮象だけに囚われて現実が見えなくなっている人もいる。自分の神性、仏性に気付くことができないあわれな人間もいる。
なぜそうなのか、の答えがaである。
その半透膜としての性質により、エロスの部分からタナトスの部分に通過することが困難である。
エロスは「それ」に通じるものであるが、「それ」に蓋をしてしまうものでもある。後者の性質だけを見ていれば、「それ」に気付くことはない。
だから、精神分析は、aを分離しなければならない。
また、父の名に出会って精神分析は終わるわけではない。
小笠原も言うように、精神分析においては、父の名を排除しなければならない。
aによって父の名が構成されるわけだから、aを分離することは父の名を排除することでもある。当然の話である。
ここをどう説明しようかなと思うときりがなくなるが、なんだ、二元論を否定するような書き方をしたが、この立場から見るとだとエロスとタナトス二元論もあながち間違いではない。それはエロスという仮象がタナトスという現実を指し示していることの、一つの表現ではある。言葉足らずなだけで。
もちろん、タナトス一元論や、もっと言えば父の名という言葉も、それぞれその構造を示す一つの表現であり、かつ言葉足らずである。自閉症スペクトラムやクラインの「人間誰しもちょびっとずつ精神病」も。
わたしが今書いている文章も、こう書いているそばから言葉足らずになっていく。
だからと言って書かなければいい、言わなければいいというものでもない。書いているそばから言葉足らずになってしまう状態も、a/φbarreを示す一つの表現でもあるゆえに。
なんというか、洗脳に気付くことのようなものだ。自分を洗脳しているある考えに気付くことで洗脳されているその考え方から脱することができるみたいなこと。
だから、いろいろ考え、言葉にしなくてはならない。それが表現している構造から脱するために。bien-dire。
なんや電波になってきたのでやめ。
まあなんだ、父の名って概念が収まった(わたしの脳内で)という話でした。
話をちょっとまともっぽく戻そうか。
「aの分離」と書いたが、精神分析をきちんと受けず本だけ読んでいる人たちは、ここが大きな問題になっていると思われる。
aという半透膜において、その半透膜の性質を複雑化させて高度化したのがファルスあるいは(象徴的)父(ラカン疎い人に言っておくと父の名とは別物ね)である。ファルスと父は、ある幻想におけるコインの両面のようなもので、同じ幻想の構造である。
aのままなら半透膜で済むが、ファルスでは完全に区切られてしまう。あるいはどんな条件下でも一方通行を保てるようになる。
この構造は、「性関係したいという欲望」の抑圧でもある。精神分析における「抑圧」とは、欲望を抑圧することによって欲望を維持するものである。
ファルスという区切りを設けるつまりエロスを完全に囲い込むことで、エロスという幻想を維持しているわけだ。
よって、aがファルスとなってしまった(一部の分析家が言うように、ファルスもaの一つではある。半透膜的な性質を高度化あるいは制限したものとして)主体は、タナトスに気付きにくいし、父の名にも気付きにくい。
これが精神分析が言う「男」つまりファルスの主体である。
だから小笠原晋也などははっきりと「男は(精神分析的に)救いようがない}と言う。
こういった精神分析に不向きなファルスの主体が、精神分析を受けずにその本だけを読んで理解しようとすると、罠に陥ってしまう。
その一つとして、自分がしている「欲望の抑圧」を「aの分離」だと誤解してしまうことが多々あると思うのね。
ところが精神分析における「aの分離」においては、ファルスもaの一つであるため、ファルスないしその裏面として形成された父も分離されなければならない。
ここが困ったちゃんなのだね。日本ラカン協会のほとんどがそうだけど。自分の「抑圧」という症状を「aの分離」だとして精神分析できた顔をしている。精神分析を歪曲して語る。原和之お前のことだよ。わたしの言葉として言っておく。「原和之は精神分析的に救いようがない」。ラカニアンやめた藤田博史見習えよ。
まあうん日本ラカン村にもあきらめてるからどうでもいいや。
逆にあれだ、ファルスも分離しなきゃなんないんだから、男にとっちゃ精神分析自体が「救いようのない考え」ではある。
うん、救いようがないんだよ。なぜならお前がファルスの主体だから。
一方で、科学的な発達過程として健全に育って「セックスとは不快なものだ」という大人になる女にとっては、精神分析とは「ああなんだ、なるほど」と思うようなものである。
小笠原の言葉を引いておこう。
精神分析を受けると、男性は、足元に穴が開いて深い闇に落ちていくような感覚を覚えるが、女性は、それまで曖昧だったものがはっきりとしてくる感覚を覚えるでしょう。
うん、君が男で、精神分析が救いようのない考えだと感じるなら、君のその理解は間違っていない。
君は精神分析の入り口に立っている。
さあ、精神分析をはじめようか。
あれか、女が精神分析やるとたいてい男が批判してくるのは、「俺が精神分析やったら深い闇に落ちていくような感じがするのに、お前はそうじゃねえじゃねえか、「なるほどなるほど」言ってるだけだろ!」みたいなものがあったりするのか。
アホか。お前がファルスだから深い闇に落ちてるんだよ。女は最初からファルスがない闇を生きているから闇を説明する精神分析に「あーなるほど闇だよねえ」つうんだ。
とか書いたけど「え、じゃあ精神分析受けようかな」とか思う女がいたりしたら困るので書いておくと、日本ラカン村はだめよ。日本のラカン界隈はラカン派精神分析とは別物と思っといた方がいい。
女が日本で精神分析受けるのはキケンキケン。命の危険すらある(真顔)。
まあ小笠原晋也とか向井雅明とかなら大丈夫かもな。ここらへんはまあそういうものっぽい。
原? そもそも精神分析家でもねえし精神分析の実践やってないから別に大丈夫じゃね。受けようがないからw
ほんと日本の精神分析は、「男に深い闇に陥らせることもなく、女に「あーなるほど」と思わせることもない」精神分析モドキだ。
ちゃんとした精神分析があるとわかっただけわたしはマシである。
人間をあきらめられるんだが。
神性や仏性が誰にでもあるとする精神分析は、わたしをあきらめの悪い女にする。
それがないように見える人も、実は心の奥底にそれがあるのではないかと。
だからいろいろ書いてしまう。
自分にタナトスないしは神性や仏性がない生き物だと思う人や、性関係をしても気持ち悪さや違和感や罪悪感などまったく持たないと思う人は読まなくていいよ。
君たちは精神分析では論外の人だから。精神分析不可能な人たちだから。
え、さて。
タナトスの言い出しっぺフロイトは、エロスとタナトスを「天上において永遠に戦い続ける二者」というものだと考えている。エロタナ二元論、グノーシス的な考え方。ちなみに今のライトノベルとかだいたいグノーシス的な世界観なのでフロイトとか今生きていれば結構はまるんじゃないかとすら。
ところが、「性関係は存在しないのが現実」とするラカン論は、エロスとタナトス二元論になっていないんだな。
どういうことか。
むちゃな考えであると思うが、ラカン理論は、タナトスがエロスの雛形だと考えた方がいろいろ辻褄が合う。
タナトスとはここでは「性関係は存在しない現実に向かう本能」としているわけだから、これを代入して書き直すなら、「性関係は存在しない現実に向かう本能が、性関係をしたがる欲望になる」ということになる。
矛盾してんじゃん。そう、矛盾しているのだ。人間の欲望は根本的なところに矛盾があるものなのだ。
矛盾とか書いたけど、仏教の「煩悩」って概念がそういうものなのだね。「煩悩とは己を煩わし悩ませるものであり、それから解脱しようというのが人間の本願であるのだが、人間は煩悩を生きたがる」と。これって「性関係は存在しない現実に向かう本能が、性関係をしたがる欲望になる」と似たような話なわけじゃん。
ここを少し考えていきたひ。
もう少し命題を精確に書いておこう。
人間は、「性関係は存在しない世界の本能」が、「性関係をしたいという欲望」になる。
なぜこうなるのか、というのが、人間という種に特徴的な習性としてある、alienationという狂気である。
「性関係は存在しない世界の本能」がalienationという狂気によって「性関係をしたいという欲望」に変わる。
さてalienationについて、ラカンは次のようなたとえを述べた。
あなたは強盗と出会う。強盗はあなたに「金か命か」という選択を迫る。あなたは命欲しさに金を渡す。金を受け取った強盗はあなたを殺す。あなたは金も命も失う。
おそらくここで述べられている「強盗」が、ビオンの言うところの「自分のことを考えてくれる者」であり、「あまりに強力な思考を考えるにふさわしくない」「特定域の電磁波しか甘受できない電波望遠鏡」であろう。
ビオンのこの表現では、「あまりに強力な思考」はそのままでいられる。「考える者」が「特定の電磁波しか甘受できない」だけである。
しかし、この「考える者」「電波望遠鏡」は、ラカンの言う「強盗」なのである。
「あまりに強力な思考」に対し、「金か命か」と脅迫し、金を受け取ったらそいつを殺してしまうのがこの「特定の電磁波しか甘受できない電波望遠鏡」である。
こうやって人は「あまりに強力な思考」を殺してしまうのである。それが殺されてしまう。
ビオンはクライン派系統の分析家であるが、ラカンとクラインは精神分析家として一部意見を同じくしていたものの、意見が相違する点もあった。精神病についてである。
クラインは、人間誰しも精神病的な部分があるとした。ラカンはそれを批判した。たとえば、妊娠について、誰しも一部が妊娠しているということはありえない、それと同様に、人間誰しも一部が精神病であるということはない、と。
ビオンの考え方も、「あまりに強力な思考」が「人間誰しも持つ精神病的な部分」だとすれば、クラインと同様の考え方であることがわかる。
クラインやビオンの考え方だと、なぜ非精神病者は精神病にならないのか、という問題が残ってしまう。
ビオンは「あまりに強力な思考」が「特定の電磁波しか甘受できないポンコツ電波望遠鏡」「考える者」を「待っている」と表現したが、ラカンのたとえだとこれは成り立たない、誰が「強盗」がやってくることを待つであろうか。
「自分を考えてくれる者を待っている」ということは、自我理想を待っていることであろう。ラカンは精神分析の終わりにおいて自我理想は罷免されるべきだと考えていたので、それを「強盗」と表現した、などと考えられる。
ビオンのこの考え方は、クライン派において通底する、「死の欲動を愛によって克服する」という考え方に通じる。死の欲動の世界そのものである「あまりに強力な電波」は、「自分のことを考えてくれるポンコツ電波望遠鏡」を待っている。これがクライン派における「愛」である。その「愛」が成就するすなわち「自分のことを考えてくれるポンコツ電波望遠鏡」がやってくることによって、死の欲動の世界から脱出できる。
そういった筋書きがクライン派の考えである。
一方でラカンの考え方は、クライン派における「死の欲動を克服する」「愛」とは、「強盗と出会うようなこと」だなる。
「あまりに強力な電波」である「それ」は、「考える者」を待ってなどいない。なぜならそれは「強盗」であるゆえ。
このようにラカンの「愛」を「強盗」のようなものとして考えるのは、彼のもう一つのたとえ、「ワニの口」にも表れている。このたとえは乳児期における母子の性関係について述べたものである。
「愛」というものについては精神分析においてもさまざまな解釈があるが、一般的にお乳を吸う赤ん坊とその母親との関係とは愛情関係であるとされるであろう。
また、このようなある種の完全なる愛情関係を他の心理学では「母子カプセル」などと表現するが、ラカンは「母子カプセル」の存在を認めていないと考えるべきである。このことはこの記事で述べた。
ラカンにおいてお乳を吸う赤ん坊とその母親との関係は、-φという記号で表現される。-φとは、「性関係を恐怖する」事態を示す記号である。
ラカンが「ワニの口」というたとえで表現していたのは、お乳を吸う赤ん坊は母との性関係を恐怖しているということである。
このような話は納得できない人が多かろうが、自閉症研究においてはむしろラカンの考えの方が有効である。よく言われるのが「自閉症の子どもは抱っこしたらのけぞる」というものである。この時その子どもは抱っこされるという性関係を恐怖しているからのけぞっていると言える。
また、自閉症療育において一時期流行ったファシリテイテッド・コミュニケーション(以下FD)という手法がある。具体的なやり方は長くなるので説明しない。「奇跡の詩人」事件を調べてもらえばわかるであろう。
FDは現在では科学的にその有効性が認められていない疑似科学とされているが、FDを支援する人たちは以下のような主張を述べていた。いわく、「障害者に母親などという支援者がぴったりと体を密着させることによって、障害者は安心を感じ、普通ではできなかった能力を発揮することができるのだ」というもの。これについてある実験が行われた。FDをしている障害者の脳波を測ってみたところ、障害者は緊張状態にあることがわかった。それは痛みや不快感を覚えたときになるものである。これにより上記の主張が覆されたばかりではなく、障害者にとっては、鞭を打たれながら課題をこなしているようなことだとわかったのだ。
体をぴったり密着させるというkとは、われわれの感覚では愛情関係となる。しかし、障害者の脳にとってはそれが鞭を打たれているようなものとして処理されている。
これらの事例により、ラカンの言う「ワニの口」すなわち幼児が性関係を恐怖する事態は具体性を伴う。
まあなんだ「スキンシップっていう愛情表現が苦痛に感じるから障害なんだ、それを治療するためにやはりスキンシップは必要だ」とかって反論が浮かんだが、それこそ「ヒステリーの治療は正しいペニスの反復投与である」とか「現実を教えてやるよ」と言ってレイプする奴の考え方とどう違うのかという。
でなんの話だっけか。
まあ要するに、ビオンとかクライン派は、「母子カプセルは存在する」前提で論理を組み立てている、ってところだな。
ラカン派は「母子カプセルは存在しない」と考える。
なので、「それ」は「考える者」など「待っていない」。「考える者」の到来は「強盗」との遭遇のようなものとしてあるとなる。
また、ビオンなどのクライン派の考えは、フロイトがグノーシス的な表現で述べた「エロスとタナトス二元論」で理解可能である。
根源にエロスとタナトス両方があるから、「それ」は「考えてくれる者」を「待って」いたり、「死の欲動を愛によって克服する」となるわけだ。
ラカンはそこが違う。
ラカンは、いわば、エロスとは元々はタナトスであるとしている。タナトス一元論的な考えをしている。
ゆえに、元々タナトスであるそれは、エロスという「強盗」や「ワニの口」と出会うわけだ。
いやそれはどうだろう、と思うかもしれない。うん、どうだろう。とはいえ、ラカンがレエルとして示しているのは、エロスの存在しない世界(相、という表現の方がいいかもしれんが)であるのは間違いない。
一元論というのは勇み足だったが、タナトスが現実である、としたのがラカンなわけである。
次に、この「タナトスという現実」「性関係は存在しない世界の本能」がどうやって「性関係したいという欲望」に変わっていくかを見ていこう。
「性関係は存在しない世界の本能」がどうやって「性関係したいという欲望」に変わるのか、それがが、人間という動物の特徴的な習性、あるいは現代精神医学が健常さとしての人間性そのものとも考えるalienationという狂気である。
ラカンはalienationを狂気だと述べている。
alienationとはaの症状でもある。aとはラカンの言う現実(レエル)に対し、それを塞ぐものでありそれに通じる穴でもある。この両価的な性質を「膜」と表現されることも多い。具体的には半透膜などを考えればよい。ある条件では物質を通し、ある条件では物質が通過するの塞ぐもの。
「半分は通過することができるんだからいいんじゃないの」など思われたりするかもしれないがいいかどうかはともかく、その半透膜によって人間の欲望はつねに「レエルにおける欲望」と区分されかつ通じている。
「性関係は存在しない世界の本能」と「性関係したい欲望」は、半透膜によって区分されかつ通じている。
これは、「性関係したい欲望」からすれば、つねにその欲望自身に自分の欲望を邪魔する成分が含まれているということだ。
ここにおいて仏教の煩悩という概念とあてはまってくる。「人間の本願は煩悩からの解脱であるが、煩悩を生きたがるのが人間である」という考え方。
またこれがすべての神経症の病理であるとも言える。欲望自体にそれを否定する成分があるゆえに、人間は欲望を満足させられない。神経症の病理はすべてこういうものだと。仏教で言えば「人間の本願は煩悩からの解脱であるが、煩悩を生きたがる」のが神経症という症状なわけである。
さてここで、クライン派の「人間は誰しもちょびっとずつ精神病」に戻ろう。いわば精神病と健常な精神あるいはラカン派で言えば神経症は、グラデーションになっている、というのがクライン派の考えである。自閉症研究で言えばそれこそ今や正式名称にもなった自閉症スペクトラムの考え方である。人間誰しもちょびっとずつ自閉症であり、自閉症成分が濃いのが自閉症と診断される、という話である。
ラカンはこのような考え方を否定する。先にも書いたように、そういう話だと、なぜ非精神病者が精神病の症状を示さないのか、非自閉症者が自閉症という症状を示さないのか、という問いに答えられない。こういった問いを無効化してしまう考え方であるからだ。
いやまあ精神病はともかく個人的には臨床してたら自閉症スペクトラムって考え方はすっきりすんだけどね。というか、わたしの臨床経験からくる印象論としては、自閉症という群が大きい円としてあって、その中のある性質が共通する小さな円が定型発達者という群である、という。集合論で書けば、自閉症⊃定型発達者ということだと思う。精神構造の多様さとしては、定型発達者すなわち健常者より自閉症者の方が多様である。なのでそういった意味に通じるものとして自閉症スペクトラムって考え方はありだと思うが話がそれたのでやめよう。自閉症の話はなしで。
このように考えると、「aという半透膜」という考え方が重要になる。クライン派の言う通り、人間誰しもちょびっとずつ精神病であるならば、なぜ非精神病者は精神病者にならないのかは、「aという半透膜」を想定すれば解決する。半透膜的な性質によって、非精神病者は精神病にならずに済んでいるのである。
と書くといろいろ文句言われそうである。この問いに対する答えは、「父の名があるかないかという違いがある」というのが一般的である。精神病者は父の名が排除されていて、非精神病者は父の名があるから、非精神病者は精神病にならない、という答え。
それも間違いではない。なぜなら、現実と幻想が区分されているあり方が父の名なのである。よって、父の名とはaを含意する。ラカンは父の名とaについて混同するような書き方をしている場合が多いが、それはこういうことである。
この考え方ならば、「なぜ非精神病者は精神病者にならないのか」という問いにも答えられるし、「精神病者と非精神病者は父の名が排除されているか否かで峻別される」という従来の理屈にも矛盾しない。
以上の考え方は、わたしは数年前から構想していたが、うまく表現できなかった、というかいつもの幻想描写として描いたことはあるが、それに精神分析用語をあてはめることはできなかった。
それを書いてみようと思ったのは、小笠原晋也の論文を読んだからである。彼の「ラカンの『科学と真理』における三位一体と Filioque について」(pdf注意)から引用する。
Lacan は,彼れの教えにおいて,存在の真理の現象学的構造 、a/φbarre の可能性の条件を「父の名」と呼んでいる.三位一体の観点からは,父の名は聖なる霊気と等価であると言うことができよう.
彼のこの考え方に触発されて、わたしが今までぼんやりと考えていたことを言語化してみたわけだ。
彼の論とは食い違うところもあると思われるが、ラカンが「父の名」という言葉で示したものは、aでもありレエルでもあるような彼自身の書き方に沿って考えなければならないと思うのだ。
フロイトが考えたようなエロスとタナトスの二元論は、父の名という概念によって二元論ではなくなる。
エロスとは、タナトスを代(理)表(象)するシニフィアンにすぎない。エロスというシニフィアンは、タナトスを指し示す。
エロスという仮象は、タナトスという現実を指し示している。
仏教の煩悩という概念で言えば、「煩悩は幻想にすぎないが、その煩悩は、煩悩から解脱したいという人間の本願を指し示している」となる。
このことに気付くのが、父の名との出会いである。
とはいえ、仮象だけに囚われて現実が見えなくなっている人もいる。自分の神性、仏性に気付くことができないあわれな人間もいる。
なぜそうなのか、の答えがaである。
その半透膜としての性質により、エロスの部分からタナトスの部分に通過することが困難である。
エロスは「それ」に通じるものであるが、「それ」に蓋をしてしまうものでもある。後者の性質だけを見ていれば、「それ」に気付くことはない。
だから、精神分析は、aを分離しなければならない。
また、父の名に出会って精神分析は終わるわけではない。
小笠原も言うように、精神分析においては、父の名を排除しなければならない。
aによって父の名が構成されるわけだから、aを分離することは父の名を排除することでもある。当然の話である。
ここをどう説明しようかなと思うときりがなくなるが、なんだ、二元論を否定するような書き方をしたが、この立場から見るとだとエロスとタナトス二元論もあながち間違いではない。それはエロスという仮象がタナトスという現実を指し示していることの、一つの表現ではある。言葉足らずなだけで。
もちろん、タナトス一元論や、もっと言えば父の名という言葉も、それぞれその構造を示す一つの表現であり、かつ言葉足らずである。自閉症スペクトラムやクラインの「人間誰しもちょびっとずつ精神病」も。
わたしが今書いている文章も、こう書いているそばから言葉足らずになっていく。
だからと言って書かなければいい、言わなければいいというものでもない。書いているそばから言葉足らずになってしまう状態も、a/φbarreを示す一つの表現でもあるゆえに。
なんというか、洗脳に気付くことのようなものだ。自分を洗脳しているある考えに気付くことで洗脳されているその考え方から脱することができるみたいなこと。
だから、いろいろ考え、言葉にしなくてはならない。それが表現している構造から脱するために。bien-dire。
なんや電波になってきたのでやめ。
まあなんだ、父の名って概念が収まった(わたしの脳内で)という話でした。
話をちょっとまともっぽく戻そうか。
「aの分離」と書いたが、精神分析をきちんと受けず本だけ読んでいる人たちは、ここが大きな問題になっていると思われる。
aという半透膜において、その半透膜の性質を複雑化させて高度化したのがファルスあるいは(象徴的)父(ラカン疎い人に言っておくと父の名とは別物ね)である。ファルスと父は、ある幻想におけるコインの両面のようなもので、同じ幻想の構造である。
aのままなら半透膜で済むが、ファルスでは完全に区切られてしまう。あるいはどんな条件下でも一方通行を保てるようになる。
この構造は、「性関係したいという欲望」の抑圧でもある。精神分析における「抑圧」とは、欲望を抑圧することによって欲望を維持するものである。
ファルスという区切りを設けるつまりエロスを完全に囲い込むことで、エロスという幻想を維持しているわけだ。
よって、aがファルスとなってしまった(一部の分析家が言うように、ファルスもaの一つではある。半透膜的な性質を高度化あるいは制限したものとして)主体は、タナトスに気付きにくいし、父の名にも気付きにくい。
これが精神分析が言う「男」つまりファルスの主体である。
だから小笠原晋也などははっきりと「男は(精神分析的に)救いようがない}と言う。
こういった精神分析に不向きなファルスの主体が、精神分析を受けずにその本だけを読んで理解しようとすると、罠に陥ってしまう。
その一つとして、自分がしている「欲望の抑圧」を「aの分離」だと誤解してしまうことが多々あると思うのね。
ところが精神分析における「aの分離」においては、ファルスもaの一つであるため、ファルスないしその裏面として形成された父も分離されなければならない。
ここが困ったちゃんなのだね。日本ラカン協会のほとんどがそうだけど。自分の「抑圧」という症状を「aの分離」だとして精神分析できた顔をしている。精神分析を歪曲して語る。原和之お前のことだよ。わたしの言葉として言っておく。「原和之は精神分析的に救いようがない」。ラカニアンやめた藤田博史見習えよ。
まあうん日本ラカン村にもあきらめてるからどうでもいいや。
逆にあれだ、ファルスも分離しなきゃなんないんだから、男にとっちゃ精神分析自体が「救いようのない考え」ではある。
うん、救いようがないんだよ。なぜならお前がファルスの主体だから。
一方で、科学的な発達過程として健全に育って「セックスとは不快なものだ」という大人になる女にとっては、精神分析とは「ああなんだ、なるほど」と思うようなものである。
小笠原の言葉を引いておこう。
精神分析を受けると、男性は、足元に穴が開いて深い闇に落ちていくような感覚を覚えるが、女性は、それまで曖昧だったものがはっきりとしてくる感覚を覚えるでしょう。
うん、君が男で、精神分析が救いようのない考えだと感じるなら、君のその理解は間違っていない。
君は精神分析の入り口に立っている。
さあ、精神分析をはじめようか。
あれか、女が精神分析やるとたいてい男が批判してくるのは、「俺が精神分析やったら深い闇に落ちていくような感じがするのに、お前はそうじゃねえじゃねえか、「なるほどなるほど」言ってるだけだろ!」みたいなものがあったりするのか。
アホか。お前がファルスだから深い闇に落ちてるんだよ。女は最初からファルスがない闇を生きているから闇を説明する精神分析に「あーなるほど闇だよねえ」つうんだ。
とか書いたけど「え、じゃあ精神分析受けようかな」とか思う女がいたりしたら困るので書いておくと、日本ラカン村はだめよ。日本のラカン界隈はラカン派精神分析とは別物と思っといた方がいい。
女が日本で精神分析受けるのはキケンキケン。命の危険すらある(真顔)。
まあ小笠原晋也とか向井雅明とかなら大丈夫かもな。ここらへんはまあそういうものっぽい。
原? そもそも精神分析家でもねえし精神分析の実践やってないから別に大丈夫じゃね。受けようがないからw
ほんと日本の精神分析は、「男に深い闇に陥らせることもなく、女に「あーなるほど」と思わせることもない」精神分析モドキだ。
ちゃんとした精神分析があるとわかっただけわたしはマシである。
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