キャラクターズinポモ
2008/04/10/Thu
最近と限んないけどわたしの文章って基本あれだよね。こう、ガキが(精神分析的な)ママの注意を引きたくてイタズラする感じの。うんうん当たってる。だあって退行しちゃうんだもの。どうしても。知らないうちに。その果てにあるケバケバしく毒々しい華厳の極楽を知ってるから。
退行きめえ、と自分で思う。よくこんな文章読んでられるなあとなけなしの大事な読者にさえ唾を吐いちゃう。
退行らめえええ、ってことでちょっと立ち止まりたい。
いやでもさ、ガキがママの気を引きたくてって奴さ、こう、落ちないイカロスどもは「愛情の裏返し」とかゆうじゃん。はあ? ナニイッテンノ? って思う。
憎しみの裏返しが愛情なのだよ。
憎しみの本質が愛情ではなく、愛情の本質が憎しみなのです。憎しみは愛に先んずるのです。おっぱいが悪いのです。腕振ってるどころじゃありません。おっぱいはしかめっ面をしてるのです。おっぱいはちんちんを萎えさせたいのです。朝青龍のおっぱいなのです。
……アガペーは憎しみの換喩だけどね。
はいはいストップストップ。
つーかさ、基本そうじゃん。ひきこもりとかも。別にスキゾイド型ひきこもりでも社会的ひきこもりでもいいけどさ、たとえば禅宗なんか真のひきこもりを目指してるわけじゃん。小乗仏教って。わざとゆってるけど。小乗。斎藤たまきんもこのぐらい言わないとなー、って思う。ラカンを禅になぞらえるの批判する気持ちはわかるし、欲望に臆病なのが(社会的)ひきこもりって主張なわけだし。いやわたしはラカンと禅ならサントームで繋げられると思ってるけど。
そこんところはあずまんの方がうまいよね、煽ラーとしては。たまきんはやっぱラカン派のイケナイところだけどフランス映画みたいにまだるっこしい。ってゆっか二人の対談とかもろあずまん=セメ、たまきん=ウケじゃん? 誰かBL描かねえかな。あずまん×たまきん。たまきんオタクアニメに塗れるエセフランス人で。イメージは有閑倶楽部の詐欺師に騙されるホモのかわええおっさん、理事長代理だっけ? みたいな。結構売れると思うんだけど。同人レベルでは。
ひろりんはもろシンジ? ちゃうな、シンジのトモダチのメガネ辺りか。うる星ならメガネ(特に映画2の)でいいカンジだけど。シンジトモダチは浅田でいいや。おお、あうじゃん。となるとシンジはやっぱ柄谷くんだなー。享楽、享楽ぅ(サービス、サービスゥのノリで)。中沢は大阪弁の子。三号機だかの事故がオウム事件。
永井センセはあれ。苺ましまろのバイト先のファミレスでいろいろぶつけられるじいちゃん。それか「立ってろー」言われる子。ぶは、後者あいまくることに気づいた。自分でゆってるもんな、大人しいけど空気読めず周りを沈黙させる子供だったって。うわ永井ファンになってしまいそうだ。
笙野なんだろー? もうエヴァそのものでいいような気がするけどファンとしての色眼鏡が入ってるのは否めないので西原理恵子で。つーか『母の発達』ぐらい以降の作品ってほとんどサイバラの絵で読んでしまう。両方好きだけど。
んで鳥頭ロボに踏みにじられるモブにニュー評論家あたり。これなら大体妥協できるっしょ。
絵はやっぱベルセルクの人で。絶望感描くのうまいじゃんこの人。抑鬱症的な、虚無的な絶望じゃなくて、おぞましさ、生理的嫌悪感の極地としての絶望。それを描かせたら右に出る者はいないと思う。このキャラクター相関図の、虚無的じゃない生理的嫌悪としての絶望感を、いいカンジに描いてくれると思うなー。シンジに見出されたあずまんとかさ。彼と仲良くなろうと気弱な笑みを浮かべ近づいてくるフランス人オタク。最初はケンカばかりしてしまうがやがて彼らは肌と肌を重ねていく……
うわあ……。
つかまあレクチャー次第だろうな。
わたし? 退行ナルシシズムを許可さえしてくれるならぱにぽにのベッキーでヨロ。ダメならホスト部の腐れマネージャーでいいやもう。
果たして主人公あずまん(主人公だったのか)はこの「絶望」をキャラクター化、脱構築できるのだろうか!?
次回、乞うご期待!
ヤマアラシのジレンマってアホか。ヤマアラシのクセにヤマアラシじゃない顔して抱きしめる方がよっぽどタチワリイじゃねえか。自分が抱きしめているせいなのに「なんで嫌がるの? 痛がるの? 気持ちいいはずだよ?」ってアホか。あれ、広田レオナの唇ごさって厚くしたカンジ。いやこっちの話。カンユカンユ。あ、えーなーカンユって。便利な言い訳だ。アスペの人とかこれから「今私の言ったことはカンユです」って言うといいよ。それでもなんやかや言ってくるジャイアンたちを理屈的にスルーできるから。資本主義の現代ならば。
ご飯食べたらさあおいで。
おかあちゃんが抱きしめてあげる。
ぎゅうっとぎゅうっと抱きしめてあげる。
丸々太ったお前たちを、全員串刺しにしてあげる。
わたしの腕の中で、キャラクターたちは血まみれになって嗚咽を上げるのでした。
ああ、なんていう実存。
享楽、享楽ぅ(気に入ったらしい)。
あーちょっと面白い文章つかそこから連想したわたしの思考が面白かったので。
=====
「実際には、誰もが間接的に「書けない理由」を「書く」ことでその作品を仕上げているというのが現状なのだ」ということを告げるためである。
=====
っていうのはだねー、人間文芸に限らず会話もそうだけど、表面にある語られた言葉のその向こう、たとえば本音みたいなものを読み取ろうとするわけじゃない。それがあるからこそ、記号の羅列でしかない文芸の、記号になっていない感動があると思っちゃうわけ。
んで、この記号の羅列だけじゃない、記号が意味するものや、比喩表現による感動などを説明するのに、学術的な世界にある精神分析っていう理屈が非常にマッチすることにみんな気づきはじめた。その一つ、ラカン論では、比喩連鎖のスキマに落ちたものが、クライアントの真理である、というのがある。つまり、読者が記号の羅列の向こうを読みたがったり、作家が一番書きたいものを書こうとするとそれを直接的に書けないことの説明ができるわけね。これで。これは同時に隠喩の大切さってことになるんだろうけど、まあそこは置いとこう。
まあ、書けない理由を書くっていうのは、作家にとっては、作品を書く行為についての本質を探る行為になるわけじゃね。
作家なり読者なりが思う大事なもの、真理だから、それは直接的に書かれてはいけない。なぜならその大事なものは、少なくとも記号の羅列じゃないから。というわけ。記号化したいのに記号化しちゃうと、その大事なものは失われちゃう。記号化したいのに記号化しちゃうと、別なものになっちゃう。大事なものを記号化するのは永遠に不可能。だからこそ人は言葉を紡ぎ続ける。会話し続ける。いや、大事なものを守って沈黙したりひきこもったりもありよ。それがひどくなったのが抑鬱症。もっと一般化するなら斎藤環氏が提唱する社会的ひきこもりやの。
わたしの土俵で語らせてもらうならば、ラカンなら欲望は連鎖し続けるってことじゃね。バルトならコノテーション。クリステヴァならジェノ-テクストとかセミオティック。文学ちょっとやってる人間なら知ってることだと思うよー。もちろん専門が違うとかあるだろうから一概には言えんけど。
だけどこの文章は、むしろキミの文学に関連する無知をさらけ出しちゃった文章になってしまっている。つか自分で似たようなこと書いてるじゃん。最新の記事で。そうそう、人はそうやって学んでいくものなのですよ。まあ精神分析では「どうでもいいこと」即ち何気なく言った言葉や言い間違いやジョークにこそその人の無意識が立ち現れるもの、となるけどね。だからわたしは2ちゃんが好き。面白い。
この辺フランス現代思想では常識じゃよ? ラカン、バルト、クリステヴァなんでもいいけど、蓮實はその辺のフランス現代思想輸入した黒幕だから、そういった文脈で語っているわけで、
=====
ここでこの老人からウインクを送られているのは実は笙野頼子ではなく中原昌也であり、そこから浮かび上がるのは、中原を「擁護」する姿勢によって現在の文壇に影響力を維持しようとする老批評家のいじましい姿である。
=====
なんかではないと思うよー、と。「レトリックだけで内容のない」わけではなく根拠がある言い分なの。むしろキミが無知だから内容がない、つまりキミの思想の内容のなさを投影させているわけやね。
正直言うとさー、この文章でこんな連想するのは、キミ、パラノイア疑った方がよいよ? と本気で心配した。鏡として見せたげるなら西村賢太あたり。いや作品自体は彼は代理表象の一線をうまく使えてるけど、キャラクターとして読むならあれよ、パラノイア一歩手前って。
=====
このところいろんなことにすぐ腹が立ってしまい、
=====
何故腹が立っちゃうのか。精神構造的には西村賢太が描く主人公と同じ症状だと言える。結構ぎりぎりかもしれない。キミの文章読んでると。キミ「感性」(このカギカッコは強調したい)は鋭い方だからピンとくるはずよ。まあああいうのが精神医学ではパラノイアとの境界例、即ちボーダーって名付けられてるってだけのこと。いいじゃない、ボーダーだろうがパラノイアだろうが。ただの言葉なんだし。ラカンなんて「人格なるものはパラノイアである」みたいなことまで言っちゃってるんだし。ラカニアンに怒られるの覚悟して言うなら、彼はパラノイアコンプレックスみたいなところがあったからそんなことを言ったんだろうけどね。
キミは、愛や同情などといったパトスの本質である「憎しみ」に近づけているのだよ。退行しているのだ。退行はユング派が言っているように悪いことじゃない。新しい発想を生む源泉でもある。
要するに、「汝の症候を楽しめ」ですよ。
せっかくのイントラ・フェストゥムの世界、楽しまなければソンソン、よ。どすとえふすきー。かーにばーる。
わたし? わたしもボーダーでよいよ。自分ではヒステリーだと思ってるけど。つか演技性人格障害なんかはボーダーじゃなくヒステリーだと思うけどなあ。まあどっちでも好きに思って。仲良くイントラしましょ。うんこ投げつけ合うカーニバルを享楽しましょ。うきゃきゃきゃ(わたしの貧困なイメージ力による魔女ランダの笑い)。
まあ中二病とパラノイアの違いなんて、去勢直後がどうかだけから(パラノイアとの境界即ちボーダーを認めないラカン派には怒られちゃう言い方だけど)、そのまま突き進むもよし。だがそれがいい。キチガイ推進派のわたしとしてはキミの姿勢は応援したい。周りから見てる分にはキミみたいなパラノイアタイプがいないと脱構築は起こりにくいものだ。どんどん妄想を構築してくれたまえ。というわけで、「学に関係ないところならば」わたしキミのファンになりつつあることを告白しておこう。評論家やめて作家になれば? ねえねえ。マジで言ってるんだけど。妄想が豊かなのが作家の条件なわけだし。最近の作家マジキチガイ少なくてほんとつまんねえんだもん。目指せ島田清次郎。
つーかさ、これは愚痴になるんだけど、ラカン系ブログなんてぽろぽろあって、中には明らかに間違っているバカ文章もあるんだけど、あまりにレベルが低くて反論する気にならないんだけど、この仲俣くんの文章もそんな感じ。
えー……こんなレベルで評論家になんてなれるの? 評論家って楽な商売なんだなあ、と素で思った。元編集長ノ人脈ッテスゴイノデスネ。
作家ならいいのよ。作家なんてな(代理表象されたものが)キチガイであればあるほど作品は面白くなるんだから。
まあ学に神を信じている人間としては、こういう学の虎の威を借りてるだけ(反抗することも威を借りてることになるのです)の奴は一言いっとかなきゃなので言ってみました。そういうわけー。作家なら褒めるけど。
いい勉強になったじゃん。蓮實の学者芸人としての芸風ってこんなカンジだから。無知な人間をコバカにする態度。だから無知が噛みついて絡め取られる。無知はさらに無知をさらけ出す。それが蓮實の呪術。わたしも蓮實に対するコンプレックスはあるから、この辺はよく知っている。巨人たる風車を倒すには、まずそれが風車だと知ること、よ。なんだかんだつって柄谷も東浩紀もその辺の心理カウンセラーなんかよりよっぽどラカン詳しいしのう。ラカンに限らないけど。
よかったねー。キミの場合無知過ぎるからお話にもなんないとスルーされてるんだと思うよ。いやわたしから見てもレベル低すぎるもん。思考構造が単純でどこにでもいるおっさんと同じだからつまんない。だから、蓮實が中原に媚びているとか、そんな妄想をどんどん生産させた方が、キミの文章も個性的になるし、面白くなるよ、というアドバイス。妄想が錯綜するから、人間ってな面白い。会話は面白いの。ああ補足しとくと、精神分析学ではわたしたちが思っている日常的現実でさえも妄想になる。いくら現実と言っても、視覚なり聴覚なり皮膚なりという器官で発生した刺激を脳で編集したものに過ぎないわけで、本当の現実は脳や器官を媒介しないところにある。要するに本当の現実とは到達不可能なものなわけ。脳で編集しているという意味では、キチガイの妄想も一般人が思い込んでいる(本当ではない)現実も明確に区別できないのよ。
評論は学と芸術の間だから芸術方面でやってくれるとわたしは楽、って話よね。正直なところ。学の世界で内部から食い荒らすキチガイという役割を取られちゃかなわん(最近それすら飽きつつあるけど)。いやキミの話じゃなく。キミレベルだとスルーされるし、わたしもスルーされているわけだから(最近ぽつぽつその筋の人からも読まれ始めてるらしいけど)、同情みたいな罵詈だと思って。アニメでよくあるじゃん、主人公に「てめえみたいなガキが魔王を倒せるわけなかろうが、ガハハ」とかゆって一番最初に死ぬムキムキ兄ちゃんみたいな。あれあれ。こうやって自分でザコキャラフラグを立ててしまうわたしであった。
西村賢太氏は、いかにも文学オタク的な抑鬱的場面と、それと対照的な主人公がテンパった時の錯綜感、斎藤環氏の言葉なら妄想ドライブ感(だっけ?)が面白いわけで。いや個人的な感想だとなんでかぎりぎりのところでキチガイになり切れない神経症的「ネタにマジレスを~」感を感じちゃうけど。
まあ、パズルとしての面白さよね。この錯綜感は。野暮な人間の言葉なら。
無知は、恥ではないが、権力でも免罪符でも武器でもないのだよ。
戦うなら、剣を取りたまえ。シニフィアンという諸刃の剣を。
んで仲俣くん、ボロメオの輪はオベンキョしたかい?
退行きめえ、と自分で思う。よくこんな文章読んでられるなあとなけなしの大事な読者にさえ唾を吐いちゃう。
退行らめえええ、ってことでちょっと立ち止まりたい。
いやでもさ、ガキがママの気を引きたくてって奴さ、こう、落ちないイカロスどもは「愛情の裏返し」とかゆうじゃん。はあ? ナニイッテンノ? って思う。
憎しみの裏返しが愛情なのだよ。
憎しみの本質が愛情ではなく、愛情の本質が憎しみなのです。憎しみは愛に先んずるのです。おっぱいが悪いのです。腕振ってるどころじゃありません。おっぱいはしかめっ面をしてるのです。おっぱいはちんちんを萎えさせたいのです。朝青龍のおっぱいなのです。
……アガペーは憎しみの換喩だけどね。
はいはいストップストップ。
つーかさ、基本そうじゃん。ひきこもりとかも。別にスキゾイド型ひきこもりでも社会的ひきこもりでもいいけどさ、たとえば禅宗なんか真のひきこもりを目指してるわけじゃん。小乗仏教って。わざとゆってるけど。小乗。斎藤たまきんもこのぐらい言わないとなー、って思う。ラカンを禅になぞらえるの批判する気持ちはわかるし、欲望に臆病なのが(社会的)ひきこもりって主張なわけだし。いやわたしはラカンと禅ならサントームで繋げられると思ってるけど。
そこんところはあずまんの方がうまいよね、煽ラーとしては。たまきんはやっぱラカン派のイケナイところだけどフランス映画みたいにまだるっこしい。ってゆっか二人の対談とかもろあずまん=セメ、たまきん=ウケじゃん? 誰かBL描かねえかな。あずまん×たまきん。たまきんオタクアニメに塗れるエセフランス人で。イメージは有閑倶楽部の詐欺師に騙されるホモのかわええおっさん、理事長代理だっけ? みたいな。結構売れると思うんだけど。同人レベルでは。
ひろりんはもろシンジ? ちゃうな、シンジのトモダチのメガネ辺りか。うる星ならメガネ(特に映画2の)でいいカンジだけど。シンジトモダチは浅田でいいや。おお、あうじゃん。となるとシンジはやっぱ柄谷くんだなー。享楽、享楽ぅ(サービス、サービスゥのノリで)。中沢は大阪弁の子。三号機だかの事故がオウム事件。
永井センセはあれ。苺ましまろのバイト先のファミレスでいろいろぶつけられるじいちゃん。それか「立ってろー」言われる子。ぶは、後者あいまくることに気づいた。自分でゆってるもんな、大人しいけど空気読めず周りを沈黙させる子供だったって。うわ永井ファンになってしまいそうだ。
笙野なんだろー? もうエヴァそのものでいいような気がするけどファンとしての色眼鏡が入ってるのは否めないので西原理恵子で。つーか『母の発達』ぐらい以降の作品ってほとんどサイバラの絵で読んでしまう。両方好きだけど。
んで鳥頭ロボに踏みにじられるモブにニュー評論家あたり。これなら大体妥協できるっしょ。
絵はやっぱベルセルクの人で。絶望感描くのうまいじゃんこの人。抑鬱症的な、虚無的な絶望じゃなくて、おぞましさ、生理的嫌悪感の極地としての絶望。それを描かせたら右に出る者はいないと思う。このキャラクター相関図の、虚無的じゃない生理的嫌悪としての絶望感を、いいカンジに描いてくれると思うなー。シンジに見出されたあずまんとかさ。彼と仲良くなろうと気弱な笑みを浮かべ近づいてくるフランス人オタク。最初はケンカばかりしてしまうがやがて彼らは肌と肌を重ねていく……
うわあ……。
つかまあレクチャー次第だろうな。
わたし? 退行ナルシシズムを許可さえしてくれるならぱにぽにのベッキーでヨロ。ダメならホスト部の腐れマネージャーでいいやもう。
果たして主人公あずまん(主人公だったのか)はこの「絶望」をキャラクター化、脱構築できるのだろうか!?
次回、乞うご期待!
ヤマアラシのジレンマってアホか。ヤマアラシのクセにヤマアラシじゃない顔して抱きしめる方がよっぽどタチワリイじゃねえか。自分が抱きしめているせいなのに「なんで嫌がるの? 痛がるの? 気持ちいいはずだよ?」ってアホか。あれ、広田レオナの唇ごさって厚くしたカンジ。いやこっちの話。カンユカンユ。あ、えーなーカンユって。便利な言い訳だ。アスペの人とかこれから「今私の言ったことはカンユです」って言うといいよ。それでもなんやかや言ってくるジャイアンたちを理屈的にスルーできるから。資本主義の現代ならば。
ご飯食べたらさあおいで。
おかあちゃんが抱きしめてあげる。
ぎゅうっとぎゅうっと抱きしめてあげる。
丸々太ったお前たちを、全員串刺しにしてあげる。
わたしの腕の中で、キャラクターたちは血まみれになって嗚咽を上げるのでした。
ああ、なんていう実存。
享楽、享楽ぅ(気に入ったらしい)。
あーちょっと面白い文章つかそこから連想したわたしの思考が面白かったので。
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「実際には、誰もが間接的に「書けない理由」を「書く」ことでその作品を仕上げているというのが現状なのだ」ということを告げるためである。
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っていうのはだねー、人間文芸に限らず会話もそうだけど、表面にある語られた言葉のその向こう、たとえば本音みたいなものを読み取ろうとするわけじゃない。それがあるからこそ、記号の羅列でしかない文芸の、記号になっていない感動があると思っちゃうわけ。
んで、この記号の羅列だけじゃない、記号が意味するものや、比喩表現による感動などを説明するのに、学術的な世界にある精神分析っていう理屈が非常にマッチすることにみんな気づきはじめた。その一つ、ラカン論では、比喩連鎖のスキマに落ちたものが、クライアントの真理である、というのがある。つまり、読者が記号の羅列の向こうを読みたがったり、作家が一番書きたいものを書こうとするとそれを直接的に書けないことの説明ができるわけね。これで。これは同時に隠喩の大切さってことになるんだろうけど、まあそこは置いとこう。
まあ、書けない理由を書くっていうのは、作家にとっては、作品を書く行為についての本質を探る行為になるわけじゃね。
作家なり読者なりが思う大事なもの、真理だから、それは直接的に書かれてはいけない。なぜならその大事なものは、少なくとも記号の羅列じゃないから。というわけ。記号化したいのに記号化しちゃうと、その大事なものは失われちゃう。記号化したいのに記号化しちゃうと、別なものになっちゃう。大事なものを記号化するのは永遠に不可能。だからこそ人は言葉を紡ぎ続ける。会話し続ける。いや、大事なものを守って沈黙したりひきこもったりもありよ。それがひどくなったのが抑鬱症。もっと一般化するなら斎藤環氏が提唱する社会的ひきこもりやの。
わたしの土俵で語らせてもらうならば、ラカンなら欲望は連鎖し続けるってことじゃね。バルトならコノテーション。クリステヴァならジェノ-テクストとかセミオティック。文学ちょっとやってる人間なら知ってることだと思うよー。もちろん専門が違うとかあるだろうから一概には言えんけど。
だけどこの文章は、むしろキミの文学に関連する無知をさらけ出しちゃった文章になってしまっている。つか自分で似たようなこと書いてるじゃん。最新の記事で。そうそう、人はそうやって学んでいくものなのですよ。まあ精神分析では「どうでもいいこと」即ち何気なく言った言葉や言い間違いやジョークにこそその人の無意識が立ち現れるもの、となるけどね。だからわたしは2ちゃんが好き。面白い。
この辺フランス現代思想では常識じゃよ? ラカン、バルト、クリステヴァなんでもいいけど、蓮實はその辺のフランス現代思想輸入した黒幕だから、そういった文脈で語っているわけで、
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ここでこの老人からウインクを送られているのは実は笙野頼子ではなく中原昌也であり、そこから浮かび上がるのは、中原を「擁護」する姿勢によって現在の文壇に影響力を維持しようとする老批評家のいじましい姿である。
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なんかではないと思うよー、と。「レトリックだけで内容のない」わけではなく根拠がある言い分なの。むしろキミが無知だから内容がない、つまりキミの思想の内容のなさを投影させているわけやね。
正直言うとさー、この文章でこんな連想するのは、キミ、パラノイア疑った方がよいよ? と本気で心配した。鏡として見せたげるなら西村賢太あたり。いや作品自体は彼は代理表象の一線をうまく使えてるけど、キャラクターとして読むならあれよ、パラノイア一歩手前って。
=====
このところいろんなことにすぐ腹が立ってしまい、
=====
何故腹が立っちゃうのか。精神構造的には西村賢太が描く主人公と同じ症状だと言える。結構ぎりぎりかもしれない。キミの文章読んでると。キミ「感性」(このカギカッコは強調したい)は鋭い方だからピンとくるはずよ。まあああいうのが精神医学ではパラノイアとの境界例、即ちボーダーって名付けられてるってだけのこと。いいじゃない、ボーダーだろうがパラノイアだろうが。ただの言葉なんだし。ラカンなんて「人格なるものはパラノイアである」みたいなことまで言っちゃってるんだし。ラカニアンに怒られるの覚悟して言うなら、彼はパラノイアコンプレックスみたいなところがあったからそんなことを言ったんだろうけどね。
キミは、愛や同情などといったパトスの本質である「憎しみ」に近づけているのだよ。退行しているのだ。退行はユング派が言っているように悪いことじゃない。新しい発想を生む源泉でもある。
要するに、「汝の症候を楽しめ」ですよ。
せっかくのイントラ・フェストゥムの世界、楽しまなければソンソン、よ。どすとえふすきー。かーにばーる。
わたし? わたしもボーダーでよいよ。自分ではヒステリーだと思ってるけど。つか演技性人格障害なんかはボーダーじゃなくヒステリーだと思うけどなあ。まあどっちでも好きに思って。仲良くイントラしましょ。うんこ投げつけ合うカーニバルを享楽しましょ。うきゃきゃきゃ(わたしの貧困なイメージ力による魔女ランダの笑い)。
まあ中二病とパラノイアの違いなんて、去勢直後がどうかだけから(パラノイアとの境界即ちボーダーを認めないラカン派には怒られちゃう言い方だけど)、そのまま突き進むもよし。だがそれがいい。キチガイ推進派のわたしとしてはキミの姿勢は応援したい。周りから見てる分にはキミみたいなパラノイアタイプがいないと脱構築は起こりにくいものだ。どんどん妄想を構築してくれたまえ。というわけで、「学に関係ないところならば」わたしキミのファンになりつつあることを告白しておこう。評論家やめて作家になれば? ねえねえ。マジで言ってるんだけど。妄想が豊かなのが作家の条件なわけだし。最近の作家マジキチガイ少なくてほんとつまんねえんだもん。目指せ島田清次郎。
つーかさ、これは愚痴になるんだけど、ラカン系ブログなんてぽろぽろあって、中には明らかに間違っているバカ文章もあるんだけど、あまりにレベルが低くて反論する気にならないんだけど、この仲俣くんの文章もそんな感じ。
えー……こんなレベルで評論家になんてなれるの? 評論家って楽な商売なんだなあ、と素で思った。元編集長ノ人脈ッテスゴイノデスネ。
作家ならいいのよ。作家なんてな(代理表象されたものが)キチガイであればあるほど作品は面白くなるんだから。
まあ学に神を信じている人間としては、こういう学の虎の威を借りてるだけ(反抗することも威を借りてることになるのです)の奴は一言いっとかなきゃなので言ってみました。そういうわけー。作家なら褒めるけど。
いい勉強になったじゃん。蓮實の学者芸人としての芸風ってこんなカンジだから。無知な人間をコバカにする態度。だから無知が噛みついて絡め取られる。無知はさらに無知をさらけ出す。それが蓮實の呪術。わたしも蓮實に対するコンプレックスはあるから、この辺はよく知っている。巨人たる風車を倒すには、まずそれが風車だと知ること、よ。なんだかんだつって柄谷も東浩紀もその辺の心理カウンセラーなんかよりよっぽどラカン詳しいしのう。ラカンに限らないけど。
よかったねー。キミの場合無知過ぎるからお話にもなんないとスルーされてるんだと思うよ。いやわたしから見てもレベル低すぎるもん。思考構造が単純でどこにでもいるおっさんと同じだからつまんない。だから、蓮實が中原に媚びているとか、そんな妄想をどんどん生産させた方が、キミの文章も個性的になるし、面白くなるよ、というアドバイス。妄想が錯綜するから、人間ってな面白い。会話は面白いの。ああ補足しとくと、精神分析学ではわたしたちが思っている日常的現実でさえも妄想になる。いくら現実と言っても、視覚なり聴覚なり皮膚なりという器官で発生した刺激を脳で編集したものに過ぎないわけで、本当の現実は脳や器官を媒介しないところにある。要するに本当の現実とは到達不可能なものなわけ。脳で編集しているという意味では、キチガイの妄想も一般人が思い込んでいる(本当ではない)現実も明確に区別できないのよ。
評論は学と芸術の間だから芸術方面でやってくれるとわたしは楽、って話よね。正直なところ。学の世界で内部から食い荒らすキチガイという役割を取られちゃかなわん(最近それすら飽きつつあるけど)。いやキミの話じゃなく。キミレベルだとスルーされるし、わたしもスルーされているわけだから(最近ぽつぽつその筋の人からも読まれ始めてるらしいけど)、同情みたいな罵詈だと思って。アニメでよくあるじゃん、主人公に「てめえみたいなガキが魔王を倒せるわけなかろうが、ガハハ」とかゆって一番最初に死ぬムキムキ兄ちゃんみたいな。あれあれ。こうやって自分でザコキャラフラグを立ててしまうわたしであった。
西村賢太氏は、いかにも文学オタク的な抑鬱的場面と、それと対照的な主人公がテンパった時の錯綜感、斎藤環氏の言葉なら妄想ドライブ感(だっけ?)が面白いわけで。いや個人的な感想だとなんでかぎりぎりのところでキチガイになり切れない神経症的「ネタにマジレスを~」感を感じちゃうけど。
まあ、パズルとしての面白さよね。この錯綜感は。野暮な人間の言葉なら。
無知は、恥ではないが、権力でも免罪符でも武器でもないのだよ。
戦うなら、剣を取りたまえ。シニフィアンという諸刃の剣を。
んで仲俣くん、ボロメオの輪はオベンキョしたかい?