藤田博史という水銀厨
2008/04/07/Mon
未映子ちゃん(何故か彼女を語る時は馴れ馴れしい口調になってしまう)についてぽろぽろ調べてたら、その著作のタイトルだけでそうとわかる「黒い少女」ラヴな(まー彼も笙野の言うロリだな。わたしゃソンケーしとるが……っておお、これが「父殺し殺し」的感覚なのかもしれないっ! 藤田さんは主観的にロリコンと判断するが個人的にソンケーするから、義を立てるみたいなカンジで、政治的判断により沈黙しよう、みたいな。藤田さんの人形を燃やせばわたしも笙野にってまだテリブルマザーのメタ化が残ってるのか、メンドクセ。って自分勝手な発見だからスルーして)藤田博史氏が、芥川賞受賞作『乳と卵』について書評を書いているのを見つけた。
ほむほむ。
あーうんうん。断頭コンプレックス。笙野作品ってそういうもろなシーンないけどこの記事でわたしが書いた、
=====
供犠の際、切り落とされた首あるいはペニスとして、スクナヒコナあるいは彼女の飼い猫を、「真の女」は産出する。それを所有することで、彼女は神に近似する「個」を得た。
=====
に当たるな。彼女の文章から感じられる斬首感。笙野氏が笙野自身の言葉を含む大文字の他者に斬首されている感じ。これは「極私的言語の戦闘的保持」が示すものと同じものである。
でも逆に言えば、わたしの言葉ならば、斬首は象徴界の否認をも示す。頭を切り落とすってのはそういうことじゃん。象徴界を否認することが「女」というシニフィアンを承認することなのよね。「女」という言葉自体に「うんこ=ケガレ=棄却されたもの=異」という意味が含まれてるわけだから。まあ大体の女性はこの切り落とされた頭って自分の子供になるんだが。めちゃくちゃ卑俗化して言うならば、「女はバカの方がカワイイ」って奴だ。女は男にとは個人的に言いたくないので象徴界にあるいは象徴的父にカワイク思われたいがためにバカになるってこと。
ともかくだ。女性の象徴的去勢(の「否認/承認」)には「女」というシニフィアン自体が持つ逆説性が色濃く絡んでいるということを言いたいわけで、こういうパラドックスが常に既に「女」という意味、女の人生に纏わりついてくる。ここがわかってる、なおかつそこを論のスタートにしている藤田さんはロリとは言えさすがである。ゴマゴマスリスリ。
では未映子ちゃんは未去勢な主体なのか。「おしゃべりが止まらないわたしを止めて」なのか。ヒステリー的な、過剰なおしゃべりはイヤなのに喋ってしまう主体なのか。
わたしは違うと思う。
藤田さん自分で書いておろーが。序論として彼女の技巧論を。「父、採らん」ってとこ。なーんでそこに気づかないかなー。技巧論をまず書いて「しまった」自分を。それを「偽装」だと言いながら、偽装だと知りつつ書かざるを得なかった自分を。
これが、この偽装が、わたしの言う「ネタにマジレスを~」感である。神経症的逃避である。
未映子ちゃんは確信犯かつ故意犯なのだ。
メモ書きとして書いとくならば、彼の言う「換喩」が、わたしの言う、
=====
阿部くんの、現代男性的系列では、目のきれいなジャイアンに対して「ネタにマジレスを~」になるんだけど、そこを突き詰めたシュルレアリスム的なりヌーヴォー・ロマン的なもの
=====
に当たる(ここで愚痴っとくとこれでもわたしゃわかりやすく書こうと努力してるんだよーと言っときたい)。
あとはー、なんて言えばいいのだろう。ここはネットだからネットらしく喩えるなら、藤田さんは2ちゃんの鬼女板の怖さをまだ知らない。vipperでさえ怖れる既婚女性板を。ってノリでゆってるけど。ここは。
要するに、未映子ちゃんは既婚女性なのだ。ダンナは永井均か知らんが(比喩な比喩)。
何故2ちゃんで鬼女たちは恐れられているのか。いやそんなかわんねーんだけどね。鬼女もヴぃっぱも。
それはだね、東浩紀とかが言うメタって、上位に向かってのものじゃない? 上から俯瞰して物事を語るメタ。俯瞰しているから「ネタにマジレスを~」って言えるわけじゃん。
鬼女たちも「ネタにマジレスを~」なんだけど(なんだかんだゆって2ちゃねら)、彼女たちのメタは、下から見ているのだ。メタをメタ化することは、彼女たちの場合どんどん卑俗化していくことになる。だから鬼女たちの言葉は汚い。どろどろしている。いやわたしはフツーだと思うけど。むしろ女に何期待してんだって思う。
どろどろしたケガレの沼に、何故彼女たちはこうもあっけらかんと沈めるのか。それはダンナがいるからである。子供がいるからである。ダンナや子供がいるから、本音としての汚くどろどろした言葉を吐けるのだ。
しかしこの本音には、笙野の言葉のような、個が個であるための凄惨さはない。
そりゃそうだ。ダンナや子供がいるんだから。ダンナや子供という命綱があるから、自由自在にケガレの沼に沈める。象徴界への、象徴的社会への出口が確保されている。この出口が確保されていることが、わたしの言う「きれいな目をしたジャイアン臭」である。ダンナや子供の固有名が、その出口だ。
だから既婚女性は自分のことを、「○○の妻です」あるいは「○○の母です」と言うわけだ。
笙野氏や故二階堂奥歯氏はそう言えない。妻でもなく母でもないからだ。
故奥歯氏ならその出口は、ぬいぐるみとなろう。ぬいぐるみはケガレの世界(死後など)と連結はしているが、象徴界の中ではとても些細な穴になってしまう。この世界守護者は、奥歯氏がケガレの世界へ落ちていくのを、「間」=「魔」に飲み込まれていくのを、その死を、食い止められなかった。
笙野の場合、それはスクナヒコナや飼い猫となろう。「スクナヒコナの所有者です」なんて言ったらキチガイ確定だ。「ギドウ(飼い猫)の所有者です」ならまだいける。
しかし、「○○の妻です」と比べると、これらの構造は逆転しているだろう? 「○○の妻です」だと○○という固有名に所有されていることになる。所有じゃなくても少なくとも○○を所有しているという意味にはならない。それは「妻」というシニフィアンが「女」を含意するからだ。
笙野の場合、飼い猫というファルスを機能させるには、飼い猫を所有しなければならなかった。そして笙野は飼い猫を所有するために一本の小説を書いた。『愛別外猫雑記』である。
……笙野は置いておこう。未映子ちゃんに戻る。
未映子ちゃんの作品は、わたしは『イン歯ー』しか読んでないけど、少なくともその作品においては、笙野氏の個に対する凄惨な覚悟、「黒い少女」スキー向けに言うなら奥歯氏のような女というシニフィアンを背負う覚悟などと比較したらわかりやすいが、むしろ軽やかさを感じた。その軽やかさは、さっき言った鬼女たちの軽やかさである。
この軽やかさは浮かぶ軽やかさではなく、潜る軽やかさである。
よって、藤田さんの、換喩うんぬんの指摘は、未映子ちゃんにとっては「ネタにマジレスを~」になってしまうのだ。未映子ちゃんは藤田さんの好きな「黒い少女」とは逆方向の、たとえばエステに通うおばちゃんなのだ。「自分を美化する『ことができる』ババア」なのだ。きれいな目をしたジャイ子なのだ。……って今想像したらカワイクね? きれいな目をしたジャイ子。
しかし藤田さんは、未映子ちゃんを無理矢理「黒い少女」に結びつけてしまう。引用しよう。
=====
石原慎太郎氏は選評のなかで「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい」と述べ、選考委員のなかでは唯一人、彼女の文章の未去勢的本質を見抜いている。つまり極言すれば「女のお喋りには去勢が必要」という訳である。なるほどこの小説は全体として「だれか早くわたしを黙らせて!」という逆説的な無意識のメッセージのようにも聞こえてくる。分析の経験は、このような去勢要求が、しばしば成熟拒否(母親拒否)を伴って、拒食、過食、リストカットといった行為化の形で実行されることを知っている。実は、豊胸手術はまさにその去勢要求の呪縛から主体が離脱するために有効な手段の一つなのであるが、このことは意外と知られていない。実際、美容外科の現場では去勢要求に囚われた女性が自ら望んで豊胸手術を受けた後に心的症状が劇的に改善する例に屡々遭遇する。
=====
豊胸手術については、「異」としての「女」というシニフィアン、つまり男に愛されるために斬首された頭を身につけるということになろうがここでは置いといて。
「拒食、過食、リストカットといった行為化」が、それを行為する女性的主体が、わたしの言う「黒い少女」である。少女と書いているが年齢は関係ない。藤田氏の言葉なら「未去勢的本質」を比喩するための「少女」である。
ここでは藤田氏はむしろ、未映子ちゃんの潜る軽やかさが見えていないと言える。彼女の作品の魅力の一つは、その軽やかさである。
いや、藤田氏は確かにこうも書いている。
=====
まるで目の前で起こっているかのように描写されているが、そこに現実のような奥行きや厚みは感じられない。テーマのように擬装された豊胸手術や初潮も、結局のところスクリーンの表面を滑って仮想現実構築のためのパーツとして隠蔽に一役買っているに過ぎない。
=====
ここまで読めていて、何故「黒い少女」に結びつけなくてはならなかったのか。藤田氏が男性である故、彼が「厚み」と言う場合、上に向けての厚み、即ち隠喩的連鎖しか連想できないからであろう。馴れ合いとして悪口を言い合うような、それこそ2ちゃんねる的な換喩的連鎖、シニフィアンの滑走が脱臼し続ける会話、そういう深みって言うと違う気がするけどそういうものとしての厚みがわかっていないからである。だから、厚みがないことから「黒い少女」を連想してしまうのだ。
深みだとやっぱりおかしい。言い直す。スクリーンに映し出される書割は、奥行きを加えただけでは実存感を得ない。ヨゴシが入って初めて実存感を得るのである。このヨゴシ即ちケガレが、未映子ちゃんには足りないのだ。逆に言えばそこが、永井哲学にも通ずる「癒し」的な作品の魅力になっているのである。わたしはそれを「きれいな目をしたジャイアン臭」と呼んでいるだけである。モノは言い様。
オタク的に言えば、二次元の少女ならよいってわけではないのだ。たとえばアメコミが描く女性などに対しては彼らのペニスは萎えるだろう。ケガレなき少女だからこそ、彼らは癒されるのだ。
しかしわたしは、「黒い少女」の反作用として軽やかさを、藤田氏が本当に見えてないとは思わない。ゴマスリでもあるが、彼が何故、
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『なるほど』この小説は全体として「だれか早くわたしを黙らせて!」という逆説的な無意識のメッセージのように『も』聞こえてくる。
(『』は筆者による)
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と書かなければならなかったのか。『』がなくても文章は成り立つにも関わらず。石原氏の選評まで引用して。
彼が「だれか早くわたしを黙らせて!」と言っている時、想定しているのはヒステリー的主体であろう。ヒステリーとは、斎藤環氏著『戦闘美少女の精神分析』が、ケガレなきファリックガールの対照項として描いているように、ファリックマザーを宿した主体である。ケガレを皮膚に刻み込んだ女性である。オタク向けにわかりやすく言うなら真紅と水銀燈の違いである。真紅がファリックガールで水銀燈はトラウマというケガレを背負うヒステリーである。「黒い少女」とは水銀燈である。なんかしっくりくるでしょ?
つまり、藤田さんは、『なるほど』や『も』と付け加えることで自分の評論的分析に疑問を示しつつも、未映子ちゃんに「黒い少女」を見出し「たがって」いるのだ。でもうまく見出せなかったから、
=====
とまれ、このまだ若い作家にとっての真の試練は、決して多弁を発展させてゆくことではなく、むしろ多弁自身がどのような形で自らに終止符を打つことができるか、というアポリアのなかにこそあるといえるだろう。
=====
という評論として様式化された言葉でお茶を濁しつつ文を閉じなければならなかったのだ。
わたしの言葉なら(本論の論旨は似ているが)、
=====
川上氏は本音を書けていない。氏に(女性的なるものを)期待する立場で言うならそういう要約になるだろう。そういう期待ならわたしは金原ひとみ氏とかに期待する。中途半端さを中途半端にしていないって意味で。だから他人がこの記事を読んでこんな要約したら、わたしは「違う」って言う。
=====
ってことになろう。藤田氏は川上氏に「女性的なるもの」を期待してこのような評論を書いてしまったのだ。
この構図は、2ちゃん用語に換言するならば、彼は未映子ちゃんが鬼女的に巧妙に仕組んだ「ネタにマジレスを」してしまった、見事に釣られてしまった、ということになる。正確に言うならば、鬼女の「釣り」は釣りでもありマジレスでもあるから、藤田氏のマジレスはありだ。むしろマジレスを返してきて初めて、鬼女は「釣れた」と言う。そうやって男は女の本性が見えなくなる。どつぼにはまっていく。混沌とした女の本性の前で、セックスの直前の行動によって、男はその本性をさらけ出す。
この場合なら、藤田氏の本性は水銀厨(ぐぐってね)だった、ってこと。
藤田さんの水銀厨っぷりはよくわかった。その主張は、「黒い少女」の黒さ=ケガレ=アブジェクシオンを強調したいわたしの論にも寄り添えるだろう。
しかし、その厨っぷりを、芸術の評論に押し付けちゃいけないと思うのだ。特に科学である精神分析の用語を用いるならば。
未映子ちゃんを「黒い少女」として解釈してしまうならば、その軽やかさ、わたしの言葉なら神経症的逃避としての面白さが失われてしまう。
何故彼女は方言に拘るのか。それは、「ふるさとは近くに帰って笑うもの」ということだ。エステに通うおばちゃんならば、エステに通う自分をネタにしてガハハと笑う大阪のヒョウ柄おばちゃん的なノリだ。「黒い少女」特有の自虐を乗り越えた、自虐をギャグにできる醜いババアの開き直りだ。西原理恵子「先生も18歳だ」in新島だ。わたしが昔働いていたスナックのレーコママ(仮名)だ。
未映子ちゃんがそうだと言わないけど。そういうしたたかさをもって、あえてケガレなき化粧を、少女趣味なフリルを、エステを楽しんでいるってこと。
彼女のブログ名だってそうじゃない、「純粋悲性批判」。彼女は悲しみというケガレを、髪を切るようにムダ毛を処理するように、軽やかにかつ反復的にかつ継続的に象徴化している、し続けている。この辺保坂和志氏に似ている気がする。どっかのニュー評論家が保坂の小説を「田舎のジジババの永遠に続くかのようなおしゃべり」みたいな表現してたけど、わたしは同感だけど、彼女になると「一人勝手な調子に乗ってのお喋り」と言われてしまう。哲学繋がり。でも確かに保坂氏は「ネタにマジレスを~」になってない。男だから。
一方、ほじくった耳クソを大事にとっておいてしまうのが、笙野頼子である。
学問は、確かに自分の言いたいことを言語化する際、とても便利な道具である。しかし道具に振り回されることだってある。剣道だって重過ぎる竹刀は使いづらい。てゆっかわたしは振り回されまくっている。
藤田さんのこの評論読んで最初に感じたのは、「あーやっちゃったなあ」みたいな。どーせ「ニュー評論家」あたりに突っ込まれそうな内容なので(いや彼ら学問コンプレックスあるみたいだから言わないか)あえてわたしが突っ込んでみた。みました。というわけ。
確かに未映子ちゃんに「黒い少女」を見出せないこともない。精神分析は、っていうか人の心ってそういうものじゃん。傾向的にこうとは言えるけど、読もうとすればいろんな読み方ができる。解離症と診断されている人にパラノイアを見出したって構わない。何が起こるのかわからないのが人の心ってものじゃない。無意識ってものじゃない。だけど傾向的に経験的にこうだと言うわけでしょ? 治療のために。学としての理屈を構築するために。評論だって同じだと思う。その作品のその作家の傾向的な特徴を論じるべきじゃないの? とわたしは思う。黒い少女感なら金原ひとみ氏の方が上でしょ? 別に故奥歯氏でもいいけど。でも未映子ちゃんは奥歯氏でも金原氏でもない。未映子ちゃんには未映子ちゃんの良さがある。
少なくとも自分で疑問に思いつつ、科学の言葉で着飾った自論を押し付けるようなマネってものすごくキモチワルイ。自分の厨っぷりなのに、それを石原氏に擦り付けているような態度も。
精神分析では、「女」なるものとは確かにナゾである。暗黒大陸である。精神分析を学んでいるわたしはそれに従うし、体感的にそうだと思える。
しかし大阪のおばちゃんに言わせれば、
「女は女やろ」
なのだ。
女は、「女」というシニフィアンに纏わるパラドックスを、その意味を生きるタイヘンさを誰かにわかって欲しい。だけど、その誰かから「タイヘンだね」と言われると、「ほんとにわかってんの?」と逆ギレしたくなる。……という言い訳?
暗黒大陸のはずなのに、女性は存在しないとまで言っているクセに、なんで「女とはこういうもの」を押し付けちゃうの? ってこと。
象徴的父に従うなら、「女」というシニフィアン連鎖に則るなら、女は他者の「女とはこういうもの」という言葉全てに「ノン」を突き返さなくてはならない。
大阪のおばちゃんなら、「女は女やろ」と言ったその口で言う、
「そら女にもいろいろあるがな」
である。
――いじょ。
この文章書いててなんでか涙が出てきたのは不思議で秘密だ。
ほむほむ。
あーうんうん。断頭コンプレックス。笙野作品ってそういうもろなシーンないけどこの記事でわたしが書いた、
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供犠の際、切り落とされた首あるいはペニスとして、スクナヒコナあるいは彼女の飼い猫を、「真の女」は産出する。それを所有することで、彼女は神に近似する「個」を得た。
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に当たるな。彼女の文章から感じられる斬首感。笙野氏が笙野自身の言葉を含む大文字の他者に斬首されている感じ。これは「極私的言語の戦闘的保持」が示すものと同じものである。
でも逆に言えば、わたしの言葉ならば、斬首は象徴界の否認をも示す。頭を切り落とすってのはそういうことじゃん。象徴界を否認することが「女」というシニフィアンを承認することなのよね。「女」という言葉自体に「うんこ=ケガレ=棄却されたもの=異」という意味が含まれてるわけだから。まあ大体の女性はこの切り落とされた頭って自分の子供になるんだが。めちゃくちゃ卑俗化して言うならば、「女はバカの方がカワイイ」って奴だ。女は男にとは個人的に言いたくないので象徴界にあるいは象徴的父にカワイク思われたいがためにバカになるってこと。
ともかくだ。女性の象徴的去勢(の「否認/承認」)には「女」というシニフィアン自体が持つ逆説性が色濃く絡んでいるということを言いたいわけで、こういうパラドックスが常に既に「女」という意味、女の人生に纏わりついてくる。ここがわかってる、なおかつそこを論のスタートにしている藤田さんはロリとは言えさすがである。ゴマゴマスリスリ。
では未映子ちゃんは未去勢な主体なのか。「おしゃべりが止まらないわたしを止めて」なのか。ヒステリー的な、過剰なおしゃべりはイヤなのに喋ってしまう主体なのか。
わたしは違うと思う。
藤田さん自分で書いておろーが。序論として彼女の技巧論を。「父、採らん」ってとこ。なーんでそこに気づかないかなー。技巧論をまず書いて「しまった」自分を。それを「偽装」だと言いながら、偽装だと知りつつ書かざるを得なかった自分を。
これが、この偽装が、わたしの言う「ネタにマジレスを~」感である。神経症的逃避である。
未映子ちゃんは確信犯かつ故意犯なのだ。
メモ書きとして書いとくならば、彼の言う「換喩」が、わたしの言う、
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阿部くんの、現代男性的系列では、目のきれいなジャイアンに対して「ネタにマジレスを~」になるんだけど、そこを突き詰めたシュルレアリスム的なりヌーヴォー・ロマン的なもの
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に当たる(ここで愚痴っとくとこれでもわたしゃわかりやすく書こうと努力してるんだよーと言っときたい)。
あとはー、なんて言えばいいのだろう。ここはネットだからネットらしく喩えるなら、藤田さんは2ちゃんの鬼女板の怖さをまだ知らない。vipperでさえ怖れる既婚女性板を。ってノリでゆってるけど。ここは。
要するに、未映子ちゃんは既婚女性なのだ。ダンナは永井均か知らんが(比喩な比喩)。
何故2ちゃんで鬼女たちは恐れられているのか。いやそんなかわんねーんだけどね。鬼女もヴぃっぱも。
それはだね、東浩紀とかが言うメタって、上位に向かってのものじゃない? 上から俯瞰して物事を語るメタ。俯瞰しているから「ネタにマジレスを~」って言えるわけじゃん。
鬼女たちも「ネタにマジレスを~」なんだけど(なんだかんだゆって2ちゃねら)、彼女たちのメタは、下から見ているのだ。メタをメタ化することは、彼女たちの場合どんどん卑俗化していくことになる。だから鬼女たちの言葉は汚い。どろどろしている。いやわたしはフツーだと思うけど。むしろ女に何期待してんだって思う。
どろどろしたケガレの沼に、何故彼女たちはこうもあっけらかんと沈めるのか。それはダンナがいるからである。子供がいるからである。ダンナや子供がいるから、本音としての汚くどろどろした言葉を吐けるのだ。
しかしこの本音には、笙野の言葉のような、個が個であるための凄惨さはない。
そりゃそうだ。ダンナや子供がいるんだから。ダンナや子供という命綱があるから、自由自在にケガレの沼に沈める。象徴界への、象徴的社会への出口が確保されている。この出口が確保されていることが、わたしの言う「きれいな目をしたジャイアン臭」である。ダンナや子供の固有名が、その出口だ。
だから既婚女性は自分のことを、「○○の妻です」あるいは「○○の母です」と言うわけだ。
笙野氏や故二階堂奥歯氏はそう言えない。妻でもなく母でもないからだ。
故奥歯氏ならその出口は、ぬいぐるみとなろう。ぬいぐるみはケガレの世界(死後など)と連結はしているが、象徴界の中ではとても些細な穴になってしまう。この世界守護者は、奥歯氏がケガレの世界へ落ちていくのを、「間」=「魔」に飲み込まれていくのを、その死を、食い止められなかった。
笙野の場合、それはスクナヒコナや飼い猫となろう。「スクナヒコナの所有者です」なんて言ったらキチガイ確定だ。「ギドウ(飼い猫)の所有者です」ならまだいける。
しかし、「○○の妻です」と比べると、これらの構造は逆転しているだろう? 「○○の妻です」だと○○という固有名に所有されていることになる。所有じゃなくても少なくとも○○を所有しているという意味にはならない。それは「妻」というシニフィアンが「女」を含意するからだ。
笙野の場合、飼い猫というファルスを機能させるには、飼い猫を所有しなければならなかった。そして笙野は飼い猫を所有するために一本の小説を書いた。『愛別外猫雑記』である。
……笙野は置いておこう。未映子ちゃんに戻る。
未映子ちゃんの作品は、わたしは『イン歯ー』しか読んでないけど、少なくともその作品においては、笙野氏の個に対する凄惨な覚悟、「黒い少女」スキー向けに言うなら奥歯氏のような女というシニフィアンを背負う覚悟などと比較したらわかりやすいが、むしろ軽やかさを感じた。その軽やかさは、さっき言った鬼女たちの軽やかさである。
この軽やかさは浮かぶ軽やかさではなく、潜る軽やかさである。
よって、藤田さんの、換喩うんぬんの指摘は、未映子ちゃんにとっては「ネタにマジレスを~」になってしまうのだ。未映子ちゃんは藤田さんの好きな「黒い少女」とは逆方向の、たとえばエステに通うおばちゃんなのだ。「自分を美化する『ことができる』ババア」なのだ。きれいな目をしたジャイ子なのだ。……って今想像したらカワイクね? きれいな目をしたジャイ子。
しかし藤田さんは、未映子ちゃんを無理矢理「黒い少女」に結びつけてしまう。引用しよう。
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石原慎太郎氏は選評のなかで「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい」と述べ、選考委員のなかでは唯一人、彼女の文章の未去勢的本質を見抜いている。つまり極言すれば「女のお喋りには去勢が必要」という訳である。なるほどこの小説は全体として「だれか早くわたしを黙らせて!」という逆説的な無意識のメッセージのようにも聞こえてくる。分析の経験は、このような去勢要求が、しばしば成熟拒否(母親拒否)を伴って、拒食、過食、リストカットといった行為化の形で実行されることを知っている。実は、豊胸手術はまさにその去勢要求の呪縛から主体が離脱するために有効な手段の一つなのであるが、このことは意外と知られていない。実際、美容外科の現場では去勢要求に囚われた女性が自ら望んで豊胸手術を受けた後に心的症状が劇的に改善する例に屡々遭遇する。
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豊胸手術については、「異」としての「女」というシニフィアン、つまり男に愛されるために斬首された頭を身につけるということになろうがここでは置いといて。
「拒食、過食、リストカットといった行為化」が、それを行為する女性的主体が、わたしの言う「黒い少女」である。少女と書いているが年齢は関係ない。藤田氏の言葉なら「未去勢的本質」を比喩するための「少女」である。
ここでは藤田氏はむしろ、未映子ちゃんの潜る軽やかさが見えていないと言える。彼女の作品の魅力の一つは、その軽やかさである。
いや、藤田氏は確かにこうも書いている。
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まるで目の前で起こっているかのように描写されているが、そこに現実のような奥行きや厚みは感じられない。テーマのように擬装された豊胸手術や初潮も、結局のところスクリーンの表面を滑って仮想現実構築のためのパーツとして隠蔽に一役買っているに過ぎない。
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ここまで読めていて、何故「黒い少女」に結びつけなくてはならなかったのか。藤田氏が男性である故、彼が「厚み」と言う場合、上に向けての厚み、即ち隠喩的連鎖しか連想できないからであろう。馴れ合いとして悪口を言い合うような、それこそ2ちゃんねる的な換喩的連鎖、シニフィアンの滑走が脱臼し続ける会話、そういう深みって言うと違う気がするけどそういうものとしての厚みがわかっていないからである。だから、厚みがないことから「黒い少女」を連想してしまうのだ。
深みだとやっぱりおかしい。言い直す。スクリーンに映し出される書割は、奥行きを加えただけでは実存感を得ない。ヨゴシが入って初めて実存感を得るのである。このヨゴシ即ちケガレが、未映子ちゃんには足りないのだ。逆に言えばそこが、永井哲学にも通ずる「癒し」的な作品の魅力になっているのである。わたしはそれを「きれいな目をしたジャイアン臭」と呼んでいるだけである。モノは言い様。
オタク的に言えば、二次元の少女ならよいってわけではないのだ。たとえばアメコミが描く女性などに対しては彼らのペニスは萎えるだろう。ケガレなき少女だからこそ、彼らは癒されるのだ。
しかしわたしは、「黒い少女」の反作用として軽やかさを、藤田氏が本当に見えてないとは思わない。ゴマスリでもあるが、彼が何故、
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『なるほど』この小説は全体として「だれか早くわたしを黙らせて!」という逆説的な無意識のメッセージのように『も』聞こえてくる。
(『』は筆者による)
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と書かなければならなかったのか。『』がなくても文章は成り立つにも関わらず。石原氏の選評まで引用して。
彼が「だれか早くわたしを黙らせて!」と言っている時、想定しているのはヒステリー的主体であろう。ヒステリーとは、斎藤環氏著『戦闘美少女の精神分析』が、ケガレなきファリックガールの対照項として描いているように、ファリックマザーを宿した主体である。ケガレを皮膚に刻み込んだ女性である。オタク向けにわかりやすく言うなら真紅と水銀燈の違いである。真紅がファリックガールで水銀燈はトラウマというケガレを背負うヒステリーである。「黒い少女」とは水銀燈である。なんかしっくりくるでしょ?
つまり、藤田さんは、『なるほど』や『も』と付け加えることで自分の評論的分析に疑問を示しつつも、未映子ちゃんに「黒い少女」を見出し「たがって」いるのだ。でもうまく見出せなかったから、
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とまれ、このまだ若い作家にとっての真の試練は、決して多弁を発展させてゆくことではなく、むしろ多弁自身がどのような形で自らに終止符を打つことができるか、というアポリアのなかにこそあるといえるだろう。
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という評論として様式化された言葉でお茶を濁しつつ文を閉じなければならなかったのだ。
わたしの言葉なら(本論の論旨は似ているが)、
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川上氏は本音を書けていない。氏に(女性的なるものを)期待する立場で言うならそういう要約になるだろう。そういう期待ならわたしは金原ひとみ氏とかに期待する。中途半端さを中途半端にしていないって意味で。だから他人がこの記事を読んでこんな要約したら、わたしは「違う」って言う。
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ってことになろう。藤田氏は川上氏に「女性的なるもの」を期待してこのような評論を書いてしまったのだ。
この構図は、2ちゃん用語に換言するならば、彼は未映子ちゃんが鬼女的に巧妙に仕組んだ「ネタにマジレスを」してしまった、見事に釣られてしまった、ということになる。正確に言うならば、鬼女の「釣り」は釣りでもありマジレスでもあるから、藤田氏のマジレスはありだ。むしろマジレスを返してきて初めて、鬼女は「釣れた」と言う。そうやって男は女の本性が見えなくなる。どつぼにはまっていく。混沌とした女の本性の前で、セックスの直前の行動によって、男はその本性をさらけ出す。
この場合なら、藤田氏の本性は水銀厨(ぐぐってね)だった、ってこと。
藤田さんの水銀厨っぷりはよくわかった。その主張は、「黒い少女」の黒さ=ケガレ=アブジェクシオンを強調したいわたしの論にも寄り添えるだろう。
しかし、その厨っぷりを、芸術の評論に押し付けちゃいけないと思うのだ。特に科学である精神分析の用語を用いるならば。
未映子ちゃんを「黒い少女」として解釈してしまうならば、その軽やかさ、わたしの言葉なら神経症的逃避としての面白さが失われてしまう。
何故彼女は方言に拘るのか。それは、「ふるさとは近くに帰って笑うもの」ということだ。エステに通うおばちゃんならば、エステに通う自分をネタにしてガハハと笑う大阪のヒョウ柄おばちゃん的なノリだ。「黒い少女」特有の自虐を乗り越えた、自虐をギャグにできる醜いババアの開き直りだ。西原理恵子「先生も18歳だ」in新島だ。わたしが昔働いていたスナックのレーコママ(仮名)だ。
未映子ちゃんがそうだと言わないけど。そういうしたたかさをもって、あえてケガレなき化粧を、少女趣味なフリルを、エステを楽しんでいるってこと。
彼女のブログ名だってそうじゃない、「純粋悲性批判」。彼女は悲しみというケガレを、髪を切るようにムダ毛を処理するように、軽やかにかつ反復的にかつ継続的に象徴化している、し続けている。この辺保坂和志氏に似ている気がする。どっかのニュー評論家が保坂の小説を「田舎のジジババの永遠に続くかのようなおしゃべり」みたいな表現してたけど、わたしは同感だけど、彼女になると「一人勝手な調子に乗ってのお喋り」と言われてしまう。哲学繋がり。でも確かに保坂氏は「ネタにマジレスを~」になってない。男だから。
一方、ほじくった耳クソを大事にとっておいてしまうのが、笙野頼子である。
学問は、確かに自分の言いたいことを言語化する際、とても便利な道具である。しかし道具に振り回されることだってある。剣道だって重過ぎる竹刀は使いづらい。てゆっかわたしは振り回されまくっている。
藤田さんのこの評論読んで最初に感じたのは、「あーやっちゃったなあ」みたいな。どーせ「ニュー評論家」あたりに突っ込まれそうな内容なので(いや彼ら学問コンプレックスあるみたいだから言わないか)あえてわたしが突っ込んでみた。みました。というわけ。
確かに未映子ちゃんに「黒い少女」を見出せないこともない。精神分析は、っていうか人の心ってそういうものじゃん。傾向的にこうとは言えるけど、読もうとすればいろんな読み方ができる。解離症と診断されている人にパラノイアを見出したって構わない。何が起こるのかわからないのが人の心ってものじゃない。無意識ってものじゃない。だけど傾向的に経験的にこうだと言うわけでしょ? 治療のために。学としての理屈を構築するために。評論だって同じだと思う。その作品のその作家の傾向的な特徴を論じるべきじゃないの? とわたしは思う。黒い少女感なら金原ひとみ氏の方が上でしょ? 別に故奥歯氏でもいいけど。でも未映子ちゃんは奥歯氏でも金原氏でもない。未映子ちゃんには未映子ちゃんの良さがある。
少なくとも自分で疑問に思いつつ、科学の言葉で着飾った自論を押し付けるようなマネってものすごくキモチワルイ。自分の厨っぷりなのに、それを石原氏に擦り付けているような態度も。
精神分析では、「女」なるものとは確かにナゾである。暗黒大陸である。精神分析を学んでいるわたしはそれに従うし、体感的にそうだと思える。
しかし大阪のおばちゃんに言わせれば、
「女は女やろ」
なのだ。
女は、「女」というシニフィアンに纏わるパラドックスを、その意味を生きるタイヘンさを誰かにわかって欲しい。だけど、その誰かから「タイヘンだね」と言われると、「ほんとにわかってんの?」と逆ギレしたくなる。……という言い訳?
暗黒大陸のはずなのに、女性は存在しないとまで言っているクセに、なんで「女とはこういうもの」を押し付けちゃうの? ってこと。
象徴的父に従うなら、「女」というシニフィアン連鎖に則るなら、女は他者の「女とはこういうもの」という言葉全てに「ノン」を突き返さなくてはならない。
大阪のおばちゃんなら、「女は女やろ」と言ったその口で言う、
「そら女にもいろいろあるがな」
である。
――いじょ。
この文章書いててなんでか涙が出てきたのは不思議で秘密だ。