なまはげ
2007/09/26/Wed
――いつか見た夢。
わたしは河原を歩いている。
狭い川だったが、水は澄んでいた。ガラスの彫刻のようだった。
足元の小石は、やけにとんがっていた。上流の方だとしても、ナイフのようにとがっているものまである。わたしはトレッキングシューズを履いていたので平気だったが、裸足で歩くと血まみれになりそうだ、と思うほどだった。
上流のはずなのに、辺りは開けていた。森とかではなかった。木は見えなかった。すぐ横には土手が立ち上がっていて、多分その上には小路があるのだろう。土手の斜面は、ところどころに雑草が生えていたが、河原と同じような石が積まれていた。何万人もの幼稚園児が戯れに積み上げたような、雑然とした積まれ方だった。その向こうは何もなく、ただ空が広がっていた。どんよりと曇っていて、鉛色の雲がお漏らししたかのように黒ずんでいた。どこにでもありそうでなさそうな、そんな風景だった。
わたしは小石を一つ手にとった。平たい石を選んだ。磨けば光沢を放ちそうな、つるつるとした表面だった。どの石もそんな感じだった。持ち上げた一つを、とがったところに気をつけて握りしめた。
わたしは川に向かって、サイドスローでそれを投げた。水切りってやつだ。
石は一回しか跳ねなかった。
跳ねたところと、落ちたところから、大きな泡が湧いた。一つずつ湧いた。泡というより風船ガムのような膨らみ方だった。風船ガムの中には赤や黄色や青が、まだらに詰め込まれていた。大きさは、跳ねたところが子供の頭ほどで、向こうの落ちたところのは大人の頭ほどだった。大人の方が、まだらの色数は多いように見えた。
気持ち悪い川だなあ、と思って、今度は空中に向かって小石を放り投げた。不快感を示すためだったので、何も考えず普通の投げ方で投げた。
べちゃ、という音がした。
見ると、地面から、ちょうどわたしの膝ぐらいの高さに、縦の傷がついている。空間についている。空間の向こう側は、まだらが詰まっていた。そう思った。何故なら、傷口の奥が見えたのは一瞬で、傷口から、まだらの詰まった風船ガムが膨らんできたからだ。川のガムと同じくらいの速さで膨らんでいき、子供の頭と大人の頭の中間ぐらいの大きさになった。
わたしは面白くなった。
もう一つ石を投げる。今度は力いっぱい遠くに投げる。遠くでガムが膨らんだ。土手の方に投げる。土手の手前でべちゃっと石は消え、ガムが膨らんだ。
わたしはたくさん投げた。いくつ投げたか忘れるほど投げた。たくさんのガムが膨らんだ。まだらだから一つとして同じ模様はなかった。
世界は、水玉模様で彩られた。
まだらの水玉だから、かわいいというよりいやらしい感じがした。色だけなら万華鏡みたいだった。ぞくっとした。わたしは世界に見とれてしまった。
土手の向こうから、老人がやってきた。顎を左右に降り、からからと笑いながらやってきた。クリーム色のポロシャツに、やけに裾の長い茶色いズボンを履いていた。でも歩き辛くはなさそうだった。歩いているのに、自転車に乗っているようなスピードで近づいてきた。わたしの近くにくると、わたしの方を向いて止まった。何も言わず、ただ顎を左右に降り、からからと笑っているだけだった。
わたしはむかっときた。ほんの少しだけ、怖かった。
だからわたしは、特別とんがっている石を選び、老人に向かって投げた。
石は老人に当たった。
クシャ、という、今までとは違う音がした。
しなびた風船がさらにしぼんでいくように、老人は消えた。まだら色を吐き出しながら消えた。ガムのように膨らまなかった。
わたしは怖くなった。老人がしなびる代わりに、怖いという感情がぐんぐんと膨らんだみたいだった。
わたしは土手を登った。手をつけば登れる勾配だった。手をつく場所には気をつけた。なるべくとがってないところに手をついた。それでも時々手に痛みが走った。
土手の上に昇ると、やはり小路があった。アスファルトで舗装されていた。老人はいなかった。ただ、お鍋をひっくり返したかのように、アスファルトにまだら色が散らかっていた。
わたしは、老人は助かったんじゃないか、と思った。死体がないのだから、そう思えたのだろう。
まだら色に近寄り、ぼうっとそれを見る。
何故丸くならないのだろう。人間だからだろうか。ならば人間って汚らしい。わたしも汚らしい。あのぞくっとする水玉模様には、わたしはなれない。
悲しくなった。泣きそうだった。でも臭かった。まだらの茶色いところから変な臭いがした。だから泣けなかった。
気がつくと、隣に少年が立っていた。小学生くらい、同い年くらいだろうか。わたしと同じくらいの背の高さ。あれ、わたしいつの間に小学生になったんだろう。
少年は、わたしの顔を見て嫌そうな顔をする。わたしも嫌そうな顔を返す。少年は目をそらしながら、嫌々そうにわたしに聞いてくる。
「ねえ、このじいちゃん、なんか言ってなかった?」
わたしは顔に血が上る。音が聞こえそうなくらい、顔が真っ赤になっていくのがわかる。指に痛みが走る。右手を見る。わたしは石を握っていた。動揺して持ってきてしまったのだろう。げんこつくらいの大きさ。そこかしこが鋭くとがっている。小指と薬指が切れて、血が流れている。血は赤かった。まだら色じゃなかった。
少年が覗き込む。わたしは隠す。少年は隠す手首を掴む。仕方なく石を見せる。
「あー、これ呪いの石じゃん」
少年が、えらそうに言う。
「呪い? うそ。だってそこで拾ったんだよ」
「そこで拾ったからだよ。知らないの? 昔、河原は処刑場だったんだぜ」
少年の顔を見る。明らかにわたしをバカにしていた。
少年は、わざと驚いたように続ける。
「血い出てんじゃん。バイキン入っちゃうぜ。うわ、バッチイ!」
頭に顔に血が上る。際限なく上る。ああ、だめ。破裂しそう。
「呪いを解くには、こうすりゃいんだ」
少年はそう言うと、わたしの手を自分の胸元に引き寄せ、口をもぞもぞさせた後、唾を吐いた。石に吐いた。わたしの手に吐いた。
「三回吐くんだ」
そう言って、さらに二回吐いた。手にぬるっとした感触が伝わった。
「お前も吐けよ。自分のだろ」
少年はわたしに手を押しやる。本当にばっちいもののように押しやる。わたしもばっちい。でもこれは、わたしの手だ。
血が上る。
「三回な。ちゃんと吐かないと……」
破裂した。血は出なかった。わたしじゃなく、少年の頭だからだろう。わたしは、石で少年を殴りつけていた。
少年の頭が落ちる。少年の腕が視界を遮る。その前に、わたしは二発目を殴れた。殴ったと同時に、少年の「イ」という声が聞こえた。三発目は容易に殴れた。少年は倒れた。動かなくなった。
でもおかしい。少年の頭からは、まだら色が流れていた。うそだ。人間は汚いはず。ばっちいはず。
わたしは動かなくなったそれをもう一度殴った。まだら色が流れるほど、わたしの頭の血も引いていった。殴るたび、自分の頭が痛んだ。殴りながら、わたしは殴られていると思った。
痛い、やめて!
全身の力を込めて、殴った。
少年は破裂した。
視界をまだら色が覆った。
水玉じゃなかったので、拭った。
わたしはまだら色に染まっていた。石を見た。まだら色だった。わたしの血もまだらの一部になっていた。老人より破裂の勢いが強いように思えた。アスファルトのまだらの染みも、老人のそれより大きかった。
嬉しかった。少年に感謝した。わたしもまだらになれた。
でも水玉じゃなかった。
少年の言葉を思い出す。
「河原は、昔処刑場だった」
河原を見下ろす。確かに、まだらの水玉は川の周辺に集まっていた。
わたしは土手を駆け下りた。下りる途中、転んだ。ごろごろと転げ落ちた。体中に痛みが走った。剣山の上を転がっているようだった。
痛い。痛い。痛みで頭がぼんやりする。痛みが夢みたいだ。痛みを感じたら夢じゃないなんてうそだ。痛みが夢の世界に連れていくんだ。痛いと感じるから夢から覚めるんだ。
少年を殴った右手が特に痛んだ。薄目を開けて右手を見た。石はなかった。指もなかった。五本とも切断されていた。それを見ると余計に痛みが増した。
――わたしは目を覚ました。
水玉は、全部破裂していた。
あちこちから、まだら色が噴き出していた。下水を排出しているみたいだった。臭いからそう思った。臭過ぎていい匂いなのか悪臭なのかわからないほどだった。
川には、まだら色が流れ込んでいた。半分以上が茶色だった。まだらは混ざると茶色になるらしかった。糞尿だった。糞尿の川になっていた。
それでもわたしはまだらになりたかった。水玉になりたかった。
わたしは立ち上がり、糞尿の川へと向かった。血まみれより、赤一色より、まだらがよかったから。足の裏が痛い。川に足を浸す。染みる。痛みが夢の力を強くしていた。夢は夢過ぎると、現実になるようだった。
川の中ほどまでくると、水面は胸の辺りまできていた。
少し離れたところで、何かが立ち上がった。現れたのは、糞尿にまみれたなまはげだった。
わたしは駆け寄った。なまはげは手に包丁を持っていた。わたしを裂いて欲しかった。わたしの中身もまだら色だと証明して欲しかった。
なまはげは振り返った。とても頭が大きかった。体も大きいのかもしれない。でも糞尿の中がどうなっているかはわからなかった。
わたしはなまはげの前に立った。目を閉じて、お辞儀をするように、頭を差し出した。
なまはげは、わたしの頭を、一口で食べた。
教訓。なまはげは、悪い子じゃないと食べてくれない。
糞尿の世界。こう言うと誤解されそうだから、クリームの世界と言いかえてもいい。クリームパンの中の世界。甘い匂い、ねっとりとした感触、遠くはクリーム色に、近くは茶色に見える。色なんてグラデーションだから、何色でも同じだ。おいしそう。そして吐きそう。
わたしには頭がない。なまはげに食べられたからだ。頭をなくすと、世界は違って見える。なんて美しくつまらない世界だろう、と思う。けばけばしさがなくなり、パステルカラーになっている。ジャングルの蛇とかにありそうな毒々しい配色が消え、墓石みたいな質感になっている。比喩的に言うなら、だけど。
二階の高さくらいに、天使が見える。いや、羽は作り物だから、イカロスだ。高く飛ばないイカロス。だから落ちないイカロス。そんなイカロスが蚊の大群のように群れている。いやらしくだらしない笑みを浮かべて談笑している。
浅ましいイカロスたちが集まってる辺りを、世界と呼ぶらしい。
わたしはそれを見ている。しかめっ面で、世界なるものを見上げている。見下げている。横目で見ている。
蚊の大群は平面的に広がっている。それよりクリーム色、即ち遠くの方を天と呼び、近くの茶色い方を地と呼ぼう。わたしはイカロスたちを見上げている。
平面と言っても大体の厚みはある。逆に大群以外のこちら側は無次元だ。縦横高さがよくわからない。だから、あらかじめ天と地を決めておいた。
平面以外のところはクリーム色で茶色だけど、まだらでもある。目を細めたらどちらか一色になるし、まじまじと見たらまだらになる。それだけの違い。
落ちないイカロスたちは、小さな泡を吐いている。あれが彼らの会話らしい。わたしは頭をなくしてしまったから、泡を吐けない。彼らの吐く泡が唾液臭い雲となり、彼らはその中で暮らしている。
そんなイカロスたちも、時々こちらに「落ちて」くるようだ。向こうの方でニキビ面の青年が落ちている。落ちてはすぐ昇っていく。雲の上で、他のイカロスたちから泡を吐きつけられている。泡は「チュウニビョウ」と聞こえた。
若いイカロスたちだけじゃないようだ。大人でも、青年ほどではないが、時々落ちてくる。ことさら糞尿にまみれている奴は、「キモイ」「ウザイ」という泡を投げつけられている。それでも泡の壁を押しのけようとすると、「ストーカー」という泡を投げられるようだ。
先ほど大群にも厚みがあると書いたが、特に厚みが薄くなっているところに行ってみよう。
そこのイカロスたちは、なにやらひしゃげた泡を覗いている。泡をぼやけさせてこちら側を覗くことができるレンズになっているようだ。その証拠にこちらから見ると、彼らの醜い表情がよく見える。彼らはレンズに集まってオナニーしている。精液が周囲に漂っている。エントロピー的に彼らの精液あるいは排泄物はこちら側に拡散する。ちょ、やめてよ。キタナイなー。てめえら同士でぶっかけあってろよ。
薄いだけあって、落ちてくるイカロスも多いだろうと思ってみたが、そうでもなかった。薄いからこそ落ちたがらないのだろう。オナニーしながら彼らの目はパステルカラーに染まっている。落ちないのが彼らの作法なのだ。しかし彼らの周囲の泡はとても目が粗い。泡を吐いてもすぐ消えている。イカロスたちの体臭か何かで気圧が高いのだろうか。他のところを見ると、周辺にいるイカロスほど大きな泡を吐いている。大きな泡発生器たるイカロスがいられないからか。なるほど、面白いなーと思いつつ、そこはそれだけだった。
厚みが薄いと見るものもあまりない。他へ行こう。
その周辺には、小さなレンズを忙しげに見回っている人たちがいた。オナニーはしていないが、レンズを見るのと泡を見るのとには違いはないのになあ、何故わざわざレンズにしちゃうんだろ、と不思議に思う。
向こうの方でなにやら面白い泡が聞こえる。
さっきより泡が大きくて聞こえにくいが、イカロス自体の密集度はさっきより高くない。
なになに。
「泡の外を見るから迷うんだ。泡の外を見なければいい」
お、面白いこと言うじゃーん、とわたしは思って、ためしに手近にあった糞便を、そいつに投げつけてみる。べちゃ、と足元についた。彼は笑いながらこちらをにらんだ。怒ってる。っていうか泡の外見てるじゃん。
こちらから見ると、下から見上げることになるので、イカロスたちの肛門がよく見える。肛門を見ればその表情が本気かどうかわかる。いや、肛門の表情は少ないけどね。さっきのおじさんは肛門がきゅうっとしまってたから、不快に思っているのは間違いなかった。竹中直人の笑いながら怒る人を思い出す。あれはこっち側の人っぽいのに、そういう人でもフリだけで大群の中に入れるんだ、とちょっと意外になる。
よく見ると、ぽつぽつと散らばるイカロスたちは、大きな泡にすがりつくように集まっている。なるほど。フリをするなら大きな泡があった方が隠れやすいもんね。楽屋っていうか。でも何故密度が薄いのだろう、と思ったが、厚みがある分密度も薄くなるのは当たり前だと後で気づいた。
去り際、さっきの人の泡で「えぽけー」やら言っているのが聞こえる。足にうんこつけたままで。見ないにもほどがあるんじゃないの? バーカ。
向こうの方で年取ったイカロスが手招きしている。行ってみよう。
あ、ここ、なんか変。
そう思った矢先、わたしを手招きしたジジイが歌うように言う。
「グレートマザー、そしてアニマー、なんて素晴らしーいものでしょおおお」
何それ、と思ってジジイに糞便を投げつけてみる。
ジジイの顔が引きつる。でも笑いは絶やさない。肛門見るまでもない。ほっぺが肛門の代わりになったかのようにひくひくしている。
「あなたはーろーけんじゃをーこーろぶほっ」
投げつけた糞便がジジイの口に入る。いや狙ったわけじゃないの。ただひくひくが面白くてもいっかい投げたらジジイが勝手に歌いだしたの。ほんとに偶然。
「ぐーぜんじゃ(ぺっ)あーりま(ぺっ)せーん。(ぺぺっ)こーれはきょーじせーいというものーでぶぼぼっ」
今度は狙って投げた。だって泡でかいだもん、このジジイ。
逃げるわたしの背中に、
「じこまんだらとーごーじこまんだらとーごー……」
という念仏みたいな泡が吐きつけられた。
逃げ切った、と思ったら違う念仏がわたしを出迎える。
「ふろいとらかんげんじつかーいふろいとらかんげんじつかーい……」
でもこいつらはさっきのジジイみたいに笑ってない。気難しそうな顔をしている。こういう人の泡は大抵面白くない。スルーしようと思ったのに面白いものを見つけてしまう。
年食ったイカロスたちがうんこの投げあいをしていた。
へえ、うんこ投げるのってこっち側の人間だけだと思っているのにやるなあ、とか思ってたら「うんこを投げているから私は泡の外から泡を吐いている」とか言っている。あーだめだこりゃ。泡とうんこは別物だよー。
周りの念仏唱えている人たちも、天を見るか地を見るかでケンカしている。自分のひり出したうんこを手にとって力説しているのもいる。うんこをどっちに投げようとこっち側から見たら変わらないのに。よくやるわー。っていうか早く捨てちゃいなさいよ。ばっちいなあ。いやわたしがばっちいんだけどね。うんこを投げるのはわたしだっつに。
そいつらがいる泡の雲から、にょっきりハシゴがこちら側へと伸びている。ハシゴにつかまりながらなにやら泡を吐きあっている。気圧が低いからか泡も大きめ。だからハシゴはすぐ泡の雲に覆われる。またハシゴを伸ばす。っていうかハシゴって上るためにあるんでしょーが、逆さまに作ってどうするよ。
ハシゴの真下に行ってみる。
さっきの厚みの薄いところで見たような、目のきらきらしたおっさんがハシゴにしがみついている。でもこの人のきらきらは違う。本気のきらきらだ。
こういう時のためにわたしがいる。
えいや、とばかりに特大のうんこを投げつけてみる。うんこはおっさんのほっぺにへばりついた。わくわく。
ところが、そのおっさんはほっぺについたうんこを手に取り、きらきら笑顔のままで、「ほおら、これがたいしょーせいってやつですよお」などと言い始めた。
おいおい、と思って肛門を覗く。ゆるんでいる。いかん、こいつはマジだ。
「げんじつかーいはうつくしいのでーす。なーにもおそれることはあーりませーん」
いやそりゃうんこを手に乗っけて言われたらなんも反論できないっしょ。つーかこういうイカロスもいるのねえ。チベットだかで修行したってレインボーマンか。なんて感心している場合ではない。ここはヤバイ。こっちにきたがるバカどもが集まっている領域だ。どうりで大群が作る平面も歪んでいる。ねじれている。気がついたらわたしもイカロスの群れの中にいる。ちょっと待った。ねじれるなんて反則。聞いてない。
わたしは逃げる。何故逃げるのかわからない。糞尿の世界から逃げたがっていたはずなのに、糞尿の世界が恋しい。目がぼやける。耳に膜が張る。鼻に泡が詰まる。臭くない。糞尿の匂いが遠ざかっている。
向こうの方で、泡にまみれてない男のイカロスが、一人ロープを垂らしている。あのローブを逆にたどれば戻れるかもしれない。わたしは泡の中もがく。手のひらほどの蝋の羽をはばたかせる。
見えた。しかし、ロープには先客がいた。
羽の生えてない赤ん坊を抱いた、女のイカロス。
その女がロープにしがみついていた。ロープを引っ張る男を見つめていた。
彼らの周辺は、近くにあるはずなのに、クリーム色だった。
――そうだ。
わたしは背中の羽を引きちぎる。
あがく。狂ったように泡をかく。ようにではない。狂っていると言われても仕方がない。わたしから見れば、イカロスたちが狂っているのだから。
わかった。やはりわたしはここにいるべきではない。こんなところにいたくない。彼らを見てわかった。うんこだろうがなんだろうが、投げ続けていなくてはならない。だらしない笑顔と肛門を見せつける奴らどもに、わたしの現実を投げつけてやらなくてはならない。
ロープにしがみつく女。引き上げる男。ただただ泣いている赤ん坊。
赤ちゃんのうんこはきれいだ。いつから汚くなったのだろう。
わたしは彼らを憎むべきだろうか。彼らにうんこを投げつけるべきだろうか。
彼らを見る他のイカロスたちの顔と肛門は、ゆるみ切っていた。
女は、わたしの顔をしていた。赤ん坊は、母親の顔をしていた。二人はふてぶてしくも、わたしだった顔、母親だった顔を再利用していた。一方、二人を引き上げようとする男の頭は、異様に大きかった。よく見ると、それはなまはげだった。
――こういうのがあるから、世界は誤解されるんだ。
他のイカロスたちみたいにはなりたくない。そう思いつつも、わたしには新しい頭が生えていた。鏡を見なければわからない、誰かの顔がくっついていた。
――気持ち悪い。反吐が出そう。
わたしは新しい顔で、これ以上ないほどのしかめっ面を作った。それが、わたしである条件だから。わたしという現実だから。
わたしは河原を歩いている。
狭い川だったが、水は澄んでいた。ガラスの彫刻のようだった。
足元の小石は、やけにとんがっていた。上流の方だとしても、ナイフのようにとがっているものまである。わたしはトレッキングシューズを履いていたので平気だったが、裸足で歩くと血まみれになりそうだ、と思うほどだった。
上流のはずなのに、辺りは開けていた。森とかではなかった。木は見えなかった。すぐ横には土手が立ち上がっていて、多分その上には小路があるのだろう。土手の斜面は、ところどころに雑草が生えていたが、河原と同じような石が積まれていた。何万人もの幼稚園児が戯れに積み上げたような、雑然とした積まれ方だった。その向こうは何もなく、ただ空が広がっていた。どんよりと曇っていて、鉛色の雲がお漏らししたかのように黒ずんでいた。どこにでもありそうでなさそうな、そんな風景だった。
わたしは小石を一つ手にとった。平たい石を選んだ。磨けば光沢を放ちそうな、つるつるとした表面だった。どの石もそんな感じだった。持ち上げた一つを、とがったところに気をつけて握りしめた。
わたしは川に向かって、サイドスローでそれを投げた。水切りってやつだ。
石は一回しか跳ねなかった。
跳ねたところと、落ちたところから、大きな泡が湧いた。一つずつ湧いた。泡というより風船ガムのような膨らみ方だった。風船ガムの中には赤や黄色や青が、まだらに詰め込まれていた。大きさは、跳ねたところが子供の頭ほどで、向こうの落ちたところのは大人の頭ほどだった。大人の方が、まだらの色数は多いように見えた。
気持ち悪い川だなあ、と思って、今度は空中に向かって小石を放り投げた。不快感を示すためだったので、何も考えず普通の投げ方で投げた。
べちゃ、という音がした。
見ると、地面から、ちょうどわたしの膝ぐらいの高さに、縦の傷がついている。空間についている。空間の向こう側は、まだらが詰まっていた。そう思った。何故なら、傷口の奥が見えたのは一瞬で、傷口から、まだらの詰まった風船ガムが膨らんできたからだ。川のガムと同じくらいの速さで膨らんでいき、子供の頭と大人の頭の中間ぐらいの大きさになった。
わたしは面白くなった。
もう一つ石を投げる。今度は力いっぱい遠くに投げる。遠くでガムが膨らんだ。土手の方に投げる。土手の手前でべちゃっと石は消え、ガムが膨らんだ。
わたしはたくさん投げた。いくつ投げたか忘れるほど投げた。たくさんのガムが膨らんだ。まだらだから一つとして同じ模様はなかった。
世界は、水玉模様で彩られた。
まだらの水玉だから、かわいいというよりいやらしい感じがした。色だけなら万華鏡みたいだった。ぞくっとした。わたしは世界に見とれてしまった。
土手の向こうから、老人がやってきた。顎を左右に降り、からからと笑いながらやってきた。クリーム色のポロシャツに、やけに裾の長い茶色いズボンを履いていた。でも歩き辛くはなさそうだった。歩いているのに、自転車に乗っているようなスピードで近づいてきた。わたしの近くにくると、わたしの方を向いて止まった。何も言わず、ただ顎を左右に降り、からからと笑っているだけだった。
わたしはむかっときた。ほんの少しだけ、怖かった。
だからわたしは、特別とんがっている石を選び、老人に向かって投げた。
石は老人に当たった。
クシャ、という、今までとは違う音がした。
しなびた風船がさらにしぼんでいくように、老人は消えた。まだら色を吐き出しながら消えた。ガムのように膨らまなかった。
わたしは怖くなった。老人がしなびる代わりに、怖いという感情がぐんぐんと膨らんだみたいだった。
わたしは土手を登った。手をつけば登れる勾配だった。手をつく場所には気をつけた。なるべくとがってないところに手をついた。それでも時々手に痛みが走った。
土手の上に昇ると、やはり小路があった。アスファルトで舗装されていた。老人はいなかった。ただ、お鍋をひっくり返したかのように、アスファルトにまだら色が散らかっていた。
わたしは、老人は助かったんじゃないか、と思った。死体がないのだから、そう思えたのだろう。
まだら色に近寄り、ぼうっとそれを見る。
何故丸くならないのだろう。人間だからだろうか。ならば人間って汚らしい。わたしも汚らしい。あのぞくっとする水玉模様には、わたしはなれない。
悲しくなった。泣きそうだった。でも臭かった。まだらの茶色いところから変な臭いがした。だから泣けなかった。
気がつくと、隣に少年が立っていた。小学生くらい、同い年くらいだろうか。わたしと同じくらいの背の高さ。あれ、わたしいつの間に小学生になったんだろう。
少年は、わたしの顔を見て嫌そうな顔をする。わたしも嫌そうな顔を返す。少年は目をそらしながら、嫌々そうにわたしに聞いてくる。
「ねえ、このじいちゃん、なんか言ってなかった?」
わたしは顔に血が上る。音が聞こえそうなくらい、顔が真っ赤になっていくのがわかる。指に痛みが走る。右手を見る。わたしは石を握っていた。動揺して持ってきてしまったのだろう。げんこつくらいの大きさ。そこかしこが鋭くとがっている。小指と薬指が切れて、血が流れている。血は赤かった。まだら色じゃなかった。
少年が覗き込む。わたしは隠す。少年は隠す手首を掴む。仕方なく石を見せる。
「あー、これ呪いの石じゃん」
少年が、えらそうに言う。
「呪い? うそ。だってそこで拾ったんだよ」
「そこで拾ったからだよ。知らないの? 昔、河原は処刑場だったんだぜ」
少年の顔を見る。明らかにわたしをバカにしていた。
少年は、わざと驚いたように続ける。
「血い出てんじゃん。バイキン入っちゃうぜ。うわ、バッチイ!」
頭に顔に血が上る。際限なく上る。ああ、だめ。破裂しそう。
「呪いを解くには、こうすりゃいんだ」
少年はそう言うと、わたしの手を自分の胸元に引き寄せ、口をもぞもぞさせた後、唾を吐いた。石に吐いた。わたしの手に吐いた。
「三回吐くんだ」
そう言って、さらに二回吐いた。手にぬるっとした感触が伝わった。
「お前も吐けよ。自分のだろ」
少年はわたしに手を押しやる。本当にばっちいもののように押しやる。わたしもばっちい。でもこれは、わたしの手だ。
血が上る。
「三回な。ちゃんと吐かないと……」
破裂した。血は出なかった。わたしじゃなく、少年の頭だからだろう。わたしは、石で少年を殴りつけていた。
少年の頭が落ちる。少年の腕が視界を遮る。その前に、わたしは二発目を殴れた。殴ったと同時に、少年の「イ」という声が聞こえた。三発目は容易に殴れた。少年は倒れた。動かなくなった。
でもおかしい。少年の頭からは、まだら色が流れていた。うそだ。人間は汚いはず。ばっちいはず。
わたしは動かなくなったそれをもう一度殴った。まだら色が流れるほど、わたしの頭の血も引いていった。殴るたび、自分の頭が痛んだ。殴りながら、わたしは殴られていると思った。
痛い、やめて!
全身の力を込めて、殴った。
少年は破裂した。
視界をまだら色が覆った。
水玉じゃなかったので、拭った。
わたしはまだら色に染まっていた。石を見た。まだら色だった。わたしの血もまだらの一部になっていた。老人より破裂の勢いが強いように思えた。アスファルトのまだらの染みも、老人のそれより大きかった。
嬉しかった。少年に感謝した。わたしもまだらになれた。
でも水玉じゃなかった。
少年の言葉を思い出す。
「河原は、昔処刑場だった」
河原を見下ろす。確かに、まだらの水玉は川の周辺に集まっていた。
わたしは土手を駆け下りた。下りる途中、転んだ。ごろごろと転げ落ちた。体中に痛みが走った。剣山の上を転がっているようだった。
痛い。痛い。痛みで頭がぼんやりする。痛みが夢みたいだ。痛みを感じたら夢じゃないなんてうそだ。痛みが夢の世界に連れていくんだ。痛いと感じるから夢から覚めるんだ。
少年を殴った右手が特に痛んだ。薄目を開けて右手を見た。石はなかった。指もなかった。五本とも切断されていた。それを見ると余計に痛みが増した。
――わたしは目を覚ました。
水玉は、全部破裂していた。
あちこちから、まだら色が噴き出していた。下水を排出しているみたいだった。臭いからそう思った。臭過ぎていい匂いなのか悪臭なのかわからないほどだった。
川には、まだら色が流れ込んでいた。半分以上が茶色だった。まだらは混ざると茶色になるらしかった。糞尿だった。糞尿の川になっていた。
それでもわたしはまだらになりたかった。水玉になりたかった。
わたしは立ち上がり、糞尿の川へと向かった。血まみれより、赤一色より、まだらがよかったから。足の裏が痛い。川に足を浸す。染みる。痛みが夢の力を強くしていた。夢は夢過ぎると、現実になるようだった。
川の中ほどまでくると、水面は胸の辺りまできていた。
少し離れたところで、何かが立ち上がった。現れたのは、糞尿にまみれたなまはげだった。
わたしは駆け寄った。なまはげは手に包丁を持っていた。わたしを裂いて欲しかった。わたしの中身もまだら色だと証明して欲しかった。
なまはげは振り返った。とても頭が大きかった。体も大きいのかもしれない。でも糞尿の中がどうなっているかはわからなかった。
わたしはなまはげの前に立った。目を閉じて、お辞儀をするように、頭を差し出した。
なまはげは、わたしの頭を、一口で食べた。
教訓。なまはげは、悪い子じゃないと食べてくれない。
糞尿の世界。こう言うと誤解されそうだから、クリームの世界と言いかえてもいい。クリームパンの中の世界。甘い匂い、ねっとりとした感触、遠くはクリーム色に、近くは茶色に見える。色なんてグラデーションだから、何色でも同じだ。おいしそう。そして吐きそう。
わたしには頭がない。なまはげに食べられたからだ。頭をなくすと、世界は違って見える。なんて美しくつまらない世界だろう、と思う。けばけばしさがなくなり、パステルカラーになっている。ジャングルの蛇とかにありそうな毒々しい配色が消え、墓石みたいな質感になっている。比喩的に言うなら、だけど。
二階の高さくらいに、天使が見える。いや、羽は作り物だから、イカロスだ。高く飛ばないイカロス。だから落ちないイカロス。そんなイカロスが蚊の大群のように群れている。いやらしくだらしない笑みを浮かべて談笑している。
浅ましいイカロスたちが集まってる辺りを、世界と呼ぶらしい。
わたしはそれを見ている。しかめっ面で、世界なるものを見上げている。見下げている。横目で見ている。
蚊の大群は平面的に広がっている。それよりクリーム色、即ち遠くの方を天と呼び、近くの茶色い方を地と呼ぼう。わたしはイカロスたちを見上げている。
平面と言っても大体の厚みはある。逆に大群以外のこちら側は無次元だ。縦横高さがよくわからない。だから、あらかじめ天と地を決めておいた。
平面以外のところはクリーム色で茶色だけど、まだらでもある。目を細めたらどちらか一色になるし、まじまじと見たらまだらになる。それだけの違い。
落ちないイカロスたちは、小さな泡を吐いている。あれが彼らの会話らしい。わたしは頭をなくしてしまったから、泡を吐けない。彼らの吐く泡が唾液臭い雲となり、彼らはその中で暮らしている。
そんなイカロスたちも、時々こちらに「落ちて」くるようだ。向こうの方でニキビ面の青年が落ちている。落ちてはすぐ昇っていく。雲の上で、他のイカロスたちから泡を吐きつけられている。泡は「チュウニビョウ」と聞こえた。
若いイカロスたちだけじゃないようだ。大人でも、青年ほどではないが、時々落ちてくる。ことさら糞尿にまみれている奴は、「キモイ」「ウザイ」という泡を投げつけられている。それでも泡の壁を押しのけようとすると、「ストーカー」という泡を投げられるようだ。
先ほど大群にも厚みがあると書いたが、特に厚みが薄くなっているところに行ってみよう。
そこのイカロスたちは、なにやらひしゃげた泡を覗いている。泡をぼやけさせてこちら側を覗くことができるレンズになっているようだ。その証拠にこちらから見ると、彼らの醜い表情がよく見える。彼らはレンズに集まってオナニーしている。精液が周囲に漂っている。エントロピー的に彼らの精液あるいは排泄物はこちら側に拡散する。ちょ、やめてよ。キタナイなー。てめえら同士でぶっかけあってろよ。
薄いだけあって、落ちてくるイカロスも多いだろうと思ってみたが、そうでもなかった。薄いからこそ落ちたがらないのだろう。オナニーしながら彼らの目はパステルカラーに染まっている。落ちないのが彼らの作法なのだ。しかし彼らの周囲の泡はとても目が粗い。泡を吐いてもすぐ消えている。イカロスたちの体臭か何かで気圧が高いのだろうか。他のところを見ると、周辺にいるイカロスほど大きな泡を吐いている。大きな泡発生器たるイカロスがいられないからか。なるほど、面白いなーと思いつつ、そこはそれだけだった。
厚みが薄いと見るものもあまりない。他へ行こう。
その周辺には、小さなレンズを忙しげに見回っている人たちがいた。オナニーはしていないが、レンズを見るのと泡を見るのとには違いはないのになあ、何故わざわざレンズにしちゃうんだろ、と不思議に思う。
向こうの方でなにやら面白い泡が聞こえる。
さっきより泡が大きくて聞こえにくいが、イカロス自体の密集度はさっきより高くない。
なになに。
「泡の外を見るから迷うんだ。泡の外を見なければいい」
お、面白いこと言うじゃーん、とわたしは思って、ためしに手近にあった糞便を、そいつに投げつけてみる。べちゃ、と足元についた。彼は笑いながらこちらをにらんだ。怒ってる。っていうか泡の外見てるじゃん。
こちらから見ると、下から見上げることになるので、イカロスたちの肛門がよく見える。肛門を見ればその表情が本気かどうかわかる。いや、肛門の表情は少ないけどね。さっきのおじさんは肛門がきゅうっとしまってたから、不快に思っているのは間違いなかった。竹中直人の笑いながら怒る人を思い出す。あれはこっち側の人っぽいのに、そういう人でもフリだけで大群の中に入れるんだ、とちょっと意外になる。
よく見ると、ぽつぽつと散らばるイカロスたちは、大きな泡にすがりつくように集まっている。なるほど。フリをするなら大きな泡があった方が隠れやすいもんね。楽屋っていうか。でも何故密度が薄いのだろう、と思ったが、厚みがある分密度も薄くなるのは当たり前だと後で気づいた。
去り際、さっきの人の泡で「えぽけー」やら言っているのが聞こえる。足にうんこつけたままで。見ないにもほどがあるんじゃないの? バーカ。
向こうの方で年取ったイカロスが手招きしている。行ってみよう。
あ、ここ、なんか変。
そう思った矢先、わたしを手招きしたジジイが歌うように言う。
「グレートマザー、そしてアニマー、なんて素晴らしーいものでしょおおお」
何それ、と思ってジジイに糞便を投げつけてみる。
ジジイの顔が引きつる。でも笑いは絶やさない。肛門見るまでもない。ほっぺが肛門の代わりになったかのようにひくひくしている。
「あなたはーろーけんじゃをーこーろぶほっ」
投げつけた糞便がジジイの口に入る。いや狙ったわけじゃないの。ただひくひくが面白くてもいっかい投げたらジジイが勝手に歌いだしたの。ほんとに偶然。
「ぐーぜんじゃ(ぺっ)あーりま(ぺっ)せーん。(ぺぺっ)こーれはきょーじせーいというものーでぶぼぼっ」
今度は狙って投げた。だって泡でかいだもん、このジジイ。
逃げるわたしの背中に、
「じこまんだらとーごーじこまんだらとーごー……」
という念仏みたいな泡が吐きつけられた。
逃げ切った、と思ったら違う念仏がわたしを出迎える。
「ふろいとらかんげんじつかーいふろいとらかんげんじつかーい……」
でもこいつらはさっきのジジイみたいに笑ってない。気難しそうな顔をしている。こういう人の泡は大抵面白くない。スルーしようと思ったのに面白いものを見つけてしまう。
年食ったイカロスたちがうんこの投げあいをしていた。
へえ、うんこ投げるのってこっち側の人間だけだと思っているのにやるなあ、とか思ってたら「うんこを投げているから私は泡の外から泡を吐いている」とか言っている。あーだめだこりゃ。泡とうんこは別物だよー。
周りの念仏唱えている人たちも、天を見るか地を見るかでケンカしている。自分のひり出したうんこを手にとって力説しているのもいる。うんこをどっちに投げようとこっち側から見たら変わらないのに。よくやるわー。っていうか早く捨てちゃいなさいよ。ばっちいなあ。いやわたしがばっちいんだけどね。うんこを投げるのはわたしだっつに。
そいつらがいる泡の雲から、にょっきりハシゴがこちら側へと伸びている。ハシゴにつかまりながらなにやら泡を吐きあっている。気圧が低いからか泡も大きめ。だからハシゴはすぐ泡の雲に覆われる。またハシゴを伸ばす。っていうかハシゴって上るためにあるんでしょーが、逆さまに作ってどうするよ。
ハシゴの真下に行ってみる。
さっきの厚みの薄いところで見たような、目のきらきらしたおっさんがハシゴにしがみついている。でもこの人のきらきらは違う。本気のきらきらだ。
こういう時のためにわたしがいる。
えいや、とばかりに特大のうんこを投げつけてみる。うんこはおっさんのほっぺにへばりついた。わくわく。
ところが、そのおっさんはほっぺについたうんこを手に取り、きらきら笑顔のままで、「ほおら、これがたいしょーせいってやつですよお」などと言い始めた。
おいおい、と思って肛門を覗く。ゆるんでいる。いかん、こいつはマジだ。
「げんじつかーいはうつくしいのでーす。なーにもおそれることはあーりませーん」
いやそりゃうんこを手に乗っけて言われたらなんも反論できないっしょ。つーかこういうイカロスもいるのねえ。チベットだかで修行したってレインボーマンか。なんて感心している場合ではない。ここはヤバイ。こっちにきたがるバカどもが集まっている領域だ。どうりで大群が作る平面も歪んでいる。ねじれている。気がついたらわたしもイカロスの群れの中にいる。ちょっと待った。ねじれるなんて反則。聞いてない。
わたしは逃げる。何故逃げるのかわからない。糞尿の世界から逃げたがっていたはずなのに、糞尿の世界が恋しい。目がぼやける。耳に膜が張る。鼻に泡が詰まる。臭くない。糞尿の匂いが遠ざかっている。
向こうの方で、泡にまみれてない男のイカロスが、一人ロープを垂らしている。あのローブを逆にたどれば戻れるかもしれない。わたしは泡の中もがく。手のひらほどの蝋の羽をはばたかせる。
見えた。しかし、ロープには先客がいた。
羽の生えてない赤ん坊を抱いた、女のイカロス。
その女がロープにしがみついていた。ロープを引っ張る男を見つめていた。
彼らの周辺は、近くにあるはずなのに、クリーム色だった。
――そうだ。
わたしは背中の羽を引きちぎる。
あがく。狂ったように泡をかく。ようにではない。狂っていると言われても仕方がない。わたしから見れば、イカロスたちが狂っているのだから。
わかった。やはりわたしはここにいるべきではない。こんなところにいたくない。彼らを見てわかった。うんこだろうがなんだろうが、投げ続けていなくてはならない。だらしない笑顔と肛門を見せつける奴らどもに、わたしの現実を投げつけてやらなくてはならない。
ロープにしがみつく女。引き上げる男。ただただ泣いている赤ん坊。
赤ちゃんのうんこはきれいだ。いつから汚くなったのだろう。
わたしは彼らを憎むべきだろうか。彼らにうんこを投げつけるべきだろうか。
彼らを見る他のイカロスたちの顔と肛門は、ゆるみ切っていた。
女は、わたしの顔をしていた。赤ん坊は、母親の顔をしていた。二人はふてぶてしくも、わたしだった顔、母親だった顔を再利用していた。一方、二人を引き上げようとする男の頭は、異様に大きかった。よく見ると、それはなまはげだった。
――こういうのがあるから、世界は誤解されるんだ。
他のイカロスたちみたいにはなりたくない。そう思いつつも、わたしには新しい頭が生えていた。鏡を見なければわからない、誰かの顔がくっついていた。
――気持ち悪い。反吐が出そう。
わたしは新しい顔で、これ以上ないほどのしかめっ面を作った。それが、わたしである条件だから。わたしという現実だから。