『CSI:マイアミ』――骨太さと汗臭さ
2008/03/12/Wed
最近「骨太さ」に飢えている。いや別に三島賞の島福コンビじゃないけどさ。
骨太さってなんだろう、とか考える。それは例えば香港系ノワールみたいな汗臭さ、精液臭さとかと似ているけど非なるもの。アニメならカウボーイビバップとか、あれは骨太というより汗臭さ。
近頃のドラマでは珍しく骨太っぽい、と思えるのがCSIシリーズの『CSI:マイアミ』だ。
ちなみにわたしはラスベガスの方が好きだ。キャラ的には。マイアミはホレイショ様だけで持っている感じがする。ベガスのニックとかサラとかと比べると脇が甘い。サラは最初そうでもなかったけど今では感情移入度ナンバーワンだったり。それでか知らないけどマイアミではチーム内の軋轢とか描いていたりしてちょっとあざといなあ、と。まあそういうのも「燃える」要素として作用しているんだろうけどさ。
そうそう、オタク的用語を用いるなら、「骨太さ」と萌えじゃなくて「燃え」は似ている気がする。
言語的に考えるなら「太い」とかってまさにファルスよね。ということで男根主義って短絡しちゃえ。ちんちんは太い方がいいのっ、みたいな。
男根主義って考えるとわかりやすいわね。そうねー、一貫性主義っていうか、一つに貫くってまさにちんちんっぽいじゃない? そういうのが大事な気がする。主人公なりの一貫性。世界を「カーニバル」的に描こうとして尚且つストーリーという「歴史」的軸を保持したいなら、一貫性を持っている登場人物が必要になって、結果その登場人物はその作品の軸となるわけだから必然的に主人公になっちゃう。共時だけを描こうとするとカオスになっちゃう、通時だけを描こうとすると味気なくなっちゃう、みたいなことかねえ。どっちも大事よね。クリステヴァ的に言うなら間テクスト性もレシも。ダイアローグもモノローグも。
ホレイショ様燃えるわっっっ、ということでFA。
いや終わっちゃってもいいんだけど、これで。
しかし、いやほんま「しかし」だわ。と思ったのがシリーズ4つめの第一話。ホレイショ様が教会で懺悔するシーンから始まる。そこに銃声が聞こえて懺悔途中でやめて現場に駆けつけるのがホレイショ様らしくてよい。それはいいんだけどさ。
懺悔しているの見て、えええ、もしかして方向性変わった? と思ったのね。まあ新シリーズ第一話だったこともあったんだろうね。
いやその話の最後にはあっさり犯人撃ち殺しちゃうんだけど。さすがホレイショ様。ラストも告解室だったけど、こっちは撃った後だしシーン的にも一瞬だったしまあいいやとは思った。まーアメリカ人のことだから宗教性とか読み込むのも無駄だろうしねえ。それ以前にベガスでもそうだったけど精神疾患者の描き方(統合失調症とか)とかサイアクだし。ということで本来のわたしが突っ込むだろうところは全てスルー。いやだって面白いんだもん。基本的に。他人にケチャップぶちまけながらハンバーガーにかじりつきバカ笑いするプリオン人ってまさにエンターテイナー。いや褒めてるのよマジデ。
懺悔って、「一貫性」と照らし合わせると、「迷い」ってことじゃん。ホレイショ様の懺悔はそういうものだった。「オレ勧善懲悪だけど犯人殺しまくってていいのかな?」みたいな。
いやいいのよ、視聴者が「きっとホレイショ様も陰ではいろいろ悔いていたりするのよっ」と想像するのは構わない。っていうかそういう肉付けこそ視聴者の楽しみ。
でもねー。実際にこういうの描いちゃだめでしょ、と思ったのね。描くとしても告解室から出るシーンとかさ、隠喩的迂遠的に描くとかさー。いやプリオン人そういうの苦手なのは知ってるけど。ラストの告解室は懺悔の言葉まで描いてなかったけどそこまでよね、描くなら。まあ逞しい視聴者ならそんな直言的シーンがあろうとさらに肉付けできる「アラ」を探すものだろうし。
「アラ」って書いたけどラカン的にはまさに「欠如」よね。ごめん最近ラカン飽きててすっかり忘れてたわ。
もちろんこんなの山椒的味付けだと理解している。スイカにだってちょっと塩ふりかけると余計甘く感じるのと同じ。こんなちょっとした迷いを描くことでホレイショ様のぶっといちんちんっぷりをさらに強く感じられるというもの。
いやそれはいーんだけどさー……。
ナンダロウ。
……いや別にこんなことクリスチャンでもないわたしが言うのもおかしいんだろうけどさ。
毛唐どもにとって一番太いちんちんが「主」ナンジャネーノ?
と思ったのよ。
どーでもいいんだけど。
ホレイショ様は懺悔じゃなくて、母性的なものに許しを乞うべきだった。この描き方では、キリスト教は母性的なものとして映ってしまう。
いやいいんだ。中沢新一によれば英米的プロテスタント的キリスト教は聖霊主義であって、母性的資本主義的欲望的なるものに寛容な一神教となった、となるわけだから、アメリカ的キリスト教として理解できる描き方だ。
ホレイショ様は主に許しを乞うたわけではなく、聖霊ないしはマリアに許しを乞うた、というわけ。
なんか、懺悔というシステムが、違うものになっている気がした。
そうなると、プロテスタント的聖霊主義では、骨太なホレイショ様とか、行き着く先はパラノイアになっちゃう。自分よりぶっといちんちんとしての、究極のぶっといちんちんとしての「主」が機能していないなら。
いやー確かにそんな状況の話で言えば、日本よりマシだと思う。一神教的なものと文化的に馴染みの薄かった日本では、骨太な人間を描くと大体パラノイアになっちゃう。この記事でもちらっと触れてるけど、阿部和重の『ニッポニアニッポン』とかまさにそう。
だから、この懺悔のシーンで、わたしは、一瞬だけだが、ホレイショ様がパラノイアになっているような感じを受けてしまったのだ。
……いや、いいんだけど。っていうかなんか違うなー。文句があるわけじゃないし今でも面白く見てるんだけど、いちゃもんつけたいのは違うところなんだよねー。
でもここにいちゃもんつけたらわたしは男根主義者になってしまう。中二病になっちゃう。いや別にそれはいいんだけど、わたしの思想スタンスを攻撃するような言説になってしまう。
男根主義者であろうが、迷いもあるだろうし悔いもあるだろう。そういうところにフォーカスを当てるとノワール的な汗臭さ、精液臭さになる。カウボーイビバップのスパイクなんかエヴァのシンジレベルに迷いっぱなしで悔いっぱなしだ。そういうのも好きだし、ホレイショ様も好きだ。要は面白ければなんでもいいのだ。
なんだろうね、ホレイショ様の、もっと迷っている悔いていることに対する苦痛を描いて欲しかった、苦痛に歪むエディプスの顔を見たかった、ということかな。迂遠に描かないなら、ノワール的境界まで侵犯して欲しかった。
振幅が一瞬大きくなったのに、無理矢理通常軌道に戻してしまった感。
まあ一話完結の連続ドラマだと通常軌道に戻さざるを得ないんだろうけど。それはわかるんだけど、はっちゃけるならきちんとはっちゃけて欲しかった。見ている者に物足りなさを自覚させてしまうやぶ蛇的シーンになってしまったように思う。
とかいいつつ直後のホレイショ様はいつものぶっといちんちんっぷりをいかんなく発揮してたからどうでもいいんだけど。
いやおもろいよ。CSIシリーズ。死体解剖とかグロがリアルなのがまたよい。さすがスナッフ大国。
今やってるニューヨークは未見だけど。
そんなカンジ。
骨太さってなんだろう、とか考える。それは例えば香港系ノワールみたいな汗臭さ、精液臭さとかと似ているけど非なるもの。アニメならカウボーイビバップとか、あれは骨太というより汗臭さ。
近頃のドラマでは珍しく骨太っぽい、と思えるのがCSIシリーズの『CSI:マイアミ』だ。
ちなみにわたしはラスベガスの方が好きだ。キャラ的には。マイアミはホレイショ様だけで持っている感じがする。ベガスのニックとかサラとかと比べると脇が甘い。サラは最初そうでもなかったけど今では感情移入度ナンバーワンだったり。それでか知らないけどマイアミではチーム内の軋轢とか描いていたりしてちょっとあざといなあ、と。まあそういうのも「燃える」要素として作用しているんだろうけどさ。
そうそう、オタク的用語を用いるなら、「骨太さ」と萌えじゃなくて「燃え」は似ている気がする。
言語的に考えるなら「太い」とかってまさにファルスよね。ということで男根主義って短絡しちゃえ。ちんちんは太い方がいいのっ、みたいな。
男根主義って考えるとわかりやすいわね。そうねー、一貫性主義っていうか、一つに貫くってまさにちんちんっぽいじゃない? そういうのが大事な気がする。主人公なりの一貫性。世界を「カーニバル」的に描こうとして尚且つストーリーという「歴史」的軸を保持したいなら、一貫性を持っている登場人物が必要になって、結果その登場人物はその作品の軸となるわけだから必然的に主人公になっちゃう。共時だけを描こうとするとカオスになっちゃう、通時だけを描こうとすると味気なくなっちゃう、みたいなことかねえ。どっちも大事よね。クリステヴァ的に言うなら間テクスト性もレシも。ダイアローグもモノローグも。
ホレイショ様燃えるわっっっ、ということでFA。
いや終わっちゃってもいいんだけど、これで。
しかし、いやほんま「しかし」だわ。と思ったのがシリーズ4つめの第一話。ホレイショ様が教会で懺悔するシーンから始まる。そこに銃声が聞こえて懺悔途中でやめて現場に駆けつけるのがホレイショ様らしくてよい。それはいいんだけどさ。
懺悔しているの見て、えええ、もしかして方向性変わった? と思ったのね。まあ新シリーズ第一話だったこともあったんだろうね。
いやその話の最後にはあっさり犯人撃ち殺しちゃうんだけど。さすがホレイショ様。ラストも告解室だったけど、こっちは撃った後だしシーン的にも一瞬だったしまあいいやとは思った。まーアメリカ人のことだから宗教性とか読み込むのも無駄だろうしねえ。それ以前にベガスでもそうだったけど精神疾患者の描き方(統合失調症とか)とかサイアクだし。ということで本来のわたしが突っ込むだろうところは全てスルー。いやだって面白いんだもん。基本的に。他人にケチャップぶちまけながらハンバーガーにかじりつきバカ笑いするプリオン人ってまさにエンターテイナー。いや褒めてるのよマジデ。
懺悔って、「一貫性」と照らし合わせると、「迷い」ってことじゃん。ホレイショ様の懺悔はそういうものだった。「オレ勧善懲悪だけど犯人殺しまくってていいのかな?」みたいな。
いやいいのよ、視聴者が「きっとホレイショ様も陰ではいろいろ悔いていたりするのよっ」と想像するのは構わない。っていうかそういう肉付けこそ視聴者の楽しみ。
でもねー。実際にこういうの描いちゃだめでしょ、と思ったのね。描くとしても告解室から出るシーンとかさ、隠喩的迂遠的に描くとかさー。いやプリオン人そういうの苦手なのは知ってるけど。ラストの告解室は懺悔の言葉まで描いてなかったけどそこまでよね、描くなら。まあ逞しい視聴者ならそんな直言的シーンがあろうとさらに肉付けできる「アラ」を探すものだろうし。
「アラ」って書いたけどラカン的にはまさに「欠如」よね。ごめん最近ラカン飽きててすっかり忘れてたわ。
もちろんこんなの山椒的味付けだと理解している。スイカにだってちょっと塩ふりかけると余計甘く感じるのと同じ。こんなちょっとした迷いを描くことでホレイショ様のぶっといちんちんっぷりをさらに強く感じられるというもの。
いやそれはいーんだけどさー……。
ナンダロウ。
……いや別にこんなことクリスチャンでもないわたしが言うのもおかしいんだろうけどさ。
毛唐どもにとって一番太いちんちんが「主」ナンジャネーノ?
と思ったのよ。
どーでもいいんだけど。
ホレイショ様は懺悔じゃなくて、母性的なものに許しを乞うべきだった。この描き方では、キリスト教は母性的なものとして映ってしまう。
いやいいんだ。中沢新一によれば英米的プロテスタント的キリスト教は聖霊主義であって、母性的資本主義的欲望的なるものに寛容な一神教となった、となるわけだから、アメリカ的キリスト教として理解できる描き方だ。
ホレイショ様は主に許しを乞うたわけではなく、聖霊ないしはマリアに許しを乞うた、というわけ。
なんか、懺悔というシステムが、違うものになっている気がした。
そうなると、プロテスタント的聖霊主義では、骨太なホレイショ様とか、行き着く先はパラノイアになっちゃう。自分よりぶっといちんちんとしての、究極のぶっといちんちんとしての「主」が機能していないなら。
いやー確かにそんな状況の話で言えば、日本よりマシだと思う。一神教的なものと文化的に馴染みの薄かった日本では、骨太な人間を描くと大体パラノイアになっちゃう。この記事でもちらっと触れてるけど、阿部和重の『ニッポニアニッポン』とかまさにそう。
だから、この懺悔のシーンで、わたしは、一瞬だけだが、ホレイショ様がパラノイアになっているような感じを受けてしまったのだ。
……いや、いいんだけど。っていうかなんか違うなー。文句があるわけじゃないし今でも面白く見てるんだけど、いちゃもんつけたいのは違うところなんだよねー。
でもここにいちゃもんつけたらわたしは男根主義者になってしまう。中二病になっちゃう。いや別にそれはいいんだけど、わたしの思想スタンスを攻撃するような言説になってしまう。
男根主義者であろうが、迷いもあるだろうし悔いもあるだろう。そういうところにフォーカスを当てるとノワール的な汗臭さ、精液臭さになる。カウボーイビバップのスパイクなんかエヴァのシンジレベルに迷いっぱなしで悔いっぱなしだ。そういうのも好きだし、ホレイショ様も好きだ。要は面白ければなんでもいいのだ。
なんだろうね、ホレイショ様の、もっと迷っている悔いていることに対する苦痛を描いて欲しかった、苦痛に歪むエディプスの顔を見たかった、ということかな。迂遠に描かないなら、ノワール的境界まで侵犯して欲しかった。
振幅が一瞬大きくなったのに、無理矢理通常軌道に戻してしまった感。
まあ一話完結の連続ドラマだと通常軌道に戻さざるを得ないんだろうけど。それはわかるんだけど、はっちゃけるならきちんとはっちゃけて欲しかった。見ている者に物足りなさを自覚させてしまうやぶ蛇的シーンになってしまったように思う。
とかいいつつ直後のホレイショ様はいつものぶっといちんちんっぷりをいかんなく発揮してたからどうでもいいんだけど。
いやおもろいよ。CSIシリーズ。死体解剖とかグロがリアルなのがまたよい。さすがスナッフ大国。
今やってるニューヨークは未見だけど。
そんなカンジ。