こんがらがっちん
2006/11/22/Wed
最近いろいろと力尽きているようです……。
ということでしばらくの間の記事は明確な論理立てがない、お散歩的なぶらり一人旅的な思考の徒然を記したものになりそうです。と最初に言い訳しておこう。
オタク文化を表現文化と捉えた時、ポストモダンに通底する傾向としてデフォルメ的に表出していることとして、「記号のサイン化」を上げた。これを少し考えてみよう。
前の記事で「中文字の他者」なる表現をした。
・本来シンボルである大文字の他者的言語のサイン化、それの表出として解釈の一本化、曖昧なシニフィエを持つシニフィアンを擬人化することによる散種停止。
・パラノ的ライトオタの増加による、想像界と象徴界の内的動力の差を補填するための、パラノ的人格の特徴としての多弁的なイメージ→シンボル化。
私はこの二点から、ラカンのシェーマLには存在しないいわば中文字の他者的な「サイン化傾向のある言語・記号」が生じている、という仮想モデルを考えた。これを加速する環境として、新語が急増する「流行語の時代」である情報化社会や、「オタク文化」「学校教育」を包む母性、その周りをマクロ的に包む父性的資本主義社会という二重構造などがあるのだろう。
この「サイン的(一義的)な言語・記号」はマシン言語を比喩とすればわかりやすいように、ロゴスと相性が良い。資本主義社会よりもっとマクロのトレンド(ギリシャ哲学からキリスト神学、そして科学へ)であるロゴス中心主義とも相性が良いわけだ。
ここでの一番大きいマクロのトレンドへの批判として、デリダの「ロゴス中心主義批判」、中村雄二郎氏の「近代的知」に対する「演劇的知」「パトスの知」という考え方が生まれた。
とこれまでの記事を、ミクロなポストモダン上のオタク文化からマクロへという流れでまとめてみた。
最近どうもミクロとマクロの思考がこんがらがってきている気がする。
うーん、まあちょっと休憩ということで。
ということでしばらくの間の記事は明確な論理立てがない、お散歩的なぶらり一人旅的な思考の徒然を記したものになりそうです。と最初に言い訳しておこう。
オタク文化を表現文化と捉えた時、ポストモダンに通底する傾向としてデフォルメ的に表出していることとして、「記号のサイン化」を上げた。これを少し考えてみよう。
前の記事で「中文字の他者」なる表現をした。
・本来シンボルである大文字の他者的言語のサイン化、それの表出として解釈の一本化、曖昧なシニフィエを持つシニフィアンを擬人化することによる散種停止。
・パラノ的ライトオタの増加による、想像界と象徴界の内的動力の差を補填するための、パラノ的人格の特徴としての多弁的なイメージ→シンボル化。
私はこの二点から、ラカンのシェーマLには存在しないいわば中文字の他者的な「サイン化傾向のある言語・記号」が生じている、という仮想モデルを考えた。これを加速する環境として、新語が急増する「流行語の時代」である情報化社会や、「オタク文化」「学校教育」を包む母性、その周りをマクロ的に包む父性的資本主義社会という二重構造などがあるのだろう。
この「サイン的(一義的)な言語・記号」はマシン言語を比喩とすればわかりやすいように、ロゴスと相性が良い。資本主義社会よりもっとマクロのトレンド(ギリシャ哲学からキリスト神学、そして科学へ)であるロゴス中心主義とも相性が良いわけだ。
ここでの一番大きいマクロのトレンドへの批判として、デリダの「ロゴス中心主義批判」、中村雄二郎氏の「近代的知」に対する「演劇的知」「パトスの知」という考え方が生まれた。
とこれまでの記事を、ミクロなポストモダン上のオタク文化からマクロへという流れでまとめてみた。
最近どうもミクロとマクロの思考がこんがらがってきている気がする。
うーん、まあちょっと休憩ということで。