「科学信仰」科学的思考方法の一般化
2006/11/20/Mon
前の記事で、「十分な科学知識を持った科学者でない一般人が科学的思考を行うことが問題」と書いた。これはどういうことか。
まずヘーゲルの弁証法を考えよう。人間の思考において、ある命題Aを肯定することと、Aを否定しさらにそれを否定することは同値でない、ということだ。否「否A」≠Aという話である。暴論的な喩えでいうと、数学なら解答より答えまでの思考を重要視するということだ。公式を覚えるだけでなく、その公式がどうやって成立したのかを(記憶するしないは別として)理解しておくことが重要という話である。
では何故人は否「否A」=Aと思ってしまうのか。それは科学思考の元となったアリストテレス的論理、「非A≠A」という思考法が原因となっている。この思考法では、非AとAの間にあるもの、非AでありAでもある中間的なものが存在しない。不連続なのだ。しかしアリストテレス哲学では「アポリア」という概念も同時に提示している。これこそ非AでありAでもある状態を指したものだ。アリストテレスは「非A≠A」論理の不完全を同時に示していたわけだ。
この非AとAの間にあるものは何か? 図で書くならAを示す「境界線」として描かれるだろう。境界は区分とも言える。要は、非AとAの「差異」を具体化したものである。この「差異」が非AとAの間にあるものだ。
世界は不連続なものではなく、連続的なものだ。
例えば「椅子」という言葉による概念を考えよう。座ったときお尻の下にある台が椅子、という定義付けならば、たまたま腰掛けた岩は椅子だろうか? 馬の鞍は椅子だろうか? 木に登り木の実を取っている時、疲れて腰掛けた枝は椅子だろうか? その境界は曖昧である。「コップ」にしたってそうだ。コップとお皿の中間的なものを出されて「これはコップかお皿か?」と聞かれたら困るだろう。世の中の事物の境界はまこと曖昧なのである。
ソシュール言語学は言語の根本がこの「差異」にあるとし、「差異」に着目した言語学を展開した。デリダはその差異には常にぶれがあると解明して(「差延」の概念)、アリストテレス的「非A≠A」論理こそが机上の空論であることを示した。私たちもそれにならって「差異」に着目してみよう。
非AとAの間の境界は曖昧である、と書いた。非A≠Aの間に非A∩Aなる連続的なものが存在するという話だ。これを「曖昧なもの」と名付け、非AとAを「確かなもの」と名付けよう。非AとAという二項論理ではなく、その間にある中間的なもの=「曖昧なもの」と、非AとAという「確かなもの」の二項論理で物事を捉える思考方法だ。
曖昧なものを確かなものにする。これは人間の「わからないことを知りたい」という本能的欲求と酷似している。曖昧なものを確かなものにしたがるということは人間にとって本能的なことだと言えよう。
この本能にしたがって、世の中に差異を発見し、言語という形で表出させて、人類は「知」を発展させてきた。しかし現代思想では、「完璧なる差異」=「曖昧なものがゼロである状態」は机上の空論だと暴かれてしまった。なので、この人によってぶれる(主観により左右する)、曖昧な差異を「i」という虚数で表現しよう。
次に「確かなもの」に目を向けよう。確かなものをより確かなものにする、他人と共有するためには、確かなもの同士に「同一性」を見出さなければならない。これは科学がその客観性の拠り所にしている「再現性」とほぼ同じものだ。例えば「コップ」なら似たような形に「同一性」「再現性」を見出して「コップ」というものの差異を明確にしようとする。これは、差異を発見・付加するのと逆の思考方法だ。前の記事にも書いた「細分化」と「一本化」と考えてもよい。なのでこれを「-i」と表現する。
「i」は主観による「確かなもの」化と言え、「-i」は客観性による「確かなもの」化という言い方もできるか(+-の付け方については深く検証していません)。
さて、次に人類はこれらを共鳴させあうことで「確かなもの」を得ようとした。ソクラテスの問答法的な、学問的知の共有である。「i」*「-i」だ。これは「i」*「-i」→「+1」となる。この「+1」がロゴスそのものだ。またはロゴスにより確立された「近代的自我」といってもよい。ここで注意して欲しいのは左辺と右辺を「=」ではなく「→」で結んでいることである。これは数学的にいうなら、「i」や「-i」を簡略化のため定数で表現したが、実際は複素関数的なものである。デリダの論を参照するべくもなく時間変位や様々な変数によって変化するものだからだ。つまりそれらの積は「+1」に収束する(「→」)ということは言えるが、「=」たりえない、ということを(比喩的に)表していると思って欲しい。
ここで最初の論に戻ろう。
「十分な科学知識を持った科学者でない一般人が科学的思考を行うことが問題」ということはどういうことか、先程の論で説明してみよう。本来複素関数の積的な「曖昧なものを確かなものにする思考方法」である「i」*「-i」→「+1」を、その途中の論理をすっぽかして、インターネットの情報的に、wikipedeiaの閲覧的に科学者の研究成果を手に入れることで、「i」*「-i」=「+1」という思考方法に陥ってしまっている、というのが現代人のロゴス中心主義、「科学信仰」の正体であり、ポストモダンの問題点だと私が思っているところだ。「i」*「-i」=「+1」は絶対的同一性といってもよい。弁証法でいうならば、否「否A」=Aを信じて疑わないのだ。前の記事で表現するなら、「父」と「子」と「聖霊」という三位一体で「i」*「-i」→「+1」となるはずが、「聖霊」を抑圧したせいで「i」*「-i」=「+1」という単純化した、近似式を真の式と勘違いしてしまっているような思考方法になってしまっている、という言い方もできるだろう。また、途中の論理をすっぽかすという点に着目すれば、科学者ならぬ一般人の「→」の「=」化は、多義性をサイン化することによる思考停止ならぬ「散種停止」状態である、という言い方も可能であろう。
科学者は「→」の理論の中で「=」にすることを目指して研究に没頭する。一般人は、その途中の論理をすっとばして結論の「=」を先取りした「科学信仰の教義」を、盲目的に信じているに過ぎないのだ。
次に私の本分である「演劇論」に話を移してみよう。
演劇において役者は他者を演じる。観客は他の観客と同化し、演じられている登場人物に同化する。それをうけて役者は観客と同化し、演じている自己を見つめる。世阿弥のいう「離見の見」である。
演劇のこのような「劇的瞬間」において、主観と客観は複雑に絡み合い、その境界は曖昧化する。主観と客観の同一化(先に述べた「同一性」とは違う意味である)といってもよい。これがプロセニアム劇場型(額縁舞台)対面式演劇が希薄化させた「呪術性」の本質とも言えるだろう(対面式演劇自体を批判するわけではない)。
「劇的瞬間」においては、主観と客観は同一化する。先の論でいうなら、「i」=「-i」化する、ということだ(「i」←→「-i」という表現が正しいかもしれない)。「i」と「-i」の間にさえも中間的な曖昧なものが(劇的瞬間においては)あるわけだ。このロゴスがとりこぼした「曖昧なもの」を共有するのが「演劇的知」である。「i」=「-i」が可能な場ではどういうことが起こるだろうか。「i」*「-i」→「+1」にそれを代入すると、右辺には「-1」という収束値が立ち現れる。これこそロゴス中心主義社会が排除してきたオカルティズム、神秘主義、呪術性ではなかろうか。魔女狩りなどである。科学者が普遍だと信じてきた「再現性」の根本たる「-i」が無効化される場ともいってよい。ロゴスである「+1」が光なら、この演劇的知によって立ち現れる「-1」は闇という言い方もできるだろう。
光の中に現実界の何かをおくと、「曖昧なもの」の存在によって、必ず闇が現れる。闇を無くす、完全なるロゴスを求めるには、「曖昧なるもの」を排除するという思考は正しかった。しかしその「差異の曖昧さ」は、「差異」そのものが人間の認識内に存在するゆえ消すことはできない。つまり完全なるロゴスは「死」をもってしか立ち現れないということになる。
ロゴスである「i」*「-i」→「+1」さえ、世界を場合分け(⊂差異化)して捉えた思考法にすぎないのだ。
中村雄二郎氏はこの「場合分け」を「能動的」という言葉で表現した。この言葉だと「差異化」一般に通ずるところがあるだろう。そのロゴスにより発展した自然科学主義的な現代の知を「近代的知」と名付けた。それがとりこぼした「知」の共有を担うものとして「パトスの知」「演劇的知」という概念を提唱した。ロゴスによって確かなもの化された後さらに立ち現れる「曖昧なもの」もあるが、ロゴスの成立以前に存在する「曖昧なもの」もひっくるめてそれを理解する、共有する知として「パトスの知」「演劇的知」と名付けた。中村氏はこれを「受動的」と表現した。これは主に後者のロゴス成立以前の「曖昧さ」を指すものだろう。
まとめよう。
ポストモダンの表現文化の特徴が先鋭的且つデフォルメ的に表出しているのがオタク文化であると私は考えている。
彼らオタクの態度は表面的に見れば、表現文化らしく直感・感覚主導であり、「反科学的」である。
しかし科学信仰的な大文字の他者により無意識的にそのエスが影響された彼らは、無意識的に科学信仰に囚われている。まさに「十分な科学知識を持った科学者でない一般人が科学的思考を行」っているのだ。
その具体例がこれまでに述べた「記号のサイン化」「思考停止ならぬ散種停止」である。彼らは芸術文化たる自分の表現文化の首を無意識的に絞めていることに気付いていないのだ。
マクロで考えるなら、芸術が消滅することはない。彼らはそれをわかった上でのニヒリズム的な自覚があるのだろうか。いやない。表現者として疑うべき自我さえ記号化され、散種停止してしまっているのだ。
オタク文化における表現者に必要なことは、論理的思考法をもって自我を疑うことから始めるべきではないだろうか。その上で受動的に暗喩・換喩的に世の中の物事を捉える。
少し細かく言うならば、父性的な外側の資本主義的な世界に対しては「演劇的知」「パトスの知」が必要であり、ミクロな母性的オタク文化内では「ロゴス的思考方法」の鍛錬、というべきものが必要とされていると私は思う。
母性過多な「学校教育」「オタク文化」の中では父性的なロゴス的知は育ちにくい。近年数学科目のレベルが著しく落ちているというのもそれが原因ではないだろうか。こういった中で、若者たちは大文字の他者的な「知」を、豆知識的にデータベース的にしか受容できない。それは抽象化の学問である数学的思考能力の低下が一因かもしれない。データベース内の知識を数学的に圧縮できないのだ。よって、「i」*「-i」=「+1」や「非A≠A」といった近似式や仮定の論理を、真の公理として用いるしかないのだ。
※先に述べた「i」*「-i」→「+1」に代表される哲学は、プラトニックシナジー理論というものらしいです。私もきちんと理解できているとはいえないと思いますが、その考えの一部をお借りして論に使用させていただきました。なかなかおもしろい哲学思考だと思います。
まずヘーゲルの弁証法を考えよう。人間の思考において、ある命題Aを肯定することと、Aを否定しさらにそれを否定することは同値でない、ということだ。否「否A」≠Aという話である。暴論的な喩えでいうと、数学なら解答より答えまでの思考を重要視するということだ。公式を覚えるだけでなく、その公式がどうやって成立したのかを(記憶するしないは別として)理解しておくことが重要という話である。
では何故人は否「否A」=Aと思ってしまうのか。それは科学思考の元となったアリストテレス的論理、「非A≠A」という思考法が原因となっている。この思考法では、非AとAの間にあるもの、非AでありAでもある中間的なものが存在しない。不連続なのだ。しかしアリストテレス哲学では「アポリア」という概念も同時に提示している。これこそ非AでありAでもある状態を指したものだ。アリストテレスは「非A≠A」論理の不完全を同時に示していたわけだ。
この非AとAの間にあるものは何か? 図で書くならAを示す「境界線」として描かれるだろう。境界は区分とも言える。要は、非AとAの「差異」を具体化したものである。この「差異」が非AとAの間にあるものだ。
世界は不連続なものではなく、連続的なものだ。
例えば「椅子」という言葉による概念を考えよう。座ったときお尻の下にある台が椅子、という定義付けならば、たまたま腰掛けた岩は椅子だろうか? 馬の鞍は椅子だろうか? 木に登り木の実を取っている時、疲れて腰掛けた枝は椅子だろうか? その境界は曖昧である。「コップ」にしたってそうだ。コップとお皿の中間的なものを出されて「これはコップかお皿か?」と聞かれたら困るだろう。世の中の事物の境界はまこと曖昧なのである。
ソシュール言語学は言語の根本がこの「差異」にあるとし、「差異」に着目した言語学を展開した。デリダはその差異には常にぶれがあると解明して(「差延」の概念)、アリストテレス的「非A≠A」論理こそが机上の空論であることを示した。私たちもそれにならって「差異」に着目してみよう。
非AとAの間の境界は曖昧である、と書いた。非A≠Aの間に非A∩Aなる連続的なものが存在するという話だ。これを「曖昧なもの」と名付け、非AとAを「確かなもの」と名付けよう。非AとAという二項論理ではなく、その間にある中間的なもの=「曖昧なもの」と、非AとAという「確かなもの」の二項論理で物事を捉える思考方法だ。
曖昧なものを確かなものにする。これは人間の「わからないことを知りたい」という本能的欲求と酷似している。曖昧なものを確かなものにしたがるということは人間にとって本能的なことだと言えよう。
この本能にしたがって、世の中に差異を発見し、言語という形で表出させて、人類は「知」を発展させてきた。しかし現代思想では、「完璧なる差異」=「曖昧なものがゼロである状態」は机上の空論だと暴かれてしまった。なので、この人によってぶれる(主観により左右する)、曖昧な差異を「i」という虚数で表現しよう。
次に「確かなもの」に目を向けよう。確かなものをより確かなものにする、他人と共有するためには、確かなもの同士に「同一性」を見出さなければならない。これは科学がその客観性の拠り所にしている「再現性」とほぼ同じものだ。例えば「コップ」なら似たような形に「同一性」「再現性」を見出して「コップ」というものの差異を明確にしようとする。これは、差異を発見・付加するのと逆の思考方法だ。前の記事にも書いた「細分化」と「一本化」と考えてもよい。なのでこれを「-i」と表現する。
「i」は主観による「確かなもの」化と言え、「-i」は客観性による「確かなもの」化という言い方もできるか(+-の付け方については深く検証していません)。
さて、次に人類はこれらを共鳴させあうことで「確かなもの」を得ようとした。ソクラテスの問答法的な、学問的知の共有である。「i」*「-i」だ。これは「i」*「-i」→「+1」となる。この「+1」がロゴスそのものだ。またはロゴスにより確立された「近代的自我」といってもよい。ここで注意して欲しいのは左辺と右辺を「=」ではなく「→」で結んでいることである。これは数学的にいうなら、「i」や「-i」を簡略化のため定数で表現したが、実際は複素関数的なものである。デリダの論を参照するべくもなく時間変位や様々な変数によって変化するものだからだ。つまりそれらの積は「+1」に収束する(「→」)ということは言えるが、「=」たりえない、ということを(比喩的に)表していると思って欲しい。
ここで最初の論に戻ろう。
「十分な科学知識を持った科学者でない一般人が科学的思考を行うことが問題」ということはどういうことか、先程の論で説明してみよう。本来複素関数の積的な「曖昧なものを確かなものにする思考方法」である「i」*「-i」→「+1」を、その途中の論理をすっぽかして、インターネットの情報的に、wikipedeiaの閲覧的に科学者の研究成果を手に入れることで、「i」*「-i」=「+1」という思考方法に陥ってしまっている、というのが現代人のロゴス中心主義、「科学信仰」の正体であり、ポストモダンの問題点だと私が思っているところだ。「i」*「-i」=「+1」は絶対的同一性といってもよい。弁証法でいうならば、否「否A」=Aを信じて疑わないのだ。前の記事で表現するなら、「父」と「子」と「聖霊」という三位一体で「i」*「-i」→「+1」となるはずが、「聖霊」を抑圧したせいで「i」*「-i」=「+1」という単純化した、近似式を真の式と勘違いしてしまっているような思考方法になってしまっている、という言い方もできるだろう。また、途中の論理をすっぽかすという点に着目すれば、科学者ならぬ一般人の「→」の「=」化は、多義性をサイン化することによる思考停止ならぬ「散種停止」状態である、という言い方も可能であろう。
科学者は「→」の理論の中で「=」にすることを目指して研究に没頭する。一般人は、その途中の論理をすっとばして結論の「=」を先取りした「科学信仰の教義」を、盲目的に信じているに過ぎないのだ。
次に私の本分である「演劇論」に話を移してみよう。
演劇において役者は他者を演じる。観客は他の観客と同化し、演じられている登場人物に同化する。それをうけて役者は観客と同化し、演じている自己を見つめる。世阿弥のいう「離見の見」である。
演劇のこのような「劇的瞬間」において、主観と客観は複雑に絡み合い、その境界は曖昧化する。主観と客観の同一化(先に述べた「同一性」とは違う意味である)といってもよい。これがプロセニアム劇場型(額縁舞台)対面式演劇が希薄化させた「呪術性」の本質とも言えるだろう(対面式演劇自体を批判するわけではない)。
「劇的瞬間」においては、主観と客観は同一化する。先の論でいうなら、「i」=「-i」化する、ということだ(「i」←→「-i」という表現が正しいかもしれない)。「i」と「-i」の間にさえも中間的な曖昧なものが(劇的瞬間においては)あるわけだ。このロゴスがとりこぼした「曖昧なもの」を共有するのが「演劇的知」である。「i」=「-i」が可能な場ではどういうことが起こるだろうか。「i」*「-i」→「+1」にそれを代入すると、右辺には「-1」という収束値が立ち現れる。これこそロゴス中心主義社会が排除してきたオカルティズム、神秘主義、呪術性ではなかろうか。魔女狩りなどである。科学者が普遍だと信じてきた「再現性」の根本たる「-i」が無効化される場ともいってよい。ロゴスである「+1」が光なら、この演劇的知によって立ち現れる「-1」は闇という言い方もできるだろう。
光の中に現実界の何かをおくと、「曖昧なもの」の存在によって、必ず闇が現れる。闇を無くす、完全なるロゴスを求めるには、「曖昧なるもの」を排除するという思考は正しかった。しかしその「差異の曖昧さ」は、「差異」そのものが人間の認識内に存在するゆえ消すことはできない。つまり完全なるロゴスは「死」をもってしか立ち現れないということになる。
ロゴスである「i」*「-i」→「+1」さえ、世界を場合分け(⊂差異化)して捉えた思考法にすぎないのだ。
中村雄二郎氏はこの「場合分け」を「能動的」という言葉で表現した。この言葉だと「差異化」一般に通ずるところがあるだろう。そのロゴスにより発展した自然科学主義的な現代の知を「近代的知」と名付けた。それがとりこぼした「知」の共有を担うものとして「パトスの知」「演劇的知」という概念を提唱した。ロゴスによって確かなもの化された後さらに立ち現れる「曖昧なもの」もあるが、ロゴスの成立以前に存在する「曖昧なもの」もひっくるめてそれを理解する、共有する知として「パトスの知」「演劇的知」と名付けた。中村氏はこれを「受動的」と表現した。これは主に後者のロゴス成立以前の「曖昧さ」を指すものだろう。
まとめよう。
ポストモダンの表現文化の特徴が先鋭的且つデフォルメ的に表出しているのがオタク文化であると私は考えている。
彼らオタクの態度は表面的に見れば、表現文化らしく直感・感覚主導であり、「反科学的」である。
しかし科学信仰的な大文字の他者により無意識的にそのエスが影響された彼らは、無意識的に科学信仰に囚われている。まさに「十分な科学知識を持った科学者でない一般人が科学的思考を行」っているのだ。
その具体例がこれまでに述べた「記号のサイン化」「思考停止ならぬ散種停止」である。彼らは芸術文化たる自分の表現文化の首を無意識的に絞めていることに気付いていないのだ。
マクロで考えるなら、芸術が消滅することはない。彼らはそれをわかった上でのニヒリズム的な自覚があるのだろうか。いやない。表現者として疑うべき自我さえ記号化され、散種停止してしまっているのだ。
オタク文化における表現者に必要なことは、論理的思考法をもって自我を疑うことから始めるべきではないだろうか。その上で受動的に暗喩・換喩的に世の中の物事を捉える。
少し細かく言うならば、父性的な外側の資本主義的な世界に対しては「演劇的知」「パトスの知」が必要であり、ミクロな母性的オタク文化内では「ロゴス的思考方法」の鍛錬、というべきものが必要とされていると私は思う。
母性過多な「学校教育」「オタク文化」の中では父性的なロゴス的知は育ちにくい。近年数学科目のレベルが著しく落ちているというのもそれが原因ではないだろうか。こういった中で、若者たちは大文字の他者的な「知」を、豆知識的にデータベース的にしか受容できない。それは抽象化の学問である数学的思考能力の低下が一因かもしれない。データベース内の知識を数学的に圧縮できないのだ。よって、「i」*「-i」=「+1」や「非A≠A」といった近似式や仮定の論理を、真の公理として用いるしかないのだ。
※先に述べた「i」*「-i」→「+1」に代表される哲学は、プラトニックシナジー理論というものらしいです。私もきちんと理解できているとはいえないと思いますが、その考えの一部をお借りして論に使用させていただきました。なかなかおもしろい哲学思考だと思います。