2008/04/24/Thu
この記事の、とらさんの言葉。=====
「女は存在しない」と言ったラカンに倣って言うならば、「アスペルガーやらスキゾやらアンテ・フェストゥム人間なんてのはなおさら存在しない」となることがw
=====
そうなのだ。
彼らにとっては、確信したがり屋さんにとっては、アスペやスキゾやアンテ人間はなおさら存在しないのだ。
女でかつスキゾイドだったりすれば、なおさらのなおさら存在しない。
そんな存在はないものとして、自他の融合は共同体は社会は国家は世界は語られていく。
確信したがり屋さんと違い、懐疑したがり屋さんにとって、シニフィアンは諸刃の剣だ。シニフィアンという道具そのものがそういうものであるが、確信したがり屋さんには、間主観的自己感という鎧がある。鏡像段階で得た象徴的ファルスがある。
だから、議論する時も、相手に向けて、相手を傷つける剣として用いることができる。
アスペやスキゾやアンテは、それができない。
結果、閉じこもる。スキゾイドの症状たる、「冷たい印象」を生む。
また、この鎧は、内部の糞便を加工するものである。情動の本質である否定性を、愛情や同情やルサンチマンや怨念に加工するものである。
この鎧を持たない、鎧が壊れているアンテ人間は、糞便を糞便のまま、剣に乗せる。
糞便に塗れた手で、剣を握る。自らの居場所を確保するために。
しかし、鎧を持っている人間と比べ、居場所を拡大することは難しい。何故なら、鎧が壊れているため、剣を振るうたび自らも傷つくからだ。
この痛みには、誰も気づかない。
鎧を着ている人間には、わたしたちが見えていないから。
存在しているものにとっては、存在してないから。
たとえ存在してなかった人間でも、存在してしまうと、その世界には存在しなくなるから。
わたしは、見られていない。存在していない。
わたしは、わたしの居場所そのものだ。わたしが感じる居場所が、わたしだ。それすらも、定型人は侵犯する。何故なら彼らはわたしの居場所を見えていないからだ。彼らの世界にはわたしはわたしの居場所は存在しないからだ。彼らは彼らの世界はわたしを矯正しようとする。鎧があるフリをさせようとする。
彼らが用意した人形に潜り込む。糞便に塗れたままで。象徴的ファルスを懐疑する人間は、人間に愛されない。
神に愛されるしかない。
壊れた人形は、神を待つことしかできない。神に愛されるしかない。
神に愛されるしかない。
神に愛されるしかない。
……
さって明日はどこにうんこ投げよっかな。
神に愛されるしかない。
よつぞろい。
ツヨイゾ。
4ビートでお祈り申し上げます。
2008-04-24 木 19:39:42 /URL /サイシュウヘイケ /
編集
ツヨイゾー
どぐぁー
……ちょっと休憩
2008-04-25 金 05:08:42 /URL /脂 /
編集
御査収願います
あぶらすまし様
どうもはじめまして、ハラヘッタと申します。突然ですが、記号論とオタクを織り交ぜて描いてるうちに自分で何書いてるのかわからなくなってしまいました。これを判断できるのは、あぶらすまし様しかいないと思いますので、迷惑とは存じますが御一読下さい。
主題
中川翔子はオタクなのか?
副題
「妹系萌えキャラ」―「めちゃモテ」―「シーニュ」
序節
今回の「中川翔子はオタクなのか?」という標題を論ずるにあたって、まずはその問題を議論する地平、そもそもなぜ「コスプレアイドルなるものが生まれたのか?」、そして「なぜ?そのようなものが欲望される社会となったのか」について論じたいと思う。
第1節 「妹系萌えキャラ」の誕生
ことの始まりは、フェミニズム運動により女性が社会進出し、「女の交換システム」が機能不全に陥った頃から始まる。これによって、かなり数の男が女の不在に直面したのである。そこで男は、赤ん坊が母の不在を言葉の獲得によって克服したように、またイスラム教徒が神を幾何学紋様で表象したように、男は女の代理物として「萌えキャラ」を発達させた。これが、「萌えキャラ」の期限である。ここまでは、誰でもわかる予測のつくことであるが、注目すべき点は、そのキャラが単なる「女」の代理表象ではなく、「妹系萌えキャラ」という形で、家族外の「他者としての女性」ではない代理表象として進化した点である。つまり、「妹系萌えキャラ」は、本来の「女」に比べ、二重に男の欲望に合わせてカスタマイズされた表象なのである。
第2節 「めちゃモテ」の誕生
それに対し現実の「女」はどうなったか。女性誌CanCam一人勝ちが表すように、社会のリスク化に伴い、一時期もてはやされた自立した強い女性像から、より多くの「他者」と繋がる「めちゃモテ」戦略を選んだ。つまり自立による孤立より、自ら交換物であることを積極的に肯定し、交換回路を開くことによってリスクを分散し、さらにユーロ通貨と同じく交換可能性の範囲拡張によって逆に価値を高めるという、したたかな生存戦略にでたのである。よって女性は、当初のフェミニズムが目指したユニセックスで自立した女性像と比較すると、あえて自ら交換物であることを肯定し、さらに意図的に交換価値を高めている点で、二重にフェミニズム運動以前の旧来の「女」になっているのである。
第3節 「オタク」と「めちゃモテ」のコントラスト
こうして二つを並置すると、「めちゃモテ派」のふやけたパステルカラーの奥に潜む徹底したリアリズムと、「オタク」の一見グロテスクなキャラの奥に潜むあまりにも人間的なロマンティシズムのコントラストが見てとれる。では今度は、この二つを記号論の視点からみてみよう。めちゃモテ派がファッションブランドの記号操作による外向けのコミュニケーションを志向するのに対し、オタクの妹萌えキャラが生み出すファンタジーは自閉的な独語に近い。言い換えれば、めちゃモテは自らが空虚なシニフィアンとなって現実社会を渡り歩くのに対し、オタクは自ら新たな空虚なシニフィアンを産出し現実社会から身を守るのである。
第4節 「オタク・コミュニティー」の発展・神話化
しかし、面白いのはオタクがコミケなどを開催し、新たなオタクコミュニティーを形成したところである。本来独語に近いシニフィエなきシニフィアンの戯れが、なんとそれなりにコミュニケーションを媒介する場として機能してしまっているのである。まさに構造主義学者レヴィ・ストロースの言う野生の思考である。エヴァンゲリオンのテーマソングで「少年よ、神話になれ」と歌われた通り、そのプロパガンダに従いオタク達は本当に「神話(の中を生きる者)になった」のである。
第5節 鬼っ子としての「中川翔子」
そうした認識を踏まえて最近出てきたコスプレアイドルの「中川翔子」を見てみよう。彼女がなぜオタクをしているのかは理解不能だが、実は、本人自身は意識していないだろうが、女性としての集合的無意識のレベルでは、オタク達の作り出した神話の中で「めちゃモテ」戦略を実行しているのである。誠にしたたかである。男が生み出した「妹萌えキャラ」の思想と、女が目指した「めちゃモテ」の思想による究極的接合。これぞ現在考えうる最高度に結晶化された虚像であり、極め付けのアイドルである。ここで勘違いしてはいけないのは、「中川翔子」=「めちゃモテ」主義者=「Cancam」系ギャルということではない。構図としては、まず女性全体を「めちゃモテ」思想が包括しており、その下位レベルの文化圏に関するレベルにおいて、「Cancam系」から「中川翔子」まで分化しているのである。
この女性全体を包括する「めちゃモテ」という共通項があったから、中川翔子より1世代上の加藤夏希は、「オタク系コスプレアイドル」から「JJモデル」へと転向できたのである。厳密に言えば「JJ」が、「Cancam」にシェアを奪われたことを鑑みると、確かに「差異」があるのだが、それは「モテ方」の差異であり、かつてのフェミニストが目指した「自立した女性像」を対置した場合、「蝦原友里」、「加藤夏希」、「中川翔子」の3人のアイコンが、かなりボーダーレスなものであることがわかる。
第6節 ウルボロスの蛇、そしてシーニュ
しかしまた、ここで一つの疑問が浮かぶ。なぜ男性の「妹系萌えキャラのロマンティシズム」と、女性の「めちゃモテのリアリズム」が重なったのかという点である。これは、「需給関係」が成立したからと言ってしまえばそれまでだが、それだけの説明では、女にモテないオタクに女が供給されたという一般論になってしまう。これは、「オタク」の欲望と「めちゃモテ」の欲望の双方が、新たなリアリティの地平を獲得するために相互に関係し合うことを選択したのである。つまり、「妹系萌えキャラ」という空虚なシニフィアンは、コスプレ系アイドルという実体(シニフィエ)を獲得することによって、意味を持つ「シーニュ」となり、他方「めちゃモテ派」の交換可能性は高いが、生きることの意味を見失った空虚なシニフィアンと化した身体は、「妹系萌えキャラ」を演じるということを通じて物語の地平(シニフィエ)と一体となり、「シーニュ」となるのである。ことほどさように、両者は、ウルボロスの蛇のごとく互いに飲み込み合うことによって、相互に意味づけをし、お互いの存在理由を供給し合っているのである。
主題
中川翔子はオタクなのか?
副題
「妹系萌えキャラ」―「めちゃモテ」―「シーニュ」
序節
今回の「中川翔子はオタクなのか?」という標題を論ずるにあたって、まずはその問題を議論する地平、そもそもなぜ「コスプレアイドルなるものが生まれたのか?」、そして「なぜ?そのようなものが欲望される社会となったのか」について論じたいと思う。
第1節 「妹系萌えキャラ」の誕生
ことの始まりは、フェミニズム運動により女性が社会進出し、「女の交換システム」が機能不全に陥った頃から始まる。これによって、かなり数の男が女の不在に直面したのである。そこで男は、赤ん坊が母の不在を言葉の獲得によって克服したように、またイスラム教徒が神を幾何学紋様で表象したように、男は女の代理物として「萌えキャラ」を発達させた。これが、「萌えキャラ」の期限である。ここまでは、誰でもわかる予測のつくことであるが、注目すべき点は、そのキャラが単なる「女」の代理表象ではなく、「妹系萌えキャラ」という形で、家族外の「他者としての女性」ではない代理表象として進化した点である。つまり、「妹系萌えキャラ」は、本来の「女」に比べ、二重に男の欲望に合わせてカスタマイズされた表象なのである。
第2節 「めちゃモテ」の誕生
それに対し現実の「女」はどうなったか。女性誌CanCam一人勝ちが表すように、社会のリスク化に伴い、一時期もてはやされた自立した強い女性像から、より多くの「他者」と繋がる「めちゃモテ」戦略を選んだ。つまり自立による孤立より、自ら交換物であることを積極的に肯定し、交換回路を開くことによってリスクを分散し、さらにユーロ通貨と同じく交換可能性の範囲拡張によって逆に価値を高めるという、したたかな生存戦略にでたのである。よって女性は、当初のフェミニズムが目指したユニセックスで自立した女性像と比較すると、あえて自ら交換物であることを肯定し、さらに意図的に交換価値を高めている点で、二重にフェミニズム運動以前の旧来の「女」になっているのである。
第3節 「オタク」と「めちゃモテ」のコントラスト
こうして二つを並置すると、「めちゃモテ派」のふやけたパステルカラーの奥に潜む徹底したリアリズムと、「オタク」の一見グロテスクなキャラの奥に潜むあまりにも人間的なロマンティシズムのコントラストが見てとれる。では今度は、この二つを記号論の視点からみてみよう。めちゃモテ派がファッションブランドの記号操作による外向けのコミュニケーションを志向するのに対し、オタクの妹萌えキャラが生み出すファンタジーは自閉的な独語に近い。言い換えれば、めちゃモテは自らが空虚なシニフィアンとなって現実社会を渡り歩くのに対し、オタクは自ら新たな空虚なシニフィアンを産出し現実社会から身を守るのである。
第4節 「オタク・コミュニティー」の発展・神話化
しかし、面白いのはオタクがコミケなどを開催し、新たなオタクコミュニティーを形成したところである。本来独語に近いシニフィエなきシニフィアンの戯れが、なんとそれなりにコミュニケーションを媒介する場として機能してしまっているのである。まさに構造主義学者レヴィ・ストロースの言う野生の思考である。エヴァンゲリオンのテーマソングで「少年よ、神話になれ」と歌われた通り、そのプロパガンダに従いオタク達は本当に「神話(の中を生きる者)になった」のである。
第5節 鬼っ子としての「中川翔子」
そうした認識を踏まえて最近出てきたコスプレアイドルの「中川翔子」を見てみよう。彼女がなぜオタクをしているのかは理解不能だが、実は、本人自身は意識していないだろうが、女性としての集合的無意識のレベルでは、オタク達の作り出した神話の中で「めちゃモテ」戦略を実行しているのである。誠にしたたかである。男が生み出した「妹萌えキャラ」の思想と、女が目指した「めちゃモテ」の思想による究極的接合。これぞ現在考えうる最高度に結晶化された虚像であり、極め付けのアイドルである。ここで勘違いしてはいけないのは、「中川翔子」=「めちゃモテ」主義者=「Cancam」系ギャルということではない。構図としては、まず女性全体を「めちゃモテ」思想が包括しており、その下位レベルの文化圏に関するレベルにおいて、「Cancam系」から「中川翔子」まで文化しているのである。
この女性全体を包括する「めちゃモテ」という共通項があったから、中川翔子より1世代上の加藤夏希は、「オタク系コスプレアイドル」から「JJモデル」へと転向できたのである。厳密に言えば「JJ」が、「Cancam」にシェアを奪われたことを鑑みると、確かに「差異」があるのだが、それは「モテ方」の差異であり、かつてのフェミニストが目指した「自立した女性像」を対置した場合、「蝦原友里」、「加藤夏希」、「中川翔子」の3人のアイコンが、かなりボーダーレスなものであることがわかる。
第6節 ウルボロスの蛇、そしてシーニュ
しかしまた、ここで一つの疑問が浮かぶ。なぜ男性の「妹系萌えキャラのロマンティシズム」と、女性の「めちゃモテのリアリズム」が重なったのかという点である。これは、「需給関係」が成立したからと言ってしまえばそれまでだが、それだけの説明では、女にモテないオタクに女が供給されたという一般論になってしまう。これは、「オタク」の欲望と「めちゃモテ」の欲望の双方が、新たなリアリティの地平を獲得するために相互に関係し合うことを選択したのである。つまり、「妹系萌えキャラ」という空虚なシニフィアンは、コスプレ系アイドルという実体(シニフィエ)を獲得することによって、意味を持つ「シーニュ」となり、他方「めちゃモテ派」の交換可能性は高いが、生きることの意味を見失った空虚なシニフィアンと化した身体は、「妹系萌えキャラ」を演じるということを通じて物語の地平(シニフィエ)と一体となり、「シーニュ」となるのである。ことほどさように、両者は、ウルボロスの蛇のごとく互いに飲み込み合うことによって、相互に意味づけをし、お互いの存在理由を供給し合っているのである。
2008-04-26 土 07:36:25 /URL /ハラヘッタ /
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最近、いい感じですね。
やっぱり、動いた分だけ変化が起きるわけで、動かないと話しにならないわけで、誰も見ていないところで、ひっそり自論を書いててもしょうがないわけで・・・。
やっぱり、外にどんどん向かって戦っていかないとー、と思うです。
もっともっとやってください。逝きつくとこまでー(^▽^)
2008-04-26 土 22:20:18 /URL /飲茶 /
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見てる方は楽だよなw
つか煽んなよー、そろそろわたしも観客に戻ろうと思ってるんだからー(正直飽きてきている)。
戦うのは苦しいけど、戦う相手がいる幸せ、やのう。
ネトゲ板からコピペ。
=====
Towerにて
バケツ「俺がAlbの最後の一人さ」
キノコ「そうか…俺も最後のHibだよ」
バケツ「ところで、こんなところでなにしてるんだ?」
キノコ「Towerの防衛だ」
バケツ「防衛って…敵なんて……!Midもいるのか!?」
キノコ「ああ、最後のMidがな。毎日決まった時間に攻めてくるんだ…そろそろ来る頃だ」
クマ「クマー!クマー!」
バケツ「お、おい…あれって…」
キノコ「ああ、奴はいつも両手斧だ。キノコに勝てるわけ…無いのにな…」
クマ「ウォォォォォ!クマー!」
キノコ「――また、、、戦えるな」
バケツ「勿論だ。今日は三つ巴の大激戦になるぞ」
気が付くと、バケツの中から涙が溢れていた。
=====
わたしもなんのネタかわからんが、Alb、Hib、Midっつー三勢力でPVPするゲームらしい。
そんなカンジ。
2008-04-27 日 00:50:22 /URL /脂 /
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>見てる方は楽だよなw
>つか煽んなよー、そろそろわたしも観客に戻ろうと思ってるんだからー(正直飽きてきている)。
僕が株で苦しんでいるときに、見ている方の気楽さで、煽ってたのはどの口ですかー。
>戦うのは苦しいけど、戦う相手がいる幸せ、やのう。
ネトゲ板のコピペはわからなかったけど、廃れたPVPネトゲで、
人が減って、バトルすらできないという状況での話しかな。
最後の台詞がなんか泣けるね。(つД`)
でも、まぁ、そんときは、さっさと次の世界に行くさね。
そんなカンジ。
2008-04-27 日 03:31:20 /URL /飲茶 /
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>僕が株で苦しんでいるときに、見ている方の気楽さで、煽ってたのはどの口ですかー。
で す よ ね 。
なのでもう一回大負けしてください。今度は一桁増ぐらいで。
>廃れたPVPネトゲで、人が減って、バトルすらできないという状況での話しかな。
そーそー。
世の中わかった「つもりで」いちゃうと、そんなカンジになるよーってことだね。
男性的抑鬱症になるの。
まー新興企業の経営者にゃそんなヒマないだろうがね。
がんばって転落してくだちい。
2008-04-27 日 08:34:15 /URL /脂 /
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○なのでもう一回大負けしてください。今度は一桁増ぐらいで。
☆も う い や あ ~
○まー新興企業の経営者にゃそんなヒマないだろうがね。がんばって転落してくだちい。
☆さすがに、今の勝負に負けたら、這い上がれないかも。HA☆ME☆TU
でも、ほんと、
株板の人たちが、僕の破滅的展開を期待したように、外野で読んでる側としては、
脂さんが、どんどん外のブログを荒ら……じゃなく論争して、
その世界で知名度上がって、なんかすげえやついるとかなって、
出版社の人も気づいて、雑誌の評論のコラムの依頼が来るとか……、
なんかそんな熱い展開を期待。
2008-04-27 日 12:11:58 /URL /飲茶 /
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訂正
外野で読んでる側としては、
↓
外野で読んでるファンとしては、
2008-04-27 日 12:14:43 /URL /飲茶 /
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>訂正
まああっちまで読んでる読者なんてお前ぐらいだろうなw
ケンカ上等キャラを期待されるとそれに反発してなあなあキャラになりたくなる。
困ったもんだ。
プロレスになっちゃうと違うんだよなー。
つーことでグロ画像鑑賞にでもひきこもるわ。
2008-04-27 日 23:59:36 /URL /脂 /
編集
>ハラヘッタさん
遅まきながら読みました。
一面的な読みと言えなくもない解釈ではありますが、面白い思考だと思いました。
ブログなりでそれを展開してみてはいかがでしょうか。
2008-04-30 水 17:30:21 /URL /脂 /
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