きれいな目をしたジャイアンたち
2008/04/03/Thu
この記事の流れで笙野頼子氏の『水晶内制度』をぱらぱらと読み返している。
これって……「面白い」といっていい快楽なのか。
笙野文体のリズムって、決して音韻的なものだけではないのよね。ラップとかそんな意味でのリズムではない。意味のリズム。イマージュのリズム。言葉の想像界的側面っていうと、大概の人は話し言葉における音韻に注目しがちだ。クリステヴァでさえそう。それは間違いじゃない。だけどそれだけじゃなくて、たとえば「黒い壁と白い煙」とか、視覚的リズムみたいなものだってあるじゃない。いやそれは音でもいい。「金属音のような会話の裏にある、重低音の駆け引き」などという、音を意味することで生じるリズム。例に挙げたのはリズムというより対比だけど、まあ対比ってのが「意味のリズム」を(ある一つの方法論として)要素に分解した場合の一要素なんだろうね。
言語の想像界側面を、話し言葉としての音のリズムだけだと誤解しているから、たとえば最近の文学界では、どこか方言バンザイという風潮がある。
わたしはむしろ書き言葉で方言を表現する方が、異物のように見える。なので異物としての方言、「ふるさとは遠きにありて憎むもの」としての方言なら、そのリズムは理解できる。たとえば車谷長吉氏の短編『抜髪』(『漂流物』所収)。たとえば(いきなりマイナーになってしまうが)ホラー作品としての、あせごのまん氏の短編『あせごのまん』(『余は如何にして服部ヒロシとなりしか』所収)。各作品の評論はここではおいておくが、感想レベルの蛇足をしておくならば、ホラーという意味では『抜髪』の方がよっぽどわたしは「おぞましかった」。あるいは笙野頼子氏の文体ならば、彼女はよく田舎の家族の言葉をカタカナで表現する。そういう異物感。
この異物感は、わかりやすく言うなら、テレビドラマで無理に方言を使うような「わざとらしさ」だ。標準語バンザイと言っているわけではない。公の場においては、書き言葉で方言を表すこと自体に何かしらの意味が生じる。今の「方言バンザイ風潮」は、その意味を自覚してなさそうなところが問題なのだ。
要するに、音韻的リズムを気取ってはいるが、意味としてのリズムが全くちぐはぐになっている文芸作品が、インプットとアウトプットのように「そういうもの」として評価に直結する今の文学界の滑稽さを問題にしたいのだ。
音韻的リズムを主題にして意味のリズムを、わざとシュルレアリスム的なちぐはぐなものとする、そんな文芸作品があっても構わない。それが評価されるのも、作品が優れていれば全然構わない。
ただ、今の想像界的作品バンザイ的文学界トレンドについて、お前らは本当にイマージュの快楽をわかっているのか、と問いかけたいのだ。
お前らは本当に、イマージュという、どろどろねばねばした自他未分化的なおぞましくかつ魅惑的な、不安や恐怖や嫌悪と表裏一体の快楽を楽しんでいるのか、とわたしは問うているのだ。
わたしがこれほどその風潮を嫌悪してしまうのは、方言という本来おぞましいもの(もちろん魅惑的なものでもあるけれど)としてあるべき母性信仰的なものを、(本当の言葉の意味として)同性愛的に見ているポスト・フェストゥムたちの、きれいな目をしたジャイアンたちの、まさしくファルス的な暴力のように思えるからだ。
クリステヴァも確かに文章の音韻に目をつけた。彼女はそこから象徴界とそれ以外の境界としての、あるいはその境界を侵犯するものとしてのセミオティックな領域を見出し、おぞましくも魅惑的なるものというアブジェクシオン論を紡ぎ出したのである。
別に「ふるさとは遠きにありて思うもの」であって構わない。遠くにあるからこそ思うものなのだ。距離があるからこそ、母性信仰的なおぞましくも魅惑的な、ケガレ的なものが浄化されているのだ。
しかし現代文学の方言は、「遠き」にない。
おぞましくも魅惑的なテリブルマザーが隣に座っているのに、その化粧だけを見て、それを愛おしんでいる鈍感者たち。
文芸をつまらなくしているのは、多数派としての自分たちのせいだと気づけない幸せな人たち。
そんな自己批判的な場にいるから、文学は終わったなんて言っちゃうのだよ。まあしないよりマシなんだろうけど、自己批判なんてな個人がするもんであって集団としてのルールではない。
文壇とかそんな具体的な話じゃなく、目に見えない檻の中。
とても簡単な構図でした。
女性作家に対してとても偏向した評価をする笙野氏が、川上未映子氏をどう評価するのか。彼女の思想スタンスから言えば同じ川上の弘美ちゃんなんか攻撃してしかるべきだと思うのだが作家にそんなことを言う方がアホウってもんだろうし。あーでも弘美ちゃんもアブジェクシオン描けてるもんなあ。小川洋子氏言うところの「台所の床下収納庫にある腐ったタマネギ」だっけ、そんなんみたいな。切り取り方が上手くオヤジの萌えどころを突いている「だけ」ならそう思える。弘美ちゃんが裏で「うわこんなんで萌えてるオヤジきめえwww」とか言っている姿を想像するならば。テリブルマザーは狡猾なのです。わたしなんかは弘美ちゃんの小説に萌えるオヤジもオタクもそう変わらない、って思っちゃうけどなあ。どうしてもオヤジ向け萌え小説に思える。いや「萌え」つっても好きなのあるし(四コマとか)、弘美ちゃんの作品も「面白い」けど。
もちろんリンクしたような笙野氏の態度は政治的かつ戦略的なところもあろうしって別にどうでもいいや。作品が面白ければ。
川上未映子氏の作品も、「面白い」。いや『イン歯ー』しか読んでないけど。でも何故かどこかきれいな目をしたジャイアン臭がする。それも含めて「面白い」。現代的であるとわたしは思う。そういう評価もわかる。たとえば阿部和重氏の過剰な形式性を特徴とする文体について、形式ばった文学論を当てはめるのは野暮ってものだし、それこそ阿部氏あるいはオタク文化をはじめとする現代文化の思う壺である。「ネタにマジレスを~」って奴だ。わたしもそっちの立場を取るだろう。基本2ちゃねらだしB級好きだし。
しかしこの記事では、そういった表層だけではわからない、それこそ方言なりという非形式的な、女性的なものの表層で押し隠してはいるが、そうだからこそ「むしろ」全体から漂ってくる雰囲気について、わたしは言及したい。この「むしろ」は、精神分析の理屈ならば「自由連想などで言明されなかった言葉(ラカンなら比喩連鎖の隙間に落ちたもの)がクライアントにとっての真理である」と同じ構造だ。
説教ではないのにどこか説教臭がする。なのでスルーっていうか沈黙してたんだけど、おーあくたがー賞とったのかーと思ってちょろちょろ関連記事読んでたらなんだ飲茶と同じ永井均派かよって知って納得。あー、ふんふん。飲茶なんかよりよっぽど優秀な弟子になるだろう(この文章は飲茶へのリップサービス。つか宣伝してあげてるんだからなんかおごれ)。
つっか非形式性の過剰さによって、ヌーヴォー・ロマン的なものに対して「ネタにマジレスを~」をやってるのだろうね。対称的なつまらない言い方すれば。そこが「面白い」のか。いやでも非形式性は過剰とまではいってないのだよねえ。どんなにシュルレアリスム的な「芸術とは爆発だ」やっても、少なくとも時が経てばアンディ・ウォーホルじゃないけど反復(コピー)化する。むしろ過剰じゃないから「ネタにマジレスを~」となるのか。こっち(現代)側からやるなら、中途半端だからこそ「ネタにマジレスを~」と言えるわけか。なるほろ。トレンディ(笑)みたいなカンジ?
どっちにしろ「ネタにマジレスを~」は神経症がやる逃避だけどね。それが面白いわけで。阿部くんのも。いやわたしは好きだ。阿部くん。阿部くんの方が逃避に専念している気がする。逃避するということに逃避していない。未映子ちゃんはそこまでいっていない。いってないからヌーヴォー・ロマン的なものに対して「ネタにマジレスを~」になれる。
阿部くんの、現代男性的系列では、目のきれいなジャイアンに対して「ネタにマジレスを~」になるんだけど、そこを突き詰めたシュルレアリスム的なりヌーヴォー・ロマン的なものに対して、未映子ちゃんみたいな現代的「クリトリスが肥大した女性(精神分析的文脈で読んでね)」が「ネタにマジレスを~」をするならば、目のきれいなジャイアンになっちゃう、ってことか。……うーん、対称的でつまらねえ要約だ。
まあ要はどっちも「ネタにマジレスを~」みたいな神経症的逃避感が「面白い」みたいな。オイディプスだって最後は目を刺して逃避したし。逃避って意味を拡げるために言うなら。逃避したっていいじゃない。面白ければ。
一方、笙野氏の作品は、「面白い」と言っていいのかわからない快楽。
ただ、それだけのことです。
笙野氏の作品はよく「わからない」って言われるけど、理解しようとするからわからなくなるわけで、まさしく「考えるな、感じろ」なのです。
笙野氏の作品も説教っぽい形の文章はあるんだけど、確かにそこが「考えさせようとしている」サインに見える。わかる。純文学という旗印もそれを加速させているのだろう。だけど彼女の場合は、異物として見ていられる。それは彼女の文章からは、「共同体から何かを排除する」という意味での異物というより、「あなたとわたしはお互いに異物である」という覚悟のような前提が感じられるからだ。「個」であるという覚悟。わたしが笙野氏の作品を読んでいる時、笙野氏とわたしはお互いに「個」なのだ。「小説の世界に入り込むとか主人公に感情移入とかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ」である。
短絡的に換言するならば、川上氏の文体には、「あなたとわたしはお互いにとってのキチガイである」という、「個が個であるための冷酷無残な、悲劇的な覚悟」みたいなものが欠けているように思える。断っておくけどそれは悲劇的雰囲気が足りないという意味ではなく、笙野氏自身の言葉なら「極私的言語の戦闘的保持」って奴だ。
うー……、たとえば、個人主義と共同体主義という、ざっくり短絡的なきれいな目をしたジャイアン風な対比をするなら、笙野氏は前者で川上氏は後者になるということ(ここについてはあくまで短絡的比喩的表現として捉えてね。カーサン文章下手デゴメンネ)。
この覚悟だけの話をするなら、まだ、黒ミサや悪魔や鬼や地獄に惹かれてしまう「黒い少女」たちの方に、わたしはそれを感じる。
一方、「きれいな目をしたジャイアン」たちは、「共同体として(共同体の一員として、ではない)生きること」という「愛」を、暴力的に押しつけてくる。
川上氏は本音を書けていない。氏に(女性的なるものを)期待する立場で言うならそういう要約になるだろう。そういう期待ならわたしは金原ひとみ氏とかに期待する。中途半端さを中途半端にしていないって意味で。だから他人がこの記事を読んでこんな要約したら、わたしは「違う」って言う。
どうであれ笙野氏はそこら辺より一人突き抜けているのは確か。共同体側から見ると、そういう状態は「閉じこもり」に見えるのかもしれないけど。ばーい斎藤環氏著『文学の徴候』。いや斎藤氏もいいところ突いていると思うよ。「女性の方が本質的に引きこもり人間なのではないか」なんてのはわたしの論ならば「女性性とスキゾイドの類似」(って過去記事参照しようと思ったけどそう書いてるのなかった……。あれえ? いやまあこの記事ではアスペルガーとの親近性を述べているが。つっか「?」の使い方が笙野作品の『カニバット』みたいで自分でワロタ)に共鳴するだろう。
(蛇足的補足。短絡的にアスペルガーとスキゾイドをイコールで結ばないのと同じように、女性とスキゾイドをイコールで結ばないよ。学問的共同体としてのわたしの立場では。比喩みたいなもんだと思って。人格で人格を喩えるってなんか最低な人間みたいでちょっと楽しい)
うー、最近どうもわたしって退行加減がおかしい……。金原ひとみ氏的な、あるいは二階堂奥歯氏的な「黒い少女」感とかきめえだったのに。自分がそのケあるからだけど。てか文芸的パワーなら、わたしの場合は、奥歯氏の方が突き刺さった。
いやまあ、わたしだって、「モノとは悪意である」ではなく「うんこ」を使うのは、説教的な意思が、共同体としてのわたしという感覚が働いているのだろうし。
笙野氏の最近の『おんたこシリーズ』だって説教的表層の強化ってカンジだし。それについては本人も第二部の後書でなんか書いてたけど、彼女自身が述べている通り、たとえ説教的表層が強くなろうと、作品の「単純に面白いと言っていいのかわからない快楽」は減退していない。
あー、ふんふん。
追記1。
ここまで書いて笙野氏と阿部氏ってどっかで絡んでなかったっけと調べてたらこういう記事を見つけた。
笙野氏が批判してる「ニュー評論家」の人じゃーん、なんか笙野ファンサイトではぼこぼこにされてるしぃ、なんて思いながら読んでみた。
……意外と読めてるんじゃない?
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『だいにっほん~』はある意味で、十分に面白い小説だった。もちろんこの「面白い」という感想には、複雑な気持ちが含まれている。というのも、この作品を切実な気持ちで読むには、この本で批判されている「おんたこ」のダメさ、ヘタレさに、どこか身に覚えがある必要があるからだ。少なくとも男の読者がこの本を読んで快哉を叫ぶことはあり得ない。好きで選んだわけでもなく、仕事というだけでこの本を読んで論じるように言われたら、男の物書きのほとんどは困惑するだろう。自分を高みにおいて、他人事のように語れる小説ではないからだ。
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よくわかってるじゃん。男でここまで言えるのは立派。いやまあ少なくともプロの評論家なわけだし当然なのかもしれないけど。
後、笙野語ってて何故か阿部くん連想しちゃうのって、すげえわかる。就職前の大学生みたいなモラトリアム的皮肉さをもって阿部くんが語っている「なんだかわからない気持ち悪い世の中に蔓延する空気みたいな何か」と、笙野氏が敵に回してセリーヌのように罵詈をばら撒いている対象は、同じものだと思うもん。
でもなー、この人には笙野の言う「真の女」ってのは一生わからないんだろうなあ、と思った。男性だし別にわからなくてもいいと思うけどね。つかこんなこと書くとコエエとか思いながらも付け足すならば、一部の熱狂的笙野ファンもわからないと思う。わたしも別にわからないでいいけど。わたしには(たとえば)「モノとは悪意である」というわたしの言葉、ファルスがある。これと笙野氏なり誰かの言葉と突き合わせるだけ。こうやって三百六十度敵になるんだろうなあ、わたしって。まあいいや。かかってこいやー。「うんこ」投げつけ合いましょ。つーか笙野の言う「極私的言語」って言葉よく考えてみなよ。
仲俣氏に戻る。彼の本とか買う気が起きないのでこの記事を参照してみよう(なんか新ブログに移行しているみたいなのでそちらも一応)。
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彼女らの書いている小説が、最終的には女の人の「個」の問題に尽きてしまうのではないか、と思うからです。
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うん。当たっている。「だが、それがいい」のだよ。何故かって? あったりまえじゃん、「女の人の「個」の問題」こそが、現代では「美」の本質に肉薄しているからだろうが。たとえばとしてこの記事を挙げておこうか。
評論家を名乗っているくらいだからジュリア・クリステヴァの名前ぐらいは知っておろう。基本(今の)わたしはクリステヴァ論者なので、主に彼女の論に依拠して説明していく。
どろどろぐちょぐちょした自他未分化的なアブジェクシオンの沼から、お風呂の中でするオナラみたいに、ぽっかりと球体が浮かび上がる。
なんかこのオッサン鈍そうだから補足しておこう。精神分析では言葉はよくボールに連想されることがわかっている。夢分析やら自由連想とかで。「会話はキャッチボールだ」という比喩もこの流れだな。後はキリスト教の「初めにロゴスありき」でも参照すればよい。
ケガレという沼から言葉という完全対称的な球体が浮かび上がる、あるいは沈んでいく運動が「美」なのだよ。クリステヴァの『恐怖の権力』読んでたらわかるだろ。
笙野氏の場合、この浮かび上がる球体は、たとえばスクナヒコナであり飼い猫でありそれこそ純文学だとも言えよう。ケガレの沼とは、笙野氏自身に課せられた「女」という言葉であり、彼女を「ブス」と厭い続けてきた世界であり、彼女自身だ。だけどそれらは笙野頼子という個人のモノでしかない。彼女は作家なわけだから、それを言葉で代理表象する。
先ほども書いたように、球体や沼が美の問題なのではなくて、両方あってそれらが相互的に関与する運動が、関与する二項が一体的なものである状態と隣り合わせの運動が、美なのである。『金毘羅』などは、ケガレの沼という一体的な状態から「金毘羅」という象徴を得ることでそこから一歩踏み出した運動を描いた物語だと言える。ケガレの中で「何か」が象徴化=浄化されている。だから感動するのだ。それがカタルシスだ。この「何か」を示すのはそれこそ精神分析ひいては学問のダメなところだから「何か」にしておく。理由は後述。
オイディプスが自ら目を潰し大地をさまようのは、球体がケガレの沼に飲み込まれるという一歩だから感動するのだが、男の精神世界では、この旅の終着点としてのさまようオイディプスが、美として連想されがちである。笙野が批判している柄谷氏の「文学は終わった」論もこの構造やね。とても男性的。あれは彼なりの美、揶揄的に言うならカッコつけなのである。いいか悪いかは置いといて。
こういう美が男性性に特徴的なのは、まさにエディプスコンプレックスが原因となっている。わたし的解説でよいならこの記事参照。フロイト論に倣うと、エディプスコンプレックスを通過しない(去勢というトラウマ度が弱い)女性は超自我が弱いなんていう論理に連鎖するがね。でもこれってよく言えば、女は男より固定観念が薄く、自由な連想が可能であるってことも意味するのだよ。モノなんて言い様なのです。
そういった、ケガレに球体が飲み込まれる運動とは逆方向の美が笙野が描くカタルシスである。逆方向とは言ったが実は同じものである(これについては後述)。こちら側の、鈍感な大人であるわたしたちの視点からなら逆と言った方がわかりやすいのでそう言っている。男の固定観念の周縁、象徴界の周縁としてのケガレ=セミオティックな領域から、「個」として笙野は一歩を踏み出したのだ。
こういった、ケガレの沼から球体が生じる、あるいは沼に球体が沈んでいく、一体的な状態を特異点として、人間の思考は輪廻している。なーんかこういう泥沼文章に中沢新一氏の論入れるの躊躇われるけど、『芸術人類学』で言っているメビウスの輪だな。ネジレがその特異点。そう考えるとレヴィ=ストロースの神話方程式もなんとなくどんなことを言っているかわかるだろう。
この美の瞬間は、よく出産に喩えられる。そりゃそうだろうな、ケガレを連鎖する「女性」から「玉のような」赤ちゃんが生み出されるわけだから。
ここで引っかからないかい?
出産という現象があるから、美の瞬間がそう連想されるのではなく、美の瞬間がそういう構造だから、たまたま出産という現象が比喩的に「うまくマッチ」したため、美だと言われてきたのである。
ラカンの鏡像段階論を参照すれば、実はそうであることがよく理解できる。わたしの解説ならこの辺だな。美に纏わる比喩連鎖の、日常的現実(ラカン的な意味での現実ではなくという意味でこう書く)的な原因を学術的に求めるのならば、生後六ヶ月ぐらい以降の乳児が体験する世界の大激動なのであって、出産が美の原因ではないのだ。この時に乳児が人類普遍的に通過する世界の大激動が、トラウマ的に心の中に残り、今のわたしたちの美という比喩連鎖網を生み出しているのだ。その連鎖網の中に、たとえばオイディプスの物語がありーの、出産がありーの、『金毘羅』がありーの、というわけ。そーいや保坂和志氏もこの鏡像段階に注目してなかったっけか。いや保坂ダイスキだけど。ちなみにクリステヴァのアブジェクシオン(「棄却すること」という意)論は、鏡像段階論と背中合わせのものである。「棄却」しなかったものをラカンは説いたわけだ。
この時の乳児は象徴界に参入し切ってはいない。言語の卵である象徴的ファルスを手に入れているのみだ。クリステヴァ論ならセミオティックな領域を生きている。そこから統辞的、文法的な言葉の世界に参入する段階が、エディプスコンプレックスだ。
象徴(シニフィアン)の統辞的構造を把握していないわけだから、この世界の乳児に(今のわたしたちが思うような)時間という感覚はない。その上シニフィアンの基礎である象徴的ファルスも得ていない乳児から見れば、沼に沈んでいくのか沼から浮かび上がるのかというのは、同じことである。ラカンなら想像界における無時間性を参照してもよい。斎藤環氏著『戦闘美少女の精神分析』にそこら辺書いてあったよ。
エディプスコンプレックスと違い、ラカンの鏡像段階は、男女共通である。鏡像段階というトラウマが男性性傾向のある人格に再帰したのがエディプスコンプレックスだな。正確に言えば。あんまラカンラカンいうとあれなので(こっちの事情。心理学やってる人ってラカンコンプレックス多いみたいでさ)、スターン論参照するならば、間主観的自己感の形成というドラマだな。
笙野氏の思想に戻るなら、「出産しない女は女じゃない」みたいな男性的思想を批判していたが(『レストレス・ドリーム』とかだっけ? 忘れた)、精神分析論を参照してもそれは誤りだと言える。
一時期、文芸研究に精神分析理論が多用されたことは評論家ならご存知だろう。そんな中、フロイト派は「なんでもかんでもエディプスコンプレックスに結びつけてつまんねえ」と批判された。ユング派の元型の多彩さとか考えるとわたしもそう思う。ユング派の文芸研究の方が読んでて楽しい。
先にも言った通り、ラカンの鏡像段階は、フロイトのエディプスコンプレックスのさらなる原因を掘り返したものだ。人格形成史を遡ってその原因を突き止めたものである。この鏡像段階が美という精神状態の原因と考えるならば、エディプスコンプレックスという道具しかなかったフロイト派の気持ちもわからなくないだろう。
あーいや門外漢に説教する気はないがね。要するに、出産やオイディプスを美しいと感じる理由と、「女の人の「個」の問題」を美しいと感じる理由は同じだよ、ということを言いたいのだ。同じ構造をしているから、美しいと思えるのだよ、ってこと。どれが正しいなんてあるわきゃないさ。美の(学術的)真理の位置には鏡像段階っていう大人視点で見るとつまんねーものがあるだけで、それが比喩連鎖したものとして美があるわけで、どれもありよね、というのがわたしの論だ。正直つまんねーだろ? そんなもんが美の真理だなんて。だから学問はつまんないのよ。マジックの種を暴いちゃったらつまらないに決まってるじゃない。学者どもってな野暮な人間たちなんだ。
美にはケガレも浄化も、アブジェクシオンも言葉(象徴化)も両方必要なのです。浄化するケガレがなければ浄化という運動は成り立たないでしょ? めちゃくちゃ簡単に言うと。
もちろんトラウマがどう回帰するか、比喩連鎖するかは個人によるし、そう思えなんて言うつもりはさらさらないがね。
「女の人の「個」の問題」に目を向けた仲俣くんはなかなか筋がいいと思う。イヤミでもなんでもなく(って多少揶揄入ってるけど)。わたしゃ評論家じゃないし、どっちかっていうと野暮な人間なので、精神分析の理屈で考えると、って思って。
でもそれを、笙野氏が言っているように、
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それらと戦うためには、オトコとオンナ、オトナとコドモは、これまでの小説における固定的な役割を超えて「共闘」すべきだと思います。
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っていう結論に持ってきちゃうのがダメってことなのだよ。
「女の人の「個」の問題」に興味が向いたこと、そういう彼の嗅覚はある意味正しい。逆に言えばだからこそ笙野氏や笙野ファン(わたしを含む)が「釣れた」のだ。精神分析の理屈でもキミの論を補強できる。しかしそれについて、まさしく学問がやるみたいに理屈を覆い被せて、男性が連鎖しやすい美の構造に向かってという意味で、都合の良い自分勝手な(しかも構造的に古臭い)結論を持ってきているのが、癇に障るのだよ。正直リンク先やブログ読んでわたしも「はあ?」って思った。それを笙野は「(新しい)女性文学を読めていない」と言っているわけだな。
キミは、「きれいな目をしたジャイアン」の典型である。言い方が気に入らなければ、穏やかでなければならない強迫症でもよい。あるいは、神経症者の喩えとしてのメスカマキリに食われるオスカマキリでもよい。
――いいじゃんもう、「オレは女性文学は読めません」って言い切っちゃえば。自分の思想に自信があるならさ。きれいな目なんかやめて普通のジャイアンになれば。第22回野間文芸新人賞の奥泉さんとか、もっと言えば石原慎太郎みたいに。ボロ出すよか全然マシでしょ? わたしみたいな意地悪い野次馬ごろごろいるんだし、そんな状態を加速させているネット社会なわけだし。奥泉さん別にそれでほされてなんかないでしょーが。評論家と作家の違いはあるだろうけど。いやあえてうんこ投げ合う度胸も大事だけどね。どっちだってありさ。閉じこもるもうんこ投げ合うも。クリステヴァ的に言うならレシもカーニバルも。モノローグもダイアローグも。
そもそも笙野作品の、各作品のではなく全体的流れとして、その美(感動)のキモは、ケガレの中から球体が浮かび上がるという運動なわけで、この球体は笙野自身が最近よく口にする「仏教的自我」なりという「個」だ。球体が「個」に連鎖しているわけだな。『おんたこ第二部』なんか宗教的味付けだが現代思想の土俵で考えても「個」なるもののすごいところまで肉薄している。オンナ越えたな。笙野。まさに「真の女」。
笙野頼子という作家のわたしの評価は、娯楽的小説としても面白いし、思想オタクとして思想的に考えても、すごいし新しい、となる。
一方仲俣くんは、多分彼は彼で幸せなきれいな人生を送ってきたのだろう、潔癖症的にケガレを求めていると分析できる。矛盾していると思うかい? ごめんねこれが精神分析の口調なんだ。クリステヴァの『恐怖の権力』を紐解けばわかるように、自他の融合状態とはケガレに他ならない。ケガレというおぞましくも魅惑的なものなのだ。仲俣くんの場合は、この「自他の融合状態=オイディプスのラスト=ケガレの沼」が「オトコとオンナの「共闘」」に連鎖しているわけだな。だからどうしてもその論は「共闘」だとかという融合的な、一体化的な状態に帰着してしまう。いや別にそれが悪いとは言わんがね。そう思うのは自由だ。きれいな目をしたジャイアンにだって人権はあるさー。
この「オトコとオンナの共闘」は、わたしが今並べた理屈の中でなら、「エディプスコンプレックスと違い、ラカンの鏡像段階は、男女共通である」に当てはまるのかもしれない。
もしそうなら、わたしは「ごめんそんなところを結論にされても^^;」的な顔文字状態になってしまう。
ラカンやフロイトの精神分析理論を文学研究に応用したのがクリステヴァの記号分析学である。世界の文学研究は、キミが声高に謳い上げている結論の次のステージを行っているのだよ。
球体ってのを考えてみそ。球体ってのは、内部と外部を分離するものでもあるのだ。たとえそれ自体が完全な対称性を持っていようと、球体が存在すれば、球体とそれ以外の空間は、非対称なのだ。これが間主観的自己感の形成というドラマの構造なのだが、そういう意味では、融合と排斥両方の意味を示す「共闘」という言葉は、なかなかセンスあると思う。
だけどキミがわかっていない点、もっとも重要な点がある。それは、「オトコとオンナ」なりなんでもいいが、「共」となること自体がケガレであることを、キミは体感的認知できていないのだ。それを結論に持ってきてしまうこと自体が、ファルス的享楽から派生した男性性的欲望であることに気づいていないのだ。それが、癇に障るのだ。あたかも無自覚なレイプ魔のように見えるのだ。
なんて言いつつ、男性性的人格が、この「自他の融合とはケガレである」という体感が理解できないのもわたしはわかる。仕方ないさー。エディプスコンプレックスだなんていう固定観念増幅装置を背負って生きているわけで。女性や子供の方が傾向的にここに敏感だから、思想界では女性や子供なるものについての思考が一つの潮流(底流って言ってもいい)になっているのだ。中村雄二郎氏のこの本とか素晴らしくよくまとまってるよ。ちょっとだけ補足するなら、中村氏の言う「パトスの知」がケガレについての知ってことになるわね。これを逆に悪く言うなら、キチガイもそこに敏感なわけで、そういう理屈ならばキチガイバンザイとなる。わたしの言葉なら「キチガイ性をもっともおぞましく思っているのはキチガイ自身である」という反論になっていない反論を返すが。キチガイについての議論ならウェルカムよ。わたしにとってホームグラウンドだ。いくらでも韜晦のネタはある。とか言いながらアウトサイダーアートと本来のアートは区別すべきであるという立場をわたしは取っているがね。
要するに、分析的に仲俣氏の言葉を見たならば(精神分析とはシニフィアンの連鎖を分析するものである)、「共闘」などと言いながら、男性に特徴的な、エディプスコンプレックスに由来する固定観念に縛られた思想を、「オンナ」に押しつけていると言えるわけ。まさしくレヴィ=ストロースやフーコーが批判した態度そのものなのだ。キミの言葉は。
このエディプスコンプレックスというのは、大体男性性的人格において共通の構造を持っている。よって、理屈そのものではなく、理屈や比喩が連鎖していく構造が、大体他の男性性的人格のそれと似通ってしまうのだ。キミには自覚ないだろうけど、この連鎖していく構造が、他の多数の男性性的人格と似通っているから、多数派の権力となってしまうのだよ。女性はさっきも言ったように、超自我が弱いから=固定観念が薄いから、男性みたいにグループとしてまとまりにくい。だから象徴界的社会においては、常に女性が少数派となる。フェミニズム論者見てればわかりやすいっしょ? 男性的グループのように一枚岩になれない。そういうことだ。まあ巷でよく言われる言葉なら「女は身勝手だ」ってことよ。
巷に転がっている言葉は意外と真理を言い当ててたりする。フロイトは、精神分析がたくさんの臨床と理論を積み重ねて発見した精神構造を、詩人たちがあっさりと言い当てていることに驚いている。詩という文芸の力が弱まった現代でも、人は結構詩人なのですよ。あなたもわたしも。2ちゃんねらとかもね。
そう言えばキミどっかのラノベレーベルで対談してたじゃん? 編集者の方が評論家らしいいいこと言ってたなあ。快楽論なんかはある意味、ラカン論的な「欲望において譲歩してはならない」に通じる。一般的に言われている「欲望」とはちょっと違うかもしれないけどね。男性的なルールを守りたがる欲望っていうのもある。でも実はそれは、死の欲動というケガレ的なものが土台になっているのだよ。だからキミの「共生主義」なる思考を突き詰めたら、ケガレ的なものが見えてくるはずなのだけどなあ。まあエディプスコンプレックスの呪いが強いと固定観念も溶けにくいだろうしね。編集者の論は置いといて、キミの韜晦もなかなか面白かったよ。ラノベっていう土台の上では。
そこでキミこんなこと言ってなかったっけ?
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これまでの下読みの経験から言うと、本人にとっては心の奥底にある自分だけのものを出しているつもりなんんだろうな、っていう私小説系の作品だとしても、応募作のなかにはよく似たものがごろごろしてたりする。その一方で、ジャンルのお約束を頑なに守って、優等生的にまとめてきたものもあって、大体、そのどちらかに偏っちゃうんで、それは惜しいなって思う。
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うんうん。キミの思想も「自分だけのもの」と思っているかもしれないけれど、よく似たものがごろごろあるのよ。理屈の複雑さ、パズル的な面白さで言えば大学生レベルだと思うけどね。
まあ要するにこういった思考から紡がれるはずの「何故似ちゃうのだろう?」を学術的屁理屈で説明してあげたってことよね。それは書く方の問題でもあるが、読む方の問題でもあったりするんだけど。
近現代という時代。そういうきれいな目をしたジャイアン「たち」が民衆という多数派としての権力を振舞っていることに対し、レヴィ=ストロースなら未開文明、フーコーなら狂気、ラカンやクリステヴァならそれこそ無意識というケガレをもって異を唱えたのが構造主義以降の思想的潮流である。まーフェミニズムもその一つと言えるわな。フェミニズムが古いって言うなら、仲俣氏の思想構造は、もっと古い。古くていいじゃない。「オレは現代女性文学はワカラン」で。いや例の記事とかそこそこ読めてるとは思うけどね。わたしは。評論家の(理屈脳としての)平均レベルはよーわからんが、大塚英志よか上、東浩紀よか下、みたいなカンジだと思うよ。わたしの個人的ランキングではね。むしろ大塚氏は「読めない」のが魅力なわけじゃん。彼ってそういうポジション(文芸という場から見ると外部の人間)に自覚的だからあえて言うけど、最近は伝統的評論家口調になりつつあって面白いっちゃあ面白い。よっぽどこたえたんだろーな、笙野氏との論争。東氏は下手に読めちゃうからタチ悪い(4/4追記。どこかで「おお」と思える評論があってどれだっけかなと探してハッケン。 『郵便的不安たち#』の多和田葉子論だ。女が個を生み出す時の悲愴さ、途轍もない努力にそこそこ近づけている。まあそれさえも脱構築(メタ化?)しちゃう(しちゃった)んだろうけどね) 。いや元々わたしもデリダー(造語)だったし東論すげえと思うけど。動ポモ2はつまんなかった。斎藤環氏はあれラカン知らないと読めないでしょ? ある意味反則だから除外。いや「なんちゃってラカニアン」として言うなら面白いしすごいと思う。日本のジジェクとしてがんばって欲しいって言い過ぎか(ゴマゴマスリスリ)。一応補足しとくとこのブログでは彼のラカン的オタク擁護論に対し反論しております(こことかここのコメント欄)。ラカン論用いて。
仲俣氏の論を、思想オタクの視点から見るならば、理屈も簡単だし結論も連想構造(行間みたいなもんだと思いねえ)もいつの時代の人だという感じ。あれ、仲俣くんヘーゲルとか好きそう。似てる気がする。いやクリステヴァもヘーゲル好きだけど。飲茶ってバカがやってる『論客コミュニティ』とか覗くと楽しいかもしれない(宣伝宣伝)。
仲俣氏の論は、中沢氏や木村敏氏と同系統の「自他の融合バンジャーイ」構造であるが、正直言っちゃうと、思想としてチャラい。つまらない。あー固定観念ばりばりだなあって。パズルとして簡単すぐる。底が浅いのだ。まだ中沢氏やびんたんや元祖学者芸人の蓮實とかの言葉の方が遊べる。わたしは蓮實嫌いだがね。その芸人っぷりを見てたから。だからといって彼の言葉を利用しないってわけじゃない。面白いんだもん。パズルとしても。悪く言えば狡猾。わたし程度の理屈投げても絡め取られるに決まっておろう。だからわたしは力を溜める。蓮實はラスボスってことよね。つーか、
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(蓮實重彦のみはここでも批判の対象外なのが不思議だが)。
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とか書いているが奴の恐ろしさわかっているのかね、チミは。日本の知の頂点のさらなる支配者だべ? それに奴の本読んだらわかるだろう、あのひねくれまくった文体。どう反論したらいいのか、どう煽ったら本性表すのか(「釣れる」のか)がわからない。つかみどころがない。わたしレベルの理屈やケガレじゃかなわねーよ。
そんなわたしにバカにされるチミ。「それでもボクチンは~」とか言うのかい? 自分のことを棚に上げて、あるいは相手にスルーされるような(わたしですらそうとわかる)底の浅い言説をアリバイにして「蓮實から逃げているお前は卑怯」とか言うのかい? まさに笙野の言う知感野労みたいに。
中沢はやや狡猾。小ボス。芸人的には岡村隆史タイプ? だから中沢の方が好き。だめんず的なところがよい。そういう意味では蓮實は突き抜けただめんずだな。だめんずも極めればだめじゃなくなっちゃうもんだ。車谷長吉みたいに(最近はまっている)。
つっか政治的に振る舞うことの何が悪いのだろう? 基本ゲージツ家なんてマジシャン、あるいは詐欺師みたいなものだろうに。お前は中二病か。つっか潔癖症だな。潔癖症即ち虚弱体質。2ちゃん的に言うなら「煽り耐性」の虚弱ってことになるな。キミの「きれいな目」はいつまで経っても取れそうにないねえ。
この辺読んでると、この人は小説家に何を求めているのだろうか、と不思議に思う。
この中学二年生のボウヤは、「小説家」という言葉に対し、たとえば共同体のリーダーのような、清廉潔白な人格を勝手に思い入れているのだ。あるいは笙野頼子という人格を神聖化しているかのどちらかである。笙野あるいは小説家を神聖化しているから、完全無欠の清いものとして思っているから、あなたの思うケガラワシイ行為をすることに対し腹を立てているわけでしょ? 別に笙野だろうが小説家だろうが構わんが。
この人ジュネとかセリーヌとかアルトーとかどう読んでるんだろう?
これが、キミがケガレを見えていない証拠だ。ケガレが見えていないから、女性文学を読めないと言われているのですよ。
キミの思考は、キミが自覚できていない固定観念は、(大地母神的な)地に足がついていないのだ。
いや思想をぶってるんじゃなくて評論なわけだから、わたしの言い分はトンチンカンなんだけどさ。いーんだけどね。結構あなたみたいな大人多いよ。むしろ逆に若者の方に中二病コンプレックス的なものがあって、あなたみたいに何か大事な一つを神聖視できない風潮の方が問題だと思っている。そういう意味では、若い子についてはわたしは中二病擁護派。中年以降の男性にあなたみたいな人格類型は多いと思う。とても普通な人。正常か異常かっていうのは、精神分析論では多数決になっちゃうので、そういう意味では正常だと思う。――だから、つまんないんだけどね。
まあ、一人の現代思想オタクがあなたの文章を思想として読んだ場合の感想だと思って。思想としてもっとがんばれ、なんて言いません。
……でもごめん、これだけ言わせて。
チョーキメエwww
なんでそう思うかはリンク先読んでね。つっかわかりやすく言うと、キミが一部の笙野ファンたちの連帯に感じる「キモチワルサ」と同種のものだ。ほーれ、「共」とはキモチワルイものだろう? もちろん魅惑的なものでもあるがね。アブジェクシオン論のキモは、ケガレとはおぞましくも魅惑的である、両価的なものであるというところだ。トラウマ(心的外傷)は、全て情動的に両価的であるから、トラウマになるのだ。心的外傷を良く言うならば、心を揺り動かすのだ。深い感動となるのだ。フロイトは女性ヒステリー患者に対し「あなたはその嫌悪している男(夢分析によるもの)に犯されたがっているのですよ」と言って彼女を怒らせ、治療は失敗した。そういうことなのである。
まあ分析的に考えるならってこと。いや別にわたしをその連帯の一員と捉えてくれようが構わんが。お互い「キメエ」の方が世の中楽しいもんよ。うんこの投げ合いというカーニバル状態。
以上。
あ、追記の追記。なんかこの記事でネグリ氏について、
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この考えはいまでも変わらない。ためしに誰か、http://www.negritokyo.org/geidai/multitude/のテキストを、普通の人間にもわかる言葉に翻訳しなおしてほしい。
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とか書いているので、このサイトを紹介しておこう。
ギャグマンガだが結構読めていると思うよ。虹の奴とかおはぎの奴とか。少なくとも「わからーん」つって投げ出している奴なんかよりね。
まあさすがに相手がマンガじゃ可哀相なので、これとこの記事と読み比べてみましょう。
難しく考え「たがっている」のは、果たしてどちらでしょうか?
まーどーせわたしの文章も「これだからインテリは」とか言うのだろうなー。まーどーでもいーやー。
つまんね。
追記2。
とらさんとこのブログコメントできないので、(参照したついでに)この場でちょっと言うなら、多分わたしはとらさんの言う「統合失調症タイプ」なのでしょうねえ。
共同体なりという順応主義者たちの集団、あるいは環境、あるいは世界から、落とし穴に落ちるように、「ちょっとだけ別の世界」に片足突っ込んだ人。
確かに仰るように、アスペルガーが、「別の世界」に親近する領域を継続的に生きているのだとしたら、統合失調症者は、ある日突然「別の世界」に落ちちゃう(発症する)、みたいなカンジはします。
……だけどね。
わたしが両方の世界を端っこだけでも見ているとするならば、両方の世界をちょっとだけ知っている人間の言葉として聞いて欲しいのだけれど、いくら「別の世界」にいると自分では思っていても、順応主義者たちの世界は、特に現代社会は、想像よりはるかに狡猾でしたたかで柔軟性があるものだと思う。
自分では「別の世界」にいると思っていても、逆に世界がひねくれてしまって、自分を飲み込んでくることがある。気がつけば、飲み込まれていることがある。
ぬるぬるとしたセックスのような快楽をもって。真綿に包まれたような安心感を醸す甘いカスタードクリームのような世界をもって。それがいつ糞尿の沼の中に変わるかわからない不安定さをもって。
それなのに、その向こうにしか、カスタードクリームあるいは糞尿の向こう側にしか、救いがないように思える。とらさんの場合ならば、たとえばアリスさんなりと語らうこと自体が、順応になる。語り合うことは、言葉は、諸刃の剣だ。
順応することの向こうにしか、きれいな目をしたジャイアンたちの背後にしか、この苦痛の救いはない。少なくともこちら側には、もちろんかと言ってジャイアンどもの世界にも、存在しない。順応することが救いではない。その向こうにあるのが救いなのだ。
たとえそれが、ジャイアンたちの世界では、「死」と呼ばれる領域であろうとも。ジャイアンたちの世界では、逆にこの「別の世界」に救いがあると言われていようとも。東洋系の思想やら心系の学問やらでは多いよね、後者みたいな論。ちなみに言うと、華厳思想で描かれている「ケバケバしく毒々しい」極楽の風景は、わたしが見た「物が悪意になっている世界」とよく似ている。
その途中を生きるわたしは、糞便あるいはケガレのなかを生きているわたしは、糞便である。途中を、順応者の世界を生きるために、「死」だとか「うんこ」だとか言わないだけ(リアルでは)。
この記事では、きれいな目をしたジャイアンにとって、「人間は、私はケガレである」が終着点なら、笙野頼子は、「世界は、私はケガレである」が出発点だと書いた。たぶんとらさんも、後者なのだろう。
わたしは、それが途中。ふらふらしている。そういう生を生きてきた。中途半端な生を。だから、正常な生を平均台だとかに喩えてしまう。
……そんな状態であるっていう話だけで、どうしろだとかこうするべきだとかって話じゃありません。
この領域で話をすると、どうしても意味判断の根拠が喪失してしまいます。要するに、自分が何を言いたいのか、何をわかって欲しいのかが、論理的に明確にわからなくなってしまいます。
両方の世界に触れたから、意味判断の根拠が喪失してしまうのか。わたしは違うと思います。
「別の世界」こそが、意味判断根拠が喪失する世界なのだと感じられるのです。
ただ、そういうことを言いたかっただけ、という言葉にしかなりませんが、そういうことです。
そういうこと、なだけ。
これって……「面白い」といっていい快楽なのか。
笙野文体のリズムって、決して音韻的なものだけではないのよね。ラップとかそんな意味でのリズムではない。意味のリズム。イマージュのリズム。言葉の想像界的側面っていうと、大概の人は話し言葉における音韻に注目しがちだ。クリステヴァでさえそう。それは間違いじゃない。だけどそれだけじゃなくて、たとえば「黒い壁と白い煙」とか、視覚的リズムみたいなものだってあるじゃない。いやそれは音でもいい。「金属音のような会話の裏にある、重低音の駆け引き」などという、音を意味することで生じるリズム。例に挙げたのはリズムというより対比だけど、まあ対比ってのが「意味のリズム」を(ある一つの方法論として)要素に分解した場合の一要素なんだろうね。
言語の想像界側面を、話し言葉としての音のリズムだけだと誤解しているから、たとえば最近の文学界では、どこか方言バンザイという風潮がある。
わたしはむしろ書き言葉で方言を表現する方が、異物のように見える。なので異物としての方言、「ふるさとは遠きにありて憎むもの」としての方言なら、そのリズムは理解できる。たとえば車谷長吉氏の短編『抜髪』(『漂流物』所収)。たとえば(いきなりマイナーになってしまうが)ホラー作品としての、あせごのまん氏の短編『あせごのまん』(『余は如何にして服部ヒロシとなりしか』所収)。各作品の評論はここではおいておくが、感想レベルの蛇足をしておくならば、ホラーという意味では『抜髪』の方がよっぽどわたしは「おぞましかった」。あるいは笙野頼子氏の文体ならば、彼女はよく田舎の家族の言葉をカタカナで表現する。そういう異物感。
この異物感は、わかりやすく言うなら、テレビドラマで無理に方言を使うような「わざとらしさ」だ。標準語バンザイと言っているわけではない。公の場においては、書き言葉で方言を表すこと自体に何かしらの意味が生じる。今の「方言バンザイ風潮」は、その意味を自覚してなさそうなところが問題なのだ。
要するに、音韻的リズムを気取ってはいるが、意味としてのリズムが全くちぐはぐになっている文芸作品が、インプットとアウトプットのように「そういうもの」として評価に直結する今の文学界の滑稽さを問題にしたいのだ。
音韻的リズムを主題にして意味のリズムを、わざとシュルレアリスム的なちぐはぐなものとする、そんな文芸作品があっても構わない。それが評価されるのも、作品が優れていれば全然構わない。
ただ、今の想像界的作品バンザイ的文学界トレンドについて、お前らは本当にイマージュの快楽をわかっているのか、と問いかけたいのだ。
お前らは本当に、イマージュという、どろどろねばねばした自他未分化的なおぞましくかつ魅惑的な、不安や恐怖や嫌悪と表裏一体の快楽を楽しんでいるのか、とわたしは問うているのだ。
わたしがこれほどその風潮を嫌悪してしまうのは、方言という本来おぞましいもの(もちろん魅惑的なものでもあるけれど)としてあるべき母性信仰的なものを、(本当の言葉の意味として)同性愛的に見ているポスト・フェストゥムたちの、きれいな目をしたジャイアンたちの、まさしくファルス的な暴力のように思えるからだ。
クリステヴァも確かに文章の音韻に目をつけた。彼女はそこから象徴界とそれ以外の境界としての、あるいはその境界を侵犯するものとしてのセミオティックな領域を見出し、おぞましくも魅惑的なるものというアブジェクシオン論を紡ぎ出したのである。
別に「ふるさとは遠きにありて思うもの」であって構わない。遠くにあるからこそ思うものなのだ。距離があるからこそ、母性信仰的なおぞましくも魅惑的な、ケガレ的なものが浄化されているのだ。
しかし現代文学の方言は、「遠き」にない。
おぞましくも魅惑的なテリブルマザーが隣に座っているのに、その化粧だけを見て、それを愛おしんでいる鈍感者たち。
文芸をつまらなくしているのは、多数派としての自分たちのせいだと気づけない幸せな人たち。
そんな自己批判的な場にいるから、文学は終わったなんて言っちゃうのだよ。まあしないよりマシなんだろうけど、自己批判なんてな個人がするもんであって集団としてのルールではない。
文壇とかそんな具体的な話じゃなく、目に見えない檻の中。
とても簡単な構図でした。
女性作家に対してとても偏向した評価をする笙野氏が、川上未映子氏をどう評価するのか。彼女の思想スタンスから言えば同じ川上の弘美ちゃんなんか攻撃してしかるべきだと思うのだが作家にそんなことを言う方がアホウってもんだろうし。あーでも弘美ちゃんもアブジェクシオン描けてるもんなあ。小川洋子氏言うところの「台所の床下収納庫にある腐ったタマネギ」だっけ、そんなんみたいな。切り取り方が上手くオヤジの萌えどころを突いている「だけ」ならそう思える。弘美ちゃんが裏で「うわこんなんで萌えてるオヤジきめえwww」とか言っている姿を想像するならば。テリブルマザーは狡猾なのです。わたしなんかは弘美ちゃんの小説に萌えるオヤジもオタクもそう変わらない、って思っちゃうけどなあ。どうしてもオヤジ向け萌え小説に思える。いや「萌え」つっても好きなのあるし(四コマとか)、弘美ちゃんの作品も「面白い」けど。
もちろんリンクしたような笙野氏の態度は政治的かつ戦略的なところもあろうしって別にどうでもいいや。作品が面白ければ。
川上未映子氏の作品も、「面白い」。いや『イン歯ー』しか読んでないけど。でも何故かどこかきれいな目をしたジャイアン臭がする。それも含めて「面白い」。現代的であるとわたしは思う。そういう評価もわかる。たとえば阿部和重氏の過剰な形式性を特徴とする文体について、形式ばった文学論を当てはめるのは野暮ってものだし、それこそ阿部氏あるいはオタク文化をはじめとする現代文化の思う壺である。「ネタにマジレスを~」って奴だ。わたしもそっちの立場を取るだろう。基本2ちゃねらだしB級好きだし。
しかしこの記事では、そういった表層だけではわからない、それこそ方言なりという非形式的な、女性的なものの表層で押し隠してはいるが、そうだからこそ「むしろ」全体から漂ってくる雰囲気について、わたしは言及したい。この「むしろ」は、精神分析の理屈ならば「自由連想などで言明されなかった言葉(ラカンなら比喩連鎖の隙間に落ちたもの)がクライアントにとっての真理である」と同じ構造だ。
説教ではないのにどこか説教臭がする。なのでスルーっていうか沈黙してたんだけど、おーあくたがー賞とったのかーと思ってちょろちょろ関連記事読んでたらなんだ飲茶と同じ永井均派かよって知って納得。あー、ふんふん。飲茶なんかよりよっぽど優秀な弟子になるだろう(この文章は飲茶へのリップサービス。つか宣伝してあげてるんだからなんかおごれ)。
つっか非形式性の過剰さによって、ヌーヴォー・ロマン的なものに対して「ネタにマジレスを~」をやってるのだろうね。対称的なつまらない言い方すれば。そこが「面白い」のか。いやでも非形式性は過剰とまではいってないのだよねえ。どんなにシュルレアリスム的な「芸術とは爆発だ」やっても、少なくとも時が経てばアンディ・ウォーホルじゃないけど反復(コピー)化する。むしろ過剰じゃないから「ネタにマジレスを~」となるのか。こっち(現代)側からやるなら、中途半端だからこそ「ネタにマジレスを~」と言えるわけか。なるほろ。トレンディ(笑)みたいなカンジ?
どっちにしろ「ネタにマジレスを~」は神経症がやる逃避だけどね。それが面白いわけで。阿部くんのも。いやわたしは好きだ。阿部くん。阿部くんの方が逃避に専念している気がする。逃避するということに逃避していない。未映子ちゃんはそこまでいっていない。いってないからヌーヴォー・ロマン的なものに対して「ネタにマジレスを~」になれる。
阿部くんの、現代男性的系列では、目のきれいなジャイアンに対して「ネタにマジレスを~」になるんだけど、そこを突き詰めたシュルレアリスム的なりヌーヴォー・ロマン的なものに対して、未映子ちゃんみたいな現代的「クリトリスが肥大した女性(精神分析的文脈で読んでね)」が「ネタにマジレスを~」をするならば、目のきれいなジャイアンになっちゃう、ってことか。……うーん、対称的でつまらねえ要約だ。
まあ要はどっちも「ネタにマジレスを~」みたいな神経症的逃避感が「面白い」みたいな。オイディプスだって最後は目を刺して逃避したし。逃避って意味を拡げるために言うなら。逃避したっていいじゃない。面白ければ。
一方、笙野氏の作品は、「面白い」と言っていいのかわからない快楽。
ただ、それだけのことです。
笙野氏の作品はよく「わからない」って言われるけど、理解しようとするからわからなくなるわけで、まさしく「考えるな、感じろ」なのです。
笙野氏の作品も説教っぽい形の文章はあるんだけど、確かにそこが「考えさせようとしている」サインに見える。わかる。純文学という旗印もそれを加速させているのだろう。だけど彼女の場合は、異物として見ていられる。それは彼女の文章からは、「共同体から何かを排除する」という意味での異物というより、「あなたとわたしはお互いに異物である」という覚悟のような前提が感じられるからだ。「個」であるという覚悟。わたしが笙野氏の作品を読んでいる時、笙野氏とわたしはお互いに「個」なのだ。「小説の世界に入り込むとか主人公に感情移入とかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ」である。
短絡的に換言するならば、川上氏の文体には、「あなたとわたしはお互いにとってのキチガイである」という、「個が個であるための冷酷無残な、悲劇的な覚悟」みたいなものが欠けているように思える。断っておくけどそれは悲劇的雰囲気が足りないという意味ではなく、笙野氏自身の言葉なら「極私的言語の戦闘的保持」って奴だ。
うー……、たとえば、個人主義と共同体主義という、ざっくり短絡的なきれいな目をしたジャイアン風な対比をするなら、笙野氏は前者で川上氏は後者になるということ(ここについてはあくまで短絡的比喩的表現として捉えてね。カーサン文章下手デゴメンネ)。
この覚悟だけの話をするなら、まだ、黒ミサや悪魔や鬼や地獄に惹かれてしまう「黒い少女」たちの方に、わたしはそれを感じる。
一方、「きれいな目をしたジャイアン」たちは、「共同体として(共同体の一員として、ではない)生きること」という「愛」を、暴力的に押しつけてくる。
川上氏は本音を書けていない。氏に(女性的なるものを)期待する立場で言うならそういう要約になるだろう。そういう期待ならわたしは金原ひとみ氏とかに期待する。中途半端さを中途半端にしていないって意味で。だから他人がこの記事を読んでこんな要約したら、わたしは「違う」って言う。
どうであれ笙野氏はそこら辺より一人突き抜けているのは確か。共同体側から見ると、そういう状態は「閉じこもり」に見えるのかもしれないけど。ばーい斎藤環氏著『文学の徴候』。いや斎藤氏もいいところ突いていると思うよ。「女性の方が本質的に引きこもり人間なのではないか」なんてのはわたしの論ならば「女性性とスキゾイドの類似」(って過去記事参照しようと思ったけどそう書いてるのなかった……。あれえ? いやまあこの記事ではアスペルガーとの親近性を述べているが。つっか「?」の使い方が笙野作品の『カニバット』みたいで自分でワロタ)に共鳴するだろう。
(蛇足的補足。短絡的にアスペルガーとスキゾイドをイコールで結ばないのと同じように、女性とスキゾイドをイコールで結ばないよ。学問的共同体としてのわたしの立場では。比喩みたいなもんだと思って。人格で人格を喩えるってなんか最低な人間みたいでちょっと楽しい)
うー、最近どうもわたしって退行加減がおかしい……。金原ひとみ氏的な、あるいは二階堂奥歯氏的な「黒い少女」感とかきめえだったのに。自分がそのケあるからだけど。てか文芸的パワーなら、わたしの場合は、奥歯氏の方が突き刺さった。
いやまあ、わたしだって、「モノとは悪意である」ではなく「うんこ」を使うのは、説教的な意思が、共同体としてのわたしという感覚が働いているのだろうし。
笙野氏の最近の『おんたこシリーズ』だって説教的表層の強化ってカンジだし。それについては本人も第二部の後書でなんか書いてたけど、彼女自身が述べている通り、たとえ説教的表層が強くなろうと、作品の「単純に面白いと言っていいのかわからない快楽」は減退していない。
あー、ふんふん。
追記1。
ここまで書いて笙野氏と阿部氏ってどっかで絡んでなかったっけと調べてたらこういう記事を見つけた。
笙野氏が批判してる「ニュー評論家」の人じゃーん、なんか笙野ファンサイトではぼこぼこにされてるしぃ、なんて思いながら読んでみた。
……意外と読めてるんじゃない?
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『だいにっほん~』はある意味で、十分に面白い小説だった。もちろんこの「面白い」という感想には、複雑な気持ちが含まれている。というのも、この作品を切実な気持ちで読むには、この本で批判されている「おんたこ」のダメさ、ヘタレさに、どこか身に覚えがある必要があるからだ。少なくとも男の読者がこの本を読んで快哉を叫ぶことはあり得ない。好きで選んだわけでもなく、仕事というだけでこの本を読んで論じるように言われたら、男の物書きのほとんどは困惑するだろう。自分を高みにおいて、他人事のように語れる小説ではないからだ。
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よくわかってるじゃん。男でここまで言えるのは立派。いやまあ少なくともプロの評論家なわけだし当然なのかもしれないけど。
後、笙野語ってて何故か阿部くん連想しちゃうのって、すげえわかる。就職前の大学生みたいなモラトリアム的皮肉さをもって阿部くんが語っている「なんだかわからない気持ち悪い世の中に蔓延する空気みたいな何か」と、笙野氏が敵に回してセリーヌのように罵詈をばら撒いている対象は、同じものだと思うもん。
でもなー、この人には笙野の言う「真の女」ってのは一生わからないんだろうなあ、と思った。男性だし別にわからなくてもいいと思うけどね。つかこんなこと書くとコエエとか思いながらも付け足すならば、一部の熱狂的笙野ファンもわからないと思う。わたしも別にわからないでいいけど。わたしには(たとえば)「モノとは悪意である」というわたしの言葉、ファルスがある。これと笙野氏なり誰かの言葉と突き合わせるだけ。こうやって三百六十度敵になるんだろうなあ、わたしって。まあいいや。かかってこいやー。「うんこ」投げつけ合いましょ。つーか笙野の言う「極私的言語」って言葉よく考えてみなよ。
仲俣氏に戻る。彼の本とか買う気が起きないのでこの記事を参照してみよう(なんか新ブログに移行しているみたいなのでそちらも一応)。
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彼女らの書いている小説が、最終的には女の人の「個」の問題に尽きてしまうのではないか、と思うからです。
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うん。当たっている。「だが、それがいい」のだよ。何故かって? あったりまえじゃん、「女の人の「個」の問題」こそが、現代では「美」の本質に肉薄しているからだろうが。たとえばとしてこの記事を挙げておこうか。
評論家を名乗っているくらいだからジュリア・クリステヴァの名前ぐらいは知っておろう。基本(今の)わたしはクリステヴァ論者なので、主に彼女の論に依拠して説明していく。
どろどろぐちょぐちょした自他未分化的なアブジェクシオンの沼から、お風呂の中でするオナラみたいに、ぽっかりと球体が浮かび上がる。
なんかこのオッサン鈍そうだから補足しておこう。精神分析では言葉はよくボールに連想されることがわかっている。夢分析やら自由連想とかで。「会話はキャッチボールだ」という比喩もこの流れだな。後はキリスト教の「初めにロゴスありき」でも参照すればよい。
ケガレという沼から言葉という完全対称的な球体が浮かび上がる、あるいは沈んでいく運動が「美」なのだよ。クリステヴァの『恐怖の権力』読んでたらわかるだろ。
笙野氏の場合、この浮かび上がる球体は、たとえばスクナヒコナであり飼い猫でありそれこそ純文学だとも言えよう。ケガレの沼とは、笙野氏自身に課せられた「女」という言葉であり、彼女を「ブス」と厭い続けてきた世界であり、彼女自身だ。だけどそれらは笙野頼子という個人のモノでしかない。彼女は作家なわけだから、それを言葉で代理表象する。
先ほども書いたように、球体や沼が美の問題なのではなくて、両方あってそれらが相互的に関与する運動が、関与する二項が一体的なものである状態と隣り合わせの運動が、美なのである。『金毘羅』などは、ケガレの沼という一体的な状態から「金毘羅」という象徴を得ることでそこから一歩踏み出した運動を描いた物語だと言える。ケガレの中で「何か」が象徴化=浄化されている。だから感動するのだ。それがカタルシスだ。この「何か」を示すのはそれこそ精神分析ひいては学問のダメなところだから「何か」にしておく。理由は後述。
オイディプスが自ら目を潰し大地をさまようのは、球体がケガレの沼に飲み込まれるという一歩だから感動するのだが、男の精神世界では、この旅の終着点としてのさまようオイディプスが、美として連想されがちである。笙野が批判している柄谷氏の「文学は終わった」論もこの構造やね。とても男性的。あれは彼なりの美、揶揄的に言うならカッコつけなのである。いいか悪いかは置いといて。
こういう美が男性性に特徴的なのは、まさにエディプスコンプレックスが原因となっている。わたし的解説でよいならこの記事参照。フロイト論に倣うと、エディプスコンプレックスを通過しない(去勢というトラウマ度が弱い)女性は超自我が弱いなんていう論理に連鎖するがね。でもこれってよく言えば、女は男より固定観念が薄く、自由な連想が可能であるってことも意味するのだよ。モノなんて言い様なのです。
そういった、ケガレに球体が飲み込まれる運動とは逆方向の美が笙野が描くカタルシスである。逆方向とは言ったが実は同じものである(これについては後述)。こちら側の、鈍感な大人であるわたしたちの視点からなら逆と言った方がわかりやすいのでそう言っている。男の固定観念の周縁、象徴界の周縁としてのケガレ=セミオティックな領域から、「個」として笙野は一歩を踏み出したのだ。
こういった、ケガレの沼から球体が生じる、あるいは沼に球体が沈んでいく、一体的な状態を特異点として、人間の思考は輪廻している。なーんかこういう泥沼文章に中沢新一氏の論入れるの躊躇われるけど、『芸術人類学』で言っているメビウスの輪だな。ネジレがその特異点。そう考えるとレヴィ=ストロースの神話方程式もなんとなくどんなことを言っているかわかるだろう。
この美の瞬間は、よく出産に喩えられる。そりゃそうだろうな、ケガレを連鎖する「女性」から「玉のような」赤ちゃんが生み出されるわけだから。
ここで引っかからないかい?
出産という現象があるから、美の瞬間がそう連想されるのではなく、美の瞬間がそういう構造だから、たまたま出産という現象が比喩的に「うまくマッチ」したため、美だと言われてきたのである。
ラカンの鏡像段階論を参照すれば、実はそうであることがよく理解できる。わたしの解説ならこの辺だな。美に纏わる比喩連鎖の、日常的現実(ラカン的な意味での現実ではなくという意味でこう書く)的な原因を学術的に求めるのならば、生後六ヶ月ぐらい以降の乳児が体験する世界の大激動なのであって、出産が美の原因ではないのだ。この時に乳児が人類普遍的に通過する世界の大激動が、トラウマ的に心の中に残り、今のわたしたちの美という比喩連鎖網を生み出しているのだ。その連鎖網の中に、たとえばオイディプスの物語がありーの、出産がありーの、『金毘羅』がありーの、というわけ。そーいや保坂和志氏もこの鏡像段階に注目してなかったっけか。いや保坂ダイスキだけど。ちなみにクリステヴァのアブジェクシオン(「棄却すること」という意)論は、鏡像段階論と背中合わせのものである。「棄却」しなかったものをラカンは説いたわけだ。
この時の乳児は象徴界に参入し切ってはいない。言語の卵である象徴的ファルスを手に入れているのみだ。クリステヴァ論ならセミオティックな領域を生きている。そこから統辞的、文法的な言葉の世界に参入する段階が、エディプスコンプレックスだ。
象徴(シニフィアン)の統辞的構造を把握していないわけだから、この世界の乳児に(今のわたしたちが思うような)時間という感覚はない。その上シニフィアンの基礎である象徴的ファルスも得ていない乳児から見れば、沼に沈んでいくのか沼から浮かび上がるのかというのは、同じことである。ラカンなら想像界における無時間性を参照してもよい。斎藤環氏著『戦闘美少女の精神分析』にそこら辺書いてあったよ。
エディプスコンプレックスと違い、ラカンの鏡像段階は、男女共通である。鏡像段階というトラウマが男性性傾向のある人格に再帰したのがエディプスコンプレックスだな。正確に言えば。あんまラカンラカンいうとあれなので(こっちの事情。心理学やってる人ってラカンコンプレックス多いみたいでさ)、スターン論参照するならば、間主観的自己感の形成というドラマだな。
笙野氏の思想に戻るなら、「出産しない女は女じゃない」みたいな男性的思想を批判していたが(『レストレス・ドリーム』とかだっけ? 忘れた)、精神分析論を参照してもそれは誤りだと言える。
一時期、文芸研究に精神分析理論が多用されたことは評論家ならご存知だろう。そんな中、フロイト派は「なんでもかんでもエディプスコンプレックスに結びつけてつまんねえ」と批判された。ユング派の元型の多彩さとか考えるとわたしもそう思う。ユング派の文芸研究の方が読んでて楽しい。
先にも言った通り、ラカンの鏡像段階は、フロイトのエディプスコンプレックスのさらなる原因を掘り返したものだ。人格形成史を遡ってその原因を突き止めたものである。この鏡像段階が美という精神状態の原因と考えるならば、エディプスコンプレックスという道具しかなかったフロイト派の気持ちもわからなくないだろう。
あーいや門外漢に説教する気はないがね。要するに、出産やオイディプスを美しいと感じる理由と、「女の人の「個」の問題」を美しいと感じる理由は同じだよ、ということを言いたいのだ。同じ構造をしているから、美しいと思えるのだよ、ってこと。どれが正しいなんてあるわきゃないさ。美の(学術的)真理の位置には鏡像段階っていう大人視点で見るとつまんねーものがあるだけで、それが比喩連鎖したものとして美があるわけで、どれもありよね、というのがわたしの論だ。正直つまんねーだろ? そんなもんが美の真理だなんて。だから学問はつまんないのよ。マジックの種を暴いちゃったらつまらないに決まってるじゃない。学者どもってな野暮な人間たちなんだ。
美にはケガレも浄化も、アブジェクシオンも言葉(象徴化)も両方必要なのです。浄化するケガレがなければ浄化という運動は成り立たないでしょ? めちゃくちゃ簡単に言うと。
もちろんトラウマがどう回帰するか、比喩連鎖するかは個人によるし、そう思えなんて言うつもりはさらさらないがね。
「女の人の「個」の問題」に目を向けた仲俣くんはなかなか筋がいいと思う。イヤミでもなんでもなく(って多少揶揄入ってるけど)。わたしゃ評論家じゃないし、どっちかっていうと野暮な人間なので、精神分析の理屈で考えると、って思って。
でもそれを、笙野氏が言っているように、
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それらと戦うためには、オトコとオンナ、オトナとコドモは、これまでの小説における固定的な役割を超えて「共闘」すべきだと思います。
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っていう結論に持ってきちゃうのがダメってことなのだよ。
「女の人の「個」の問題」に興味が向いたこと、そういう彼の嗅覚はある意味正しい。逆に言えばだからこそ笙野氏や笙野ファン(わたしを含む)が「釣れた」のだ。精神分析の理屈でもキミの論を補強できる。しかしそれについて、まさしく学問がやるみたいに理屈を覆い被せて、男性が連鎖しやすい美の構造に向かってという意味で、都合の良い自分勝手な(しかも構造的に古臭い)結論を持ってきているのが、癇に障るのだよ。正直リンク先やブログ読んでわたしも「はあ?」って思った。それを笙野は「(新しい)女性文学を読めていない」と言っているわけだな。
キミは、「きれいな目をしたジャイアン」の典型である。言い方が気に入らなければ、穏やかでなければならない強迫症でもよい。あるいは、神経症者の喩えとしてのメスカマキリに食われるオスカマキリでもよい。
――いいじゃんもう、「オレは女性文学は読めません」って言い切っちゃえば。自分の思想に自信があるならさ。きれいな目なんかやめて普通のジャイアンになれば。第22回野間文芸新人賞の奥泉さんとか、もっと言えば石原慎太郎みたいに。ボロ出すよか全然マシでしょ? わたしみたいな意地悪い野次馬ごろごろいるんだし、そんな状態を加速させているネット社会なわけだし。奥泉さん別にそれでほされてなんかないでしょーが。評論家と作家の違いはあるだろうけど。いやあえてうんこ投げ合う度胸も大事だけどね。どっちだってありさ。閉じこもるもうんこ投げ合うも。クリステヴァ的に言うならレシもカーニバルも。モノローグもダイアローグも。
そもそも笙野作品の、各作品のではなく全体的流れとして、その美(感動)のキモは、ケガレの中から球体が浮かび上がるという運動なわけで、この球体は笙野自身が最近よく口にする「仏教的自我」なりという「個」だ。球体が「個」に連鎖しているわけだな。『おんたこ第二部』なんか宗教的味付けだが現代思想の土俵で考えても「個」なるもののすごいところまで肉薄している。オンナ越えたな。笙野。まさに「真の女」。
笙野頼子という作家のわたしの評価は、娯楽的小説としても面白いし、思想オタクとして思想的に考えても、すごいし新しい、となる。
一方仲俣くんは、多分彼は彼で幸せなきれいな人生を送ってきたのだろう、潔癖症的にケガレを求めていると分析できる。矛盾していると思うかい? ごめんねこれが精神分析の口調なんだ。クリステヴァの『恐怖の権力』を紐解けばわかるように、自他の融合状態とはケガレに他ならない。ケガレというおぞましくも魅惑的なものなのだ。仲俣くんの場合は、この「自他の融合状態=オイディプスのラスト=ケガレの沼」が「オトコとオンナの「共闘」」に連鎖しているわけだな。だからどうしてもその論は「共闘」だとかという融合的な、一体化的な状態に帰着してしまう。いや別にそれが悪いとは言わんがね。そう思うのは自由だ。きれいな目をしたジャイアンにだって人権はあるさー。
この「オトコとオンナの共闘」は、わたしが今並べた理屈の中でなら、「エディプスコンプレックスと違い、ラカンの鏡像段階は、男女共通である」に当てはまるのかもしれない。
もしそうなら、わたしは「ごめんそんなところを結論にされても^^;」的な顔文字状態になってしまう。
ラカンやフロイトの精神分析理論を文学研究に応用したのがクリステヴァの記号分析学である。世界の文学研究は、キミが声高に謳い上げている結論の次のステージを行っているのだよ。
球体ってのを考えてみそ。球体ってのは、内部と外部を分離するものでもあるのだ。たとえそれ自体が完全な対称性を持っていようと、球体が存在すれば、球体とそれ以外の空間は、非対称なのだ。これが間主観的自己感の形成というドラマの構造なのだが、そういう意味では、融合と排斥両方の意味を示す「共闘」という言葉は、なかなかセンスあると思う。
だけどキミがわかっていない点、もっとも重要な点がある。それは、「オトコとオンナ」なりなんでもいいが、「共」となること自体がケガレであることを、キミは体感的認知できていないのだ。それを結論に持ってきてしまうこと自体が、ファルス的享楽から派生した男性性的欲望であることに気づいていないのだ。それが、癇に障るのだ。あたかも無自覚なレイプ魔のように見えるのだ。
なんて言いつつ、男性性的人格が、この「自他の融合とはケガレである」という体感が理解できないのもわたしはわかる。仕方ないさー。エディプスコンプレックスだなんていう固定観念増幅装置を背負って生きているわけで。女性や子供の方が傾向的にここに敏感だから、思想界では女性や子供なるものについての思考が一つの潮流(底流って言ってもいい)になっているのだ。中村雄二郎氏のこの本とか素晴らしくよくまとまってるよ。ちょっとだけ補足するなら、中村氏の言う「パトスの知」がケガレについての知ってことになるわね。これを逆に悪く言うなら、キチガイもそこに敏感なわけで、そういう理屈ならばキチガイバンザイとなる。わたしの言葉なら「キチガイ性をもっともおぞましく思っているのはキチガイ自身である」という反論になっていない反論を返すが。キチガイについての議論ならウェルカムよ。わたしにとってホームグラウンドだ。いくらでも韜晦のネタはある。とか言いながらアウトサイダーアートと本来のアートは区別すべきであるという立場をわたしは取っているがね。
要するに、分析的に仲俣氏の言葉を見たならば(精神分析とはシニフィアンの連鎖を分析するものである)、「共闘」などと言いながら、男性に特徴的な、エディプスコンプレックスに由来する固定観念に縛られた思想を、「オンナ」に押しつけていると言えるわけ。まさしくレヴィ=ストロースやフーコーが批判した態度そのものなのだ。キミの言葉は。
このエディプスコンプレックスというのは、大体男性性的人格において共通の構造を持っている。よって、理屈そのものではなく、理屈や比喩が連鎖していく構造が、大体他の男性性的人格のそれと似通ってしまうのだ。キミには自覚ないだろうけど、この連鎖していく構造が、他の多数の男性性的人格と似通っているから、多数派の権力となってしまうのだよ。女性はさっきも言ったように、超自我が弱いから=固定観念が薄いから、男性みたいにグループとしてまとまりにくい。だから象徴界的社会においては、常に女性が少数派となる。フェミニズム論者見てればわかりやすいっしょ? 男性的グループのように一枚岩になれない。そういうことだ。まあ巷でよく言われる言葉なら「女は身勝手だ」ってことよ。
巷に転がっている言葉は意外と真理を言い当ててたりする。フロイトは、精神分析がたくさんの臨床と理論を積み重ねて発見した精神構造を、詩人たちがあっさりと言い当てていることに驚いている。詩という文芸の力が弱まった現代でも、人は結構詩人なのですよ。あなたもわたしも。2ちゃんねらとかもね。
そう言えばキミどっかのラノベレーベルで対談してたじゃん? 編集者の方が評論家らしいいいこと言ってたなあ。快楽論なんかはある意味、ラカン論的な「欲望において譲歩してはならない」に通じる。一般的に言われている「欲望」とはちょっと違うかもしれないけどね。男性的なルールを守りたがる欲望っていうのもある。でも実はそれは、死の欲動というケガレ的なものが土台になっているのだよ。だからキミの「共生主義」なる思考を突き詰めたら、ケガレ的なものが見えてくるはずなのだけどなあ。まあエディプスコンプレックスの呪いが強いと固定観念も溶けにくいだろうしね。編集者の論は置いといて、キミの韜晦もなかなか面白かったよ。ラノベっていう土台の上では。
そこでキミこんなこと言ってなかったっけ?
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これまでの下読みの経験から言うと、本人にとっては心の奥底にある自分だけのものを出しているつもりなんんだろうな、っていう私小説系の作品だとしても、応募作のなかにはよく似たものがごろごろしてたりする。その一方で、ジャンルのお約束を頑なに守って、優等生的にまとめてきたものもあって、大体、そのどちらかに偏っちゃうんで、それは惜しいなって思う。
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うんうん。キミの思想も「自分だけのもの」と思っているかもしれないけれど、よく似たものがごろごろあるのよ。理屈の複雑さ、パズル的な面白さで言えば大学生レベルだと思うけどね。
まあ要するにこういった思考から紡がれるはずの「何故似ちゃうのだろう?」を学術的屁理屈で説明してあげたってことよね。それは書く方の問題でもあるが、読む方の問題でもあったりするんだけど。
近現代という時代。そういうきれいな目をしたジャイアン「たち」が民衆という多数派としての権力を振舞っていることに対し、レヴィ=ストロースなら未開文明、フーコーなら狂気、ラカンやクリステヴァならそれこそ無意識というケガレをもって異を唱えたのが構造主義以降の思想的潮流である。まーフェミニズムもその一つと言えるわな。フェミニズムが古いって言うなら、仲俣氏の思想構造は、もっと古い。古くていいじゃない。「オレは現代女性文学はワカラン」で。いや例の記事とかそこそこ読めてるとは思うけどね。わたしは。評論家の(理屈脳としての)平均レベルはよーわからんが、大塚英志よか上、東浩紀よか下、みたいなカンジだと思うよ。わたしの個人的ランキングではね。むしろ大塚氏は「読めない」のが魅力なわけじゃん。彼ってそういうポジション(文芸という場から見ると外部の人間)に自覚的だからあえて言うけど、最近は伝統的評論家口調になりつつあって面白いっちゃあ面白い。よっぽどこたえたんだろーな、笙野氏との論争。東氏は下手に読めちゃうからタチ悪い(4/4追記。どこかで「おお」と思える評論があってどれだっけかなと探してハッケン。 『郵便的不安たち#』の多和田葉子論だ。女が個を生み出す時の悲愴さ、途轍もない努力にそこそこ近づけている。まあそれさえも脱構築(メタ化?)しちゃう(しちゃった)んだろうけどね) 。いや元々わたしもデリダー(造語)だったし東論すげえと思うけど。動ポモ2はつまんなかった。斎藤環氏はあれラカン知らないと読めないでしょ? ある意味反則だから除外。いや「なんちゃってラカニアン」として言うなら面白いしすごいと思う。日本のジジェクとしてがんばって欲しいって言い過ぎか(ゴマゴマスリスリ)。一応補足しとくとこのブログでは彼のラカン的オタク擁護論に対し反論しております(こことかここのコメント欄)。ラカン論用いて。
仲俣氏の論を、思想オタクの視点から見るならば、理屈も簡単だし結論も連想構造(行間みたいなもんだと思いねえ)もいつの時代の人だという感じ。あれ、仲俣くんヘーゲルとか好きそう。似てる気がする。いやクリステヴァもヘーゲル好きだけど。飲茶ってバカがやってる『論客コミュニティ』とか覗くと楽しいかもしれない(宣伝宣伝)。
仲俣氏の論は、中沢氏や木村敏氏と同系統の「自他の融合バンジャーイ」構造であるが、正直言っちゃうと、思想としてチャラい。つまらない。あー固定観念ばりばりだなあって。パズルとして簡単すぐる。底が浅いのだ。まだ中沢氏やびんたんや元祖学者芸人の蓮實とかの言葉の方が遊べる。わたしは蓮實嫌いだがね。その芸人っぷりを見てたから。だからといって彼の言葉を利用しないってわけじゃない。面白いんだもん。パズルとしても。悪く言えば狡猾。わたし程度の理屈投げても絡め取られるに決まっておろう。だからわたしは力を溜める。蓮實はラスボスってことよね。つーか、
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(蓮實重彦のみはここでも批判の対象外なのが不思議だが)。
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とか書いているが奴の恐ろしさわかっているのかね、チミは。日本の知の頂点のさらなる支配者だべ? それに奴の本読んだらわかるだろう、あのひねくれまくった文体。どう反論したらいいのか、どう煽ったら本性表すのか(「釣れる」のか)がわからない。つかみどころがない。わたしレベルの理屈やケガレじゃかなわねーよ。
そんなわたしにバカにされるチミ。「それでもボクチンは~」とか言うのかい? 自分のことを棚に上げて、あるいは相手にスルーされるような(わたしですらそうとわかる)底の浅い言説をアリバイにして「蓮實から逃げているお前は卑怯」とか言うのかい? まさに笙野の言う知感野労みたいに。
中沢はやや狡猾。小ボス。芸人的には岡村隆史タイプ? だから中沢の方が好き。だめんず的なところがよい。そういう意味では蓮實は突き抜けただめんずだな。だめんずも極めればだめじゃなくなっちゃうもんだ。車谷長吉みたいに(最近はまっている)。
つっか政治的に振る舞うことの何が悪いのだろう? 基本ゲージツ家なんてマジシャン、あるいは詐欺師みたいなものだろうに。お前は中二病か。つっか潔癖症だな。潔癖症即ち虚弱体質。2ちゃん的に言うなら「煽り耐性」の虚弱ってことになるな。キミの「きれいな目」はいつまで経っても取れそうにないねえ。
この辺読んでると、この人は小説家に何を求めているのだろうか、と不思議に思う。
この中学二年生のボウヤは、「小説家」という言葉に対し、たとえば共同体のリーダーのような、清廉潔白な人格を勝手に思い入れているのだ。あるいは笙野頼子という人格を神聖化しているかのどちらかである。笙野あるいは小説家を神聖化しているから、完全無欠の清いものとして思っているから、あなたの思うケガラワシイ行為をすることに対し腹を立てているわけでしょ? 別に笙野だろうが小説家だろうが構わんが。
この人ジュネとかセリーヌとかアルトーとかどう読んでるんだろう?
これが、キミがケガレを見えていない証拠だ。ケガレが見えていないから、女性文学を読めないと言われているのですよ。
キミの思考は、キミが自覚できていない固定観念は、(大地母神的な)地に足がついていないのだ。
いや思想をぶってるんじゃなくて評論なわけだから、わたしの言い分はトンチンカンなんだけどさ。いーんだけどね。結構あなたみたいな大人多いよ。むしろ逆に若者の方に中二病コンプレックス的なものがあって、あなたみたいに何か大事な一つを神聖視できない風潮の方が問題だと思っている。そういう意味では、若い子についてはわたしは中二病擁護派。中年以降の男性にあなたみたいな人格類型は多いと思う。とても普通な人。正常か異常かっていうのは、精神分析論では多数決になっちゃうので、そういう意味では正常だと思う。――だから、つまんないんだけどね。
まあ、一人の現代思想オタクがあなたの文章を思想として読んだ場合の感想だと思って。思想としてもっとがんばれ、なんて言いません。
……でもごめん、これだけ言わせて。
チョーキメエwww
なんでそう思うかはリンク先読んでね。つっかわかりやすく言うと、キミが一部の笙野ファンたちの連帯に感じる「キモチワルサ」と同種のものだ。ほーれ、「共」とはキモチワルイものだろう? もちろん魅惑的なものでもあるがね。アブジェクシオン論のキモは、ケガレとはおぞましくも魅惑的である、両価的なものであるというところだ。トラウマ(心的外傷)は、全て情動的に両価的であるから、トラウマになるのだ。心的外傷を良く言うならば、心を揺り動かすのだ。深い感動となるのだ。フロイトは女性ヒステリー患者に対し「あなたはその嫌悪している男(夢分析によるもの)に犯されたがっているのですよ」と言って彼女を怒らせ、治療は失敗した。そういうことなのである。
まあ分析的に考えるならってこと。いや別にわたしをその連帯の一員と捉えてくれようが構わんが。お互い「キメエ」の方が世の中楽しいもんよ。うんこの投げ合いというカーニバル状態。
以上。
あ、追記の追記。なんかこの記事でネグリ氏について、
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この考えはいまでも変わらない。ためしに誰か、http://www.negritokyo.org/geidai/multitude/のテキストを、普通の人間にもわかる言葉に翻訳しなおしてほしい。
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とか書いているので、このサイトを紹介しておこう。
ギャグマンガだが結構読めていると思うよ。虹の奴とかおはぎの奴とか。少なくとも「わからーん」つって投げ出している奴なんかよりね。
まあさすがに相手がマンガじゃ可哀相なので、これとこの記事と読み比べてみましょう。
難しく考え「たがっている」のは、果たしてどちらでしょうか?
まーどーせわたしの文章も「これだからインテリは」とか言うのだろうなー。まーどーでもいーやー。
つまんね。
追記2。
とらさんとこのブログコメントできないので、(参照したついでに)この場でちょっと言うなら、多分わたしはとらさんの言う「統合失調症タイプ」なのでしょうねえ。
共同体なりという順応主義者たちの集団、あるいは環境、あるいは世界から、落とし穴に落ちるように、「ちょっとだけ別の世界」に片足突っ込んだ人。
確かに仰るように、アスペルガーが、「別の世界」に親近する領域を継続的に生きているのだとしたら、統合失調症者は、ある日突然「別の世界」に落ちちゃう(発症する)、みたいなカンジはします。
……だけどね。
わたしが両方の世界を端っこだけでも見ているとするならば、両方の世界をちょっとだけ知っている人間の言葉として聞いて欲しいのだけれど、いくら「別の世界」にいると自分では思っていても、順応主義者たちの世界は、特に現代社会は、想像よりはるかに狡猾でしたたかで柔軟性があるものだと思う。
自分では「別の世界」にいると思っていても、逆に世界がひねくれてしまって、自分を飲み込んでくることがある。気がつけば、飲み込まれていることがある。
ぬるぬるとしたセックスのような快楽をもって。真綿に包まれたような安心感を醸す甘いカスタードクリームのような世界をもって。それがいつ糞尿の沼の中に変わるかわからない不安定さをもって。
それなのに、その向こうにしか、カスタードクリームあるいは糞尿の向こう側にしか、救いがないように思える。とらさんの場合ならば、たとえばアリスさんなりと語らうこと自体が、順応になる。語り合うことは、言葉は、諸刃の剣だ。
順応することの向こうにしか、きれいな目をしたジャイアンたちの背後にしか、この苦痛の救いはない。少なくともこちら側には、もちろんかと言ってジャイアンどもの世界にも、存在しない。順応することが救いではない。その向こうにあるのが救いなのだ。
たとえそれが、ジャイアンたちの世界では、「死」と呼ばれる領域であろうとも。ジャイアンたちの世界では、逆にこの「別の世界」に救いがあると言われていようとも。東洋系の思想やら心系の学問やらでは多いよね、後者みたいな論。ちなみに言うと、華厳思想で描かれている「ケバケバしく毒々しい」極楽の風景は、わたしが見た「物が悪意になっている世界」とよく似ている。
その途中を生きるわたしは、糞便あるいはケガレのなかを生きているわたしは、糞便である。途中を、順応者の世界を生きるために、「死」だとか「うんこ」だとか言わないだけ(リアルでは)。
この記事では、きれいな目をしたジャイアンにとって、「人間は、私はケガレである」が終着点なら、笙野頼子は、「世界は、私はケガレである」が出発点だと書いた。たぶんとらさんも、後者なのだろう。
わたしは、それが途中。ふらふらしている。そういう生を生きてきた。中途半端な生を。だから、正常な生を平均台だとかに喩えてしまう。
……そんな状態であるっていう話だけで、どうしろだとかこうするべきだとかって話じゃありません。
この領域で話をすると、どうしても意味判断の根拠が喪失してしまいます。要するに、自分が何を言いたいのか、何をわかって欲しいのかが、論理的に明確にわからなくなってしまいます。
両方の世界に触れたから、意味判断の根拠が喪失してしまうのか。わたしは違うと思います。
「別の世界」こそが、意味判断根拠が喪失する世界なのだと感じられるのです。
ただ、そういうことを言いたかっただけ、という言葉にしかなりませんが、そういうことです。
そういうこと、なだけ。