正直スマンカッタ
2007/11/14/Wed
なんか文学についてえらそうなことごたごた述べているが、正直言うと、わたしはそれほど小説が好きじゃない。というか、本自体も「メシより本」とかいう人と比べると、爪の垢レベルしか読んでいないし、事実生まれてこの方一度も「本好き」などと言われたことがない。いや、小中学生の頃は言われてた気はするかな。
以前の記事で、小説より論文が好きだと書いたことがある。理由はコストパフォーマンスがいいから、即ち一冊読む時間あたりの本一冊の値段を考えたら論文の方が安く済むから、ということであるが、これなんか冊数を読んでいないことを暗に自白しているようなものである。読むだけじゃなくて、論文なら書く時や思考の中で引用することが多いし、そのたびに周辺読み返したりするからねえ。って「良い小説」ってのも本来そうではあるのかもしれないけれど。
個人的には、本を読む人と読まない人っていうのが両極端に別れていて、わたしは冊数で考えるならば中間のやや読む方辺りかなあ、と主観の中のよれよれの客観性を働かせると思える程度である。
いやだってすごいんだもの。特にラノベファンなんか。一、二時間で一冊読んじゃうらしいんだもん。冊数で勝てるわけないじゃない。いえわたしも某純文学系の新人賞とった短編(新刊八十ページくらい)を一時間ほどで読んじゃったことあるけどさ。普通なのかな。そのぐらいは。
論文だとありえない。考えながら読むからなあ。ひどい時には数行ごとに一息ついてプーアル茶飲みながらぐちょぐちょ思考してまた本に戻って気がついたらあら昼休み終わってるわ、みたいな。ここでの昼休みは東証のね。メシ食う時間さっぴいても一時間あるべよー。とまあそんな具合に読みながら思考があっちゃこっちゃいってページめくったらあっちゃいってた思考と合致していることが書かれていてにやついたりするのが楽しいものだと思ってたけどどうなのだろう。「とりあえず終わりまで読みてえ」という気持ちもわかるけど早食いもあんまり度が過ぎると強迫症みたいな印象すらある人(特に作家志望に多い)もいたりするがいやどうでもいいことか。
って短文系の記事のつもりだったのに長くなっちゃったー。ちっ。
最初書こうと思っていたことは、「純文学は終わった」と言って「しまう」主体について、その主体が思っていた「理想的な純文学」というフェティッシュ的なものが破壊されたということであり、ラカン風に言うと「理想的な純文学」という代理表象(シニフィアン)が連鎖したということであり、わかりやすく言えば執着していたシニフィアンから別の次のシニフィアンに移ったということであり、だから以前のシニフィアンである「理想的な純文学」というシニフィアンが「終わった」となって「しまう」わけで、つまり彼らなりの「愛する人を失った後、次の代理の愛する人を見つける」というエディプスコンプレックスの乗り越えを象徴する言説である、という解釈を今さらのようにそれ系の文章読んでいて感じたってことなのだが、実際柄谷の言ってることじゃなくって「やってること」ってエディプスコンプレックスの乗り越えっぽいし、っていうか大人になってもエディプスコンプレックスが重要なのは大前提で、エディプス的な主体を批判するつもりではさらさらなく、気持ち的に批判的文章っぽく「言説に過ぎない」と言いたかったのだけれど、以下に述べる理由で「過ぎない」なんて煽るような感じでは言えないなあ、とか思ってて、というのは、なんかこの「純文学は終わった」系の言説ってとっくの昔にブームが去ってしまっていて、遅まきながら流行歌手について述べているみたいなものだなあと思ってしまって、それがさっき言った理由なわけだが、そんなこんなで書くのどうしようか、と悩んでいるうちに形成されたのが冒頭の文章である。
「柄谷」ってシニフィアンも昔ほど目に触れなくなったしねえ。
まあ大概わたしってマイトレンドと世間のブームが合致しないからこういうことには慣れているんだけど。要するに流行に乗れない者のひがみあるいは言い訳ですねー。次のターンに入っているっていうか。「ずっとオレのターン!」ってAAなんか好きだ。
あ、そういえばブログのサブタイトルにも繋がるなこれ。サブタイトルなんてすっかり忘れてたりする本人。まあでもだから書いていい内容ではあるよね、多分、という自己肯定はいかがでしょう?
んごっぐぶひょ。
以前の記事で、小説より論文が好きだと書いたことがある。理由はコストパフォーマンスがいいから、即ち一冊読む時間あたりの本一冊の値段を考えたら論文の方が安く済むから、ということであるが、これなんか冊数を読んでいないことを暗に自白しているようなものである。読むだけじゃなくて、論文なら書く時や思考の中で引用することが多いし、そのたびに周辺読み返したりするからねえ。って「良い小説」ってのも本来そうではあるのかもしれないけれど。
個人的には、本を読む人と読まない人っていうのが両極端に別れていて、わたしは冊数で考えるならば中間のやや読む方辺りかなあ、と主観の中のよれよれの客観性を働かせると思える程度である。
いやだってすごいんだもの。特にラノベファンなんか。一、二時間で一冊読んじゃうらしいんだもん。冊数で勝てるわけないじゃない。いえわたしも某純文学系の新人賞とった短編(新刊八十ページくらい)を一時間ほどで読んじゃったことあるけどさ。普通なのかな。そのぐらいは。
論文だとありえない。考えながら読むからなあ。ひどい時には数行ごとに一息ついてプーアル茶飲みながらぐちょぐちょ思考してまた本に戻って気がついたらあら昼休み終わってるわ、みたいな。ここでの昼休みは東証のね。メシ食う時間さっぴいても一時間あるべよー。とまあそんな具合に読みながら思考があっちゃこっちゃいってページめくったらあっちゃいってた思考と合致していることが書かれていてにやついたりするのが楽しいものだと思ってたけどどうなのだろう。「とりあえず終わりまで読みてえ」という気持ちもわかるけど早食いもあんまり度が過ぎると強迫症みたいな印象すらある人(特に作家志望に多い)もいたりするがいやどうでもいいことか。
って短文系の記事のつもりだったのに長くなっちゃったー。ちっ。
最初書こうと思っていたことは、「純文学は終わった」と言って「しまう」主体について、その主体が思っていた「理想的な純文学」というフェティッシュ的なものが破壊されたということであり、ラカン風に言うと「理想的な純文学」という代理表象(シニフィアン)が連鎖したということであり、わかりやすく言えば執着していたシニフィアンから別の次のシニフィアンに移ったということであり、だから以前のシニフィアンである「理想的な純文学」というシニフィアンが「終わった」となって「しまう」わけで、つまり彼らなりの「愛する人を失った後、次の代理の愛する人を見つける」というエディプスコンプレックスの乗り越えを象徴する言説である、という解釈を今さらのようにそれ系の文章読んでいて感じたってことなのだが、実際柄谷の言ってることじゃなくって「やってること」ってエディプスコンプレックスの乗り越えっぽいし、っていうか大人になってもエディプスコンプレックスが重要なのは大前提で、エディプス的な主体を批判するつもりではさらさらなく、気持ち的に批判的文章っぽく「言説に過ぎない」と言いたかったのだけれど、以下に述べる理由で「過ぎない」なんて煽るような感じでは言えないなあ、とか思ってて、というのは、なんかこの「純文学は終わった」系の言説ってとっくの昔にブームが去ってしまっていて、遅まきながら流行歌手について述べているみたいなものだなあと思ってしまって、それがさっき言った理由なわけだが、そんなこんなで書くのどうしようか、と悩んでいるうちに形成されたのが冒頭の文章である。
「柄谷」ってシニフィアンも昔ほど目に触れなくなったしねえ。
まあ大概わたしってマイトレンドと世間のブームが合致しないからこういうことには慣れているんだけど。要するに流行に乗れない者のひがみあるいは言い訳ですねー。次のターンに入っているっていうか。「ずっとオレのターン!」ってAAなんか好きだ。
あ、そういえばブログのサブタイトルにも繋がるなこれ。サブタイトルなんてすっかり忘れてたりする本人。まあでもだから書いていい内容ではあるよね、多分、という自己肯定はいかがでしょう?
んごっぐぶひょ。