笙野頼子が捏造する神話。それを助長する「おんたこ」というトーテム。
2008/04/05/Sat
笙野頼子氏は東浩紀氏を批判する。当然だと思う。
現代オタクたち、即ち、前部族としてのマニアというパラノイア的特徴を持つ人格を反面教師にし、スキゾイドという人格理想を掲げ、その興味の多動性などという特徴を「斜に構えた熱狂」という作法で叶えようとして、結果、作法は当然の如くシニフィアン化し形骸化し超自我化し、多数派の人種としてのパラノイア的人格が保持あるいは強化されてしまった部族(記事1、記事2、記事3、記事4)。前部族に対しレジスタンスを起こしながら、保守勢力に飲み込まれ理想が霧散してしまった部族。
何も変わらなかった部族。
オタクという部族は、スキゾイドという人格を仮面化したのみで、むしろ仮面化したことにより、補償作用が働いてしまい、前部族的なマニア化してしまったのだ。それは、フェミニズムが敵に回していた西洋近代的自我主義たる保守傾向と本質が同化してしまったことを意味する。
だから、笙野氏は言う。「ヘタレ」と。
しかし、東氏は、彼の言葉なら動物化の推進を、わたしの言葉ならキャラクター化の推進を説くのをやめない。
意固地になっているのだろうか。わたしは違うと思う。
中沢新一氏や中野昌宏氏は、資本主義をシニフィアンの増殖と読み解き、批判している。恐らくそれは間違っていない。利子という概念が存在する限り、原理的には金銭は無限に膨張していく。たとえ途中でバブル崩壊やデフレが起きようと、それは大局的に見れば、膨張の踊り場に過ぎない。
しかしわたしは、ここで何度も言っているが、トレーダーである。資本主義者である。消費者という権力者であることを、自覚的に選択している。
何故ならわたしは、経済の中に神を見出していないからだ。シニフィアンの増殖の中で、泡に塗れて腰を振ることの何が悪いのだろうと、サバトを快楽する。
エディプスコンプレックスを解消したければ、資本を手に入れればよいのだ。劣等コンプレックスを解消したければ、他人よりお金を稼げばよいのだ。
B・N・Fという2ちゃんねる株板のコテがいる。ご存知の方も多いだろうから、wikipediaの項目をリンクするのみにする。
一方、飲茶というコテもいる。ご存知の方も多いだろうから、その負け犬っぷりを記録した自身のサイトをリンクするのみにする。
単純にわたしは、飲茶をバカにし、B・N・Fを尊敬する。
この時のわたしは、まさに「クリトリスが肥大した女性」に他ならない。
事実、飲茶に対しては名無しで彼に何度も説教したし、コテで知り合いになってからも、何度か株ゲームについて講釈をぶった。
どっちかというと、彼に勝って欲しいからではなく、もっと負けて欲しかったので、わざと典型的な説教を選んだ。
……だってその方が彼面白いんだもん。
ともかく、かのごとくわたしは資本主義者である、ということだ。札束で労働者の頬を張る資本家である(いやそんな言うほど勝ってないけど)。
お金というのは単なる数字である。B・N・F氏の心理を分析すれば、多分彼はゲームのスコアのようにしかその資産額を見ていないだろう。その方が勝てるからである。これは体感として断言する。ゲームのスコアのようにお金を見た方が、勝てる。
逆に、お金という数字に欲望が纏わりつくと、株は勝てなくなってしまう。欲望の構造は、人類共通だからだ。ゲームであるからには、先の読み合いである。資産額が小さいほど、一円当たりの所持者の欲望は大きくなるだろう。従って、その所持者の行動パターンは読めてしまう。結果、彼はそのなけなしのオゼゼを、大人(資産額が大きい投資家)に搾取されてしまう。
まあこんな説明しなくても『カイジ』を読めば大体雰囲気は掴めるだろう。
B・N・F氏のように、お金というシニフィアンから欲望が剥落する。それは資本主義の崩壊を意味する。欲望があるから、それが「ケガレから浮かび上がる球体」を比喩連鎖するから、増殖の基本原理である利子システムが機能するのだ。
なのでわたしは、資本主義が行き過ぎると崩壊してしまうという原理を自覚して、サバトを楽しむ。退廃的に。
経済に神はいないと思うから、退廃を快楽できる。
一方わたしは、芸術や学問には、まだ神を信じている。
この記事で、わたしは人一倍神を篤く信仰する故の無神論者である、と書いたが、それは芸術と学問という領域でのことである。経済という領域では、神をガンムシしている故無神論さえ述べることのない、ただの獣である。エコノミックアニマルである。
だから、わたしは芸術および学問についての論は、ゲームと思っていない。ゲームならば騙し合いになるが、わたしはそれらの論に嘘を挟まない。挟むこともなくはないが、挟むことは罪、あるいはケガレだと思っている。
笙野氏は、純文学に神を信じていることを公言している。
従って、芸術領域、たとえばオタクという表現文化について、わたしと彼女の論は同方向を向く。
また笙野氏は、坂東眞砂子氏の猫殺しについて批判していることなどから、狭い領域では、愛玩動物という領域において、もっと拡大して言うなら、『金毘羅』などを読むと、レヴィ=ストロース言うところの「真正な社会」、ラカン的に言うなら「想像的社会」の領域において、神を信じているように思えるが、それはここでは触れるに留めておく。
東氏は、芸術領域の神を、頑として想定しない。理論的には、学問についてもそうだと言えるだろう。脱構築とはそういうことである。ラカン論を否定神学だとして批判するのはそういう理由からである。
だから、彼は動物化を推進する。
理屈的には、とても簡単な構造である。
しかし、果たしてそうであろうか。
学問領域について言えば、彼の態度は、とても動物だとは言えない。
学問の動物化は、実は日本においては既に経験されている。ニューアカデミズムだ。その推進派の黒幕が蓮實重彦氏だ。
では東氏はニューアカの残党なのか。
ニューアカの目的は、学問の自覚的卑俗化である。ここではわたしの主観に依拠してそう仮定する。永井均氏などはよい例となろう。しかしニューアカの代名詞のような存在であった浅田彰氏などは、本人の意志は違うようだ。彼はむしろ卑俗化と逆方向のニーチェ的「個」を思考しているように見える。永井氏も、確信犯ではあろうが故意犯とは言えない。むしろ天然だとわたしは思う。確信犯的かつ故意犯的と言えるのは、蓮實氏と中沢新一氏くらいしか思いつかない。だからわたしは彼らを学者芸人と呼ぶ。しかし蓮實は嫌いだが中沢のだめんず臭は何故か好きである。お笑い芸人に対するファン心理みたいなものだ。なのでその是非の議論はここでは避ける。いや別にわたしのくだらねえだべり垂れ流してもいいんだが今はホレイショ様ハァハァなので書く気が起きない。
吉本隆明氏は比較的卑俗に身近だったと言える。彼が女性ファッション雑誌に登場した事件などは、(男性視点で言えば)ケガレに近づいた一瞬だと言えるだろう。しかしそれはケガレのほんのごくごく表層に過ぎない。もちろん吉本自身もこの事件をもって女性のケガレ的領域に肉薄したなどとは述べていない。「俗」から「卑俗」へ近づいた一歩と言えなくはない、というだけのことである。埴谷雄高氏などは敏感に反応したが。ともかく彼が、「女」というシニフィアンが内包するケガレを体感できたとは言い難い。彼のやっていたことは、マッチ売りの少女への同情に過ぎなかったのだ。
柄谷行人氏については、オタク文化が目指した理想人格の一人だとわたしは思っている。だから笙野氏が、オタク文化を批判する文脈に繋げて彼を批判するのは体感的に納得できる。わたしの論では、オタク文化が目指した理想人格はスキゾイドである(結果としてそれは仮面化にしかならなかったが)。柄谷氏がスキゾイドか、アンテ・フェストゥムかポスト・フェストゥムか、については議論の分かれるところであろうが、わたしはアンテではないかと思う。wikipediaで彼について書かれてある「強迫観念」は、ある意味ポスト的に思えるが、その行き当たりばったりさを考慮するなら、快楽主義的に思想をとっかえひっかえしているスキゾイドの特徴であるとも言える。であるならば、柄谷氏は症状的に笙野氏と類似した世界を生きていると思われる。
一方笙野氏は、学生時代はオタク的生活を送ってきた。現代のそれとは多少異なるだろうが、オタク文化と近しい世界を生きてきたのだ。
この記事で、笙野氏が批判する柄谷の「文学は終わった」論は、彼なりの「ケガレに球体が飲み込まれる美」であり、笙野氏が紡ぐ美は、「ケガレから球体が浮かび上がる美」であると書いた。確かに対照的である。しかしそれらは、学術的理屈によれば、真理の位置にあるものは同じだと示した。男女の違いという理屈を付け加えるならば、男性は傾向的に「ケガレに球体が飲み込まれる美」に固定観念的に縛られており、女性にはその縛りはない。つまり女性は、「飲み込まれる美」も「浮かび上がる美」も両方ありだと言えるのだ。事実笙野氏の初期作品群は、伝統的な男性的純文学の空気を醸している。これについては、一人称の変化という視点で清水良典氏(『笙野頼子 虚空の戦死』)が論じていることを参照できるだろう。
笙野氏は、自分が克服した(そもそも縛られてなかったのかもしれない)「球体がケガレに飲み込まれる美」という束縛を、自分と同種のアンテ・フェストゥム人間である柄谷氏が何故克服できないのか、という意味で憤っているのではないか。わかりやすく言うならば、ふがいないライバル(あるいは象徴的父)への怒りである。スキゾイドである彼ならば、「終わる、死んでいく美」だけではなく、「始まる、生み出される美」についてもわかっているはずだ、あるいは、「始まる美」を何故文学に適用しないのか、という苛立ち、とでも言おうか。いやこれは筆者の苛立ちである。正直スマンカッタ。
精神分析的に意地悪く言うのなら、鏡像的なもう一人の「あるべき」「あったかもしれない」自分(を柄谷氏に投影した他者)に対する怒りである。鏡像的なライバル的他者に対する負的感情については、寺山論ではあるが野島直子氏の『ラカンで読む寺山修司の世界』が見事に描けている。
象徴的父への幻滅から、父に対し騎士道精神的な「本当の愛を見せつけてやる」という精神構造が、本当の意味での異性愛たる女性同性愛だ。「女」という言葉そのものに「ケガレ=アブジェクト(棄却されたもの)=異」という意味が含まれているため、象徴界即ち超自我に則るならば、女性同性愛は完全な異性愛と言えるのだ。しかし笙野氏は、『水晶内制度』でその隣を通過しながらも、女性同性愛に留まらなかった。彼女は、自己愛としての同性愛ではなく、異性愛としての女性同性愛でも男女愛でもなく、異性愛かつ究極の純愛として、「真の女」を欲望したのだ。彼女はウラミズモで男性の人形、愛する異性としての男性の死体を、燃やしてしまう。父は死して法となる(フロイト)のだから、死体を燃やしてしまうことは、彼女の異性愛が法を超えたことを意味する。単なる父殺しではなく、父殺しを殺してしまったのだ。
母殺しも忘れてはいけない。『母の発達』だ。そこに描かれるのは、まさしく唾棄すべき母、テリブルマザーである。老人になるまで母に依存していた娘から、母はテリブルマザーらしく身勝手に離れていく。テリブルマザーは地に帰るのではなく、子供に殺害されることもなく、自分勝手に天に昇った。これはクリステヴァ論ならば、「汚れから穢れへ」に当てはまるだろう。地に戻ってしまっては、アブジェクシオンのままである。殺害されてしまっては、殺人犯である依存する子供は呪われ同一化してしまう、即ちテリブルマザー化するだけである。ケガレが自分勝手に天に昇ったから、テリブルマザーが法となり得たのだ。
これに、先ほどの異性愛が法を超えたこと、父殺し殺しが付け加わり、笙野は多神教の供犠として、法的、シニフィアン的にはケガレになるはずの「真の女」を愛することが可能になった。同時に、それだけではたとえば坂東眞砂子氏のように性快楽主義的思想になりがちなところを、テリブルマザーをメタ化、法とすることで、動物的欲と世界宗教的な禁欲が複合する、象徴界においては存在しえない愛の形が、可能になったのだ。父の代わりに母が、象徴界の境界線、夢分析で言うところの検閲者となったのだ。これにより、たとえばインディアン神話のような、動物と人間が入れ替わり結婚したりするのに、アナーキー的、倒錯的、破滅的ではないという、エロティックなのに自制的という、現代人から見れば不可解なロジックが可能になるのだ。笙野が捏造するウラミズモの神話には、そんな不可解さが感じられる。
ここまでの過程は、現代文化に生きる読者たちを、未開文明の精神世界に誘う役割となるだろう。ユング的に簡単に言ってしまえば、現代文化側、男性側の言葉で言うなら、エディプスコンプレックスの遡及的乗り越え、要するに退行の過程である。
寡聞なわたしの言い分になるが、これほど実存感、アクチュアリティを持った退行を、しかしながらアナーキズムや倒錯や破滅に帰着することなく、根拠のある倫理内に、精緻に多神教文化(未開文明)の倫理内に着地した文章を、小説だけではなく論文、詩、古典文芸も含めて、見たことがない。
……やがて、供犠の際、切り落とされた首あるいはペニスとして、スクナヒコナあるいは彼女の飼い猫を、「真の女」は産出する。それを所有することで、彼女は神に近似する「個」を得た。『金毘羅』である。『おんたこ第二部』において、仏教的自我について語る時、「所有」という言葉が強調されるのはこのためである。
これについては正直意外だった。これはラカンの鏡像段階論とあっさり符号してしまう。非言語的な原初的一なる言語、象徴的ファルスを所有するのが、「個」の誕生を意味するからである。これは逆に言えば、いかに笙野と言えども「個」なり「美」という固定観念、普遍的構造に抗えなかったということになるが、逆に考えるならば、わたしの立場である「アウトサイダーアートと本来のアートは明確に区別されるべき」の線引きに、(現在のところ)鏡像段階を設置している論について、笙野からの無自覚な援護になる。多神教文化であっても、鏡像段階が美の学術的真理であることは普遍であると。――よかった。笙野論を書いているといつも肛門が収縮してしまうのだが、唯一わたしの救われる点を発見できた……。
単純に考えるなら、このままこの「個」が育てば、男性的主体、精神分析的に言うならばクリトリスが肥大した女性、つまり現代人と変わらぬ主体が育つだけ、と考えられもする。
しかし、彼女の象徴界の境界は、セミオティックは、超自我の検閲者は、父ではなく母なのだ。
ここで描かれている「個」は、固有の倫理を持ったキチガイなのだ。統合失調症あるいは自閉症を、誕生直後から背負っているのに、未開文明の倫理は持っているのだ。文化史的には、我々が忘れ去った始原の倫理を持っているキチガイであり、「個」なのだ。現代では統合失調症あるいは自閉症と呼ばれる人格が、前史の未開文明に生れ落ち、しばらくそこで育った後、現代にタイムスリップしてきたのだ。
彼女がいくら男性的な現代社会で育っても、三つ子の魂百までである。彼女の始原の倫理は、どんなに形が変わろうとも、本質的原型は残るだろう。
現代の男根主義的文化は、柄谷氏の「文学は終わった」という言葉が象徴するように、疲弊している。ペニスは萎えている。男性的抑鬱症者は、インポテンツなのだ。
もしかすると、笙野が描くこの母を法とした「個」は、たとえそれが笙野頼子という作家の死後のことだとしても、現代の無意識領域含めた我々の文化を、変えてしまうかもしれない。
――なんて恐ろしい、おぞましいことだろう。なんて、背筋が震えるほど、魅力的なことだろう。
ネグリ氏来日中止どころの話ではない。もっと始原的で、体感的で、過激で、現実化され得る明確な根拠を持ち合わせている革命論が、紀伊國屋で普通に売られているのだ。国家なんてちっぽけなものではなく、その上位に座する倫理を覆すことが可能な革命家が、のほほんと千葉の佐倉で猫の糞を片付けているのだ。一人暮らしの部屋でPCに向かって何やらぶつぶつ独り言を呟いているのだ。
……いささか滑り気味な言い方だと自分で思うが、この文章がその「個」の目についたらと思うと、呪われてしまいそうで、本気で怖い。わたしの愛する神を、父を、そいつが殺してしまいそうな気がする。その死体さえも、燃やされてしまいかねない。その時わたしの神は、わたしを道連れにしてくれるだろうか。そんなことを夢想すると、手足の冷え性がひどくなる。
これはウラミズモなどという架空の国の話ではない。笙野はリアルのこの日本という国で、神話を捏造しているのだ。もっとも新しく、かつもっとも古い神話を。
河合隼雄氏の死が惜しまれる。この一連の作品のすごさを、男性社会に向けて翻訳できるのは、わたしは彼しか思いつかない。このわたしの、レジュメ程度のまとめでさえも、男性には上っ面しか伝えられてないのがわかる。
あるいは中沢氏に、その戦略をあえて引いてもらって、芸人という使命を一時忘れてもらって、ケガレという現実に向かい合ってもらえば、わたしのよりマシな文章が出てくるだろう。なんだかんだ言っても、遥か昔のこととは言えど、一度は悟りの境地に触れたことのある学者である。クリステヴァもやってたんだし。
蛇足になるが、わたしの思想変遷を辿ると、どうやら現在は文中の坂東氏に似た領域にいるようである。わたしは、リアルではそんなこと言わないが、チャットなどでは「(享楽的)快楽原理主義者」と名乗ることが多い。
筆者の緊張は冷めやらぬようだが、この「個」に立ち塞がる、障害になるであろう現代的男性的社会のトーテム、「おんたこ」たちの話に戻ろう。
わたしの論を言うならば、男性の彼らは一様にアブジェクシオンあるいはケガレについて理解、少なくとも体感的認知できていない。「卑」俗化だと思えていないだろう。ケガレが欠落した彼らの「俗化」は、単に「チャラい」だけとなる。蓮實氏などは、フローベールの『紋切型辞典』を論じながら、その自虐的芸人性(ピエロに近いか)を強調する。そこから展開し、バルトというもう一人の芸人(わたしはそうは思わない)がその論をネタにしなかったならば、クリステヴァの論は意味を持たなかった、とまで言い切る。彼の世界では、アブジェクシオンというケガレの中を継続的に生きている、生きてしまう人間が排除されている。アスペルガーやスキゾイドや統合失調症者や女性的抑鬱症者や笙野頼子などと言ったアンテ・フェストゥム人間は、その苦痛は、彼の世界ではネタという形でしか存在しない。
などと言ったが蓮實は笙野を評価する。存在しないものを評価できるのは、彼の賛嘆すべき韜晦能力によるものである。テリブルマザーより遥かに狡猾なやり方で。女性が個を勝ち取るために労する途轍もない努力、覚悟を、わかったような顔だけ見せて、固定観念的に得た男性的個で飲み込もうとする。その評価は彼の権力によって価値が生じるため、作家はそれを甘んじて受けねばならない。受けたとしてもその独特のひねくれた韜晦文体のおかげで、信仰者あるいは反抗者たちは「神の導きに従い」、笙野の努力、覚悟を無化することはない。従って、笙野にとっては、蓮實と組することに何も損は生じない。作家が、あるいは学者が政治的に振る舞うことの何が悪いのか、わたしは正直わからない。政治的に振る舞ったら即悪なのか。善悪とはそんな単純なものなのか。思想的政治的にどうであろうと、蓮實だって彼女の視点で見れば、ただの一人の読者、されど一人の読者なのだ。
笙野氏が学問に神を見ているかどうかは、わたしは断言できない。わたしは笙野頼子ではないからだ。ただ笙野氏が純文学において神を見ているように、わたしは学問において神を信じている。その神による善悪をもって悪と見做したならば、学問の場に流通する言葉を用いて批判するだけのことである。もちろん誤りがあれば罪を負う。
ともかく、柄谷氏に見出された東氏の、そのオタク文化擁護論は、動物化論は、そういったニューアカの流れを汲んでいると言ってよいだろう。
となれば、ある意味脱構築の一手段として、オタク文化という俗をダシにしているとも考えられる。
……果たしてそう単純に言い切れるのか。
わたしは、経済において神を信じないが、芸術と学問においては信じると書いた。
果たしてそんな矛盾がまかり通るのか。それは神と呼べるのか。神ではなくとも精神構造として、そんな無意識の切り替えをしているのだろうか。自覚できないからこそ無意識ではないのか。
そう考えると、むしろわたしは、神を信じているからこそ、サバトを楽しんでいるのかもしれない。いつか振り下ろされる冷酷な神の鉄槌を期待して。
いや逆かもしれない。わたしが芸術や学問に見ている神は、笙野が見ているような本当の、オリジナルの神ではなく、マゾヒスティックな快楽の道具として、サディスティックな理想的人格を想定しているだけかもしれない。
後者ならば、わたしは東氏の論陣に組することになる。
正直言うならば、彼の動物化推進言説は、経済という領域に置き換えると納得できてしまう。
彼は、シニフィアンの増殖により、神の鉄槌、あるいはサディストの鞭たる崩壊を求めているように思えるのだ。
ポスト・フェストゥム人間が動物化することにより、解離症的、離人症的症状を経由したとしても、最終的には、シニフィアンの自壊性により(デリダなら差延になろう)、「人類皆ケガレである、よって私はケガレである。鬱だ死のう」というポスト・フェストゥム的な男性的抑鬱症に帰結することを、彼は直観しているように思える。
このニューアカの行った学問の卑俗化は、大衆化と同値ではない。大衆の知の向上のためになどという理由ではなく、キルケゴールなどのように(大方の)学徒が最終的に抑鬱に帰結してしまうことへの反省に過ぎない。鬱に対する防衛として、学問の卑俗化が行われたのである。そういう無意識の要請を、2ちゃん的「ネタにマジレスを~」強迫症に連鎖する神経症的逃避を、わたしは感じる。いや、神経症的逃避は悪いことではない。「ケガレに球体が飲み込まれる美」と表裏一体的に訪れる喪失感を恐れて、一歩いや半歩だけ退行しているということだ。従って、学問の神と対面する一歩手前、即ち消失(アファニシス)の一歩手前、即ち喪の発生の一歩手前で、彼らは立ち止まる。神を俗に売り渡して。「ネタにマジレスを~」強迫症とも似通っている蓮實氏のその芸人っぷりは、そういう無意識的要請があるのだ。
彼らは自身の抑鬱から逃れるために、卑=ケガレの中で生きるアンテ・フェストゥム人間の唯一の拠り所である神を、俗に売り渡してきたのだ。
アンテ・フェストゥム人間の見る神は、ポスト・フェストゥム人間の見る神とは全く姿が違う。ポスト人間のそれはそれこそ消失や無や抑鬱を連想させるものに対し、アンテ人間のそれは華厳思想の極楽のようにケバケバしく毒々しい、快楽的な、過剰な世界である。極彩色で肉感的な、おぞましくも魅惑的な神である。
民衆に神を売り渡すことで、自分たちが選民的に背負ってきた抑鬱的な神という重荷を、分散させようとしたのだ。しかしそのことは、人口的に少数派であるアンテ人間の、豊穣で多彩な、おぞましくも魅惑的な神を奪うこととなってしまった。
キリスト教が、多神教文化を駆逐してきたように。
いや、彼らの性質の悪さは、キリスト教的、父性的な神が、無や消失や抑鬱をもたらすことを知っていながら、それを布教した点にある。
キリスト教は、多神教を飲み込み続けてどうなったか。聖霊主義的な、マリア信仰的な、大地母神信仰からケガレを取り去った、きれいなだけの母神信仰という歪んだ信仰を生み出した。
それと同じ過ちを、ニューアカは、故意犯的かつ確信犯的に布教したのだ。結果を予測できていながら、自らを救うために、儀式を執り行ったのだ。
この潮流が直撃した仲俣暁生氏などの、笙野氏が批判する「ニュー評論家」たちは、むしろその儀式の被害者と呼べなくもない。仲俣氏などは嗅覚は鋭い方だと思う。だから彼は、蓮實に対するコンプレックスを押し隠さない。ある意味素直な性格だと言える。とはいえ彼の文章からは、どんな理屈やレトリックを配しようと、チャラさ、芸人臭は抜けないだろう。あたかも、「斜に構えた熱狂」という作法をどうしても捨て去ることができない、現代オタクたちのように。ちなみに言うと、これは「中二病」恐怖症と同値である。
卑俗化という呪いのせいで、彼は、学の世界、理の世界を突き進むことができないのだ。
とはいえ、鬱の分散は、クリステヴァならホルバイン論のように、芸術家は多く行っていることである。芸術家でなくても、抑鬱症者の関係者、支援者などは、その「黒胆汁」を自らの身に分有させようとしている。この分有は、転移なくしては生じない。転移とは自他の融合と近似する。自他の融合こそが嫌悪的かつ魅惑的なケガレである。よってわたしはニューアカの行った「黒胆汁の分有」を、大衆化ではなく卑俗化と呼ぶ。
エクリチュールの生産及び破壊という行為は(クリステヴァならシニフィアンスは)、即ち文芸創作という行為は、一種の自己治療の側面もある。ラカンのジョイス論もこれに当たる。もちろん作家によってその比重は変わるだろうが。日本であれば車谷長吉氏などはそのようなことを明言している。氏の作品の読者は、少なくともわたしは、彼が彼自身を救うための行為と知りながら、進んでそのケガレを共有する。むしろ、ケガレを共有することで、彼の症状を悪化させたがっている。ケガレを増幅させたがっている。
視点を変えれば、蓮實や中沢についても、悲劇の主体と見えなくもないのだ。だからわたしは彼らをだめんずと呼び、蓮實氏はともかくオウム事件というわかりやすい悲劇を経験した中沢氏に対しては、好感を持ってしまう。
東氏に戻ろう。
東氏は、オタク文化に限らず、ニューアカ以前の学問が見てこなかった大衆について、非常に敏感であると言える。これはニューアカの態度と類似する。
彼はとてもサービス精神が旺盛である。この2月には、2ちゃんねるにコテハントリップ付きで降臨なされたようだ。
彼の行動や、彼を奉る信仰者、周辺を見ていると、芸人という言葉は当てはまりづらい。かといって教祖とまではいかない。教祖臭なら何故か中沢氏の方が強い。わたしなんかは何故だめんず臭そして芸人臭という彼の魅力に気づけないのだろう、と不思議に思う。
信仰者はほっといても勝手に信仰してくるものなので、東氏の責任ではない。彼の素振りに教祖になりたがっている欲望は感じられない。
最近のお笑い芸人は、小島よしおや鳥居みゆきなど、あたかも「芸術は爆発だ」のような、日常を打ち破る狂気が求められている、と述べている記事がある。同感である。個人的には鳥肌実が入っていれば完璧だった。
東氏は、学者芸人と言うより、この狂気に近しい思考をしているのではないか。もちろんお笑い芸人などではないので、その振る舞いが狂気染みているなどと言っているのではない。蓮實や中沢があくまで芸人という役割を背負っているのに対し、東氏は、シュルレアリストのような役割を背負っている、という言い方がもっともしっくりくる。
シュルレアリストの表現行為は、常に判断が難しいものである。たとえばその作品が大衆向けなのか一部の通たちに向けてのものなのか。倫理的に好ましいものなのか破壊的衝動によるものなのか。そういった垣根をかき混ぜるのがシュルレアリスムという潮流の一つの役割であった。これはまさに脱構築の思考と共鳴する。
すべての垣根が、境界が取り払われた状態とは、混沌である。どろどろぐちょぐちょした自他未分化的な、アブジェクシオンの世界である。
柄谷氏は、スキゾイドらしく自分勝手にケガレの沼に沈み込み、「文学は終わった」と言った。
東氏は、それを受け継いで、「終わったこと」を徹底させようとしているのではないだろうか。もちろんデリダの思想を背景に、それは始まりと同値であるという信念をもって。
そう考えると、彼のなんでもかんでもデータベースに比喩する思考の特徴は、比喩されるものの差延の加速即ち無意味化という目的があるのではないだろうか。人間さえも差延する目的で、キャラクター化を推進しているのではないか。人間なので、無意味化は無個性化と言うべきか。
以上のことは、いわゆる東信者にとっては、当然のことと映るかもしれない。
しかしわたしが言いたいのは、脱構築が徹底された世界とは、ケガレの世界である、ということだ。シニフィアンからあるいはフェティッシュから欲望が剥がれ落ちた「モノ」とは、悪意なのだ。フロイトならば「憎しみは愛に先んずる」であり、クラインならば「悪い乳房」であり、ラカンならば「現実界とは命のしかめっ面である」であり、クリステヴァならば「アブジェクト」であり「黒い太陽」であり、わたしの言葉ならば「モノとは悪意である」だ。そんなモノたちに囲まれている世界が、アンテ・フェストゥム人間が幼児性恐怖症的にさまよい続ける世界なのだ。そんな世界をポスト・フェストゥム人間が耐え切れるわけがないのだ。ポスト・フェストゥム人間にとっては、それは狂気(イントラ・フェストゥム)のさらに向こうにある世界なのだから。
ネット社会においては、アンテ・フェストゥム人間たるスキゾイドという人格が、生き易い世の中になると言われている。であるから、みんなスキゾになろうぜ、というのが浅田氏以降の思想トレンドであった。
しかし蓋を開けてみれば、スキゾ化に専心したオタク文化でさえも、前部族たるマニアというパラノ人格の多数派が保持されたのみである。先祖返りしてしまった。彼らは狂気を乗り越えられなかった。彼らのスキゾ化は、仮面にしかならかった。
笙野頼子は、その元来の性質をもって、アンテ・フェストゥム人間が生きるケガレの世界から、「個」として踏み出す第一歩を描いている。柄谷氏が自分勝手に到達し、東氏が徹底させようとする精神的な終末とも言うべき特異点の、次のベクトルを示唆している。しかしその示唆は、言うまでもなくアンテ・フェストゥム人間に親和的なものである。
わたしは先に、笙野氏の小説は、我々の文化を変えてしまうかもしれないと述べた。
笙野氏が敵と見做し罵詈を浴びせる男性たちのやっていることは、笙野氏の思想の現実化への礎となってしまうのだ。
なのに何故彼女は、彼らに罵詈を浴びせるのか。
わたしにはわかる。
それが、テリブルマザーの法なのだ。笙野氏の思想が現実化した世界の、倫理なのだ。
近寄る男たちは、テリブルマザーに硫酸の唾を吐きかけられることで、ケガレに生きる体を得る。皮膚が溶けてしまうことは、自分という境界が曖昧化することである。自他未分化的になってしまう。自他が融合するケガレの世界では、「世界は私」なのだ。銀河鉄道999の、ロボットの身体と正反対の身体である。
だからこそ、そこで生きる人間は、「個」を得んがため途轍もない努力を費やすのだ。ロボットみたいに固くなくていい、儚くてもいい。もう一度、自分の境界たる皮膚を取り戻そうとするのだ。
故に、アンテ・フェストゥム人間は、ドッペルゲンガーを、自分のクローンを怖れるのだ。嫌悪するのだ。
それはわたしである限り、ケガレなのだから。
わたしである世界すら、ケガレなのだから。
スキゾイドにとって、母は初めての愛ではなく、初めてのケガレなのだ。生や性ではなく、死や肉なのだ。
キチガイ性を、もっとも怖れているのはキチガイ本人なのだ。そのおぞましさを一番よく知っているのはキチガイ本人なのだ。
わたしが生きているわたしの嫌悪する世界が、柄谷氏や東氏の尽力により、公認されていく。
だから、笙野頼子は、東氏に罵詈を浴びせるのだ。だから、わたしは、東氏や笙野氏の言葉に、負的な言葉を当てはめなければならないのだ。皮膚を守るために。わたしという領域を守るために。「個」であるために。
それが、ケガレの世界の、倫理なのだ。
故に、一神教的倫理世界の到来を夢想する中沢氏に、わたしは好意を持ってしまう。たとえ彼がだめんずな芸人であろうと。ミュージシャンを夢見る貧乏男、みたいなん。
……いや、渡邊守章さんの方がもっと好きだけどね。思考に関わってこないので名前出せなかったけど。
なーんであのぷりちーさをみんな理解しないのかなー。
わたしの中では悪の蓮實vsとぼけた老賢者の渡邊さん、みたいなイメージ。
うわ、キャラ化してるのはわたしだった……ガーン!
バカねえ。なんかブログでのキャラが固まり過ぎちゃってうまくバカが思い浮かばん。
バカやりてー。
笙野作品を京アニがアニメ化したらとか考えるとバカだなあと思って楽しくなるわ。
醜さ描くの上手いマンガ家って結構いるじゃん。漫☆画太郎とか。でもここはあえてベルセルクの人で。
つーか今の言語で「バカやる」ってコンテクストとの戯れでしかないんじゃないかととかほーれまたバカから外れていく。ああでもこの思考回路懐かしいわ。オタク文化論斬ってた頃の。
わたしにとってはこれがバカなんだけどねえ。絶対的に無駄な思考だし。享楽よ、享楽。
ってこの文章はバカへの私信。
さあってCSIでも見よっと。
現代オタクたち、即ち、前部族としてのマニアというパラノイア的特徴を持つ人格を反面教師にし、スキゾイドという人格理想を掲げ、その興味の多動性などという特徴を「斜に構えた熱狂」という作法で叶えようとして、結果、作法は当然の如くシニフィアン化し形骸化し超自我化し、多数派の人種としてのパラノイア的人格が保持あるいは強化されてしまった部族(記事1、記事2、記事3、記事4)。前部族に対しレジスタンスを起こしながら、保守勢力に飲み込まれ理想が霧散してしまった部族。
何も変わらなかった部族。
オタクという部族は、スキゾイドという人格を仮面化したのみで、むしろ仮面化したことにより、補償作用が働いてしまい、前部族的なマニア化してしまったのだ。それは、フェミニズムが敵に回していた西洋近代的自我主義たる保守傾向と本質が同化してしまったことを意味する。
だから、笙野氏は言う。「ヘタレ」と。
しかし、東氏は、彼の言葉なら動物化の推進を、わたしの言葉ならキャラクター化の推進を説くのをやめない。
意固地になっているのだろうか。わたしは違うと思う。
中沢新一氏や中野昌宏氏は、資本主義をシニフィアンの増殖と読み解き、批判している。恐らくそれは間違っていない。利子という概念が存在する限り、原理的には金銭は無限に膨張していく。たとえ途中でバブル崩壊やデフレが起きようと、それは大局的に見れば、膨張の踊り場に過ぎない。
しかしわたしは、ここで何度も言っているが、トレーダーである。資本主義者である。消費者という権力者であることを、自覚的に選択している。
何故ならわたしは、経済の中に神を見出していないからだ。シニフィアンの増殖の中で、泡に塗れて腰を振ることの何が悪いのだろうと、サバトを快楽する。
エディプスコンプレックスを解消したければ、資本を手に入れればよいのだ。劣等コンプレックスを解消したければ、他人よりお金を稼げばよいのだ。
B・N・Fという2ちゃんねる株板のコテがいる。ご存知の方も多いだろうから、wikipediaの項目をリンクするのみにする。
一方、飲茶というコテもいる。ご存知の方も多いだろうから、その負け犬っぷりを記録した自身のサイトをリンクするのみにする。
単純にわたしは、飲茶をバカにし、B・N・Fを尊敬する。
この時のわたしは、まさに「クリトリスが肥大した女性」に他ならない。
事実、飲茶に対しては名無しで彼に何度も説教したし、コテで知り合いになってからも、何度か株ゲームについて講釈をぶった。
どっちかというと、彼に勝って欲しいからではなく、もっと負けて欲しかったので、わざと典型的な説教を選んだ。
……だってその方が彼面白いんだもん。
ともかく、かのごとくわたしは資本主義者である、ということだ。札束で労働者の頬を張る資本家である(いやそんな言うほど勝ってないけど)。
お金というのは単なる数字である。B・N・F氏の心理を分析すれば、多分彼はゲームのスコアのようにしかその資産額を見ていないだろう。その方が勝てるからである。これは体感として断言する。ゲームのスコアのようにお金を見た方が、勝てる。
逆に、お金という数字に欲望が纏わりつくと、株は勝てなくなってしまう。欲望の構造は、人類共通だからだ。ゲームであるからには、先の読み合いである。資産額が小さいほど、一円当たりの所持者の欲望は大きくなるだろう。従って、その所持者の行動パターンは読めてしまう。結果、彼はそのなけなしのオゼゼを、大人(資産額が大きい投資家)に搾取されてしまう。
まあこんな説明しなくても『カイジ』を読めば大体雰囲気は掴めるだろう。
B・N・F氏のように、お金というシニフィアンから欲望が剥落する。それは資本主義の崩壊を意味する。欲望があるから、それが「ケガレから浮かび上がる球体」を比喩連鎖するから、増殖の基本原理である利子システムが機能するのだ。
なのでわたしは、資本主義が行き過ぎると崩壊してしまうという原理を自覚して、サバトを楽しむ。退廃的に。
経済に神はいないと思うから、退廃を快楽できる。
一方わたしは、芸術や学問には、まだ神を信じている。
この記事で、わたしは人一倍神を篤く信仰する故の無神論者である、と書いたが、それは芸術と学問という領域でのことである。経済という領域では、神をガンムシしている故無神論さえ述べることのない、ただの獣である。エコノミックアニマルである。
だから、わたしは芸術および学問についての論は、ゲームと思っていない。ゲームならば騙し合いになるが、わたしはそれらの論に嘘を挟まない。挟むこともなくはないが、挟むことは罪、あるいはケガレだと思っている。
笙野氏は、純文学に神を信じていることを公言している。
従って、芸術領域、たとえばオタクという表現文化について、わたしと彼女の論は同方向を向く。
また笙野氏は、坂東眞砂子氏の猫殺しについて批判していることなどから、狭い領域では、愛玩動物という領域において、もっと拡大して言うなら、『金毘羅』などを読むと、レヴィ=ストロース言うところの「真正な社会」、ラカン的に言うなら「想像的社会」の領域において、神を信じているように思えるが、それはここでは触れるに留めておく。
東氏は、芸術領域の神を、頑として想定しない。理論的には、学問についてもそうだと言えるだろう。脱構築とはそういうことである。ラカン論を否定神学だとして批判するのはそういう理由からである。
だから、彼は動物化を推進する。
理屈的には、とても簡単な構造である。
しかし、果たしてそうであろうか。
学問領域について言えば、彼の態度は、とても動物だとは言えない。
学問の動物化は、実は日本においては既に経験されている。ニューアカデミズムだ。その推進派の黒幕が蓮實重彦氏だ。
では東氏はニューアカの残党なのか。
ニューアカの目的は、学問の自覚的卑俗化である。ここではわたしの主観に依拠してそう仮定する。永井均氏などはよい例となろう。しかしニューアカの代名詞のような存在であった浅田彰氏などは、本人の意志は違うようだ。彼はむしろ卑俗化と逆方向のニーチェ的「個」を思考しているように見える。永井氏も、確信犯ではあろうが故意犯とは言えない。むしろ天然だとわたしは思う。確信犯的かつ故意犯的と言えるのは、蓮實氏と中沢新一氏くらいしか思いつかない。だからわたしは彼らを学者芸人と呼ぶ。しかし蓮實は嫌いだが中沢のだめんず臭は何故か好きである。お笑い芸人に対するファン心理みたいなものだ。なのでその是非の議論はここでは避ける。いや別にわたしのくだらねえだべり垂れ流してもいいんだが今はホレイショ様ハァハァなので書く気が起きない。
吉本隆明氏は比較的卑俗に身近だったと言える。彼が女性ファッション雑誌に登場した事件などは、(男性視点で言えば)ケガレに近づいた一瞬だと言えるだろう。しかしそれはケガレのほんのごくごく表層に過ぎない。もちろん吉本自身もこの事件をもって女性のケガレ的領域に肉薄したなどとは述べていない。「俗」から「卑俗」へ近づいた一歩と言えなくはない、というだけのことである。埴谷雄高氏などは敏感に反応したが。ともかく彼が、「女」というシニフィアンが内包するケガレを体感できたとは言い難い。彼のやっていたことは、マッチ売りの少女への同情に過ぎなかったのだ。
柄谷行人氏については、オタク文化が目指した理想人格の一人だとわたしは思っている。だから笙野氏が、オタク文化を批判する文脈に繋げて彼を批判するのは体感的に納得できる。わたしの論では、オタク文化が目指した理想人格はスキゾイドである(結果としてそれは仮面化にしかならなかったが)。柄谷氏がスキゾイドか、アンテ・フェストゥムかポスト・フェストゥムか、については議論の分かれるところであろうが、わたしはアンテではないかと思う。wikipediaで彼について書かれてある「強迫観念」は、ある意味ポスト的に思えるが、その行き当たりばったりさを考慮するなら、快楽主義的に思想をとっかえひっかえしているスキゾイドの特徴であるとも言える。であるならば、柄谷氏は症状的に笙野氏と類似した世界を生きていると思われる。
一方笙野氏は、学生時代はオタク的生活を送ってきた。現代のそれとは多少異なるだろうが、オタク文化と近しい世界を生きてきたのだ。
この記事で、笙野氏が批判する柄谷の「文学は終わった」論は、彼なりの「ケガレに球体が飲み込まれる美」であり、笙野氏が紡ぐ美は、「ケガレから球体が浮かび上がる美」であると書いた。確かに対照的である。しかしそれらは、学術的理屈によれば、真理の位置にあるものは同じだと示した。男女の違いという理屈を付け加えるならば、男性は傾向的に「ケガレに球体が飲み込まれる美」に固定観念的に縛られており、女性にはその縛りはない。つまり女性は、「飲み込まれる美」も「浮かび上がる美」も両方ありだと言えるのだ。事実笙野氏の初期作品群は、伝統的な男性的純文学の空気を醸している。これについては、一人称の変化という視点で清水良典氏(『笙野頼子 虚空の戦死』)が論じていることを参照できるだろう。
笙野氏は、自分が克服した(そもそも縛られてなかったのかもしれない)「球体がケガレに飲み込まれる美」という束縛を、自分と同種のアンテ・フェストゥム人間である柄谷氏が何故克服できないのか、という意味で憤っているのではないか。わかりやすく言うならば、ふがいないライバル(あるいは象徴的父)への怒りである。スキゾイドである彼ならば、「終わる、死んでいく美」だけではなく、「始まる、生み出される美」についてもわかっているはずだ、あるいは、「始まる美」を何故文学に適用しないのか、という苛立ち、とでも言おうか。いやこれは筆者の苛立ちである。正直スマンカッタ。
精神分析的に意地悪く言うのなら、鏡像的なもう一人の「あるべき」「あったかもしれない」自分(を柄谷氏に投影した他者)に対する怒りである。鏡像的なライバル的他者に対する負的感情については、寺山論ではあるが野島直子氏の『ラカンで読む寺山修司の世界』が見事に描けている。
象徴的父への幻滅から、父に対し騎士道精神的な「本当の愛を見せつけてやる」という精神構造が、本当の意味での異性愛たる女性同性愛だ。「女」という言葉そのものに「ケガレ=アブジェクト(棄却されたもの)=異」という意味が含まれているため、象徴界即ち超自我に則るならば、女性同性愛は完全な異性愛と言えるのだ。しかし笙野氏は、『水晶内制度』でその隣を通過しながらも、女性同性愛に留まらなかった。彼女は、自己愛としての同性愛ではなく、異性愛としての女性同性愛でも男女愛でもなく、異性愛かつ究極の純愛として、「真の女」を欲望したのだ。彼女はウラミズモで男性の人形、愛する異性としての男性の死体を、燃やしてしまう。父は死して法となる(フロイト)のだから、死体を燃やしてしまうことは、彼女の異性愛が法を超えたことを意味する。単なる父殺しではなく、父殺しを殺してしまったのだ。
母殺しも忘れてはいけない。『母の発達』だ。そこに描かれるのは、まさしく唾棄すべき母、テリブルマザーである。老人になるまで母に依存していた娘から、母はテリブルマザーらしく身勝手に離れていく。テリブルマザーは地に帰るのではなく、子供に殺害されることもなく、自分勝手に天に昇った。これはクリステヴァ論ならば、「汚れから穢れへ」に当てはまるだろう。地に戻ってしまっては、アブジェクシオンのままである。殺害されてしまっては、殺人犯である依存する子供は呪われ同一化してしまう、即ちテリブルマザー化するだけである。ケガレが自分勝手に天に昇ったから、テリブルマザーが法となり得たのだ。
これに、先ほどの異性愛が法を超えたこと、父殺し殺しが付け加わり、笙野は多神教の供犠として、法的、シニフィアン的にはケガレになるはずの「真の女」を愛することが可能になった。同時に、それだけではたとえば坂東眞砂子氏のように性快楽主義的思想になりがちなところを、テリブルマザーをメタ化、法とすることで、動物的欲と世界宗教的な禁欲が複合する、象徴界においては存在しえない愛の形が、可能になったのだ。父の代わりに母が、象徴界の境界線、夢分析で言うところの検閲者となったのだ。これにより、たとえばインディアン神話のような、動物と人間が入れ替わり結婚したりするのに、アナーキー的、倒錯的、破滅的ではないという、エロティックなのに自制的という、現代人から見れば不可解なロジックが可能になるのだ。笙野が捏造するウラミズモの神話には、そんな不可解さが感じられる。
ここまでの過程は、現代文化に生きる読者たちを、未開文明の精神世界に誘う役割となるだろう。ユング的に簡単に言ってしまえば、現代文化側、男性側の言葉で言うなら、エディプスコンプレックスの遡及的乗り越え、要するに退行の過程である。
寡聞なわたしの言い分になるが、これほど実存感、アクチュアリティを持った退行を、しかしながらアナーキズムや倒錯や破滅に帰着することなく、根拠のある倫理内に、精緻に多神教文化(未開文明)の倫理内に着地した文章を、小説だけではなく論文、詩、古典文芸も含めて、見たことがない。
……やがて、供犠の際、切り落とされた首あるいはペニスとして、スクナヒコナあるいは彼女の飼い猫を、「真の女」は産出する。それを所有することで、彼女は神に近似する「個」を得た。『金毘羅』である。『おんたこ第二部』において、仏教的自我について語る時、「所有」という言葉が強調されるのはこのためである。
これについては正直意外だった。これはラカンの鏡像段階論とあっさり符号してしまう。非言語的な原初的一なる言語、象徴的ファルスを所有するのが、「個」の誕生を意味するからである。これは逆に言えば、いかに笙野と言えども「個」なり「美」という固定観念、普遍的構造に抗えなかったということになるが、逆に考えるならば、わたしの立場である「アウトサイダーアートと本来のアートは明確に区別されるべき」の線引きに、(現在のところ)鏡像段階を設置している論について、笙野からの無自覚な援護になる。多神教文化であっても、鏡像段階が美の学術的真理であることは普遍であると。――よかった。笙野論を書いているといつも肛門が収縮してしまうのだが、唯一わたしの救われる点を発見できた……。
単純に考えるなら、このままこの「個」が育てば、男性的主体、精神分析的に言うならばクリトリスが肥大した女性、つまり現代人と変わらぬ主体が育つだけ、と考えられもする。
しかし、彼女の象徴界の境界は、セミオティックは、超自我の検閲者は、父ではなく母なのだ。
ここで描かれている「個」は、固有の倫理を持ったキチガイなのだ。統合失調症あるいは自閉症を、誕生直後から背負っているのに、未開文明の倫理は持っているのだ。文化史的には、我々が忘れ去った始原の倫理を持っているキチガイであり、「個」なのだ。現代では統合失調症あるいは自閉症と呼ばれる人格が、前史の未開文明に生れ落ち、しばらくそこで育った後、現代にタイムスリップしてきたのだ。
彼女がいくら男性的な現代社会で育っても、三つ子の魂百までである。彼女の始原の倫理は、どんなに形が変わろうとも、本質的原型は残るだろう。
現代の男根主義的文化は、柄谷氏の「文学は終わった」という言葉が象徴するように、疲弊している。ペニスは萎えている。男性的抑鬱症者は、インポテンツなのだ。
もしかすると、笙野が描くこの母を法とした「個」は、たとえそれが笙野頼子という作家の死後のことだとしても、現代の無意識領域含めた我々の文化を、変えてしまうかもしれない。
――なんて恐ろしい、おぞましいことだろう。なんて、背筋が震えるほど、魅力的なことだろう。
ネグリ氏来日中止どころの話ではない。もっと始原的で、体感的で、過激で、現実化され得る明確な根拠を持ち合わせている革命論が、紀伊國屋で普通に売られているのだ。国家なんてちっぽけなものではなく、その上位に座する倫理を覆すことが可能な革命家が、のほほんと千葉の佐倉で猫の糞を片付けているのだ。一人暮らしの部屋でPCに向かって何やらぶつぶつ独り言を呟いているのだ。
……いささか滑り気味な言い方だと自分で思うが、この文章がその「個」の目についたらと思うと、呪われてしまいそうで、本気で怖い。わたしの愛する神を、父を、そいつが殺してしまいそうな気がする。その死体さえも、燃やされてしまいかねない。その時わたしの神は、わたしを道連れにしてくれるだろうか。そんなことを夢想すると、手足の冷え性がひどくなる。
これはウラミズモなどという架空の国の話ではない。笙野はリアルのこの日本という国で、神話を捏造しているのだ。もっとも新しく、かつもっとも古い神話を。
河合隼雄氏の死が惜しまれる。この一連の作品のすごさを、男性社会に向けて翻訳できるのは、わたしは彼しか思いつかない。このわたしの、レジュメ程度のまとめでさえも、男性には上っ面しか伝えられてないのがわかる。
あるいは中沢氏に、その戦略をあえて引いてもらって、芸人という使命を一時忘れてもらって、ケガレという現実に向かい合ってもらえば、わたしのよりマシな文章が出てくるだろう。なんだかんだ言っても、遥か昔のこととは言えど、一度は悟りの境地に触れたことのある学者である。クリステヴァもやってたんだし。
蛇足になるが、わたしの思想変遷を辿ると、どうやら現在は文中の坂東氏に似た領域にいるようである。わたしは、リアルではそんなこと言わないが、チャットなどでは「(享楽的)快楽原理主義者」と名乗ることが多い。
筆者の緊張は冷めやらぬようだが、この「個」に立ち塞がる、障害になるであろう現代的男性的社会のトーテム、「おんたこ」たちの話に戻ろう。
わたしの論を言うならば、男性の彼らは一様にアブジェクシオンあるいはケガレについて理解、少なくとも体感的認知できていない。「卑」俗化だと思えていないだろう。ケガレが欠落した彼らの「俗化」は、単に「チャラい」だけとなる。蓮實氏などは、フローベールの『紋切型辞典』を論じながら、その自虐的芸人性(ピエロに近いか)を強調する。そこから展開し、バルトというもう一人の芸人(わたしはそうは思わない)がその論をネタにしなかったならば、クリステヴァの論は意味を持たなかった、とまで言い切る。彼の世界では、アブジェクシオンというケガレの中を継続的に生きている、生きてしまう人間が排除されている。アスペルガーやスキゾイドや統合失調症者や女性的抑鬱症者や笙野頼子などと言ったアンテ・フェストゥム人間は、その苦痛は、彼の世界ではネタという形でしか存在しない。
などと言ったが蓮實は笙野を評価する。存在しないものを評価できるのは、彼の賛嘆すべき韜晦能力によるものである。テリブルマザーより遥かに狡猾なやり方で。女性が個を勝ち取るために労する途轍もない努力、覚悟を、わかったような顔だけ見せて、固定観念的に得た男性的個で飲み込もうとする。その評価は彼の権力によって価値が生じるため、作家はそれを甘んじて受けねばならない。受けたとしてもその独特のひねくれた韜晦文体のおかげで、信仰者あるいは反抗者たちは「神の導きに従い」、笙野の努力、覚悟を無化することはない。従って、笙野にとっては、蓮實と組することに何も損は生じない。作家が、あるいは学者が政治的に振る舞うことの何が悪いのか、わたしは正直わからない。政治的に振る舞ったら即悪なのか。善悪とはそんな単純なものなのか。思想的政治的にどうであろうと、蓮實だって彼女の視点で見れば、ただの一人の読者、されど一人の読者なのだ。
笙野氏が学問に神を見ているかどうかは、わたしは断言できない。わたしは笙野頼子ではないからだ。ただ笙野氏が純文学において神を見ているように、わたしは学問において神を信じている。その神による善悪をもって悪と見做したならば、学問の場に流通する言葉を用いて批判するだけのことである。もちろん誤りがあれば罪を負う。
ともかく、柄谷氏に見出された東氏の、そのオタク文化擁護論は、動物化論は、そういったニューアカの流れを汲んでいると言ってよいだろう。
となれば、ある意味脱構築の一手段として、オタク文化という俗をダシにしているとも考えられる。
……果たしてそう単純に言い切れるのか。
わたしは、経済において神を信じないが、芸術と学問においては信じると書いた。
果たしてそんな矛盾がまかり通るのか。それは神と呼べるのか。神ではなくとも精神構造として、そんな無意識の切り替えをしているのだろうか。自覚できないからこそ無意識ではないのか。
そう考えると、むしろわたしは、神を信じているからこそ、サバトを楽しんでいるのかもしれない。いつか振り下ろされる冷酷な神の鉄槌を期待して。
いや逆かもしれない。わたしが芸術や学問に見ている神は、笙野が見ているような本当の、オリジナルの神ではなく、マゾヒスティックな快楽の道具として、サディスティックな理想的人格を想定しているだけかもしれない。
後者ならば、わたしは東氏の論陣に組することになる。
正直言うならば、彼の動物化推進言説は、経済という領域に置き換えると納得できてしまう。
彼は、シニフィアンの増殖により、神の鉄槌、あるいはサディストの鞭たる崩壊を求めているように思えるのだ。
ポスト・フェストゥム人間が動物化することにより、解離症的、離人症的症状を経由したとしても、最終的には、シニフィアンの自壊性により(デリダなら差延になろう)、「人類皆ケガレである、よって私はケガレである。鬱だ死のう」というポスト・フェストゥム的な男性的抑鬱症に帰結することを、彼は直観しているように思える。
このニューアカの行った学問の卑俗化は、大衆化と同値ではない。大衆の知の向上のためになどという理由ではなく、キルケゴールなどのように(大方の)学徒が最終的に抑鬱に帰結してしまうことへの反省に過ぎない。鬱に対する防衛として、学問の卑俗化が行われたのである。そういう無意識の要請を、2ちゃん的「ネタにマジレスを~」強迫症に連鎖する神経症的逃避を、わたしは感じる。いや、神経症的逃避は悪いことではない。「ケガレに球体が飲み込まれる美」と表裏一体的に訪れる喪失感を恐れて、一歩いや半歩だけ退行しているということだ。従って、学問の神と対面する一歩手前、即ち消失(アファニシス)の一歩手前、即ち喪の発生の一歩手前で、彼らは立ち止まる。神を俗に売り渡して。「ネタにマジレスを~」強迫症とも似通っている蓮實氏のその芸人っぷりは、そういう無意識的要請があるのだ。
彼らは自身の抑鬱から逃れるために、卑=ケガレの中で生きるアンテ・フェストゥム人間の唯一の拠り所である神を、俗に売り渡してきたのだ。
アンテ・フェストゥム人間の見る神は、ポスト・フェストゥム人間の見る神とは全く姿が違う。ポスト人間のそれはそれこそ消失や無や抑鬱を連想させるものに対し、アンテ人間のそれは華厳思想の極楽のようにケバケバしく毒々しい、快楽的な、過剰な世界である。極彩色で肉感的な、おぞましくも魅惑的な神である。
民衆に神を売り渡すことで、自分たちが選民的に背負ってきた抑鬱的な神という重荷を、分散させようとしたのだ。しかしそのことは、人口的に少数派であるアンテ人間の、豊穣で多彩な、おぞましくも魅惑的な神を奪うこととなってしまった。
キリスト教が、多神教文化を駆逐してきたように。
いや、彼らの性質の悪さは、キリスト教的、父性的な神が、無や消失や抑鬱をもたらすことを知っていながら、それを布教した点にある。
キリスト教は、多神教を飲み込み続けてどうなったか。聖霊主義的な、マリア信仰的な、大地母神信仰からケガレを取り去った、きれいなだけの母神信仰という歪んだ信仰を生み出した。
それと同じ過ちを、ニューアカは、故意犯的かつ確信犯的に布教したのだ。結果を予測できていながら、自らを救うために、儀式を執り行ったのだ。
この潮流が直撃した仲俣暁生氏などの、笙野氏が批判する「ニュー評論家」たちは、むしろその儀式の被害者と呼べなくもない。仲俣氏などは嗅覚は鋭い方だと思う。だから彼は、蓮實に対するコンプレックスを押し隠さない。ある意味素直な性格だと言える。とはいえ彼の文章からは、どんな理屈やレトリックを配しようと、チャラさ、芸人臭は抜けないだろう。あたかも、「斜に構えた熱狂」という作法をどうしても捨て去ることができない、現代オタクたちのように。ちなみに言うと、これは「中二病」恐怖症と同値である。
卑俗化という呪いのせいで、彼は、学の世界、理の世界を突き進むことができないのだ。
とはいえ、鬱の分散は、クリステヴァならホルバイン論のように、芸術家は多く行っていることである。芸術家でなくても、抑鬱症者の関係者、支援者などは、その「黒胆汁」を自らの身に分有させようとしている。この分有は、転移なくしては生じない。転移とは自他の融合と近似する。自他の融合こそが嫌悪的かつ魅惑的なケガレである。よってわたしはニューアカの行った「黒胆汁の分有」を、大衆化ではなく卑俗化と呼ぶ。
エクリチュールの生産及び破壊という行為は(クリステヴァならシニフィアンスは)、即ち文芸創作という行為は、一種の自己治療の側面もある。ラカンのジョイス論もこれに当たる。もちろん作家によってその比重は変わるだろうが。日本であれば車谷長吉氏などはそのようなことを明言している。氏の作品の読者は、少なくともわたしは、彼が彼自身を救うための行為と知りながら、進んでそのケガレを共有する。むしろ、ケガレを共有することで、彼の症状を悪化させたがっている。ケガレを増幅させたがっている。
視点を変えれば、蓮實や中沢についても、悲劇の主体と見えなくもないのだ。だからわたしは彼らをだめんずと呼び、蓮實氏はともかくオウム事件というわかりやすい悲劇を経験した中沢氏に対しては、好感を持ってしまう。
東氏に戻ろう。
東氏は、オタク文化に限らず、ニューアカ以前の学問が見てこなかった大衆について、非常に敏感であると言える。これはニューアカの態度と類似する。
彼はとてもサービス精神が旺盛である。この2月には、2ちゃんねるにコテハントリップ付きで降臨なされたようだ。
彼の行動や、彼を奉る信仰者、周辺を見ていると、芸人という言葉は当てはまりづらい。かといって教祖とまではいかない。教祖臭なら何故か中沢氏の方が強い。わたしなんかは何故だめんず臭そして芸人臭という彼の魅力に気づけないのだろう、と不思議に思う。
信仰者はほっといても勝手に信仰してくるものなので、東氏の責任ではない。彼の素振りに教祖になりたがっている欲望は感じられない。
最近のお笑い芸人は、小島よしおや鳥居みゆきなど、あたかも「芸術は爆発だ」のような、日常を打ち破る狂気が求められている、と述べている記事がある。同感である。個人的には鳥肌実が入っていれば完璧だった。
東氏は、学者芸人と言うより、この狂気に近しい思考をしているのではないか。もちろんお笑い芸人などではないので、その振る舞いが狂気染みているなどと言っているのではない。蓮實や中沢があくまで芸人という役割を背負っているのに対し、東氏は、シュルレアリストのような役割を背負っている、という言い方がもっともしっくりくる。
シュルレアリストの表現行為は、常に判断が難しいものである。たとえばその作品が大衆向けなのか一部の通たちに向けてのものなのか。倫理的に好ましいものなのか破壊的衝動によるものなのか。そういった垣根をかき混ぜるのがシュルレアリスムという潮流の一つの役割であった。これはまさに脱構築の思考と共鳴する。
すべての垣根が、境界が取り払われた状態とは、混沌である。どろどろぐちょぐちょした自他未分化的な、アブジェクシオンの世界である。
柄谷氏は、スキゾイドらしく自分勝手にケガレの沼に沈み込み、「文学は終わった」と言った。
東氏は、それを受け継いで、「終わったこと」を徹底させようとしているのではないだろうか。もちろんデリダの思想を背景に、それは始まりと同値であるという信念をもって。
そう考えると、彼のなんでもかんでもデータベースに比喩する思考の特徴は、比喩されるものの差延の加速即ち無意味化という目的があるのではないだろうか。人間さえも差延する目的で、キャラクター化を推進しているのではないか。人間なので、無意味化は無個性化と言うべきか。
以上のことは、いわゆる東信者にとっては、当然のことと映るかもしれない。
しかしわたしが言いたいのは、脱構築が徹底された世界とは、ケガレの世界である、ということだ。シニフィアンからあるいはフェティッシュから欲望が剥がれ落ちた「モノ」とは、悪意なのだ。フロイトならば「憎しみは愛に先んずる」であり、クラインならば「悪い乳房」であり、ラカンならば「現実界とは命のしかめっ面である」であり、クリステヴァならば「アブジェクト」であり「黒い太陽」であり、わたしの言葉ならば「モノとは悪意である」だ。そんなモノたちに囲まれている世界が、アンテ・フェストゥム人間が幼児性恐怖症的にさまよい続ける世界なのだ。そんな世界をポスト・フェストゥム人間が耐え切れるわけがないのだ。ポスト・フェストゥム人間にとっては、それは狂気(イントラ・フェストゥム)のさらに向こうにある世界なのだから。
ネット社会においては、アンテ・フェストゥム人間たるスキゾイドという人格が、生き易い世の中になると言われている。であるから、みんなスキゾになろうぜ、というのが浅田氏以降の思想トレンドであった。
しかし蓋を開けてみれば、スキゾ化に専心したオタク文化でさえも、前部族たるマニアというパラノ人格の多数派が保持されたのみである。先祖返りしてしまった。彼らは狂気を乗り越えられなかった。彼らのスキゾ化は、仮面にしかならかった。
笙野頼子は、その元来の性質をもって、アンテ・フェストゥム人間が生きるケガレの世界から、「個」として踏み出す第一歩を描いている。柄谷氏が自分勝手に到達し、東氏が徹底させようとする精神的な終末とも言うべき特異点の、次のベクトルを示唆している。しかしその示唆は、言うまでもなくアンテ・フェストゥム人間に親和的なものである。
わたしは先に、笙野氏の小説は、我々の文化を変えてしまうかもしれないと述べた。
笙野氏が敵と見做し罵詈を浴びせる男性たちのやっていることは、笙野氏の思想の現実化への礎となってしまうのだ。
なのに何故彼女は、彼らに罵詈を浴びせるのか。
わたしにはわかる。
それが、テリブルマザーの法なのだ。笙野氏の思想が現実化した世界の、倫理なのだ。
近寄る男たちは、テリブルマザーに硫酸の唾を吐きかけられることで、ケガレに生きる体を得る。皮膚が溶けてしまうことは、自分という境界が曖昧化することである。自他未分化的になってしまう。自他が融合するケガレの世界では、「世界は私」なのだ。銀河鉄道999の、ロボットの身体と正反対の身体である。
だからこそ、そこで生きる人間は、「個」を得んがため途轍もない努力を費やすのだ。ロボットみたいに固くなくていい、儚くてもいい。もう一度、自分の境界たる皮膚を取り戻そうとするのだ。
故に、アンテ・フェストゥム人間は、ドッペルゲンガーを、自分のクローンを怖れるのだ。嫌悪するのだ。
それはわたしである限り、ケガレなのだから。
わたしである世界すら、ケガレなのだから。
スキゾイドにとって、母は初めての愛ではなく、初めてのケガレなのだ。生や性ではなく、死や肉なのだ。
キチガイ性を、もっとも怖れているのはキチガイ本人なのだ。そのおぞましさを一番よく知っているのはキチガイ本人なのだ。
わたしが生きているわたしの嫌悪する世界が、柄谷氏や東氏の尽力により、公認されていく。
だから、笙野頼子は、東氏に罵詈を浴びせるのだ。だから、わたしは、東氏や笙野氏の言葉に、負的な言葉を当てはめなければならないのだ。皮膚を守るために。わたしという領域を守るために。「個」であるために。
それが、ケガレの世界の、倫理なのだ。
故に、一神教的倫理世界の到来を夢想する中沢氏に、わたしは好意を持ってしまう。たとえ彼がだめんずな芸人であろうと。ミュージシャンを夢見る貧乏男、みたいなん。
……いや、渡邊守章さんの方がもっと好きだけどね。思考に関わってこないので名前出せなかったけど。
なーんであのぷりちーさをみんな理解しないのかなー。
わたしの中では悪の蓮實vsとぼけた老賢者の渡邊さん、みたいなイメージ。
うわ、キャラ化してるのはわたしだった……ガーン!
バカねえ。なんかブログでのキャラが固まり過ぎちゃってうまくバカが思い浮かばん。
バカやりてー。
笙野作品を京アニがアニメ化したらとか考えるとバカだなあと思って楽しくなるわ。
醜さ描くの上手いマンガ家って結構いるじゃん。漫☆画太郎とか。でもここはあえてベルセルクの人で。
つーか今の言語で「バカやる」ってコンテクストとの戯れでしかないんじゃないかととかほーれまたバカから外れていく。ああでもこの思考回路懐かしいわ。オタク文化論斬ってた頃の。
わたしにとってはこれがバカなんだけどねえ。絶対的に無駄な思考だし。享楽よ、享楽。
ってこの文章はバカへの私信。
さあってCSIでも見よっと。