笙野頼子と松浦理英子
2008/04/21/Mon
以下の文章は、某ブログにおける笙野頼子に関する議論をひいてのものである。
こことここのコメント欄あたりを読まないとわからないかもしれない。
とりあえず、パンサさんとの議論の流れが、わたしの言う「黒い少女」に関連してきたら、こう言うつもりだった。自らをいぶきに喩えてる文脈でね。
「あなたたち確信したがり屋さんには、浄泥は見えないのだ。その祠は見えているのかもしれないが、わたしはその幽体そのものを感じているので、それを「浄泥」なり「黒い少女」なり「(精神分析的な意味での)ヒステリー」なり「悲劇のヒロイン症候群」なり「女性的抑鬱症」なり「断頭コンプレックスに固着する未去勢な主体」なりといういろんな祠で表現できるのだ。」
みたいな。
話の中で作家B氏に触れたのもそういうこと。わたしの浄泥がびびっときたわけやね。あるいは金原ひとみとかと連鎖できるこの黒い少女感について、議論の中で触れられるかなと思ってたらパンサさんが「恋愛に溺れる昔の友人」を連想してきてそっちの方がわかりやすいし面白いと思ったのでこんな結果に。いえいいのです。別にパンサさんを責めるわけではない。会話ってな大体そんなもんだと思ってるしそんなもんだから面白いんだ。いやわたしのせいでもあるんだけど。パンサさん自分で言ってたじゃない。その昔の友人について「子供だ」と。いけると思ったけど茶飲み話らしくやりたかったのです。つーかブログ記事にしたけどフェティシスムも迂回したかったしね。
んでだなー。
いやよくわからないんだけど、『だいにっほんシリーズ』における火星人ってなんじゃらほい? って思うじゃん。「男性から社会的に排除されてきた女性たち」みたいな解釈もありだと思うけど、地球人女性との差は? って話になる。地球人女性はみんなカニバットに群がるゾンビババアだ、みたいな書き方はしていない。
わたしの論なら火星人とは(確信したがり屋さんから見れば彼らは退行的である故、要するに空気が読めない人格である故)社会的に排除されてきたアスペやスキゾや黒い少女やを取りまとめたアンテ・フェストゥム人間たちであるとなるが、まあわたしの解釈だ。一つの解釈。
そう解釈すれば、象徴的ファルスを「ある」と確信しているのに口先だけで「ない」と言っている「おんたこ」たち、わたしの言葉で言うなら「スキゾ化を目指したのにスキゾ的仮面にしかなれなかった部族」、前のアスペの人の言葉なら「本来のひきこもりである自閉症型と差異がある定型人型ひきこもり(社会的ひきこもり)」との対照項的存在としてかつ「おんたこ」たちに食い物にされている存在として、火星人即ちアンテ人間を設置することが可能だ。つまり符号するわけだな。構造主義的解釈っぽいけど。
最近わたしは個人的に、その中の「黒い少女」について思考を遊ばせている。笙野作品との関連を考慮して言葉を選ぶなら、浄泥に取り憑かれているわけだ。
思えば「浄泥」という名前もイカシテル。現在のところ黒い少女と鏡像段階+アブジェクシオンを理屈で繋げることはできないけど、わたしがこの記事の五万字だかのコメントの中で「ケガレの沼と球体(沈むか浮き上がるかは同値)」が浄化なりという運動だと書いたが(この記事でも触れている)、これと「浄泥」ってなんか連鎖するじゃない。え、わたしだけ?
もし笙野がここを見ていたらわたしはこう言いたい。
「わたしの「黒い少女」にステキな名前をつけてくれてありがとう」
って。拒絶感を満面に浮かべたいぶき的表情をもって。
では何故笙野はいぶきと浄泥というコンビを『第二部』の主軸に据えたのか。って話があなた方にとっては面白いんではないかと。わたしも面白く思う。
ここの解を求めるのは笙野作品の解釈というより笙野個人の精神分析っぽくなるからわたしはしない。笙野作品(を読んでわたしが受けた感動)と笙野本人は別物だからだ。
しないけど、一つポイントがあるのではないかと思うのだ。
それは、彼女の盟友である松浦理英子という作家の存在。
思えば、松浦氏の思想は作家B氏のそれに似てなくもないし(自ら供犠の贄になってしまう主体)、作品の印象は、パンサさんの話でしかわからないけれど(「テリブルマザーを求める子供」だかなんだか)、その昔の友人像に連鎖できるかもしれない。これらは「マゾヒスト」というシニフィアンがあれば短絡的に連結可能なように思える。
とはいえ、いぶきや浄泥のモデルが松浦氏であるなんてことは言わない。あくまでそういう比喩連鎖が可能ではないか、という指摘である。
憶測に過ぎない言葉だが、パンサさんが恋愛に溺れる昔の友人を子供と評したように、笙野氏も松浦氏(あるいはそれに類する女性的主体傾向)を少女に見立てているのではないか、そんな喩え。
なんか松浦もネオリベ批判してたらしいしね。よく知らんが性器結合主義だかなんだかって。前戯を軽んじて性器が結合することしか考えない、即ち過程を省みない合意主義、合意したがり屋さんたちへの批判、みたいなカンジなのかね。笙野なら短絡化への批判になるのか。でも笙野は確かにこの辺の論調弱いな。おんたこの一つの特徴として描いてはいるが。
……とまあ、ポイントの提示だけで統辞されてない文章になってしもたけど、そんなカンジでー。
あ、笙野論についてはもう一個ネタあるけど書くかは不明。パンサさんとの議論もあんまり関係ないし。
あと今NHKの松井冬子特集見てたけど、彼女の絵ってグロなのにケガレとしての血が描かれてないのよね。描かれていても静的な血。ほとばしるような、じわじわ滲み出てくるような、自他の境界侵犯としての動的な血が描かれてない。彼女の描く血は、きれいなのだ。それは西原理恵子氏が好きな田亀源五郎氏の作品や、故二階堂奥歯氏が好きだった氏賀Y太氏などの作品と比較したら明らかだろう。いや松井氏の作品も前から好きなんだけど。彼女が上野千鶴子との対談で言った、日本画を選んだ理由としての「エッジが効いている」という言葉にも連鎖することかもしれない。
この、グロを描いているのにアブジェクトとしての動的な血が描かれてないってことが、この記事やこの藤田氏の書評でいう「ディスクールで触れられないからこそそれが真実」ってことだと思うけどなあ。
あー黒い少女のもう一つの類型ね。上野ウマイコト言うな。「自傷系アート」だとよ。あるいは彼女の『世界中の子と友達になれる』って作品についての解釈。現実的に不可能な「世界中の子と友達になれる」という夢を持ったことの不幸を、絵の中の少女は、覗いている穴の向こうにいる我々にも伝染させたがっているとかって。なかなかイイコト言うじゃん。しかし上野はアブジェクシオンとしての血が描かれてないという、彼女の狂気に抗する最後の防衛ラインを見抜けていないようだ。リスカ少女とアーティストを区切るこのラインを。かの作品で言うなら、絵の中の少女が覗いている穴の意味が、上野にはわかっていない。いや、上野も触れていた「多大な労力によって得た技術」がこのラインの本質に近いとは思うけどね。サントームだな。
しかし、これらを理解した上で、上野が彼女に言った最後の言葉、「あなたも幸せになりなさい」という言葉を考えると、様々な胡散臭さが生じる気がするのは、わたしだけだろうか?
蛇足だが、彼女の作品『浄相の持続』に描かれている女性の内臓、きれいな血に塗れた極彩色のその風景は、わたしが垣間見た「物が悪意になっている世界」とよく似ている。ケバケバしく毒々しい華厳の極楽。水玉が関わっていればカンペキだった。まあそれが胎児ってことなんだろうね。この辺まんま過ぎてちょっとなと思う。
これについても触れるかも、ってどうでもいいや。
こことここのコメント欄あたりを読まないとわからないかもしれない。
とりあえず、パンサさんとの議論の流れが、わたしの言う「黒い少女」に関連してきたら、こう言うつもりだった。自らをいぶきに喩えてる文脈でね。
「あなたたち確信したがり屋さんには、浄泥は見えないのだ。その祠は見えているのかもしれないが、わたしはその幽体そのものを感じているので、それを「浄泥」なり「黒い少女」なり「(精神分析的な意味での)ヒステリー」なり「悲劇のヒロイン症候群」なり「女性的抑鬱症」なり「断頭コンプレックスに固着する未去勢な主体」なりといういろんな祠で表現できるのだ。」
みたいな。
話の中で作家B氏に触れたのもそういうこと。わたしの浄泥がびびっときたわけやね。あるいは金原ひとみとかと連鎖できるこの黒い少女感について、議論の中で触れられるかなと思ってたらパンサさんが「恋愛に溺れる昔の友人」を連想してきてそっちの方がわかりやすいし面白いと思ったのでこんな結果に。いえいいのです。別にパンサさんを責めるわけではない。会話ってな大体そんなもんだと思ってるしそんなもんだから面白いんだ。いやわたしのせいでもあるんだけど。パンサさん自分で言ってたじゃない。その昔の友人について「子供だ」と。いけると思ったけど茶飲み話らしくやりたかったのです。つーかブログ記事にしたけどフェティシスムも迂回したかったしね。
んでだなー。
いやよくわからないんだけど、『だいにっほんシリーズ』における火星人ってなんじゃらほい? って思うじゃん。「男性から社会的に排除されてきた女性たち」みたいな解釈もありだと思うけど、地球人女性との差は? って話になる。地球人女性はみんなカニバットに群がるゾンビババアだ、みたいな書き方はしていない。
わたしの論なら火星人とは(確信したがり屋さんから見れば彼らは退行的である故、要するに空気が読めない人格である故)社会的に排除されてきたアスペやスキゾや黒い少女やを取りまとめたアンテ・フェストゥム人間たちであるとなるが、まあわたしの解釈だ。一つの解釈。
そう解釈すれば、象徴的ファルスを「ある」と確信しているのに口先だけで「ない」と言っている「おんたこ」たち、わたしの言葉で言うなら「スキゾ化を目指したのにスキゾ的仮面にしかなれなかった部族」、前のアスペの人の言葉なら「本来のひきこもりである自閉症型と差異がある定型人型ひきこもり(社会的ひきこもり)」との対照項的存在としてかつ「おんたこ」たちに食い物にされている存在として、火星人即ちアンテ人間を設置することが可能だ。つまり符号するわけだな。構造主義的解釈っぽいけど。
最近わたしは個人的に、その中の「黒い少女」について思考を遊ばせている。笙野作品との関連を考慮して言葉を選ぶなら、浄泥に取り憑かれているわけだ。
思えば「浄泥」という名前もイカシテル。現在のところ黒い少女と鏡像段階+アブジェクシオンを理屈で繋げることはできないけど、わたしがこの記事の五万字だかのコメントの中で「ケガレの沼と球体(沈むか浮き上がるかは同値)」が浄化なりという運動だと書いたが(この記事でも触れている)、これと「浄泥」ってなんか連鎖するじゃない。え、わたしだけ?
もし笙野がここを見ていたらわたしはこう言いたい。
「わたしの「黒い少女」にステキな名前をつけてくれてありがとう」
って。拒絶感を満面に浮かべたいぶき的表情をもって。
では何故笙野はいぶきと浄泥というコンビを『第二部』の主軸に据えたのか。って話があなた方にとっては面白いんではないかと。わたしも面白く思う。
ここの解を求めるのは笙野作品の解釈というより笙野個人の精神分析っぽくなるからわたしはしない。笙野作品(を読んでわたしが受けた感動)と笙野本人は別物だからだ。
しないけど、一つポイントがあるのではないかと思うのだ。
それは、彼女の盟友である松浦理英子という作家の存在。
思えば、松浦氏の思想は作家B氏のそれに似てなくもないし(自ら供犠の贄になってしまう主体)、作品の印象は、パンサさんの話でしかわからないけれど(「テリブルマザーを求める子供」だかなんだか)、その昔の友人像に連鎖できるかもしれない。これらは「マゾヒスト」というシニフィアンがあれば短絡的に連結可能なように思える。
とはいえ、いぶきや浄泥のモデルが松浦氏であるなんてことは言わない。あくまでそういう比喩連鎖が可能ではないか、という指摘である。
憶測に過ぎない言葉だが、パンサさんが恋愛に溺れる昔の友人を子供と評したように、笙野氏も松浦氏(あるいはそれに類する女性的主体傾向)を少女に見立てているのではないか、そんな喩え。
なんか松浦もネオリベ批判してたらしいしね。よく知らんが性器結合主義だかなんだかって。前戯を軽んじて性器が結合することしか考えない、即ち過程を省みない合意主義、合意したがり屋さんたちへの批判、みたいなカンジなのかね。笙野なら短絡化への批判になるのか。でも笙野は確かにこの辺の論調弱いな。おんたこの一つの特徴として描いてはいるが。
……とまあ、ポイントの提示だけで統辞されてない文章になってしもたけど、そんなカンジでー。
あ、笙野論についてはもう一個ネタあるけど書くかは不明。パンサさんとの議論もあんまり関係ないし。
あと今NHKの松井冬子特集見てたけど、彼女の絵ってグロなのにケガレとしての血が描かれてないのよね。描かれていても静的な血。ほとばしるような、じわじわ滲み出てくるような、自他の境界侵犯としての動的な血が描かれてない。彼女の描く血は、きれいなのだ。それは西原理恵子氏が好きな田亀源五郎氏の作品や、故二階堂奥歯氏が好きだった氏賀Y太氏などの作品と比較したら明らかだろう。いや松井氏の作品も前から好きなんだけど。彼女が上野千鶴子との対談で言った、日本画を選んだ理由としての「エッジが効いている」という言葉にも連鎖することかもしれない。
この、グロを描いているのにアブジェクトとしての動的な血が描かれてないってことが、この記事やこの藤田氏の書評でいう「ディスクールで触れられないからこそそれが真実」ってことだと思うけどなあ。
あー黒い少女のもう一つの類型ね。上野ウマイコト言うな。「自傷系アート」だとよ。あるいは彼女の『世界中の子と友達になれる』って作品についての解釈。現実的に不可能な「世界中の子と友達になれる」という夢を持ったことの不幸を、絵の中の少女は、覗いている穴の向こうにいる我々にも伝染させたがっているとかって。なかなかイイコト言うじゃん。しかし上野はアブジェクシオンとしての血が描かれてないという、彼女の狂気に抗する最後の防衛ラインを見抜けていないようだ。リスカ少女とアーティストを区切るこのラインを。かの作品で言うなら、絵の中の少女が覗いている穴の意味が、上野にはわかっていない。いや、上野も触れていた「多大な労力によって得た技術」がこのラインの本質に近いとは思うけどね。サントームだな。
しかし、これらを理解した上で、上野が彼女に言った最後の言葉、「あなたも幸せになりなさい」という言葉を考えると、様々な胡散臭さが生じる気がするのは、わたしだけだろうか?
蛇足だが、彼女の作品『浄相の持続』に描かれている女性の内臓、きれいな血に塗れた極彩色のその風景は、わたしが垣間見た「物が悪意になっている世界」とよく似ている。ケバケバしく毒々しい華厳の極楽。水玉が関わっていればカンペキだった。まあそれが胎児ってことなんだろうね。この辺まんま過ぎてちょっとなと思う。
これについても触れるかも、ってどうでもいいや。