シニフィアンの自壊性
2008/02/08/Fri
シニフィアンそのものが持つ自壊性。
これをシニフィエの側に、想像界的なものとしてしまっては違うものとなる。
シニフィアンの恣意性に反するもの、即ちシニフィエ側からシニフィアンを脅かすものとしては、サンボリックの境界領域という意味でのアブジェクシオン論が存在する。シニフィアン外部からのシニフィアンへの影響はポスト構造主義においてはいっくらでもそこら中で語られている。
そうじゃない。
何故「シニフィアンの恣意性」という概念が重要な意味を持つのか。
ラカン風に言えばそれはファルス的享楽に関わってくる。
これを比喩的に言うなら、宝物として持っていた蝉の抜け殻を大事に思い過ぎて握り潰してしまうことだ。
シニフィアンとは「把握」である。握る強さが強ければ中身は粉々になってしまう。ラカン論においては快楽と別物たる享楽とは、端的に言えば心中の意味を持つ。握り潰す側、殺す側がファルス的享楽であり、握り潰される側、殺される側が他者の享楽である。しかし心中であるからには、それを客観的視点で見れば、どっちも主体の消滅に帰着する。
ファルス的享楽とは象徴界と現実界の重なりに位置する。
現実界をシニフィアンにより区切ることとは、シニフィエの消滅を意味する。これを具体的に言うならば、欲動とシニフィアンが直接的に結びついたヒステリーの語らいということになろう。あるいは、区切りから滲み出るどろどろとしたシニフィエとしての情念がシニフィアンの定立を脅かす状態がアブジェクシオンであるとも言える。
木村敏氏が言う「ノエマ的自己」には、この視点が抜け落ちている。
定立することにより失うものという視点が。シニフィアン、あるいは「確かなもの」の、死の欲動としての帰着が。
木村氏の論に依拠すると、死の欲動をノエシス的自己やシニフィエ、あるいは他者の位置に押しやってしまう。それはあたかも、近代国家が戦争や疫病という死を外部に押しやってきた歴史と重なる。
ファルスを持つものは、ファルスによる死という帰着を自覚しなければならない。
どぐぅっぐえどぅば(擬音シリーズが好評なようなので)。
これをシニフィエの側に、想像界的なものとしてしまっては違うものとなる。
シニフィアンの恣意性に反するもの、即ちシニフィエ側からシニフィアンを脅かすものとしては、サンボリックの境界領域という意味でのアブジェクシオン論が存在する。シニフィアン外部からのシニフィアンへの影響はポスト構造主義においてはいっくらでもそこら中で語られている。
そうじゃない。
何故「シニフィアンの恣意性」という概念が重要な意味を持つのか。
ラカン風に言えばそれはファルス的享楽に関わってくる。
これを比喩的に言うなら、宝物として持っていた蝉の抜け殻を大事に思い過ぎて握り潰してしまうことだ。
シニフィアンとは「把握」である。握る強さが強ければ中身は粉々になってしまう。ラカン論においては快楽と別物たる享楽とは、端的に言えば心中の意味を持つ。握り潰す側、殺す側がファルス的享楽であり、握り潰される側、殺される側が他者の享楽である。しかし心中であるからには、それを客観的視点で見れば、どっちも主体の消滅に帰着する。
ファルス的享楽とは象徴界と現実界の重なりに位置する。
現実界をシニフィアンにより区切ることとは、シニフィエの消滅を意味する。これを具体的に言うならば、欲動とシニフィアンが直接的に結びついたヒステリーの語らいということになろう。あるいは、区切りから滲み出るどろどろとしたシニフィエとしての情念がシニフィアンの定立を脅かす状態がアブジェクシオンであるとも言える。
木村敏氏が言う「ノエマ的自己」には、この視点が抜け落ちている。
定立することにより失うものという視点が。シニフィアン、あるいは「確かなもの」の、死の欲動としての帰着が。
木村氏の論に依拠すると、死の欲動をノエシス的自己やシニフィエ、あるいは他者の位置に押しやってしまう。それはあたかも、近代国家が戦争や疫病という死を外部に押しやってきた歴史と重なる。
ファルスを持つものは、ファルスによる死という帰着を自覚しなければならない。
どぐぅっぐえどぅば(擬音シリーズが好評なようなので)。