脱げない鎧
2008/02/24/Sun
人は自分が思うよりはるかに言語的原則に縛られている。
たとえば映画。わたしたちはスクリーンに映る映像をフィクションとして見ている。
映画というシステムを知らない原始人がそれを見たら驚くだろう。
しかしわたしたちは驚かない。
いや、もう「驚けない」のだ。
「映画」という言語的知識が原則として作用しているのである。そしてその原則からは誰も逃れらない。一度「映画」という言語およびそれに付随する知識を得てしまうと、わたしたちは二度と「驚けない」のだ。
これを「呪い」と呼んでも差し支えなかろう。
あの、初めて見る景色の感動や、初めて知った知識の感動を、わたしたちは言語的原則により奪われているのだ。
言語という鎧で身を固めているのだ。
驚きとは筋肉の収縮を伴う。
乳児の原初的情動たる「快/不快」とは、ほぼ「筋肉の弛緩/筋肉の緊張」に当てはまる。
驚きとは、過程的根源を探ると、全て「不快」であると言える。
わたしたちは、言語という鎧で不快から身を守っているのだ。
この鎧は着脱不可能な物である。
鎖帷子の内側から目に見えない触手が生えていて、わたしたちの身体に食い込んでいるのだ。
この鎧のお陰で、わたしたちは過度の「驚き=不快」から身を守っていられる。
しかし、それは逆に言えば、「驚き=不快」を失っていることになる。
驚きとは全て不快なものである。
不快だからこそそこに向かってしまう。「向かってしまう」なんて逃避的な言い方がイヤならば、不快だからこそ魅力的であると言い換えてもよい。
それが死の欲動である。
鎧を脱げないわたしたちから見れば、「不快だからこそそこに向かってしまう」こととは、「嫌悪的だけど魅力的である」、即ち両価的情動となるだろう。
鎧を着ているからそう思ってしまうだけで、実は両価的でもなんでもないのだ。
それは、ただの「生」というシステムに過ぎないのだ。
あなたを殺したい。
あなたに殺されたい。
包丁をあなたという肉塊に刺す瞬間、その肉塊はわたしでもあるのだ。
あなたの眼球にボールペンを突き刺した瞬間、盲目になっているのはわたしでもあるのだ。
わたしが割った鏡の破片に映るたくさんのわたしが、わたしに「死ね」と言っている。
……そんなことを考えながら四コマ雑誌読んでいたりする近況報告でした。
近況かよっ。
たとえば映画。わたしたちはスクリーンに映る映像をフィクションとして見ている。
映画というシステムを知らない原始人がそれを見たら驚くだろう。
しかしわたしたちは驚かない。
いや、もう「驚けない」のだ。
「映画」という言語的知識が原則として作用しているのである。そしてその原則からは誰も逃れらない。一度「映画」という言語およびそれに付随する知識を得てしまうと、わたしたちは二度と「驚けない」のだ。
これを「呪い」と呼んでも差し支えなかろう。
あの、初めて見る景色の感動や、初めて知った知識の感動を、わたしたちは言語的原則により奪われているのだ。
言語という鎧で身を固めているのだ。
驚きとは筋肉の収縮を伴う。
乳児の原初的情動たる「快/不快」とは、ほぼ「筋肉の弛緩/筋肉の緊張」に当てはまる。
驚きとは、過程的根源を探ると、全て「不快」であると言える。
わたしたちは、言語という鎧で不快から身を守っているのだ。
この鎧は着脱不可能な物である。
鎖帷子の内側から目に見えない触手が生えていて、わたしたちの身体に食い込んでいるのだ。
この鎧のお陰で、わたしたちは過度の「驚き=不快」から身を守っていられる。
しかし、それは逆に言えば、「驚き=不快」を失っていることになる。
驚きとは全て不快なものである。
不快だからこそそこに向かってしまう。「向かってしまう」なんて逃避的な言い方がイヤならば、不快だからこそ魅力的であると言い換えてもよい。
それが死の欲動である。
鎧を脱げないわたしたちから見れば、「不快だからこそそこに向かってしまう」こととは、「嫌悪的だけど魅力的である」、即ち両価的情動となるだろう。
鎧を着ているからそう思ってしまうだけで、実は両価的でもなんでもないのだ。
それは、ただの「生」というシステムに過ぎないのだ。
あなたを殺したい。
あなたに殺されたい。
包丁をあなたという肉塊に刺す瞬間、その肉塊はわたしでもあるのだ。
あなたの眼球にボールペンを突き刺した瞬間、盲目になっているのはわたしでもあるのだ。
わたしが割った鏡の破片に映るたくさんのわたしが、わたしに「死ね」と言っている。
……そんなことを考えながら四コマ雑誌読んでいたりする近況報告でした。
近況かよっ。