「母性的な化粧をする父性」とアブジェクシオン
2007/10/19/Fri
ところで、以前の記事であるブログを取り上げ、心理カウンセラー批判をかましたことがあるが、そこでのブログ主の「(精神病の患者の欲動は)無方向的にばらまいている」感があるという言説は、実はわたしは同意できる。この記事でわたしは「物が悪意である」という表現しているが、一次的ナルシシズム即ち自体愛は、自分という大体の器ができているにも関わらず、対象(世界)が未構成な状態である。これを構成化しようとするのが生の欲動であり、クライン派の言う「良い対象が悪い対象を凌駕するための愛情」となる。しかし、未構成の対象にリビドーは備給できない、あるいはし難いだろう。よって内向きになるしかない、となる。
混沌として無方向である、というと死の欲動的に思えるが、パラノイアは自分なりの対象の構成化をやり直している(あるいはズラしている)のであり(自体愛の状態のように対象が未分化的であるとは言わないが)、社会なり他者なりという構成化の基準を持っているわたしたちから見れば、そういう印象にもなるのだろう。精神病とは「反意味の領域」に囚われた症状である、と表現するならば、生も死もない「欲動」と表現しても構わないように思える。
彼なりの構成化をし(「生の欲動をぶつけ」)ているはずなのに、「印象的」に混沌と見えるのが不自然だと感じるのも理解できる。だが、パラノイアは彼なりの構成化を試みているのであって、そういう意味では、問題となった「「おまえ」という方向に向いてるんだよ」というコメントの理屈も理解できる(このコメント者がパラノイア患者であるという意味ではない。念のため)。
要は、「治療者という対象に向かってきちんと表現している」のではなくて、その「きちん」を、彼独自に作り直している状態なのだ。一般人のわたしたちから見ると、「反意味」的な手法をもって。
……あ、いや違うのだ。そういう話をしたいのではない。精神分析の文脈で突き詰めたら、精神病患者に転移は可能か、という話になるのだろうから、わたしみたいな人間がどうこう言う話ではないだろう。転移はできないっていう理屈も、方向性があるっていう理屈もあるし、治療者ではないわたしは、わからないねえ、という感想しか持てない。なので反論があってもスルーしてしまう確率が高いと思う。
一応、ブログ主の文章は面白く読んでいますよー、ということを言いたいのかな。ゲージツ文化視点から言うと、理屈的に心理カウンセラーたちが生み出す狂気に対して批判的になるしかない、という意味でそんな感じの文章を書いてはいますが。まあ、それが転移とか妄想とか思われても別にいいっすよ。ご自由にどうぞってことですね。
要するに、こんな話どうでもいいのですよ。
そのブログのこちらの記事について。記事はまあ置いておいて、コメント欄に注目してみたい。
注目したいのは、
=====
その人の全体からみた主体からすればエスはその一部分に過ぎないわけだし、他の一部分である超自我にとっては素直な生き方ではなくなります。
=====
という言葉である。ここでの「超自我にとっては素直な生き方」というのは、短絡的に言えば、「人間が持つ社会性を望む傾向に素直な生き方」ということになろう。実際後に続くコメントの文脈にも合致する。
ごく単純に言えば、これはエディプスコンプレックスの解消、あるいは去勢の承認となるだろう。承認したがる傾向にも素直になろう、ということである。
いや、正しいのだ。とても正しい認識である。そうやって共産主義的な「美しき労働者」が生産されるのだ。人類が社会というもの(の発展)を希求してきたのは事実であるし、それに素直になろうじゃないか、と言っているわけだ。とても正しい、優等生的な言説であると思う。
しかし、である。
わたしがブログ内で一貫して批判している、オタク文化などの表現文化における記号のサイン化の根拠になる社会的傾向を、この記事では「落ちないイカロス」と表現している。こちらの記事では、彼らは高く飛ばないから、蝋の羽が溶けずに落ちないのだ、と説明している。
高く飛ぶことは、壁を乗り越えることである。この壁とは父性的、(概念としての)法的なものだ。それは、去勢の否認を経験しないと乗り越えられない。去勢の承認は大事ではあるが、フェティシスムという落とし穴に落ちると、去勢の否認を忘れてしまい、その場に留まってしまうことになる。この社会のフェティシスム化が、わたしの視点では表現文化に悪影響を及ぼしているものの根源である、となる。
もちろん、コメント欄の彼らがフェティシストだと言う訳ではない。彼らは去勢の否認的な「反骨精神」の大事さについても触れている。
だが、「そもそも何故わたしは社会的でありたがるのだろうか」という自分に対する問いかけが、彼らには全く欠如しているように窺える。
短絡的に「人は何故社会的でありたがるのか」という問いの答えとなるわけではないが、一つの仮説を取り上げるなら、クリステヴァのアブジェクシオン論になろう。自他未分化的な、原光景的な、魅惑的であると同時におぞましい両価的なものを「棄却」すること。棄却する根拠として「想像的父」という概念を挙げており、これがアガペーである、と彼女は言う。
比喩的に言おう。イカロスたちはそもそも何故空に飛び立とうとするのか。それは、大地で自分を飲み込もうとしているテリブルマザーを畏れるからである。だから彼は空に憧れる。そして二次的に、空を覆う屋根として父が登場し、それを乗り越えよう、同一化しよう、となるのだ。
下から脅すテリブルマザーが、一次的な根拠として存在し、さらに高みに上ろうとする二次的な根拠が、象徴的父だ。
もちろん高く飛べば蝋の羽は溶け、イカロスは落ちてしまう。父により去勢されるわけだ。
現代社会は、上から引っ張り上げようとする象徴的父の力も、下から脅すテリブルマザーの力も弱まっている。いや、そんな天と地があるから現代社会は、「高く飛ばない落ちないイカロス」たちを生産したと言えるかもしれない。
別にいいのだ。個人が高く飛ばないことで落ちないようにするのは構わない。バランス主義的と言えるだろう。それ自体は別に批判しない。
しかし、だ(こればっかりや)。
社会性という言葉をもう一度考えよう。単純に象徴的父の抑圧としての象徴的社会だけではなく、レヴィ=ストロースの言う「真正な社会」としての想像的社会も存在する。これは母性的にならざるを得ない。非象徴として母性的な象徴が連鎖するからである。
離れたところから見る母は、優しく美しいものとなる。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」である。ある程度高いところにいるイカロスたちは、母のテリブルマザー的な本質を見抜けない。大地を畏れなくなる。
そんなちょうどいい高さでたむろするイカロスたちが増えると、どうなるであろうか。そう、その「平面」が優しき母の大地と勘違いしてしまうのだ。イカロス同士が作り上げた幻想を、大地と思い込んでしまうのだ。
こうして、イカロスたちは、糞便にペンキを塗った「美しい大地母神」の上に溜まっていく。幻想の大地で羽を休める。
この幻想の大地は、その高さにいるイカロスたちが多ければ多いほどリアリティが増すだろう。ラカンの「欲望とは他者の欲望である」を引いてもいい。他のイカロスと同じ中途半端な高さで、他のイカロスをフェティッシュ化し、「突然停止した映画のように」留まり続けるだろう。
こうして、この幻想の大地は、どんどん平面化していく。薄っぺらい社会が構成される。他のイカロスと同じ高さにいることが、幻想の優しき母の腕に抱かれることになるのだから。
話を戻そう。
彼らは、何故超自我に従いたがるのか。社会性を求めることに素直になりたがるのか。
簡単に推測できる。彼らのクライアントたるキチ○イに、彼ら自身のテリブルマザーを見出しているからである。
要するに、キ○ガイが「キモイ」「ウザイ」「不快」だから、あるいは両価的に○チガイに惹かれている自分を抑圧しようとしているから、彼らは社会性に寄りかかりたがるのだ。その抑圧を根拠にキチガ○という対象(他人か自分かを問わない)を攻撃したならば、それは境界例の症状と同じものになる。
それを批判するのではない。正しいのだ。○チガイは不快であるし魅力的である。先ほども言ったように、彼らは反意味を生きているのだから。非社会を生きているのだから。想像的にも象徴的にも同一化できないのだから(キチ○イが、ではなくキチガ○を対象とした場合のわたしたちが、である)。言語的自己感もその一段下層の間主観的自己感も揺り動かされるのだから。
わたしが批判したいのは、その不快という感情を「超自我に対して素直」だとか「社会的に許容」だとか、社会性などという抑圧的な父性を人工的かつ母性的な化粧で隠蔽したがっているように見えることだ。
もちろん、「キモイ」「ウザイ」「不快」な感情をそのまま出しても、「クライアントを見下している」とわたしは批判するだろう。それこそまさに境界例の症状である。
じゃあどうすればいいのか? ここでそう思ったあなたは、既に「屈託のない鈍感なフェティシスト」である。
人間誰だってキチガ○なのだ。言葉が悪ければ、人類皆、神経症か精神病か倒錯者なのだ、と言ってもいい。
つまり、自らが他人にとってのキチ○イであるということを、彼らは抑圧あるいは排除しているのだ。
その症状として、「こんなカウンセラーはいやだ」という記事の、「8、カウンセラー自身が病んでいる!」や「11、というかカウンセラー自身がメンヘラーだ!」という言述が生じているのだろう。
彼らは、自分たちが「正しい」と思い込んでいる。頭では「自分だって神経症者なのだ」とわかっているかもしれないが、体でわかっていない。わたしだってわかっていないかもしれない。
しかし、ここで「落ちないイカロス論」を用いるならば、彼らは多数派としての「正しさ」を信じて疑っていないようにわたしには思えるのだ。たくさんのイカロスが同じ高さにいるから、「わたしは正しいのだ」と思ってしまう自分を、わかっていないように思える。キチガ○は少数派だから異常なのだという理屈は正しい。だがそれ自体が、権力化していることに彼らは気づいているのだろうか。多数派としての権力者たる自分を。母性的な化粧をする父性のみっともなさを。
心理カウンセラーは、確かに治療者である。クライアントを「鈍感な一般人化」することが彼らの仕事である。鈍感だから苦しまずにいられるのだ。経験を積むと落ち着きが出る、という比喩ならばわかりやすいだろうか。経験が象徴化され反復されるから、それを鈍感にやり過ごせるのだ。鈍感じゃなければ生きていけないのが人間だ。
そういう鈍感な世界への導き手自体は、わたしは否定しない。
こう考えると、イカロスが高みに上ることは、究極の鈍感を目指すこととなるが、そういった存在も否定しないし、実はこの天と地は、イカロスたちが蚊の大群のように集まっている大体の領域以外の領域という意味で、同じものなのだから、高みに上ること「も」非鈍感化だとわたしは思っている。それ以前に、象徴界そのものが平面であるのだから、上も下も実はないとさえ思っている。平面の世界とそれ以外、というだけ。わたしは「下」に進むけどね。テリブルマザーにペンキを塗りたくる奴らがキショイから。
まあ、理屈や比喩はどうでもいいや。
感情的に言わせてもらおう。この記事で揶揄している薄っぺらいイカロスたちの群れは、心理学ブームもその一因となっている。その担い手たちとしての心理カウンセラーどもに、わたしは自らを糞便化してでも、うんこを投げつけよう。ふわふわ浮遊するイカロスどもに唾を吐きかけよう。そういうことである。
ああ、繰り返すけど個人としてのカウンセラーは別。別でもないけど。下にいるわたしにどの落ちないイカロスが糞尿を撒き散らしているかは特定できないもん。それに少数ならどってことないし。大量にいるから批判している。カウンセリング及び学問以外の場所から見たら、ブームの悪弊をもたらす「ファルス的な」加害者であることを理解して欲しい、ということかな。
コメント欄に「門切り(ママ)ではない言い方で」とあるが、「穏やかでなければならない」強迫神経症者である心理カウンセラーが、あるいはそのカウンセリングが、紋切型主義=記号のサイン化=平面的な社会を助長する一翼を担っていることに気づいたほうがよいだろう。まあフローベールの時代からそういう傾向はあったらしいけど。
あ、あとアブジェクシオンに触れたからついでに。
この記事。かなり昔(ネット的に)の文章みたいだけど、ああもうこういう文章があるから、と思ったので一応。
=====
で、最近の母親の傾向として、子どもを自立させないで、自らの中に取り込んでしまおうというような無自覚な傾向性がかなり強くなってきているんじゃないか、というのが僕の観察の結果、というわけです。
=====
アブジェクトを棄却するのがアブジェクシオンである。彼がどの本を読んだのか知らないが、基本的にこの論は精神分析文脈によって描き出されたものである。つまり、おぞましいと感じる主体の話であって、母親がアブジェクト化しているからイカロスが飛び上がれないなどという理屈は全くナンセンスある。母親には母親のアブジェクシオンがあろう。第三者視点で他人の誰がアブジェクト(キタナイモノ)かと決めつけたがるこの傾向こそが、「短絡化された終わりを希求する屈託のない鈍感な神経症者」であり、「フィクションと現実が区別できていない天使」であり、自分はキタナクナイモノだと思い込みたがる潔癖症者あるいはキ○ガイとしての優等生クンである。むしろ本気で対象をアブジェクトと見做しているのならば、その主体は恐怖症あるいは境界例である、となろう。またそういった患者の苦しみの構造がアブジェクシオン(の反復)である、となる。
自ら(と母(養育者)が未分化的な状態)の中にアブジェクトを見つけ、それを棄却するから、子供は自立するのだ。その時幻想化される導き手が想像的父だ。ちなみにここで言う「子供」とは過程的には前エディプス期の乳児である。アブジェクシオンとはそういう概念なのだ。
従って、「女性がともすれば陥ってしまうような母性のアブジェクシオンが見られなかったからで」なんていうのは明らかに使い方を間違っている。恐らくアブジェクシオンをユングの元型みたいなものだと短絡的に思っているのだろう。アブジェクシオンとは母(養育者)との同一化的主体に生じるものである。この文章をそのまま、彼がアブジェクシオンを誤読していないとして理解するなら、彼はその女性に「乳児期の同一化的な母」を投影し、「アブジェクシオンが見られない」がために、無自覚なあるいは倒錯的なあるいは幼児退行的な母子相姦的欲望に溺れている、ということになる。普通に解釈すれば、要するに彼の言いたいことは、単なる「男の前で女はキタナイ素顔を見せるな」というファロセントリスムである。いや別にファロセントリスム全部を否定するわけじゃないけど。
そもそも「アブジェクト(アブジェクシオンは誤記だと好意的に解釈する)を捨てろ」というのは、肉体を捨てろということと等価である。彼は自分のアブジェクトには目を閉じて他人はキタナイから死ね、と言っていることになる。母と同一化的な乳児にアブジェクトは生じるのであるから、男女問わず誰でもその名残即ち穢れとしての肉体を持っているのだ。「これからの女性に求められると思うのは、知性と女性的な感性の調和ということだ」という考えそのものが、男根中心主義あるいはエディプスコンプレックスへの固着であることに彼は気づけていない。自らのアブジェクシオンに鈍感だからだ。彼こそが母性の肯定的一面しか見れていない、即ち母性から自立できていない、即ち幼児退行的な主体である、という解釈になる。あるいは、「母」というシンボルに自らのアブジェクトを投げつけ、それが権威的に働くことでファリックマザー化した恐怖症である、となる。だから、「子供を自立させない母」という権力的な母親像を幻想してしまうのだ。アブジェクシオンという概念を用いるなら、こういう解釈になってしまう。何故ならアブジェクシオンとは社会的な部族を示すトーテムではなく、語る主体を分析するための道具に過ぎないのだから。
また先の自立云々という引用文は、現代の子供たちのアブジェクシオンが希薄だから、ある意味「早く大人になる」から、アブジェクトに化粧を施し精神的に母親から離れているから、母親を「優しい母親=なんでも許容してくれる母親」だと強迫神経症的に思い込むから、母親から自立できないのである、と書かれるのが正しい。対象(母あるいは養育者)の「自らの中に取り込んでしまおうというような無自覚な傾向性」を主体が察知し、それを「おぞましく」思うから、子供はそこから飛び立とうとするわけだ。
現代の子供が「早く大人になる」というと納得できない方もいるだろうが、まあ文字文化の発達、情報化社会によって、象徴的なものと、現代の子供たちは親近性があるだろう、という話である。大人という言葉に違和感があるなら、言語的自己感に固着しやすい時代になった、と言ってもよい。もっとわかりやすく言うなら、「最近のガキはすれてるねえ」という奴だ。
まあこの文章は一捻り加えてあるけど、彼も母性=キレイナモノと思い込みたがる鈍感な人、即ち正常な人、即ち神経症者であるから、もう一捻りしている現実(精神分析的主体)が見えていない、ということだ。いや多分本当の現実なんて延々と捻くれているんだろうが。他者を短絡化して見ている自分こそをどうしておぞましく思えないかが不思議でならない。ファロセントリックな一貫性と短絡化とは切っても切り離せないものだし、その利便性も否定しないけど。
これを「大人だけど自立できない子供たち」と読み替えれば、まさに「高く飛ばないから落ちないイカロス」となる。なんか社会的ひきこもり≒非スキゾイド型ひきこもり=自己愛型ひきこもりが象徴的に思えるねえ。
あ、わたしはアブジェクトでいいんだけどね。「わたしは糞便である」ってのはそういうこと。
=====
トランス・パーソナル心理学のケン・ウィルバーもいっているように、「前」と「超」ということは混同しやすいけれども、これを同一視しるのはカテゴリー・エラーであると、その混同に警告を発しているようです。
=====
うん、その通り。わたしは「前」=「下」=退行=アブジェクト化してやるよ、ということ。「超」に向かっている、上に昇っているつもりで、実際はただ平面を漂っているだけの、鈍感化しているだけのイカロスたちに唾を吐いて「あげる」ためにね。わざわざ鈍感者たちのコンテクストを用いてまで。わたしってなんて「母性的」。いや、好きでやってるだけだけど。だって生理的に「キモイ」んだもん。落ちないイカロスたちって。
そんな感じー。
なんかわたしの中で寺山アルトーブームが去りつつからか、あんまりうまくアジれてないねえ……。うーむ。いや、がんばってはいるんだけど。
風魔の小次郎の陽炎がよいわあ。麗羅くん思ったより萌えなかったな。もっと頼りない感じ出して欲しかったなあ。
踏まれっぷー!
混沌として無方向である、というと死の欲動的に思えるが、パラノイアは自分なりの対象の構成化をやり直している(あるいはズラしている)のであり(自体愛の状態のように対象が未分化的であるとは言わないが)、社会なり他者なりという構成化の基準を持っているわたしたちから見れば、そういう印象にもなるのだろう。精神病とは「反意味の領域」に囚われた症状である、と表現するならば、生も死もない「欲動」と表現しても構わないように思える。
彼なりの構成化をし(「生の欲動をぶつけ」)ているはずなのに、「印象的」に混沌と見えるのが不自然だと感じるのも理解できる。だが、パラノイアは彼なりの構成化を試みているのであって、そういう意味では、問題となった「「おまえ」という方向に向いてるんだよ」というコメントの理屈も理解できる(このコメント者がパラノイア患者であるという意味ではない。念のため)。
要は、「治療者という対象に向かってきちんと表現している」のではなくて、その「きちん」を、彼独自に作り直している状態なのだ。一般人のわたしたちから見ると、「反意味」的な手法をもって。
……あ、いや違うのだ。そういう話をしたいのではない。精神分析の文脈で突き詰めたら、精神病患者に転移は可能か、という話になるのだろうから、わたしみたいな人間がどうこう言う話ではないだろう。転移はできないっていう理屈も、方向性があるっていう理屈もあるし、治療者ではないわたしは、わからないねえ、という感想しか持てない。なので反論があってもスルーしてしまう確率が高いと思う。
一応、ブログ主の文章は面白く読んでいますよー、ということを言いたいのかな。ゲージツ文化視点から言うと、理屈的に心理カウンセラーたちが生み出す狂気に対して批判的になるしかない、という意味でそんな感じの文章を書いてはいますが。まあ、それが転移とか妄想とか思われても別にいいっすよ。ご自由にどうぞってことですね。
要するに、こんな話どうでもいいのですよ。
そのブログのこちらの記事について。記事はまあ置いておいて、コメント欄に注目してみたい。
注目したいのは、
=====
その人の全体からみた主体からすればエスはその一部分に過ぎないわけだし、他の一部分である超自我にとっては素直な生き方ではなくなります。
=====
という言葉である。ここでの「超自我にとっては素直な生き方」というのは、短絡的に言えば、「人間が持つ社会性を望む傾向に素直な生き方」ということになろう。実際後に続くコメントの文脈にも合致する。
ごく単純に言えば、これはエディプスコンプレックスの解消、あるいは去勢の承認となるだろう。承認したがる傾向にも素直になろう、ということである。
いや、正しいのだ。とても正しい認識である。そうやって共産主義的な「美しき労働者」が生産されるのだ。人類が社会というもの(の発展)を希求してきたのは事実であるし、それに素直になろうじゃないか、と言っているわけだ。とても正しい、優等生的な言説であると思う。
しかし、である。
わたしがブログ内で一貫して批判している、オタク文化などの表現文化における記号のサイン化の根拠になる社会的傾向を、この記事では「落ちないイカロス」と表現している。こちらの記事では、彼らは高く飛ばないから、蝋の羽が溶けずに落ちないのだ、と説明している。
高く飛ぶことは、壁を乗り越えることである。この壁とは父性的、(概念としての)法的なものだ。それは、去勢の否認を経験しないと乗り越えられない。去勢の承認は大事ではあるが、フェティシスムという落とし穴に落ちると、去勢の否認を忘れてしまい、その場に留まってしまうことになる。この社会のフェティシスム化が、わたしの視点では表現文化に悪影響を及ぼしているものの根源である、となる。
もちろん、コメント欄の彼らがフェティシストだと言う訳ではない。彼らは去勢の否認的な「反骨精神」の大事さについても触れている。
だが、「そもそも何故わたしは社会的でありたがるのだろうか」という自分に対する問いかけが、彼らには全く欠如しているように窺える。
短絡的に「人は何故社会的でありたがるのか」という問いの答えとなるわけではないが、一つの仮説を取り上げるなら、クリステヴァのアブジェクシオン論になろう。自他未分化的な、原光景的な、魅惑的であると同時におぞましい両価的なものを「棄却」すること。棄却する根拠として「想像的父」という概念を挙げており、これがアガペーである、と彼女は言う。
比喩的に言おう。イカロスたちはそもそも何故空に飛び立とうとするのか。それは、大地で自分を飲み込もうとしているテリブルマザーを畏れるからである。だから彼は空に憧れる。そして二次的に、空を覆う屋根として父が登場し、それを乗り越えよう、同一化しよう、となるのだ。
下から脅すテリブルマザーが、一次的な根拠として存在し、さらに高みに上ろうとする二次的な根拠が、象徴的父だ。
もちろん高く飛べば蝋の羽は溶け、イカロスは落ちてしまう。父により去勢されるわけだ。
現代社会は、上から引っ張り上げようとする象徴的父の力も、下から脅すテリブルマザーの力も弱まっている。いや、そんな天と地があるから現代社会は、「高く飛ばない落ちないイカロス」たちを生産したと言えるかもしれない。
別にいいのだ。個人が高く飛ばないことで落ちないようにするのは構わない。バランス主義的と言えるだろう。それ自体は別に批判しない。
しかし、だ(こればっかりや)。
社会性という言葉をもう一度考えよう。単純に象徴的父の抑圧としての象徴的社会だけではなく、レヴィ=ストロースの言う「真正な社会」としての想像的社会も存在する。これは母性的にならざるを得ない。非象徴として母性的な象徴が連鎖するからである。
離れたところから見る母は、優しく美しいものとなる。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」である。ある程度高いところにいるイカロスたちは、母のテリブルマザー的な本質を見抜けない。大地を畏れなくなる。
そんなちょうどいい高さでたむろするイカロスたちが増えると、どうなるであろうか。そう、その「平面」が優しき母の大地と勘違いしてしまうのだ。イカロス同士が作り上げた幻想を、大地と思い込んでしまうのだ。
こうして、イカロスたちは、糞便にペンキを塗った「美しい大地母神」の上に溜まっていく。幻想の大地で羽を休める。
この幻想の大地は、その高さにいるイカロスたちが多ければ多いほどリアリティが増すだろう。ラカンの「欲望とは他者の欲望である」を引いてもいい。他のイカロスと同じ中途半端な高さで、他のイカロスをフェティッシュ化し、「突然停止した映画のように」留まり続けるだろう。
こうして、この幻想の大地は、どんどん平面化していく。薄っぺらい社会が構成される。他のイカロスと同じ高さにいることが、幻想の優しき母の腕に抱かれることになるのだから。
話を戻そう。
彼らは、何故超自我に従いたがるのか。社会性を求めることに素直になりたがるのか。
簡単に推測できる。彼らのクライアントたるキチ○イに、彼ら自身のテリブルマザーを見出しているからである。
要するに、キ○ガイが「キモイ」「ウザイ」「不快」だから、あるいは両価的に○チガイに惹かれている自分を抑圧しようとしているから、彼らは社会性に寄りかかりたがるのだ。その抑圧を根拠にキチガ○という対象(他人か自分かを問わない)を攻撃したならば、それは境界例の症状と同じものになる。
それを批判するのではない。正しいのだ。○チガイは不快であるし魅力的である。先ほども言ったように、彼らは反意味を生きているのだから。非社会を生きているのだから。想像的にも象徴的にも同一化できないのだから(キチ○イが、ではなくキチガ○を対象とした場合のわたしたちが、である)。言語的自己感もその一段下層の間主観的自己感も揺り動かされるのだから。
わたしが批判したいのは、その不快という感情を「超自我に対して素直」だとか「社会的に許容」だとか、社会性などという抑圧的な父性を人工的かつ母性的な化粧で隠蔽したがっているように見えることだ。
もちろん、「キモイ」「ウザイ」「不快」な感情をそのまま出しても、「クライアントを見下している」とわたしは批判するだろう。それこそまさに境界例の症状である。
じゃあどうすればいいのか? ここでそう思ったあなたは、既に「屈託のない鈍感なフェティシスト」である。
人間誰だってキチガ○なのだ。言葉が悪ければ、人類皆、神経症か精神病か倒錯者なのだ、と言ってもいい。
つまり、自らが他人にとってのキチ○イであるということを、彼らは抑圧あるいは排除しているのだ。
その症状として、「こんなカウンセラーはいやだ」という記事の、「8、カウンセラー自身が病んでいる!」や「11、というかカウンセラー自身がメンヘラーだ!」という言述が生じているのだろう。
彼らは、自分たちが「正しい」と思い込んでいる。頭では「自分だって神経症者なのだ」とわかっているかもしれないが、体でわかっていない。わたしだってわかっていないかもしれない。
しかし、ここで「落ちないイカロス論」を用いるならば、彼らは多数派としての「正しさ」を信じて疑っていないようにわたしには思えるのだ。たくさんのイカロスが同じ高さにいるから、「わたしは正しいのだ」と思ってしまう自分を、わかっていないように思える。キチガ○は少数派だから異常なのだという理屈は正しい。だがそれ自体が、権力化していることに彼らは気づいているのだろうか。多数派としての権力者たる自分を。母性的な化粧をする父性のみっともなさを。
心理カウンセラーは、確かに治療者である。クライアントを「鈍感な一般人化」することが彼らの仕事である。鈍感だから苦しまずにいられるのだ。経験を積むと落ち着きが出る、という比喩ならばわかりやすいだろうか。経験が象徴化され反復されるから、それを鈍感にやり過ごせるのだ。鈍感じゃなければ生きていけないのが人間だ。
そういう鈍感な世界への導き手自体は、わたしは否定しない。
こう考えると、イカロスが高みに上ることは、究極の鈍感を目指すこととなるが、そういった存在も否定しないし、実はこの天と地は、イカロスたちが蚊の大群のように集まっている大体の領域以外の領域という意味で、同じものなのだから、高みに上ること「も」非鈍感化だとわたしは思っている。それ以前に、象徴界そのものが平面であるのだから、上も下も実はないとさえ思っている。平面の世界とそれ以外、というだけ。わたしは「下」に進むけどね。テリブルマザーにペンキを塗りたくる奴らがキショイから。
まあ、理屈や比喩はどうでもいいや。
感情的に言わせてもらおう。この記事で揶揄している薄っぺらいイカロスたちの群れは、心理学ブームもその一因となっている。その担い手たちとしての心理カウンセラーどもに、わたしは自らを糞便化してでも、うんこを投げつけよう。ふわふわ浮遊するイカロスどもに唾を吐きかけよう。そういうことである。
ああ、繰り返すけど個人としてのカウンセラーは別。別でもないけど。下にいるわたしにどの落ちないイカロスが糞尿を撒き散らしているかは特定できないもん。それに少数ならどってことないし。大量にいるから批判している。カウンセリング及び学問以外の場所から見たら、ブームの悪弊をもたらす「ファルス的な」加害者であることを理解して欲しい、ということかな。
コメント欄に「門切り(ママ)ではない言い方で」とあるが、「穏やかでなければならない」強迫神経症者である心理カウンセラーが、あるいはそのカウンセリングが、紋切型主義=記号のサイン化=平面的な社会を助長する一翼を担っていることに気づいたほうがよいだろう。まあフローベールの時代からそういう傾向はあったらしいけど。
あ、あとアブジェクシオンに触れたからついでに。
この記事。かなり昔(ネット的に)の文章みたいだけど、ああもうこういう文章があるから、と思ったので一応。
=====
で、最近の母親の傾向として、子どもを自立させないで、自らの中に取り込んでしまおうというような無自覚な傾向性がかなり強くなってきているんじゃないか、というのが僕の観察の結果、というわけです。
=====
アブジェクトを棄却するのがアブジェクシオンである。彼がどの本を読んだのか知らないが、基本的にこの論は精神分析文脈によって描き出されたものである。つまり、おぞましいと感じる主体の話であって、母親がアブジェクト化しているからイカロスが飛び上がれないなどという理屈は全くナンセンスある。母親には母親のアブジェクシオンがあろう。第三者視点で他人の誰がアブジェクト(キタナイモノ)かと決めつけたがるこの傾向こそが、「短絡化された終わりを希求する屈託のない鈍感な神経症者」であり、「フィクションと現実が区別できていない天使」であり、自分はキタナクナイモノだと思い込みたがる潔癖症者あるいはキ○ガイとしての優等生クンである。むしろ本気で対象をアブジェクトと見做しているのならば、その主体は恐怖症あるいは境界例である、となろう。またそういった患者の苦しみの構造がアブジェクシオン(の反復)である、となる。
自ら(と母(養育者)が未分化的な状態)の中にアブジェクトを見つけ、それを棄却するから、子供は自立するのだ。その時幻想化される導き手が想像的父だ。ちなみにここで言う「子供」とは過程的には前エディプス期の乳児である。アブジェクシオンとはそういう概念なのだ。
従って、「女性がともすれば陥ってしまうような母性のアブジェクシオンが見られなかったからで」なんていうのは明らかに使い方を間違っている。恐らくアブジェクシオンをユングの元型みたいなものだと短絡的に思っているのだろう。アブジェクシオンとは母(養育者)との同一化的主体に生じるものである。この文章をそのまま、彼がアブジェクシオンを誤読していないとして理解するなら、彼はその女性に「乳児期の同一化的な母」を投影し、「アブジェクシオンが見られない」がために、無自覚なあるいは倒錯的なあるいは幼児退行的な母子相姦的欲望に溺れている、ということになる。普通に解釈すれば、要するに彼の言いたいことは、単なる「男の前で女はキタナイ素顔を見せるな」というファロセントリスムである。いや別にファロセントリスム全部を否定するわけじゃないけど。
そもそも「アブジェクト(アブジェクシオンは誤記だと好意的に解釈する)を捨てろ」というのは、肉体を捨てろということと等価である。彼は自分のアブジェクトには目を閉じて他人はキタナイから死ね、と言っていることになる。母と同一化的な乳児にアブジェクトは生じるのであるから、男女問わず誰でもその名残即ち穢れとしての肉体を持っているのだ。「これからの女性に求められると思うのは、知性と女性的な感性の調和ということだ」という考えそのものが、男根中心主義あるいはエディプスコンプレックスへの固着であることに彼は気づけていない。自らのアブジェクシオンに鈍感だからだ。彼こそが母性の肯定的一面しか見れていない、即ち母性から自立できていない、即ち幼児退行的な主体である、という解釈になる。あるいは、「母」というシンボルに自らのアブジェクトを投げつけ、それが権威的に働くことでファリックマザー化した恐怖症である、となる。だから、「子供を自立させない母」という権力的な母親像を幻想してしまうのだ。アブジェクシオンという概念を用いるなら、こういう解釈になってしまう。何故ならアブジェクシオンとは社会的な部族を示すトーテムではなく、語る主体を分析するための道具に過ぎないのだから。
また先の自立云々という引用文は、現代の子供たちのアブジェクシオンが希薄だから、ある意味「早く大人になる」から、アブジェクトに化粧を施し精神的に母親から離れているから、母親を「優しい母親=なんでも許容してくれる母親」だと強迫神経症的に思い込むから、母親から自立できないのである、と書かれるのが正しい。対象(母あるいは養育者)の「自らの中に取り込んでしまおうというような無自覚な傾向性」を主体が察知し、それを「おぞましく」思うから、子供はそこから飛び立とうとするわけだ。
現代の子供が「早く大人になる」というと納得できない方もいるだろうが、まあ文字文化の発達、情報化社会によって、象徴的なものと、現代の子供たちは親近性があるだろう、という話である。大人という言葉に違和感があるなら、言語的自己感に固着しやすい時代になった、と言ってもよい。もっとわかりやすく言うなら、「最近のガキはすれてるねえ」という奴だ。
まあこの文章は一捻り加えてあるけど、彼も母性=キレイナモノと思い込みたがる鈍感な人、即ち正常な人、即ち神経症者であるから、もう一捻りしている現実(精神分析的主体)が見えていない、ということだ。いや多分本当の現実なんて延々と捻くれているんだろうが。他者を短絡化して見ている自分こそをどうしておぞましく思えないかが不思議でならない。ファロセントリックな一貫性と短絡化とは切っても切り離せないものだし、その利便性も否定しないけど。
これを「大人だけど自立できない子供たち」と読み替えれば、まさに「高く飛ばないから落ちないイカロス」となる。なんか社会的ひきこもり≒非スキゾイド型ひきこもり=自己愛型ひきこもりが象徴的に思えるねえ。
あ、わたしはアブジェクトでいいんだけどね。「わたしは糞便である」ってのはそういうこと。
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トランス・パーソナル心理学のケン・ウィルバーもいっているように、「前」と「超」ということは混同しやすいけれども、これを同一視しるのはカテゴリー・エラーであると、その混同に警告を発しているようです。
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うん、その通り。わたしは「前」=「下」=退行=アブジェクト化してやるよ、ということ。「超」に向かっている、上に昇っているつもりで、実際はただ平面を漂っているだけの、鈍感化しているだけのイカロスたちに唾を吐いて「あげる」ためにね。わざわざ鈍感者たちのコンテクストを用いてまで。わたしってなんて「母性的」。いや、好きでやってるだけだけど。だって生理的に「キモイ」んだもん。落ちないイカロスたちって。
そんな感じー。
なんかわたしの中で寺山アルトーブームが去りつつからか、あんまりうまくアジれてないねえ……。うーむ。いや、がんばってはいるんだけど。
風魔の小次郎の陽炎がよいわあ。麗羅くん思ったより萌えなかったな。もっと頼りない感じ出して欲しかったなあ。
踏まれっぷー!