純粋なシニフィアン
2006/11/19/Sun
メモがわり。
「純粋なシニフィアン」具体的な意味を持たない言葉。難しそうに考えるまでもなく、結構そこら辺にころがっています。例えば2ちゃんねるで流行した「鮫島事件」。これなんてわかりやすい例だと言えます。
都市伝説といったものにはそういった側面が多々あります。ただ最近の都市伝説は具体的イメージをともなったものが多いということはありますね。そうでないものとしては私は「カシマさん」ぐらいしか思いつきません。
科学信仰の世の中で、キリスト教における「聖霊」が抑圧されるような現代。人は無意識的に新しい「純粋のシニフィアン」を求めているのかもしれません。
単に「オカルティズム」と切り捨てることは可能ですが、人は科学的でない「物語」に惹かれるのと同じように「純粋なシニフィアン」を求めているといえるでしょう。これは、私の考えでは「演劇的知」の共有を求めている表出、といえると思います。詳しく考察してないので大雑把な感覚ですが。
科学は宗教を殺した。次に殺すのは芸術か。もちろん消滅するなんてことはありませんが、科学者でもない一般人が科学信仰に流される現代に、何か本質的な問題があるように思えます。
ことわっておきますが、科学そのものを批判しているわけではありません。十分な科学的知識を持っていない一般人まで、不十分な知識で科学的思考を行っていることが問題だと思っています(比喩として科学を用いるのは構いませんが)。
ロゴス中心主義が度を過ぎてしまい、芸術が共有手段として機能する「人間らしさ」を失わせている状況ではないでしょうか。
追記。
今「デイアフタートゥモロー」見ながら書いているわけなんですが、「純粋なシニフィアン」と共通するのは、複雑系やカオスな系(カオス判定の議論が行われている現状であまりこの言葉を用いるのは気が進みませんが)という理系、ロゴスの上に成り立っている「曖昧さ」という点だと思います。科学信仰に染まった世の中では、「シュレーディンガーの猫」や「複雑系」「カオスな系」などといった理系学問の中の曖昧さでしか芸術的知の共有は出来ないのでしょうか……。
「純粋なシニフィアン」具体的な意味を持たない言葉。難しそうに考えるまでもなく、結構そこら辺にころがっています。例えば2ちゃんねるで流行した「鮫島事件」。これなんてわかりやすい例だと言えます。
都市伝説といったものにはそういった側面が多々あります。ただ最近の都市伝説は具体的イメージをともなったものが多いということはありますね。そうでないものとしては私は「カシマさん」ぐらいしか思いつきません。
科学信仰の世の中で、キリスト教における「聖霊」が抑圧されるような現代。人は無意識的に新しい「純粋のシニフィアン」を求めているのかもしれません。
単に「オカルティズム」と切り捨てることは可能ですが、人は科学的でない「物語」に惹かれるのと同じように「純粋なシニフィアン」を求めているといえるでしょう。これは、私の考えでは「演劇的知」の共有を求めている表出、といえると思います。詳しく考察してないので大雑把な感覚ですが。
科学は宗教を殺した。次に殺すのは芸術か。もちろん消滅するなんてことはありませんが、科学者でもない一般人が科学信仰に流される現代に、何か本質的な問題があるように思えます。
ことわっておきますが、科学そのものを批判しているわけではありません。十分な科学的知識を持っていない一般人まで、不十分な知識で科学的思考を行っていることが問題だと思っています(比喩として科学を用いるのは構いませんが)。
ロゴス中心主義が度を過ぎてしまい、芸術が共有手段として機能する「人間らしさ」を失わせている状況ではないでしょうか。
追記。
今「デイアフタートゥモロー」見ながら書いているわけなんですが、「純粋なシニフィアン」と共通するのは、複雑系やカオスな系(カオス判定の議論が行われている現状であまりこの言葉を用いるのは気が進みませんが)という理系、ロゴスの上に成り立っている「曖昧さ」という点だと思います。科学信仰に染まった世の中では、「シュレーディンガーの猫」や「複雑系」「カオスな系」などといった理系学問の中の曖昧さでしか芸術的知の共有は出来ないのでしょうか……。