自我同一性の拡散
2006/11/23/Thu
物語の感動の根源は現実に還元される。何故なら表現者も受取手も現実世界の住人なのだから。
さて、オタク文化の「萌え美少女」文化。私は以前「萌え美少女による感動と、詩の感動とはその構造が類似している」という論を展開したことがある。
これは簡単に言えば東浩紀氏の「オタクはキャラクターを「読んでいる」のではないか」、という点と、詩のシンボリズムを絡めた論であった。
詩は短文なので、ロゴスを組み込み難い。誤解が生じやすい。つまり嗜好性が高い。傍から見ればそれは思考不在の刹那的な感覚的な「感動」主義といったところか。だから「動物的」に見えるのだ、という萌え美少女文化を表現文化として肯定的に捉えた論である。
私はこの論からオタク・コギャルの自身を有意味化、記号化している90年までの動きとからめ、現状のオタク文化が、記号化のオーバーシュート的なものとしての「サイン化傾向のある記号化」というトレンドを見出し、それとロゴス中心主義社会における関係性にポストモダンの表現文化の危機を感じ取り、批判することにした。
記号のサイン化傾向について、これまでいくつか例を挙げてきたが、たまたま今思いついたオタク文化における表出を一つ挙げておこう。
ライトノベル作家を目指す者たちが集まるサイトでの話だ。
そこで「善とは、悪とは」という、哲学的示唆も含まれる議論をしていた時のことだ。彼らのほとんどの論は、「法律が変われば善と悪も変わる」というものだった。彼らは「法律」をサイン的な記号としてしか捉えられないのだ。法律が今の形になった歴史や物語、「法律」という言葉が背中に背負っているそれに気付かないのである。法律の一側面を歴史的に語るなら、神話を元にしたキリスト教があり、それを体系化・ロゴス化した神学から倫理学が発展し、今の法律に繋がっているとも言えるだろう。もちろん違った視点から背後の歴史や物語を見出すことも可能だ。彼らはそこに考えが至らないのだ。
これは何も難しいことではない。人格を形成する際、人間は多かれ少なかれ大文字の他者と自問自答という形で会話する。この中で自分を取り巻くシンボル的なルールに思考を走らせるのは当然の成り行きである。そういった自問自答を通して、人は人格を自我を同定化、形成していくのだ。この会話が先の例で見たような「記号のサイン化」されていたら、自問自答は浅いまま終わり、自我の同定化は難しいだろう。
大文字の他者が分裂化している社会にいるから、「自我同一性の拡散」が起こる、といった心理学における「精神病理」的な用語がある。これはわかりやすくいうと、青年がアイデンティティを確立できない状態、症例的には「中二病」そのままである。ここから社会に出たがらない「モラトリアム」に繋がり、その状態で社会に出ると、空想を重んじる、現実逃避的な「退却神経症」というような症例が多く表出するのかもしれない(このサイトを参考にしました)。
私なんかは空想へ逃避しても社会と折り合いがつくならそれでもよいと思うが、心理学というものは個人と社会との折り合いをつけるため、人の心を「矯正する」という性格が(私は)感じられるのでこういった言い方になるのかもしれない。
だから、この「自我同一性の拡散」を故意的に保持する「モラトリアム」から、「退却神経症」への流れ自体は批判しないし、そういう人格も一つの人格だと私は思う。
しかし、芸術文化論的視点でこれを捉えると、現代の若者、特にオタクには大まかには先の傾向が読み取れるが、その裏には表現文化としては重要な「記号のサイン化」が起きているのではないか、という話である。
ということで思考のまとめシリーズ第二段でした。あーうん、なんか最近ブログデザインのように思考が渦巻いている。
うーん、しばらく思考停止してみよっかなー……。
さて、オタク文化の「萌え美少女」文化。私は以前「萌え美少女による感動と、詩の感動とはその構造が類似している」という論を展開したことがある。
これは簡単に言えば東浩紀氏の「オタクはキャラクターを「読んでいる」のではないか」、という点と、詩のシンボリズムを絡めた論であった。
詩は短文なので、ロゴスを組み込み難い。誤解が生じやすい。つまり嗜好性が高い。傍から見ればそれは思考不在の刹那的な感覚的な「感動」主義といったところか。だから「動物的」に見えるのだ、という萌え美少女文化を表現文化として肯定的に捉えた論である。
私はこの論からオタク・コギャルの自身を有意味化、記号化している90年までの動きとからめ、現状のオタク文化が、記号化のオーバーシュート的なものとしての「サイン化傾向のある記号化」というトレンドを見出し、それとロゴス中心主義社会における関係性にポストモダンの表現文化の危機を感じ取り、批判することにした。
記号のサイン化傾向について、これまでいくつか例を挙げてきたが、たまたま今思いついたオタク文化における表出を一つ挙げておこう。
ライトノベル作家を目指す者たちが集まるサイトでの話だ。
そこで「善とは、悪とは」という、哲学的示唆も含まれる議論をしていた時のことだ。彼らのほとんどの論は、「法律が変われば善と悪も変わる」というものだった。彼らは「法律」をサイン的な記号としてしか捉えられないのだ。法律が今の形になった歴史や物語、「法律」という言葉が背中に背負っているそれに気付かないのである。法律の一側面を歴史的に語るなら、神話を元にしたキリスト教があり、それを体系化・ロゴス化した神学から倫理学が発展し、今の法律に繋がっているとも言えるだろう。もちろん違った視点から背後の歴史や物語を見出すことも可能だ。彼らはそこに考えが至らないのだ。
これは何も難しいことではない。人格を形成する際、人間は多かれ少なかれ大文字の他者と自問自答という形で会話する。この中で自分を取り巻くシンボル的なルールに思考を走らせるのは当然の成り行きである。そういった自問自答を通して、人は人格を自我を同定化、形成していくのだ。この会話が先の例で見たような「記号のサイン化」されていたら、自問自答は浅いまま終わり、自我の同定化は難しいだろう。
大文字の他者が分裂化している社会にいるから、「自我同一性の拡散」が起こる、といった心理学における「精神病理」的な用語がある。これはわかりやすくいうと、青年がアイデンティティを確立できない状態、症例的には「中二病」そのままである。ここから社会に出たがらない「モラトリアム」に繋がり、その状態で社会に出ると、空想を重んじる、現実逃避的な「退却神経症」というような症例が多く表出するのかもしれない(このサイトを参考にしました)。
私なんかは空想へ逃避しても社会と折り合いがつくならそれでもよいと思うが、心理学というものは個人と社会との折り合いをつけるため、人の心を「矯正する」という性格が(私は)感じられるのでこういった言い方になるのかもしれない。
だから、この「自我同一性の拡散」を故意的に保持する「モラトリアム」から、「退却神経症」への流れ自体は批判しないし、そういう人格も一つの人格だと私は思う。
しかし、芸術文化論的視点でこれを捉えると、現代の若者、特にオタクには大まかには先の傾向が読み取れるが、その裏には表現文化としては重要な「記号のサイン化」が起きているのではないか、という話である。
ということで思考のまとめシリーズ第二段でした。あーうん、なんか最近ブログデザインのように思考が渦巻いている。
うーん、しばらく思考停止してみよっかなー……。