オタク文化における記号のサイン化傾向についての考察
2006/11/17/Fri
いじめ問題のクローズアップ、教育基本法改正と、教育問題が取り沙汰されています。
こういったことの諸問題というのは、最近「母性」と「父性」をポスト構造主義的に散種させ多義性化させた言葉として捉え直すと、それらをわかりやすく説明できるのではないかな、と考えるようになりました。
ここはまだ考えがまとまってないので、簡単に流しますが、「母性」をユングの「元型」的に捉えると、「平等」と表裏一体的に「無個性」といった意味を読みとれます。「父性」は前の記事(『京極堂シリーズ』書評)などから、「男性性」的に捉えると、主観を排し論理的思考を尊重する「ロゴス中心主義的社会」、キリスト教神学的・「近代的知」的な「解釈の一本化に向かう力」という意味がイメージされます。
現代教育では「平等」という言葉が、ラカン理論でいう「大文字の他者」として大きな位置を占めているように思えます。一方、「ロゴス中心主義的社会」「解釈の一本化に向かう力」は、「弱肉強食」「格差社会」というイメージのある資本主義社会の形成という結果を生み出しました。
簡単に言いますと、学校教育の時点では、「母性過多」であり、社会に出てしまうといきなり「父性中心」の社会に放り出されるというギャップが日本現代社会にあると思います。「母性過多」には家庭における父性の不在もあるでしょうし、「父性中心」となった社会はロゴス中心主義を推し進めた歴史の必然とも言えるでしょう。なのでこの状況自体を私は批判するつもりはありません。
このギャップが歪んだ形で表出するのが、いじめ問題や、学校における学歴偏重主義と考えれば、何となくすっきりとした形で言葉にできそうな予感が私はしました。
しかし、私は教育問題については、子供もいませんし、自分が語ることに少し臆病になってしまいます。なのでこの辺には思考が及びませんし、この文章がですます調になっているのも、そういう引け目からそうなっているのでしょう。
前置きはこのぐらいにして。
学校問題・教育問題は脇に置いておいて、私は芸術視点で事物を見てしまうことから、最近ではオタク文化に着目している。オタク文化はアニメやマンガ、ライトノベルなど見ればわかるように、表現主体の文化、芸術文化といってよいと考えているからだ。
私は現代のオタク文化は環境が「母性過多」になっているように思う。以前は虐げられていた「オタク」が、最近では電車男やメイド喫茶や麻生大臣のマンガ趣味などがマスコミに取り上げられ、一般人と「平等」に社会で扱われるようになってからは特にそう思える。
この「母性過多」による「父性不足」を無意識的に補おうとしている傾向も読み取れる。『削除ボーイズ』書評でも書いた、アニメ版「時をかける少女」のヒットや、「ネット右翼」と呼ばれるネット世代の若者のブーム的な愛国心尊重傾向だ。ところが、アニメで言えば、「エウレカセブン」という作品には様々な「父性」を体現したキャラが出てくるが、それは若者の深層の心性に届かなかったように思える。そういえば「エヴァンゲリオン」もギリシャ悲劇時代からある王道パターンの「父殺し」的な「父に反発する男子」を題材にとったものだが、それが資本主義社会という「父性」に換喩され、ラストのメタフィクション的な作りと呼応したのであろう。しかし、暗喩的に影響を及ぼしたと言えるかもしれないが、キャラクターとしての碇ゲンドウという「父性」は、キャラクターとしては視聴者の深層の心性に届いていないように思える。これらから、家庭や教育現場での目に見える形の、想像界における「小文字の他者」としての「父性不在」の中で、アニメ「時かけ」や愛国心のようにシンボル的、換喩的な「父性」しか認められないというジレンマが読み取れる。
(エヴァンゲリオンついてはオタク文化における「父殺し」を表現したという考え方も可能だろう。「父殺し」を経た後に「父性」を受け入れるのが通常の「人間的成長」だが、現実の資本主義社会という「父性」が余りにも大きな壁として機能している。加えてラストで主人公は父を殺した、父性を乗り越えたという印象は受けない。これらから、「父性」を受け入れずにそこから逃げ、直後によいタイミングで環境的な「母性」が立ち現れたので、現在のような状況になったのではないか、という流れも読み取れるかもしれない。)
つまり、マクロなポスト近代という視点では、資本主義社会に代表されるような「ロゴス中心主義」的世界への補填として「母性」が求められているが、局所的な「オタク文化」「教育現場」においては「母性過多」による「父性不在」が見て取れるという、複雑な状況に日本現代社会はあると言える。
ここで、以前の記事に書いたオタク文化における「解釈の一本化」という傾向に話を移してみよう。
私は今のオタク文化を様々な表現ジャンルに見られるピラミッド構造ではなく、逆「T」字になっていると表現した。母性に包まれ、「平等」に扱われるようになった「オタク」。ここへ同時に情報化社会がもたらす新語の爆発的増加による「流行語」の時代という背景において、「オタク」という言葉が「流行語」的に広まったいう環境が加わる。これにより、本来ピラミッド型であったオタク文化における表現ジャンルのピラミッド層の底辺が拡大するという現象が起きる(ここで断っておくが、このピラミッドには表現者と受取手という区別はない。もちろん現実的に受取手は自然とピラミッドの下層に多く存在することになるが。この芸術表現のピラミッドにおいて上方向というのは、深層の心性を震わす感動、芸術的普遍性を帯びた感動を目指している方向性、いわゆる名作を生み出す、享受する方向性を指す、という説明をこの場ではしておく)。新語の爆発的増加を背景にした「流行語」たちは、言語としてサイン化傾向を帯びる。もともと言語が増加している状況で、一語に多義的な意味を持つシンボルは一般に浸透しにくい。よってその言葉を受け取る人間は、それをサイン的な言語として咀嚼するしかないのだ。
この急速に拡大するピラミッドの底辺にある彼らは、母性に包まれた環境にいる。バランスを取るために深層心理で父性を求める。この深層心理には資本主義社会という「大文字の他者」の影響も及んでいるだろう。それ以前に小さなピラミッドの中層にいた「昔のオタク」たちは、急激に広まった底辺に対応できない。底辺の彼らも「オタク」という流行語としてそれを受け取っているので、「オタク」という言葉はシンボルというよりサインに近い記号として彼らの自我に作用する。象徴的な「大文字の他者」のシンボル的言語として機能しにくい言葉として捉えられているわけだ。また、この環境、逆「T」字が立つ地面は「母性過多」なので、母性的な「平等」の力が彼らを「無個性」化していく。「昔のオタク」も底辺の「オタク」も、サイン的な「オタク」という記号的な「ペルソナ」を被らざるを得ないのだ。
ここで「ペルソナ」を「仮面」と単に訳すと誤解が生じる。「演劇的知」における「ペルソナ」は、簡単に取り外せるものではない。取り外せても、ペルソナ自体が被る人間の精神にも肉体にも影響してくるのだ。精神的には無意識層にまで影響する場合もあると思う。サイン的な記号としてのペルソナであれば、シンボル記号と比べ、シンボルと同じく曖昧なシニフィエを持つ無意識層への影響は軽微かもしれない。しかし、そのペルソナを「サイン的な記号」というシンボルで捉えれば、精神的・肉体的に自身がサイン的な記号化されていくという状況も考えられる。精神分析的にいうならば、自覚的に流行語的な「オタク」のペルソナを被っているオタクたちは、無意識的なエスまでもが「サイン的な、一義的な記号」化されていく、という影響を受けているのではなかろうか。これは底辺のオタクの無個性化を加速させる要因でもあろう。
こういった影響を無意識層に受けた彼らは、無意識層の奥にある深層の心性を震わせる感動を、それを表現する名作を求めない。いや、深層の心性を震わせる感動(「演劇的知」において、私はこういった感動を表現することを「呪術性」という言葉で表す)に鈍くなっているとも言えるだろう(私自身も現代社会に生きているので、この傾向があるであろうことは否定しない)。自身がピラミッドを形成して上方に向かうことがないのだ。このことは、ライトノベルの作家の卵たちが集う某サイトにおいて、私が彼らの発言から常々感じていることと見事に合致する。
こういった、環境的には「母性過多」「父性不在」、さらにその周りのマクロ環境では「父性中心」な資本主義社会という二重構造の中で、無個性化の傾向がある彼らの「父性」への欲求は内側へ向く。「父性」はペニスで換喩されるように事物を収束させる、一本化する力を示すからだ。しかし、ピラミッド構造では底辺に対し本来「父性」となるべき中層が語る言葉、共有する知を持っていない。中層のオタクは「権威」という「父性」足り得ない。オタク文化にはこの「権威」という「父性」がない。先程述べたように底辺層もそういった上方の「芸術的・表現的知」を持つ権威を求めない。「権威」というものは一般的に「上からの圧力」と換喩される。なので上からの圧力=重力が機能しないオタク文化において、底辺層は中心に集合し、中心にある以前はピラミッドだった層はどんどん細くなり、逆「T」字を形成する結果となるのだ。
このことは、他の芸術から来た私などから見れば、ライトノベルというジャンルは作品群として非常に画一的(サイン的)な自己内ルールが多数あるという印象を受けてしまう事実に合致する。
「権威」は忌むべきものではない。その表現ジャンルにおいて縦の「知」の共有を担う、一つの父性的な表出にすぎないのだ。権威が無いということは、必ずしもその表現ジャンルにおいて幸福な結果をもたらすとは限らない。それを体現しているのがオタク文化という表現文化だと私は考える。オタク文化の中の一つ、ライトノベルという表現ジャンルでは、事物の一本化という父性的知(大文字の他者的父性)に憧憬を持ちながら、「権威」という目に見える形での父性(小文字の他者的父性)を嫌うという、精神分析でいうエディプス期(第一次反抗期)的印象を私は持ってしまう。もちろん、それは先に述べたような様々な環境要因のせいもあるだろうし、表現文化と考えればオタク文化は非常に若い文化であることを考えれば当然のことなのかもしれない。またこのことは先に書いた「父性的キャラクター」が心に届かないという現象とも関連していると言えそうだ。
ここで、「底辺層」という言葉自体に私は意図するものはないが、読者のイメージとしていいものではなさそうなので、ライトなオタクという意味でこれを「ライトオタ」と呼び変える。それ以前に小さなピラミッドを形成していた、虐げられていた時代のオタク層を、「ヘビーオタ」と仮に呼ぼう。
オタキング的世代分けによるならば(東浩紀氏著『動物化するポストモダン』より)、第一、第二世代が「ヘビーオタ」、第三世代以降が「ライトオタ」、つまり一つの傾向として年代で分けるならば、80年前後生まれかどうかで分けられる区分だと思って欲しい(もちろん傾向を読み解くための仮の定義に過ぎないので、これに当てはまらないオタクも多数いるだろう。以下ではそういった意味で「傾向」という言葉を用いる)。
私は今仮に区分したこの二種類の「オタク」について、「スキゾ/パラノ」という、精神医学的な言語を用いて説明を試みてみようと思う。浅田彰氏はこれを精神医学用語から散種させ、人格の二項対立的傾向として用い、その時代を読み解き予言した。そういったところに近い用い方で以下パラノイア的人格=パラノ、スキゾイド的人格=スキゾとしてこの言葉を用いる(一つ注意されたいのは、スキゾイド(分裂病質)≠スキゾフレニー(統合失調症)であり、スキゾイドはスキゾフレニーの人格素因ではなく、無関係であるということを添えておく)。
ラカンの精神分析理論でこの人格を少し掘り下げてみよう。
ラカン理論では、パラノ(的人格)は人格形成そのものということになる。想像界における(小文字の)他者との連帯を目指し(強い仲間意識)、それを正当化するために、またはその中で自分の正当性を証明するために論理的多弁さをもって主張する(強い正義感)。ここに否認による強い挫折感が加われば、精神分析的なパラノイアの病理となる。これは、ラカンの鏡像段階論と符号する。想像界における他者(母親)との幸福な時間に浸っていた幼児が、「父の名」において「去勢」され象徴界に参入するというのが人格形成の段階となるわけだが、これと同じ構図をパラノイアは持っている。つまり、象徴的軸より想像的軸が強い状態で、挫折すればパラノイアの病理となるのだ。ここではパラノ(的人格)は、その内的動力の強さが、象徴界(象徴的軸)<想像界(想像的軸)である人格傾向のことを指すとしよう。ちなみにラカンは、人間皆がパラノ的な葛藤を経て成長することから、パラノイアは人格そのものだというような主張までしている。つまり、ほとんどの人間はパラノ的人格であるということだ。
表面的な人格表出としては、想像界より弱い象徴界を補填するため、多弁であることが多い。小説家や政治家や役者に向いている人格と言えるのではなかろうか。
「権威」のところで話したことに少し戻ると、エディプス期は近い将来の「去勢」(=象徴界への参入)を恐れるので、「父性」という想像的他者に反発する。これは全体の傾向から私が感じたことだ。
一方、スキゾ的人格は(前記事『京極堂シリーズ』書評でも少し述べたが)、その内的動力が象徴界>想像界と不等号の向きが逆になる。生まれつき認識を抽象化する能力が強い幼児ほどそういう傾向に成長するのかもしれない。こういった幼児はエディプス期を恐れることが余りないので、近い将来のそれを恐れる態度の第一次反抗期や、身体的成長を自覚することでエディプス期の再来を恐れて出る態度の第二次反抗期などでの反抗が少ないといった傾向があるのかもしれない。こういった子は自我が弱く育つと言われる。結果引きこもりや自閉的な大人に成長していく傾向ともリンクするのではないだろうか。
彼らは想像的軸が比較的弱いので、無機質のものに人間に対するのと同じぐらいの愛情を注ぐことがある(南方熊楠なら粘菌といった具合に)。また現実に対面する人間とのコミュニケーション能力が抽象化能力と比較して弱い傾向もあるのだろう。なので一般の大人から見たら突飛な行動をすることもあるかもしれない。それがトラウマとなり成長して他人との現実的接触を避ける傾向となることもあるだろう。
しかし象徴界の内的動力(抽象化能力など)は強いので、数学やプログラミングには才能を発揮できるだろう。象徴界が強いということで、折口信夫のいう「類化能力」も長けていると予想されるので、シンボリズムな表現の詩人などに向いているのではなかろうか。小説ならメタフォリカルな詩的小説、幻想小説に(パラノより寡作になるだろうが)向いているのかもしれない。
もちろん、全人類がこれらの人格の必ずどっちかに当てはまるというわけではなく、象徴界と想像界が同じくらい強い人間もいればそうでもない人間もいると思う。
パラノイアが人間誰しも経験する葛藤と同じ内的構図を持っているとするならば、人口的に比較すればパラノ>>スキゾということが理解できるであろう。
さて、ここで二種類のオタクの話に戻ろう。これは私の感覚であるが、一昔前のオタク、「ヘビーオタ」はスキゾ的傾向があったように思う。世間で虐げられても自分の好きな(無機質な対象である)表現に、人間に対して持つのと同じくらいの愛情、執着を持って接する。逆にリアルの人間と接触を持ちたがらない。しかし象徴界は強いので、理論武装は高いレベルにある。想像界が弱いだけなので、ネットの文字だけでのコミュニケーションには不都合がない。ネットに飛びつく。文字だけでの会話でも言葉をシンボルとして捉えられるので、面と向かった会話と同様の濃密さを持った会話が可能であろう(いささかスキゾを持ち上げすぎた文章になってしまったが、スキゾが全面的に優れていると言っているわけではない)。
そういったスキゾ的人間が集っていた、オタク文化。島宇宙化しているとはいえ彼ら独特のネットコミュニケーションで関係を維持し、小さなピラミッドが共存していたところに、マスコミと情報化社会により「オタク」という流行語が頒布され、人口的に「ヘビーオタ」を圧倒するパラノ的な「ライトオタ」がその世界に多数流入してきた。
彼らは自己の正当化のためには多弁になる。数も多い。スキゾ的オタク=「ヘビーオタ」は相対的に声が小さくなる。言語のシンボル的な行間を持つ会話もその抽象化能力の差により成り立ちにくいだろう。またパラノ的な「ライトオタ」は想像界の内的動力が強い。スキゾと比べたら社交的素質があると言えよう。そういった関係の中で、ピラミッドの中層から上層にいた「ヘビーオタ」は「ライトオタ」に語る言葉を失くす。
次にパラノ的な「ライトオタ」視点で話をしてみよう。
「ライトオタ」たちはマクロな環境における、学校教育での「母性過多」と「父性中心」の資本主義社会のギャップによる歪みを経験し、心を癒す表現文化など、現実逃避先(否定的表現だが批判しているわけではない)を求めていた。「オタク」という流行語が広まり、それが母性的な環境にあることを知った彼らは、喜び勇んでその表現文化に参入し始めた。これが90年代ぐらいの話になるだろうか。
現実世界の環境は、情報化社会が一般的浸透した時代。それにより新語が急増し、流行語の時代となっていた。そんな中彼らは多数の新語・流行語を咀嚼する。しかしスキゾより象徴界が弱い彼らは、それをサイン化して咀嚼するしかない。多義性を許容していたら咀嚼しなければならない新語・流行語の意味が倍増するからだ。
また、マクロな大人の社会も資本主義社会で、ロゴス中心主義だ。ロゴスとは誤解を排除する思考方法なので、記号のサイン化は喜んで推奨する。そんな外的環境の中で母性過多な屋内にあるオタク文化。屋内とは言ってもそこに現実的外壁はない。母性過多の屋内で深層心理では父性を求める彼らは屋外の父性の思想、象徴軸上の大文字の他者の言葉に無意識層まで影響される。先客のスキゾ的「ヘビーオタ」はもともと想像界が弱いので大文字の他者からの影響をパラノより受けやすい。「ライトオタ」は彼らの影響も受けるだろう。屋外からも屋内からもロゴス中心主義の影響を無意識層にまで受けることになる。つまり、内的要因からも外的要因からも彼らは象徴界において「記号のサイン化」が加速されていく環境にあるのだ。
「ライトオタ」は想像界の内的動力が強い。本来なら大文字の他者から無意識的なエスへの影響はこの想像的軸が阻害するはずだ。しかし、彼らも「ヘビーオタ」同様「オタク」であることに(サイン的記号の「オタク」という仮面を被ることに)自覚的である。「ライトオタ」は想像的な内的動力の素質を持ちながら、故意に想像的軸の繋がり、目に見え耳に聞こえそこから想像する現実の他者=小文字の他者との繋がりを断っているのだ(前時代の「ヘビーオタ」の行動様式、形式を真似ているという言い方も可能だ)。このことを考えると、いくら想像界の内的動力は強いとはいえ、大文字の他者の影響を阻害する想像的軸は弱くなってしまうこともあるかもしれない。
その結果、サイン化傾向のある大文字の他者としての言語(流行語・新語、資本主義社会的言語を含めた)の影響は、「ライトオタ」の無意識的なエス(主体)に強く及ぶことになるだろう。
これらにより、深層の心性の感動に鈍くなってしまった彼らは、無意識的にそのことを補填するため、周りが「面白い」と言っている作品を「面白い」と思うようになる。彼らは周りが言っているから「面白い」と感じるのだ。このことは最近オタク文化の関係者が、「流行(消費動向)が画一的だ」というような表現で嘆いている状況と合致する。つまり、記号のサイン化と呼べる現状が続く限り、今後はオタク文化内では大ヒットといえる作品はあっても(オタクが右向け右で一斉に支持するため)、エヴァンゲリオンのようなオタク文化の外の、社会的に影響を与えるような作品はでてこないであろう、ということが予想される。ますますオタクに受ける作品と一般との乖離が進むだろう、ということが言えると思う。
もちろん、これらのことは少数派である「ヘビーオタ」にも共鳴的に影響してくる。
以上のモデルはあくまで「傾向としての仮説」である。個人や局所的な傾向では違ったモデルもあるかもしれない。
このモデルを自分で書いていて驚いたのが、解釈の一本化傾向≒記号のサイン化傾向の要因が、内的にも外的にも相乗的に影響しあっているということだ。もちろんこのモデル自体仮説に過ぎないが。しかしこれは、オタク文化のみならず、ポストモダンにおけるそれ以外の表現文化にもあてはめることができそうなモデルではないかと私は思う。
私は記号のサイン化は全体としての表現文化、芸術文化の衰退要因になると考えている。特に言語という記号の芸術である文芸ジャンルではこれが大きく作用してくるだろう。私はこのことについては危機感を感じる。
こういうことを書いても底辺層にいる彼らはピラミッドの上の目指す気がないので、「私たちは底辺でいい」という考えになるだろう。しかしこの記事で述べた環境では、その態度は無意識的に蟻地獄に陥っているようなものだ。記号のサイン化は彼ら自身の表現ジャンルの首を絞めるだけではなく、環境的に考えると全体に影響を及ぼしかねない傾向であるのだ。
以上の論は某サイトにおけるチャットでの議論から生まれたものである。この場を借りて、議論に付き合ってくれたぬりかべさんには深い感謝の意を言わせていただきたいと思います……。
こういったことの諸問題というのは、最近「母性」と「父性」をポスト構造主義的に散種させ多義性化させた言葉として捉え直すと、それらをわかりやすく説明できるのではないかな、と考えるようになりました。
ここはまだ考えがまとまってないので、簡単に流しますが、「母性」をユングの「元型」的に捉えると、「平等」と表裏一体的に「無個性」といった意味を読みとれます。「父性」は前の記事(『京極堂シリーズ』書評)などから、「男性性」的に捉えると、主観を排し論理的思考を尊重する「ロゴス中心主義的社会」、キリスト教神学的・「近代的知」的な「解釈の一本化に向かう力」という意味がイメージされます。
現代教育では「平等」という言葉が、ラカン理論でいう「大文字の他者」として大きな位置を占めているように思えます。一方、「ロゴス中心主義的社会」「解釈の一本化に向かう力」は、「弱肉強食」「格差社会」というイメージのある資本主義社会の形成という結果を生み出しました。
簡単に言いますと、学校教育の時点では、「母性過多」であり、社会に出てしまうといきなり「父性中心」の社会に放り出されるというギャップが日本現代社会にあると思います。「母性過多」には家庭における父性の不在もあるでしょうし、「父性中心」となった社会はロゴス中心主義を推し進めた歴史の必然とも言えるでしょう。なのでこの状況自体を私は批判するつもりはありません。
このギャップが歪んだ形で表出するのが、いじめ問題や、学校における学歴偏重主義と考えれば、何となくすっきりとした形で言葉にできそうな予感が私はしました。
しかし、私は教育問題については、子供もいませんし、自分が語ることに少し臆病になってしまいます。なのでこの辺には思考が及びませんし、この文章がですます調になっているのも、そういう引け目からそうなっているのでしょう。
前置きはこのぐらいにして。
学校問題・教育問題は脇に置いておいて、私は芸術視点で事物を見てしまうことから、最近ではオタク文化に着目している。オタク文化はアニメやマンガ、ライトノベルなど見ればわかるように、表現主体の文化、芸術文化といってよいと考えているからだ。
私は現代のオタク文化は環境が「母性過多」になっているように思う。以前は虐げられていた「オタク」が、最近では電車男やメイド喫茶や麻生大臣のマンガ趣味などがマスコミに取り上げられ、一般人と「平等」に社会で扱われるようになってからは特にそう思える。
この「母性過多」による「父性不足」を無意識的に補おうとしている傾向も読み取れる。『削除ボーイズ』書評でも書いた、アニメ版「時をかける少女」のヒットや、「ネット右翼」と呼ばれるネット世代の若者のブーム的な愛国心尊重傾向だ。ところが、アニメで言えば、「エウレカセブン」という作品には様々な「父性」を体現したキャラが出てくるが、それは若者の深層の心性に届かなかったように思える。そういえば「エヴァンゲリオン」もギリシャ悲劇時代からある王道パターンの「父殺し」的な「父に反発する男子」を題材にとったものだが、それが資本主義社会という「父性」に換喩され、ラストのメタフィクション的な作りと呼応したのであろう。しかし、暗喩的に影響を及ぼしたと言えるかもしれないが、キャラクターとしての碇ゲンドウという「父性」は、キャラクターとしては視聴者の深層の心性に届いていないように思える。これらから、家庭や教育現場での目に見える形の、想像界における「小文字の他者」としての「父性不在」の中で、アニメ「時かけ」や愛国心のようにシンボル的、換喩的な「父性」しか認められないというジレンマが読み取れる。
(エヴァンゲリオンついてはオタク文化における「父殺し」を表現したという考え方も可能だろう。「父殺し」を経た後に「父性」を受け入れるのが通常の「人間的成長」だが、現実の資本主義社会という「父性」が余りにも大きな壁として機能している。加えてラストで主人公は父を殺した、父性を乗り越えたという印象は受けない。これらから、「父性」を受け入れずにそこから逃げ、直後によいタイミングで環境的な「母性」が立ち現れたので、現在のような状況になったのではないか、という流れも読み取れるかもしれない。)
つまり、マクロなポスト近代という視点では、資本主義社会に代表されるような「ロゴス中心主義」的世界への補填として「母性」が求められているが、局所的な「オタク文化」「教育現場」においては「母性過多」による「父性不在」が見て取れるという、複雑な状況に日本現代社会はあると言える。
ここで、以前の記事に書いたオタク文化における「解釈の一本化」という傾向に話を移してみよう。
私は今のオタク文化を様々な表現ジャンルに見られるピラミッド構造ではなく、逆「T」字になっていると表現した。母性に包まれ、「平等」に扱われるようになった「オタク」。ここへ同時に情報化社会がもたらす新語の爆発的増加による「流行語」の時代という背景において、「オタク」という言葉が「流行語」的に広まったいう環境が加わる。これにより、本来ピラミッド型であったオタク文化における表現ジャンルのピラミッド層の底辺が拡大するという現象が起きる(ここで断っておくが、このピラミッドには表現者と受取手という区別はない。もちろん現実的に受取手は自然とピラミッドの下層に多く存在することになるが。この芸術表現のピラミッドにおいて上方向というのは、深層の心性を震わす感動、芸術的普遍性を帯びた感動を目指している方向性、いわゆる名作を生み出す、享受する方向性を指す、という説明をこの場ではしておく)。新語の爆発的増加を背景にした「流行語」たちは、言語としてサイン化傾向を帯びる。もともと言語が増加している状況で、一語に多義的な意味を持つシンボルは一般に浸透しにくい。よってその言葉を受け取る人間は、それをサイン的な言語として咀嚼するしかないのだ。
この急速に拡大するピラミッドの底辺にある彼らは、母性に包まれた環境にいる。バランスを取るために深層心理で父性を求める。この深層心理には資本主義社会という「大文字の他者」の影響も及んでいるだろう。それ以前に小さなピラミッドの中層にいた「昔のオタク」たちは、急激に広まった底辺に対応できない。底辺の彼らも「オタク」という流行語としてそれを受け取っているので、「オタク」という言葉はシンボルというよりサインに近い記号として彼らの自我に作用する。象徴的な「大文字の他者」のシンボル的言語として機能しにくい言葉として捉えられているわけだ。また、この環境、逆「T」字が立つ地面は「母性過多」なので、母性的な「平等」の力が彼らを「無個性」化していく。「昔のオタク」も底辺の「オタク」も、サイン的な「オタク」という記号的な「ペルソナ」を被らざるを得ないのだ。
ここで「ペルソナ」を「仮面」と単に訳すと誤解が生じる。「演劇的知」における「ペルソナ」は、簡単に取り外せるものではない。取り外せても、ペルソナ自体が被る人間の精神にも肉体にも影響してくるのだ。精神的には無意識層にまで影響する場合もあると思う。サイン的な記号としてのペルソナであれば、シンボル記号と比べ、シンボルと同じく曖昧なシニフィエを持つ無意識層への影響は軽微かもしれない。しかし、そのペルソナを「サイン的な記号」というシンボルで捉えれば、精神的・肉体的に自身がサイン的な記号化されていくという状況も考えられる。精神分析的にいうならば、自覚的に流行語的な「オタク」のペルソナを被っているオタクたちは、無意識的なエスまでもが「サイン的な、一義的な記号」化されていく、という影響を受けているのではなかろうか。これは底辺のオタクの無個性化を加速させる要因でもあろう。
こういった影響を無意識層に受けた彼らは、無意識層の奥にある深層の心性を震わせる感動を、それを表現する名作を求めない。いや、深層の心性を震わせる感動(「演劇的知」において、私はこういった感動を表現することを「呪術性」という言葉で表す)に鈍くなっているとも言えるだろう(私自身も現代社会に生きているので、この傾向があるであろうことは否定しない)。自身がピラミッドを形成して上方に向かうことがないのだ。このことは、ライトノベルの作家の卵たちが集う某サイトにおいて、私が彼らの発言から常々感じていることと見事に合致する。
こういった、環境的には「母性過多」「父性不在」、さらにその周りのマクロ環境では「父性中心」な資本主義社会という二重構造の中で、無個性化の傾向がある彼らの「父性」への欲求は内側へ向く。「父性」はペニスで換喩されるように事物を収束させる、一本化する力を示すからだ。しかし、ピラミッド構造では底辺に対し本来「父性」となるべき中層が語る言葉、共有する知を持っていない。中層のオタクは「権威」という「父性」足り得ない。オタク文化にはこの「権威」という「父性」がない。先程述べたように底辺層もそういった上方の「芸術的・表現的知」を持つ権威を求めない。「権威」というものは一般的に「上からの圧力」と換喩される。なので上からの圧力=重力が機能しないオタク文化において、底辺層は中心に集合し、中心にある以前はピラミッドだった層はどんどん細くなり、逆「T」字を形成する結果となるのだ。
このことは、他の芸術から来た私などから見れば、ライトノベルというジャンルは作品群として非常に画一的(サイン的)な自己内ルールが多数あるという印象を受けてしまう事実に合致する。
「権威」は忌むべきものではない。その表現ジャンルにおいて縦の「知」の共有を担う、一つの父性的な表出にすぎないのだ。権威が無いということは、必ずしもその表現ジャンルにおいて幸福な結果をもたらすとは限らない。それを体現しているのがオタク文化という表現文化だと私は考える。オタク文化の中の一つ、ライトノベルという表現ジャンルでは、事物の一本化という父性的知(大文字の他者的父性)に憧憬を持ちながら、「権威」という目に見える形での父性(小文字の他者的父性)を嫌うという、精神分析でいうエディプス期(第一次反抗期)的印象を私は持ってしまう。もちろん、それは先に述べたような様々な環境要因のせいもあるだろうし、表現文化と考えればオタク文化は非常に若い文化であることを考えれば当然のことなのかもしれない。またこのことは先に書いた「父性的キャラクター」が心に届かないという現象とも関連していると言えそうだ。
ここで、「底辺層」という言葉自体に私は意図するものはないが、読者のイメージとしていいものではなさそうなので、ライトなオタクという意味でこれを「ライトオタ」と呼び変える。それ以前に小さなピラミッドを形成していた、虐げられていた時代のオタク層を、「ヘビーオタ」と仮に呼ぼう。
オタキング的世代分けによるならば(東浩紀氏著『動物化するポストモダン』より)、第一、第二世代が「ヘビーオタ」、第三世代以降が「ライトオタ」、つまり一つの傾向として年代で分けるならば、80年前後生まれかどうかで分けられる区分だと思って欲しい(もちろん傾向を読み解くための仮の定義に過ぎないので、これに当てはまらないオタクも多数いるだろう。以下ではそういった意味で「傾向」という言葉を用いる)。
私は今仮に区分したこの二種類の「オタク」について、「スキゾ/パラノ」という、精神医学的な言語を用いて説明を試みてみようと思う。浅田彰氏はこれを精神医学用語から散種させ、人格の二項対立的傾向として用い、その時代を読み解き予言した。そういったところに近い用い方で以下パラノイア的人格=パラノ、スキゾイド的人格=スキゾとしてこの言葉を用いる(一つ注意されたいのは、スキゾイド(分裂病質)≠スキゾフレニー(統合失調症)であり、スキゾイドはスキゾフレニーの人格素因ではなく、無関係であるということを添えておく)。
ラカンの精神分析理論でこの人格を少し掘り下げてみよう。
ラカン理論では、パラノ(的人格)は人格形成そのものということになる。想像界における(小文字の)他者との連帯を目指し(強い仲間意識)、それを正当化するために、またはその中で自分の正当性を証明するために論理的多弁さをもって主張する(強い正義感)。ここに否認による強い挫折感が加われば、精神分析的なパラノイアの病理となる。これは、ラカンの鏡像段階論と符号する。想像界における他者(母親)との幸福な時間に浸っていた幼児が、「父の名」において「去勢」され象徴界に参入するというのが人格形成の段階となるわけだが、これと同じ構図をパラノイアは持っている。つまり、象徴的軸より想像的軸が強い状態で、挫折すればパラノイアの病理となるのだ。ここではパラノ(的人格)は、その内的動力の強さが、象徴界(象徴的軸)<想像界(想像的軸)である人格傾向のことを指すとしよう。ちなみにラカンは、人間皆がパラノ的な葛藤を経て成長することから、パラノイアは人格そのものだというような主張までしている。つまり、ほとんどの人間はパラノ的人格であるということだ。
表面的な人格表出としては、想像界より弱い象徴界を補填するため、多弁であることが多い。小説家や政治家や役者に向いている人格と言えるのではなかろうか。
「権威」のところで話したことに少し戻ると、エディプス期は近い将来の「去勢」(=象徴界への参入)を恐れるので、「父性」という想像的他者に反発する。これは全体の傾向から私が感じたことだ。
一方、スキゾ的人格は(前記事『京極堂シリーズ』書評でも少し述べたが)、その内的動力が象徴界>想像界と不等号の向きが逆になる。生まれつき認識を抽象化する能力が強い幼児ほどそういう傾向に成長するのかもしれない。こういった幼児はエディプス期を恐れることが余りないので、近い将来のそれを恐れる態度の第一次反抗期や、身体的成長を自覚することでエディプス期の再来を恐れて出る態度の第二次反抗期などでの反抗が少ないといった傾向があるのかもしれない。こういった子は自我が弱く育つと言われる。結果引きこもりや自閉的な大人に成長していく傾向ともリンクするのではないだろうか。
彼らは想像的軸が比較的弱いので、無機質のものに人間に対するのと同じぐらいの愛情を注ぐことがある(南方熊楠なら粘菌といった具合に)。また現実に対面する人間とのコミュニケーション能力が抽象化能力と比較して弱い傾向もあるのだろう。なので一般の大人から見たら突飛な行動をすることもあるかもしれない。それがトラウマとなり成長して他人との現実的接触を避ける傾向となることもあるだろう。
しかし象徴界の内的動力(抽象化能力など)は強いので、数学やプログラミングには才能を発揮できるだろう。象徴界が強いということで、折口信夫のいう「類化能力」も長けていると予想されるので、シンボリズムな表現の詩人などに向いているのではなかろうか。小説ならメタフォリカルな詩的小説、幻想小説に(パラノより寡作になるだろうが)向いているのかもしれない。
もちろん、全人類がこれらの人格の必ずどっちかに当てはまるというわけではなく、象徴界と想像界が同じくらい強い人間もいればそうでもない人間もいると思う。
パラノイアが人間誰しも経験する葛藤と同じ内的構図を持っているとするならば、人口的に比較すればパラノ>>スキゾということが理解できるであろう。
さて、ここで二種類のオタクの話に戻ろう。これは私の感覚であるが、一昔前のオタク、「ヘビーオタ」はスキゾ的傾向があったように思う。世間で虐げられても自分の好きな(無機質な対象である)表現に、人間に対して持つのと同じくらいの愛情、執着を持って接する。逆にリアルの人間と接触を持ちたがらない。しかし象徴界は強いので、理論武装は高いレベルにある。想像界が弱いだけなので、ネットの文字だけでのコミュニケーションには不都合がない。ネットに飛びつく。文字だけでの会話でも言葉をシンボルとして捉えられるので、面と向かった会話と同様の濃密さを持った会話が可能であろう(いささかスキゾを持ち上げすぎた文章になってしまったが、スキゾが全面的に優れていると言っているわけではない)。
そういったスキゾ的人間が集っていた、オタク文化。島宇宙化しているとはいえ彼ら独特のネットコミュニケーションで関係を維持し、小さなピラミッドが共存していたところに、マスコミと情報化社会により「オタク」という流行語が頒布され、人口的に「ヘビーオタ」を圧倒するパラノ的な「ライトオタ」がその世界に多数流入してきた。
彼らは自己の正当化のためには多弁になる。数も多い。スキゾ的オタク=「ヘビーオタ」は相対的に声が小さくなる。言語のシンボル的な行間を持つ会話もその抽象化能力の差により成り立ちにくいだろう。またパラノ的な「ライトオタ」は想像界の内的動力が強い。スキゾと比べたら社交的素質があると言えよう。そういった関係の中で、ピラミッドの中層から上層にいた「ヘビーオタ」は「ライトオタ」に語る言葉を失くす。
次にパラノ的な「ライトオタ」視点で話をしてみよう。
「ライトオタ」たちはマクロな環境における、学校教育での「母性過多」と「父性中心」の資本主義社会のギャップによる歪みを経験し、心を癒す表現文化など、現実逃避先(否定的表現だが批判しているわけではない)を求めていた。「オタク」という流行語が広まり、それが母性的な環境にあることを知った彼らは、喜び勇んでその表現文化に参入し始めた。これが90年代ぐらいの話になるだろうか。
現実世界の環境は、情報化社会が一般的浸透した時代。それにより新語が急増し、流行語の時代となっていた。そんな中彼らは多数の新語・流行語を咀嚼する。しかしスキゾより象徴界が弱い彼らは、それをサイン化して咀嚼するしかない。多義性を許容していたら咀嚼しなければならない新語・流行語の意味が倍増するからだ。
また、マクロな大人の社会も資本主義社会で、ロゴス中心主義だ。ロゴスとは誤解を排除する思考方法なので、記号のサイン化は喜んで推奨する。そんな外的環境の中で母性過多な屋内にあるオタク文化。屋内とは言ってもそこに現実的外壁はない。母性過多の屋内で深層心理では父性を求める彼らは屋外の父性の思想、象徴軸上の大文字の他者の言葉に無意識層まで影響される。先客のスキゾ的「ヘビーオタ」はもともと想像界が弱いので大文字の他者からの影響をパラノより受けやすい。「ライトオタ」は彼らの影響も受けるだろう。屋外からも屋内からもロゴス中心主義の影響を無意識層にまで受けることになる。つまり、内的要因からも外的要因からも彼らは象徴界において「記号のサイン化」が加速されていく環境にあるのだ。
「ライトオタ」は想像界の内的動力が強い。本来なら大文字の他者から無意識的なエスへの影響はこの想像的軸が阻害するはずだ。しかし、彼らも「ヘビーオタ」同様「オタク」であることに(サイン的記号の「オタク」という仮面を被ることに)自覚的である。「ライトオタ」は想像的な内的動力の素質を持ちながら、故意に想像的軸の繋がり、目に見え耳に聞こえそこから想像する現実の他者=小文字の他者との繋がりを断っているのだ(前時代の「ヘビーオタ」の行動様式、形式を真似ているという言い方も可能だ)。このことを考えると、いくら想像界の内的動力は強いとはいえ、大文字の他者の影響を阻害する想像的軸は弱くなってしまうこともあるかもしれない。
その結果、サイン化傾向のある大文字の他者としての言語(流行語・新語、資本主義社会的言語を含めた)の影響は、「ライトオタ」の無意識的なエス(主体)に強く及ぶことになるだろう。
これらにより、深層の心性の感動に鈍くなってしまった彼らは、無意識的にそのことを補填するため、周りが「面白い」と言っている作品を「面白い」と思うようになる。彼らは周りが言っているから「面白い」と感じるのだ。このことは最近オタク文化の関係者が、「流行(消費動向)が画一的だ」というような表現で嘆いている状況と合致する。つまり、記号のサイン化と呼べる現状が続く限り、今後はオタク文化内では大ヒットといえる作品はあっても(オタクが右向け右で一斉に支持するため)、エヴァンゲリオンのようなオタク文化の外の、社会的に影響を与えるような作品はでてこないであろう、ということが予想される。ますますオタクに受ける作品と一般との乖離が進むだろう、ということが言えると思う。
もちろん、これらのことは少数派である「ヘビーオタ」にも共鳴的に影響してくる。
以上のモデルはあくまで「傾向としての仮説」である。個人や局所的な傾向では違ったモデルもあるかもしれない。
このモデルを自分で書いていて驚いたのが、解釈の一本化傾向≒記号のサイン化傾向の要因が、内的にも外的にも相乗的に影響しあっているということだ。もちろんこのモデル自体仮説に過ぎないが。しかしこれは、オタク文化のみならず、ポストモダンにおけるそれ以外の表現文化にもあてはめることができそうなモデルではないかと私は思う。
私は記号のサイン化は全体としての表現文化、芸術文化の衰退要因になると考えている。特に言語という記号の芸術である文芸ジャンルではこれが大きく作用してくるだろう。私はこのことについては危機感を感じる。
こういうことを書いても底辺層にいる彼らはピラミッドの上の目指す気がないので、「私たちは底辺でいい」という考えになるだろう。しかしこの記事で述べた環境では、その態度は無意識的に蟻地獄に陥っているようなものだ。記号のサイン化は彼ら自身の表現ジャンルの首を絞めるだけではなく、環境的に考えると全体に影響を及ぼしかねない傾向であるのだ。
以上の論は某サイトにおけるチャットでの議論から生まれたものである。この場を借りて、議論に付き合ってくれたぬりかべさんには深い感謝の意を言わせていただきたいと思います……。