王か奴隷か
2007/10/11/Thu
精神病者より、神経症者の方が、狂気を生きている。同じ狂気を持つ人間が多いから狂気と呼ばれないだけである。
それこそが、「人間」という狂気だ。
他者により人間と認められて、初めて主体は「人間」という称号を受肉する。その他者は数珠繋ぎになっている。他者には、過程はあっても根拠はない。それは、「人間」という称号を与えるシステムに過ぎない。
「人よ、鈍感であれ」という狂気。
この「人間」という狂気にはさまざまな形容詞が当てはまるだろう。たとえば、「健康」。先の文章ならば、「精神病者より、神経症者の方が健康的である」となる。違和感がない。
しかしこの文脈による「健康」は、二重の倒錯を根拠にしている。倒錯を倒錯しているから、健康的なのだ。
=====
健康さは、倒錯が二重であるかぎり二つの契機によって保証される。まず、王殺しなどかつて起りはしなかったかのごとくに振舞いながら、記憶喪失に徹すること。また一方で、忘れられた王殺しにもかかわらず、空位になった王座に誰もが自分を位置づける権利だけはあると確信すること。その二つの契機が、あらゆる人に、自分が始めたわけでもない遊戯の終りを予言する資格を賦与することになるのだが、そのとき未来型に置かれる動詞はすぐさま過去型と混同され、何れにしれても終りを潜在的な主題とするいくつもの短い物語を生産する。
(蓮實重彦氏著『物語批判序説』より)
=====
これを東浩紀氏や大塚英志氏の「大きな物語消失論」と対応させてもよかろう。
ともかく、物語(神話)は、特権的な王が存在しない現代においても、王を希求しているらしい。「物語の主人公たる王」の大衆化である。しかし、潜在的に人は王を欲している。自分が王座に座る可能性を認めながら、誰かが絶対的な王となってくれるのを待ち望んでいる。奴隷になりたがっている。いや、フロイトの原父殺害神話のように、むしろ王は死してこそ法となるのならば、記憶喪失になることで奴隷でいたがっている、と言える。王座に座ることと奴隷であること。このアンビバレントな状態を抑止あるいは固着するための「終り」なのだ。
ラカンによる神経症者についての比喩が想起される。
カマキリのメスは交接の後オスの頭を食べてしまう。自分はカマキリになってしまった。巨大なメスが自分に近寄ってくる。しかし自分がオスかメスかわからない。他者たるメスの欲望がなんなのかわからない。この「わからない」という不安から、神経症者たちは短絡的な答えを求める。即ち、「いっそ」オスになって食べられてしまおう、と思うのだ。
神経症者たちは、メスに食べられるという短絡的な「終り」を求めている。
「大きな物語の消失」に問題があるのではない。「短絡的な終り」を求める神経症者としての現代人に問題があるのだ。「人間」という狂気を信仰する、疑うことを忌避する、「屈託のない」象徴的な自殺志願者たちが、現代の問題なのである。大きな物語の消失など、言い訳に過ぎない。
彼らの希求する「屈託のない終り」こそが、狂気だ。
それこそが、「人間」という狂気だ。
他者により人間と認められて、初めて主体は「人間」という称号を受肉する。その他者は数珠繋ぎになっている。他者には、過程はあっても根拠はない。それは、「人間」という称号を与えるシステムに過ぎない。
「人よ、鈍感であれ」という狂気。
この「人間」という狂気にはさまざまな形容詞が当てはまるだろう。たとえば、「健康」。先の文章ならば、「精神病者より、神経症者の方が健康的である」となる。違和感がない。
しかしこの文脈による「健康」は、二重の倒錯を根拠にしている。倒錯を倒錯しているから、健康的なのだ。
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健康さは、倒錯が二重であるかぎり二つの契機によって保証される。まず、王殺しなどかつて起りはしなかったかのごとくに振舞いながら、記憶喪失に徹すること。また一方で、忘れられた王殺しにもかかわらず、空位になった王座に誰もが自分を位置づける権利だけはあると確信すること。その二つの契機が、あらゆる人に、自分が始めたわけでもない遊戯の終りを予言する資格を賦与することになるのだが、そのとき未来型に置かれる動詞はすぐさま過去型と混同され、何れにしれても終りを潜在的な主題とするいくつもの短い物語を生産する。
(蓮實重彦氏著『物語批判序説』より)
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これを東浩紀氏や大塚英志氏の「大きな物語消失論」と対応させてもよかろう。
ともかく、物語(神話)は、特権的な王が存在しない現代においても、王を希求しているらしい。「物語の主人公たる王」の大衆化である。しかし、潜在的に人は王を欲している。自分が王座に座る可能性を認めながら、誰かが絶対的な王となってくれるのを待ち望んでいる。奴隷になりたがっている。いや、フロイトの原父殺害神話のように、むしろ王は死してこそ法となるのならば、記憶喪失になることで奴隷でいたがっている、と言える。王座に座ることと奴隷であること。このアンビバレントな状態を抑止あるいは固着するための「終り」なのだ。
ラカンによる神経症者についての比喩が想起される。
カマキリのメスは交接の後オスの頭を食べてしまう。自分はカマキリになってしまった。巨大なメスが自分に近寄ってくる。しかし自分がオスかメスかわからない。他者たるメスの欲望がなんなのかわからない。この「わからない」という不安から、神経症者たちは短絡的な答えを求める。即ち、「いっそ」オスになって食べられてしまおう、と思うのだ。
神経症者たちは、メスに食べられるという短絡的な「終り」を求めている。
「大きな物語の消失」に問題があるのではない。「短絡的な終り」を求める神経症者としての現代人に問題があるのだ。「人間」という狂気を信仰する、疑うことを忌避する、「屈託のない」象徴的な自殺志願者たちが、現代の問題なのである。大きな物語の消失など、言い訳に過ぎない。
彼らの希求する「屈託のない終り」こそが、狂気だ。