身体性の小説
2007/09/28/Fri
男性作家の文章は、「歩み」だ。
もちろん歩き方にはいろいろある。
中村文則のような着実な歩みもあれば、阿部和重のようなスニーカーでのちょこまか歩きもある。保坂和志のような道草を食いまくる歩みもあれば、平野啓一郎のような歌舞伎的な歩みもある。
それに比べ、女性作家の文章は、「舞踊」だ。
もちろん宮部みゆきのような男性的な歩みをする者もいるし、佐藤亜紀のように作品で舞踊の比率を変える作家もいる。
一概に言えることではない。とりあえず厚顔な批評家的言説だと思って欲しい。
笙野頼子の、内容だけではない、匂い立つような文章の力について考えていた時、思いついたことだ。
笙野頼子の文章は、明らかに舞踊である。
少女小説にありがちなキレイな舞踊ではない。川上弘美のようなチャーミングな大人のダンスでもない。赤坂真理のような観客に浸透する過剰なステップでもない。小川洋子のようなスウィンギーなものでもない。多和田葉子のような自我意識的なものでもない。
笙野の舞踊は、身体性そのままなのだ。そういう意味では暗黒舞踏的と言えるかもしれないが、全然違う。彼女の身体は、言語により「常に既に」切り刻まれているからだ。
アルトーはバリ島の舞踊劇から残酷演劇の理念を思いついた。
舞踊とは身体のコード化である。コード化としてもっともわかりやすい例が西洋バレエであろう。日本舞踊も然りである。しかしコード化し切れないところに観客は何かを感じる。能における「引っ張り合い」であるとか、西洋バレエにおける筋肉の緊張であるとか、渡邊守章氏のいう記号ゼロ度の地平である。この領域は身体がコード化されて初めて顕現する。
一方、笙野は既にその容貌や女性であることのため、その人生において言葉により切り刻まれている。これはもちろん「笙野頼子」というテクストに付随する、作品から見れば補佐的なコンテクストではあろう。
乱暴な言い方になるが、舞踊家がレッスンを経て手に入れるコード化を、笙野は抑圧的に身に受けてきた、ということだろうか。
「ということだろうか」なんて距離を取った言い方しているのは、切り刻まれた末に現れたものが、わたしにはおぞましく感じられるからである。
それを単純に言うなら、攻撃性あるいはルサンチマンとなるだろう。事実笙野作品は攻撃的でルサンチマン的だと言われている。笙野作品は特に男性に嫌悪されがちだが、多くはこのルサンチマン的なものを嫌ってのことだろう。
正直言って、その嫌悪は正しいと思う。
キリスト教は、精神を重んじ肉体を穢れたものと考えた。肉体的なものを動物的だとして、それに嫌悪感を覚えるのは「人間として」当然のことなのである。
ではルサンチマンとは肉体的なものなのだろうか。
わたしはここで、ラカンの想像界を基本に、体感的なもの、と表現したい。
人は何故ルサンチマンを覚えるのか。それは、ルサンチマンを覚える対象と「想像的同一化」してしまうことで、自分と対象との差異を「抑圧」しようとするからである。この前段階とも言うべき想像的同一化は、愛情の基本でもある。こちらの記事でも書いているが、愛憎とは、自我や超自我で変換されたアウトプットに過ぎず、元は同じものなのだ。
この想像的同一化とは、エロス的なものでもある。若い男性にありがちな、性行為を汚く思ってしまうことは、想像的同一化というものが、魅力的なものであると同時におぞましいものであるという両義性を感じさせるから生じるのである。
先ほど、男性作家の文章は「歩み」であると書いた。
歩みとは、目的地があるにせよないにせよ、どこかに向かうものである。一方、舞踊は先ほども述べたように身体性の顕現である。
小説の神なり真理があるとするならば、男性は作品の外部あるいは精神内部にそれを求め、女性は身体内部にそれを求めている、という表現にしておこう。
精神内部の神の位置にあるのは、父性原理的な一神教的な神であり、構造的には、そこは空洞となる。ドーナツのような中空構造だ。ラカン論の言語構造=トーラスにも対応する。この空洞を比喩的に言うなら、「クレタ人のパラドックス」や不完全性定理みたいなものと思っていただければよい。この空洞と同一化してしまうのが、鬱状態であると言えよう。
では身体内部における神とはなんだろうか。
母性原理的な、多神教的な神となるだろう。イメージ=体感主体の世界。父性原理による切断の影響が希薄な、未分化的な世界。体感的に言うとどろどろねばねばぐだぐだした世界。愛憎の区別がつかない境界性人格的な世界。
嫌悪すべき、しかし魅惑的な、「糞尿の泉」がその領域である。
わたしの管見によれば、現代の日本の小説界において、笙野頼子はもっともこの領域に近い場所にいる作家の一人だと言えるだろう。
先ほど、精神内部の中心(=空洞)と身体内部の中心(=糞尿の泉)を別物のように書いたが、接近すればするほど、これら二つは表裏一体的な「同一物」になるとわたしは考えている。つまり、男性作家的な歩みも女性作家的な舞踊も、極限に近づけば近づくほど同じ場所に向かっていることになる、ということだ。
構造主義は、精神(象徴界)の裏にある、無意識的な構造を突き止めるものだった。
しかし、ラカンの現実界という概念や、アルトーに影響されたドゥルーズ&ガタリは、構造の向こう側に身体的なものを見出している。
ポストモダンはさまざまな思想系列が乱立しているが、この身体性に対する着目する流れは、事実一つの流れとしてある。クリステヴァのアブジェクシオン論はまさに「糞尿の泉」に向かった論であると言える。
そういう意味では、日本の小説界は笙野頼子の登場によって初めてポストモダンに足を踏み入れた、ということになるだろう。
この領域は、学者顔負けの構造主義的知を備えた京極夏彦でも辿り着けなかった領域である。
もちろん、笙野以外にも、歩みでも舞踊でもない、「音楽」としての文章を武器にそこへ向かっている町田康という作家もいるし、中村文則や中原昌也など、歩みとして暴力性を用い、身体性に近接しようとしている作家もいる。
しかし、町田はともかく、いくら暴力を表現しても、「歩み」である限りは糞尿の泉に到達できないのではないか、と思う。何故なら、暴力の果てには死や消失しかないからだ。この「無」的な極点は、精神内部の空洞と相似する。つまり、身体性の極とは反対の極に行き着くのだ。
――余談。
こんな文章を書こうと思ったのは、最近ふらりとコバルト小説を数冊読み飛ばしてみたのだが、昔と違って、電撃あたりのヤローラノベとものすごく近い匂いを感じてしまったからだ。オタク文化というものが、小説のとあるジャンルの幅を狭くしている。それを実感してしまった。まあパラノイア的妄想なのかもしれないが。
人と同じ高さにいたがるイカロスたちの空間は、薄い平面にしかならない。そこに向けて「商業的」に関与するならば、当然表現文化としての厚みも損なってしまう。
それで飽きないのは、やはりフェティシストだからなんだろうなあ、と思いましたとさ。ちゃんちゃん。
あ、文中に出てきた作家さんはみんな好きですよ(なんのフォローだ)。
もちろん歩き方にはいろいろある。
中村文則のような着実な歩みもあれば、阿部和重のようなスニーカーでのちょこまか歩きもある。保坂和志のような道草を食いまくる歩みもあれば、平野啓一郎のような歌舞伎的な歩みもある。
それに比べ、女性作家の文章は、「舞踊」だ。
もちろん宮部みゆきのような男性的な歩みをする者もいるし、佐藤亜紀のように作品で舞踊の比率を変える作家もいる。
一概に言えることではない。とりあえず厚顔な批評家的言説だと思って欲しい。
笙野頼子の、内容だけではない、匂い立つような文章の力について考えていた時、思いついたことだ。
笙野頼子の文章は、明らかに舞踊である。
少女小説にありがちなキレイな舞踊ではない。川上弘美のようなチャーミングな大人のダンスでもない。赤坂真理のような観客に浸透する過剰なステップでもない。小川洋子のようなスウィンギーなものでもない。多和田葉子のような自我意識的なものでもない。
笙野の舞踊は、身体性そのままなのだ。そういう意味では暗黒舞踏的と言えるかもしれないが、全然違う。彼女の身体は、言語により「常に既に」切り刻まれているからだ。
アルトーはバリ島の舞踊劇から残酷演劇の理念を思いついた。
舞踊とは身体のコード化である。コード化としてもっともわかりやすい例が西洋バレエであろう。日本舞踊も然りである。しかしコード化し切れないところに観客は何かを感じる。能における「引っ張り合い」であるとか、西洋バレエにおける筋肉の緊張であるとか、渡邊守章氏のいう記号ゼロ度の地平である。この領域は身体がコード化されて初めて顕現する。
一方、笙野は既にその容貌や女性であることのため、その人生において言葉により切り刻まれている。これはもちろん「笙野頼子」というテクストに付随する、作品から見れば補佐的なコンテクストではあろう。
乱暴な言い方になるが、舞踊家がレッスンを経て手に入れるコード化を、笙野は抑圧的に身に受けてきた、ということだろうか。
「ということだろうか」なんて距離を取った言い方しているのは、切り刻まれた末に現れたものが、わたしにはおぞましく感じられるからである。
それを単純に言うなら、攻撃性あるいはルサンチマンとなるだろう。事実笙野作品は攻撃的でルサンチマン的だと言われている。笙野作品は特に男性に嫌悪されがちだが、多くはこのルサンチマン的なものを嫌ってのことだろう。
正直言って、その嫌悪は正しいと思う。
キリスト教は、精神を重んじ肉体を穢れたものと考えた。肉体的なものを動物的だとして、それに嫌悪感を覚えるのは「人間として」当然のことなのである。
ではルサンチマンとは肉体的なものなのだろうか。
わたしはここで、ラカンの想像界を基本に、体感的なもの、と表現したい。
人は何故ルサンチマンを覚えるのか。それは、ルサンチマンを覚える対象と「想像的同一化」してしまうことで、自分と対象との差異を「抑圧」しようとするからである。この前段階とも言うべき想像的同一化は、愛情の基本でもある。こちらの記事でも書いているが、愛憎とは、自我や超自我で変換されたアウトプットに過ぎず、元は同じものなのだ。
この想像的同一化とは、エロス的なものでもある。若い男性にありがちな、性行為を汚く思ってしまうことは、想像的同一化というものが、魅力的なものであると同時におぞましいものであるという両義性を感じさせるから生じるのである。
先ほど、男性作家の文章は「歩み」であると書いた。
歩みとは、目的地があるにせよないにせよ、どこかに向かうものである。一方、舞踊は先ほども述べたように身体性の顕現である。
小説の神なり真理があるとするならば、男性は作品の外部あるいは精神内部にそれを求め、女性は身体内部にそれを求めている、という表現にしておこう。
精神内部の神の位置にあるのは、父性原理的な一神教的な神であり、構造的には、そこは空洞となる。ドーナツのような中空構造だ。ラカン論の言語構造=トーラスにも対応する。この空洞を比喩的に言うなら、「クレタ人のパラドックス」や不完全性定理みたいなものと思っていただければよい。この空洞と同一化してしまうのが、鬱状態であると言えよう。
では身体内部における神とはなんだろうか。
母性原理的な、多神教的な神となるだろう。イメージ=体感主体の世界。父性原理による切断の影響が希薄な、未分化的な世界。体感的に言うとどろどろねばねばぐだぐだした世界。愛憎の区別がつかない境界性人格的な世界。
嫌悪すべき、しかし魅惑的な、「糞尿の泉」がその領域である。
わたしの管見によれば、現代の日本の小説界において、笙野頼子はもっともこの領域に近い場所にいる作家の一人だと言えるだろう。
先ほど、精神内部の中心(=空洞)と身体内部の中心(=糞尿の泉)を別物のように書いたが、接近すればするほど、これら二つは表裏一体的な「同一物」になるとわたしは考えている。つまり、男性作家的な歩みも女性作家的な舞踊も、極限に近づけば近づくほど同じ場所に向かっていることになる、ということだ。
構造主義は、精神(象徴界)の裏にある、無意識的な構造を突き止めるものだった。
しかし、ラカンの現実界という概念や、アルトーに影響されたドゥルーズ&ガタリは、構造の向こう側に身体的なものを見出している。
ポストモダンはさまざまな思想系列が乱立しているが、この身体性に対する着目する流れは、事実一つの流れとしてある。クリステヴァのアブジェクシオン論はまさに「糞尿の泉」に向かった論であると言える。
そういう意味では、日本の小説界は笙野頼子の登場によって初めてポストモダンに足を踏み入れた、ということになるだろう。
この領域は、学者顔負けの構造主義的知を備えた京極夏彦でも辿り着けなかった領域である。
もちろん、笙野以外にも、歩みでも舞踊でもない、「音楽」としての文章を武器にそこへ向かっている町田康という作家もいるし、中村文則や中原昌也など、歩みとして暴力性を用い、身体性に近接しようとしている作家もいる。
しかし、町田はともかく、いくら暴力を表現しても、「歩み」である限りは糞尿の泉に到達できないのではないか、と思う。何故なら、暴力の果てには死や消失しかないからだ。この「無」的な極点は、精神内部の空洞と相似する。つまり、身体性の極とは反対の極に行き着くのだ。
――余談。
こんな文章を書こうと思ったのは、最近ふらりとコバルト小説を数冊読み飛ばしてみたのだが、昔と違って、電撃あたりのヤローラノベとものすごく近い匂いを感じてしまったからだ。オタク文化というものが、小説のとあるジャンルの幅を狭くしている。それを実感してしまった。まあパラノイア的妄想なのかもしれないが。
人と同じ高さにいたがるイカロスたちの空間は、薄い平面にしかならない。そこに向けて「商業的」に関与するならば、当然表現文化としての厚みも損なってしまう。
それで飽きないのは、やはりフェティシストだからなんだろうなあ、と思いましたとさ。ちゃんちゃん。
あ、文中に出てきた作家さんはみんな好きですよ(なんのフォローだ)。