芸術の普遍性
2006/11/18/Sat
私は「芸術性」という言葉が好きじゃない。
前の記事で、私は芸術というものは表現者と受け取り手の間に浮かび上がる「現象」だと考える、と書いた。
再現性の低い「現象」を、定性的に捉えるという意味で「芸術性」というのはわかる。しかし、定性的は性質を定める、つまりその時の性質を一定に定めるという考えになる。AとBという性質があったとき、その間の性質をまたCと名付ける。こういう物理学的・細分化的思考法で連続する状態を見定めるというものだ。この思考法で芸術を捉えると、逆に本質から遠ざかってしまう。
かといって全体を見ろ、という話ではない。確かに芸術には現実世界でいう始まりも終わりもある。演劇なら開演と終演がある。しかし、その演劇でその瞬間に感じた感動は永遠なのだ。まさに仏教的な「瞬間が永遠、永遠が瞬間」なのである。その一つの瞬間に、時間軸を超えた世界と同一化するのが芸術の向かうべき本質である。そこには他人もなければ過去もない。人類が「知」を備えた瞬間の状態、または赤子が生まれた瞬間の状態という比喩になるだろうか(しかしその感動を表現するためには「他人」と「過去」が必要になる。そういった矛盾を内在しているのが芸術だ)。こう書くと、細分化でもよさそうに思えるが、その一瞬は受取手によって違う。観測者によってその一瞬が違うわけだ。そんなものをどうやって定性化すればよいのか。
違う比喩でいうなら、その永遠は普遍的な美を発見したときの感覚になるだろうか。それを言葉にできたとしたら黄金率や白銀率のような「美の法則」になるだろう。そういった比喩で考えるなら、私は「芸術性」という言葉の代わりに、とりあえずという感覚で「普遍性」という言葉を用いる。
しかし注意しなければならないのは、「芸術」=「普遍性」ではないということだ。「普遍性」は永遠に辿り着けないゴールである「究極・永遠の美・感動」に向かうための「手段」でしかない。「芸術」=「普遍性」という考え方は、キリスト教が神=ロゴスと考え、ロゴスにより「父と子と聖霊」という三位一体の中の、「聖霊」をどんどん脇に追いやってしまって、本来純粋なシニフィアンである「聖霊」を多義化、一義化しようとしてしまったことに似ている。本来手段である「ロゴス」を「神」と絶対的同一化させてしまったのだ。そのロゴスから生まれた「子」である「哲学」、それから発生した「科学」にキリスト教は殺されてしまった。本来三位一体であるべき「聖霊」を抑圧したがために「父殺し」という原罪の中に陥ってしまったのだ。これを違った視点でみれば、これはまさに「父殺し」という物語の「普遍性」を表す一例ではなかろうか、と言うこともできる。父殺しを犯した「科学」により、「聖霊」は純粋なシニフィアン=究極のシンボルから、意味がゼロ化した記号へと堕してしまった。ゼロといっても「有」の影としての「無」という意味もない。意味を持たなければ記号にも意味がなくなってしまう。
次に、ロゴスと芸術の関係性について話を移そう。
私は、現代のロゴス中心主義社会において、芸術とロゴスは相性が悪い環境になっていると思う。ロゴス中心主義では本来手段であるはずのロゴスが神のように絶対視されてしまう。言葉というメディアに限れば、ロゴスの絶対化による人類の志向が、記号のサイン化傾向の原動力となっている。かといって芸術が死ぬわけでもないと思う。先程「父殺し」と書いてしまったが、キリスト教は未だ生きている。ロゴスを光と考えるなら、光あるところには、その光を享受する物体があれば、そこには必ず影ができる。闇は無くならないのと同じ関係性で芸術、宗教は死なないと私は考える。
前の記事でロゴス中心主義社会は父性的社会だと表現した。ロゴス志向、父性的だから解釈の一本化→記号のサイン化に繋がると書いた。ロゴスは誤解を排除する思考法だ。結果、物理学的な事物を細分化していく思考傾向になる。芸術にもそういう考えが浸透している感はある。例えば、芸術文化論的視点に立てば、ライトノベルのようなジャンルの細分化や、サブカルチャーを表現文化として捉えた場合も、芸術文化の細分化と言える。
しかし、細分化に向かう志向の源は「父性」であるが、それを育てる土壌は「母性」といえる。細分化された事物を「平等」に受け入れる土壌がないと細分化は進まないからだ。細分化が進むと「平等」の裏返しである「無個性化」が起きる。これは人間の自我にしてみれば「負」の方向だ。そこで、細分化したものを一本化しようとする「父性」が「母性」の中から立ち上がる。能力の秀でた「父性」が細分化された「他」を統合していく。男根主義と言ってもよい。しかしペニスを包み込むのは女性器だ。それらの結合により生まれた「子」は巨大な男根である「父性」を恐れると同時に「母性」という「父」と「平等」扱ってくれるものの二者の中で成長する。成長した子は「父性」を超えるために、理解するために、「父性」を細分化する。「父殺し」だ。「母性」は解体できない。何故なら「母性」の「平等」の元で許される行為だからだ。こうして気付けば「子」は「父性」となっている。ここでいう「母性」を「聖霊」と捉えるなら、これはキリスト教的三位一体に通じるものがある。また、永遠に繰り返されることを考えれば(先述の光と闇の関係になぞらえるなら)、仏教の無限回廊的思想にも繋がる。
つまり、何が言いたいのかというと、「芸術」自身が人間のそれに通ずる「普遍性」を備えているということだ。人類が種としての「普遍性」を本能的に希求するのと同じように、「芸術」自身が備える「普遍性」が換喩され、人は「芸術」に惹かれ、「芸術」を求めるのだ。
うーん、我ながら惚れ惚れするデンパな文章だ(笑)。つっても適当に書いたわけじゃないですが。
んで、突然話が変わりますが、最近の若者は「芸術」という言葉を恐れている感じがするのですね。まあ学校教育の教え方が悪くて、その固定観念に囚われているだけといえばそうなんでしょうけど。そんな中ライトノベル作家を目指す卵たちは、「芸術」=「純文学」を父性的に捉え、ジャンルとしての第一次反抗期的な空気と自己を同一化させてしまって、純文学を「父性的」に恐れているのかなあ、という印象を私は持っています。それも目に見える形の「父性」、つまり(擬人化するなりした)イメージ的な小文字の他者的な「父性」として「芸術」を捉えているのですね。少し議論したことがあるのですが、彼らはシンボルの言葉として「芸術」を捉えていないのです。前の記事で書いた「権威」と同じような意味として「芸術」を捉えているのですね。まあこれも記号のサイン化といえばそうなのかもしれませんが。どっちかというと散種の多義性への転倒的なイメージですね。擬人化のような感じでイメージ的な小文字の他者的な言葉になっているのです。だから象徴界での自問自答というより、想像界における反抗の仕方になっている印象があります。「芸術」や「権威」といった言葉を擬人化=小文字の他者化という散種的な読み方をしてしまったので、それ以降複雑系的な散種が起きないのですね。
簡単にいうと、曖昧なシニフィエをもつシニフィアンは、元々サイン化されにくい。しかし、今のオタクたちは、そういった言葉を一旦「擬人化」することで、それ以上の散種を停止している、思考停止ならぬ散種停止状態になってしまっているということです。
彼らは擬人化された「芸術」や「権威」という言葉に対し、画一的なイメージを持ってしまっているように思います。前の記事で書いたパラノ的オタクにこういった感じが強い印象がありますね。現在このような感覚が多数派のように思えますし。
こういう小文字の他者的な父性への恐れっていうのは、若者のトラウマに原因があるんじゃないかなあ、と思ったのですが、家庭には目に見える父性はないんですよね。むしろ、エディプス期で「去勢」を行う「父」という名(シンボル)を体現する想像的な父性がいないせいで、それになれていない、曖昧な怪物として思えてしまっているのかなあ、という印象があります。だから代わりに言葉をイメージ化させているような感じです。
大文字の他者的な父性は許容し、希求するくせに、イメージ的な小文字の他者には反発する。この第一次反抗期的なオタク文化の特徴は、少し根が深いものなのかもしれません。
東浩紀氏はオタクはアニメのような「イメージ」を「シンボル」として捉えているのではないか、アニメを「読んでいる」のではないか、という言説をしていました。私は「シンボル」ではなく、「サイン」化傾向のある記号としてオタクはアニメを「読んでいる」と思っています。
先に書いた話は、その逆にサイン化された言語を「イメージ」として捉えていることもあるのではないか、という私の印象を具体的に示したものなのです。ラカン理論でいうと、シンボルのサイン化という力により、大文字の他者と小文字の他者の間に連絡通路が出来てしまっている、というイメージでしょうか。または、中文字の他者的なもの(サイン化された言語、イメージ)だとか。
何かこう考えると、オタクという人種は、SFチックな現実世界が仮想現実に置き換わる未来に適応した人種ではなかろうか、なんて妙な印象を持ってしまいました……。
前の記事で、私は芸術というものは表現者と受け取り手の間に浮かび上がる「現象」だと考える、と書いた。
再現性の低い「現象」を、定性的に捉えるという意味で「芸術性」というのはわかる。しかし、定性的は性質を定める、つまりその時の性質を一定に定めるという考えになる。AとBという性質があったとき、その間の性質をまたCと名付ける。こういう物理学的・細分化的思考法で連続する状態を見定めるというものだ。この思考法で芸術を捉えると、逆に本質から遠ざかってしまう。
かといって全体を見ろ、という話ではない。確かに芸術には現実世界でいう始まりも終わりもある。演劇なら開演と終演がある。しかし、その演劇でその瞬間に感じた感動は永遠なのだ。まさに仏教的な「瞬間が永遠、永遠が瞬間」なのである。その一つの瞬間に、時間軸を超えた世界と同一化するのが芸術の向かうべき本質である。そこには他人もなければ過去もない。人類が「知」を備えた瞬間の状態、または赤子が生まれた瞬間の状態という比喩になるだろうか(しかしその感動を表現するためには「他人」と「過去」が必要になる。そういった矛盾を内在しているのが芸術だ)。こう書くと、細分化でもよさそうに思えるが、その一瞬は受取手によって違う。観測者によってその一瞬が違うわけだ。そんなものをどうやって定性化すればよいのか。
違う比喩でいうなら、その永遠は普遍的な美を発見したときの感覚になるだろうか。それを言葉にできたとしたら黄金率や白銀率のような「美の法則」になるだろう。そういった比喩で考えるなら、私は「芸術性」という言葉の代わりに、とりあえずという感覚で「普遍性」という言葉を用いる。
しかし注意しなければならないのは、「芸術」=「普遍性」ではないということだ。「普遍性」は永遠に辿り着けないゴールである「究極・永遠の美・感動」に向かうための「手段」でしかない。「芸術」=「普遍性」という考え方は、キリスト教が神=ロゴスと考え、ロゴスにより「父と子と聖霊」という三位一体の中の、「聖霊」をどんどん脇に追いやってしまって、本来純粋なシニフィアンである「聖霊」を多義化、一義化しようとしてしまったことに似ている。本来手段である「ロゴス」を「神」と絶対的同一化させてしまったのだ。そのロゴスから生まれた「子」である「哲学」、それから発生した「科学」にキリスト教は殺されてしまった。本来三位一体であるべき「聖霊」を抑圧したがために「父殺し」という原罪の中に陥ってしまったのだ。これを違った視点でみれば、これはまさに「父殺し」という物語の「普遍性」を表す一例ではなかろうか、と言うこともできる。父殺しを犯した「科学」により、「聖霊」は純粋なシニフィアン=究極のシンボルから、意味がゼロ化した記号へと堕してしまった。ゼロといっても「有」の影としての「無」という意味もない。意味を持たなければ記号にも意味がなくなってしまう。
次に、ロゴスと芸術の関係性について話を移そう。
私は、現代のロゴス中心主義社会において、芸術とロゴスは相性が悪い環境になっていると思う。ロゴス中心主義では本来手段であるはずのロゴスが神のように絶対視されてしまう。言葉というメディアに限れば、ロゴスの絶対化による人類の志向が、記号のサイン化傾向の原動力となっている。かといって芸術が死ぬわけでもないと思う。先程「父殺し」と書いてしまったが、キリスト教は未だ生きている。ロゴスを光と考えるなら、光あるところには、その光を享受する物体があれば、そこには必ず影ができる。闇は無くならないのと同じ関係性で芸術、宗教は死なないと私は考える。
前の記事でロゴス中心主義社会は父性的社会だと表現した。ロゴス志向、父性的だから解釈の一本化→記号のサイン化に繋がると書いた。ロゴスは誤解を排除する思考法だ。結果、物理学的な事物を細分化していく思考傾向になる。芸術にもそういう考えが浸透している感はある。例えば、芸術文化論的視点に立てば、ライトノベルのようなジャンルの細分化や、サブカルチャーを表現文化として捉えた場合も、芸術文化の細分化と言える。
しかし、細分化に向かう志向の源は「父性」であるが、それを育てる土壌は「母性」といえる。細分化された事物を「平等」に受け入れる土壌がないと細分化は進まないからだ。細分化が進むと「平等」の裏返しである「無個性化」が起きる。これは人間の自我にしてみれば「負」の方向だ。そこで、細分化したものを一本化しようとする「父性」が「母性」の中から立ち上がる。能力の秀でた「父性」が細分化された「他」を統合していく。男根主義と言ってもよい。しかしペニスを包み込むのは女性器だ。それらの結合により生まれた「子」は巨大な男根である「父性」を恐れると同時に「母性」という「父」と「平等」扱ってくれるものの二者の中で成長する。成長した子は「父性」を超えるために、理解するために、「父性」を細分化する。「父殺し」だ。「母性」は解体できない。何故なら「母性」の「平等」の元で許される行為だからだ。こうして気付けば「子」は「父性」となっている。ここでいう「母性」を「聖霊」と捉えるなら、これはキリスト教的三位一体に通じるものがある。また、永遠に繰り返されることを考えれば(先述の光と闇の関係になぞらえるなら)、仏教の無限回廊的思想にも繋がる。
つまり、何が言いたいのかというと、「芸術」自身が人間のそれに通ずる「普遍性」を備えているということだ。人類が種としての「普遍性」を本能的に希求するのと同じように、「芸術」自身が備える「普遍性」が換喩され、人は「芸術」に惹かれ、「芸術」を求めるのだ。
うーん、我ながら惚れ惚れするデンパな文章だ(笑)。つっても適当に書いたわけじゃないですが。
んで、突然話が変わりますが、最近の若者は「芸術」という言葉を恐れている感じがするのですね。まあ学校教育の教え方が悪くて、その固定観念に囚われているだけといえばそうなんでしょうけど。そんな中ライトノベル作家を目指す卵たちは、「芸術」=「純文学」を父性的に捉え、ジャンルとしての第一次反抗期的な空気と自己を同一化させてしまって、純文学を「父性的」に恐れているのかなあ、という印象を私は持っています。それも目に見える形の「父性」、つまり(擬人化するなりした)イメージ的な小文字の他者的な「父性」として「芸術」を捉えているのですね。少し議論したことがあるのですが、彼らはシンボルの言葉として「芸術」を捉えていないのです。前の記事で書いた「権威」と同じような意味として「芸術」を捉えているのですね。まあこれも記号のサイン化といえばそうなのかもしれませんが。どっちかというと散種の多義性への転倒的なイメージですね。擬人化のような感じでイメージ的な小文字の他者的な言葉になっているのです。だから象徴界での自問自答というより、想像界における反抗の仕方になっている印象があります。「芸術」や「権威」といった言葉を擬人化=小文字の他者化という散種的な読み方をしてしまったので、それ以降複雑系的な散種が起きないのですね。
簡単にいうと、曖昧なシニフィエをもつシニフィアンは、元々サイン化されにくい。しかし、今のオタクたちは、そういった言葉を一旦「擬人化」することで、それ以上の散種を停止している、思考停止ならぬ散種停止状態になってしまっているということです。
彼らは擬人化された「芸術」や「権威」という言葉に対し、画一的なイメージを持ってしまっているように思います。前の記事で書いたパラノ的オタクにこういった感じが強い印象がありますね。現在このような感覚が多数派のように思えますし。
こういう小文字の他者的な父性への恐れっていうのは、若者のトラウマに原因があるんじゃないかなあ、と思ったのですが、家庭には目に見える父性はないんですよね。むしろ、エディプス期で「去勢」を行う「父」という名(シンボル)を体現する想像的な父性がいないせいで、それになれていない、曖昧な怪物として思えてしまっているのかなあ、という印象があります。だから代わりに言葉をイメージ化させているような感じです。
大文字の他者的な父性は許容し、希求するくせに、イメージ的な小文字の他者には反発する。この第一次反抗期的なオタク文化の特徴は、少し根が深いものなのかもしれません。
東浩紀氏はオタクはアニメのような「イメージ」を「シンボル」として捉えているのではないか、アニメを「読んでいる」のではないか、という言説をしていました。私は「シンボル」ではなく、「サイン」化傾向のある記号としてオタクはアニメを「読んでいる」と思っています。
先に書いた話は、その逆にサイン化された言語を「イメージ」として捉えていることもあるのではないか、という私の印象を具体的に示したものなのです。ラカン理論でいうと、シンボルのサイン化という力により、大文字の他者と小文字の他者の間に連絡通路が出来てしまっている、というイメージでしょうか。または、中文字の他者的なもの(サイン化された言語、イメージ)だとか。
何かこう考えると、オタクという人種は、SFチックな現実世界が仮想現実に置き換わる未来に適応した人種ではなかろうか、なんて妙な印象を持ってしまいました……。