『バッド・チューニング』飯野文彦――悪意には悪意を。
2007/10/02/Tue
書評しない書評っていうのもありだろうなあ。と思ってしまう小説。それが、飯野文彦氏の『バッド・チューニング』だ。
わたしは故中島らも氏も好きである。彼の作品に同じタイトルがあった気がするが、「ピンサロのドストエフスキー」を自称しているらしい飯野氏なら知っていたことかもしれない。かと言ってらも氏の作品を探してきて読み返して繋がりを論じるのもバカらしくなる。
そんなのカンケーねー!(by小島よしお)
ということで書評しない。おすすめもしない。むしろ嫌悪されてこそこの小説は光る。角川のホラー大賞の最終選考で落とされたらしいが、英断である。ちなみに同じ回ではないが、同大賞作品の『夜市』を直前に読んだ。この作品に比べたら、人工着色料と人工調味料「だけで」作られた「飼料」のように思える。そこそこ旨かったが。
○○○○小説。まあキチガイがあてはまるんだけどね。
わたしはこのブログで、自分の文章を糞便と言う。最近は自らも糞便だと思い始めている。もちろんそんなのポーズだ。わたしってば小市民。糞便なんてばっちいもの。スカトロ趣味もないし。だからこそ自らを糞便と称する。わたしの中にある呪いを糞便という言葉で再度呪縛している。
この作品は、賞などという呪縛があると変質する。
まあ、見た目のゲスな表現にしか目がいかない人にはわからないかもしれない。いや所詮小説なんて「代理表象」でしかないんだけど。一応起承転結とかほのかなミステリ形式感もあるしね。うん。いいんだ。糞便は言葉からこぼれたものだけど、だからといって言葉を否定すると自身は言葉になるから。言葉=糞便とするには、中途半端な物語性とB級表象がお手ごろである。言葉という潔癖症の位置を、阿部和重のように形式性の過剰さでずらすのも全然あり。むしろ糞便だからこそ、人工着色料や人工調味料が合うのだ。モツ煮込みには唐辛子(関係ありません)。
安っぽさがいいのではない。安っぽさの無根拠さがいいのだ。
願わくば、この作品に、多くの人が唾を吐いて欲しい。その方がこの作品は光る。その光は、よだれのてらてら光だろうが。それにより、何らかのおためごかしの言葉が作品に積み重なっていくだろう。それでいいのだ。
精神分析学はキチガイの言葉をおためごかしの言葉で解釈する。そういうものなのだ。
悪意のある人間を排除する集団は、自らの悪意を醸造する。悪意は抑圧されてこそ悪意なのだ。何故ならば、悪意そのものが存在であるからだ。抑圧されないとそれは悪意とはならない。
悪意は悪意で返してやれ。「父」も言っているじゃないか。目には目を、歯には歯をと。
この作品の悪意もダメなら、アクティングアウトしかなくなる。
精神分析家やカウンセラーが生み出す狂気に対抗するには、アクティングアウトしかないのだろうか。
――もっと、悪意を。
そういって死ぬしかないのだろうか。
この作品で言うならば、溺れる者が掴む藁としての刑事さえも登場させてはいけなくなるのだろうか。
二次元の絵のパースが狂っている程度の、神経症が家のカギを閉めたかどうかを気にする程度の狂気を消費していくしかないのか。
なんて哀れな時代だろう。わたしだって、哀れだ。
だから、この作品は罵られなければならない。もっと相応の悪意に晒されなければならない。
大森望氏がこの作品を傑作と述べているのを見つける。ああうん。傑作。
違う書評には、ノワール・ファンにはたまらないとか書いてあるけど、ノワールさえもうんこ化しているように思うけどなあ。いや、うんこを描くのがノワールなのかもしれないけど。ノワールはどっちかってとうんこというより精液臭さや汗臭さであって欲しいとも思う。わたしの潔癖症なところがそう思わせるのだろう。つーか「父の名」に疎い日本人がノワールやってもそりゃーパラノイアになるさ。
キチガイ小説だからっていって作家がキチガイってわけじゃないと思うがね。前にも書いたけど、作家性≠作家本人なのですよ。っていうかこの作品はちゃんと意識的なところが見えるし。その作家性的な意識的さ加減がなくなると、アウトサイダーアートになってしまう。そうではない。アウトサイダーアートというより、ギャグとして読んだ方が近いかもしれない。主人公の症状は阿部和重の『ニッポニアニッポン』と同質ではあるが、それよかギャグ寄りではある。
テリブルマザーは、悪意に笑う。(例:西原理恵子氏が描くキョウアクな笑み)
……と、最後だけ書評らしきものにしておくか。つか感想レベルだねー。
まあ、おすすめはしないけど面白かったっすよ。拾い上げた早川えらい。
――ハイ、オッパッピー。
わたしは故中島らも氏も好きである。彼の作品に同じタイトルがあった気がするが、「ピンサロのドストエフスキー」を自称しているらしい飯野氏なら知っていたことかもしれない。かと言ってらも氏の作品を探してきて読み返して繋がりを論じるのもバカらしくなる。
そんなのカンケーねー!(by小島よしお)
ということで書評しない。おすすめもしない。むしろ嫌悪されてこそこの小説は光る。角川のホラー大賞の最終選考で落とされたらしいが、英断である。ちなみに同じ回ではないが、同大賞作品の『夜市』を直前に読んだ。この作品に比べたら、人工着色料と人工調味料「だけで」作られた「飼料」のように思える。そこそこ旨かったが。
○○○○小説。まあキチガイがあてはまるんだけどね。
わたしはこのブログで、自分の文章を糞便と言う。最近は自らも糞便だと思い始めている。もちろんそんなのポーズだ。わたしってば小市民。糞便なんてばっちいもの。スカトロ趣味もないし。だからこそ自らを糞便と称する。わたしの中にある呪いを糞便という言葉で再度呪縛している。
この作品は、賞などという呪縛があると変質する。
まあ、見た目のゲスな表現にしか目がいかない人にはわからないかもしれない。いや所詮小説なんて「代理表象」でしかないんだけど。一応起承転結とかほのかなミステリ形式感もあるしね。うん。いいんだ。糞便は言葉からこぼれたものだけど、だからといって言葉を否定すると自身は言葉になるから。言葉=糞便とするには、中途半端な物語性とB級表象がお手ごろである。言葉という潔癖症の位置を、阿部和重のように形式性の過剰さでずらすのも全然あり。むしろ糞便だからこそ、人工着色料や人工調味料が合うのだ。モツ煮込みには唐辛子(関係ありません)。
安っぽさがいいのではない。安っぽさの無根拠さがいいのだ。
願わくば、この作品に、多くの人が唾を吐いて欲しい。その方がこの作品は光る。その光は、よだれのてらてら光だろうが。それにより、何らかのおためごかしの言葉が作品に積み重なっていくだろう。それでいいのだ。
精神分析学はキチガイの言葉をおためごかしの言葉で解釈する。そういうものなのだ。
悪意のある人間を排除する集団は、自らの悪意を醸造する。悪意は抑圧されてこそ悪意なのだ。何故ならば、悪意そのものが存在であるからだ。抑圧されないとそれは悪意とはならない。
悪意は悪意で返してやれ。「父」も言っているじゃないか。目には目を、歯には歯をと。
この作品の悪意もダメなら、アクティングアウトしかなくなる。
精神分析家やカウンセラーが生み出す狂気に対抗するには、アクティングアウトしかないのだろうか。
――もっと、悪意を。
そういって死ぬしかないのだろうか。
この作品で言うならば、溺れる者が掴む藁としての刑事さえも登場させてはいけなくなるのだろうか。
二次元の絵のパースが狂っている程度の、神経症が家のカギを閉めたかどうかを気にする程度の狂気を消費していくしかないのか。
なんて哀れな時代だろう。わたしだって、哀れだ。
だから、この作品は罵られなければならない。もっと相応の悪意に晒されなければならない。
大森望氏がこの作品を傑作と述べているのを見つける。ああうん。傑作。
違う書評には、ノワール・ファンにはたまらないとか書いてあるけど、ノワールさえもうんこ化しているように思うけどなあ。いや、うんこを描くのがノワールなのかもしれないけど。ノワールはどっちかってとうんこというより精液臭さや汗臭さであって欲しいとも思う。わたしの潔癖症なところがそう思わせるのだろう。つーか「父の名」に疎い日本人がノワールやってもそりゃーパラノイアになるさ。
キチガイ小説だからっていって作家がキチガイってわけじゃないと思うがね。前にも書いたけど、作家性≠作家本人なのですよ。っていうかこの作品はちゃんと意識的なところが見えるし。その作家性的な意識的さ加減がなくなると、アウトサイダーアートになってしまう。そうではない。アウトサイダーアートというより、ギャグとして読んだ方が近いかもしれない。主人公の症状は阿部和重の『ニッポニアニッポン』と同質ではあるが、それよかギャグ寄りではある。
テリブルマザーは、悪意に笑う。(例:西原理恵子氏が描くキョウアクな笑み)
……と、最後だけ書評らしきものにしておくか。つか感想レベルだねー。
まあ、おすすめはしないけど面白かったっすよ。拾い上げた早川えらい。
――ハイ、オッパッピー。