インコの背中の匂い
2008/04/30/Wed
昔、インコを飼っていた。他にも犬や猫や兎などを飼っていたので、そのインコの記憶は薄い。名前も思い出せない。ある日学校から帰ってきたらいなかった。大人になってから、猫か何かに襲われたらしく、子供にはとても見せられない姿だったので、こっそり埋めた、と親から聞いた。なんの感傷もなかった。なんでそんな話をしたのかも思い出せないほど、どうでもいい記憶だ。
だけどその時、これだけは妙に印象に残っていて、だから今でも覚えているのだが、そのインコの匂いを思い出した。
そういえば、わたしはインコを鳥篭から出し、両手で押さえ、背中の匂いを嗅ぐのが好きだった。その匂いが、とても好きだった。いや好きだったかも覚えていない。度々そうしていたから、覚えていただけ。度々そうしたのだから、好きだったのだろう、と事後的に辻褄を合わせている。
笙野頼子関係の話は一区切りと書いたが、わたしは余程笙野にはまっているらしい。以前から好きだったのだが、一度書き始めると詰まったうんこを出し切らないと気が済まない、みたいな感じだろうか。ごめん。笙野話になる。
ある笙野ファンブログに殴り込んだ時、きっかけにした話題が、「虚しさ」だ。『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』のエンディングに書かれてある文章の中にある言葉。
=====
虚しい。助かったのに虚しい。あんなに死と戦ったのに私は助かった、でも自分の力ではなくだ。経過も見えなくてだ。頭が変になりそうだ。助かっても流されただけじゃないか。でもだったらこの生を手放してはならないと思うために、助けてくれた神に私は帰依しようか……。
=====
この虚しさに、わたしは引っかかっている。
この記事で、わたしは抑鬱症者が嫌いだと書いた。鬱とは喪が原因である。無と自己愛的に同一化した主体。
わたしは、この虚しさや無がどうもピンとこない。わたしの中身は空っぽではなく、糞尿が渦巻いている。こんなものを何故無だと言えるのか、本当にわからない。
生まれてこの方虚しさを感じたことがない、なんて言わない。わたしの人生にだっていろいろある。
クリステヴァ論では、クライン論における抑鬱態勢に、想像的父なる概念を設置している。これがアガペーである、と。つまりアガペーとは喪と双子の兄弟なのである。
抑鬱態勢とは、悪い乳房に取り憑かれた状態である。乳児にとってそれは、具体的に言うならば、たとえば母が父にまなざしを向けることで、母にシカトこかれる自分である。母と一体的な世界を生きている乳児にとってみれば、それは自分の無も意味する。悪い乳房は憎悪の源でもあるが、同時に無の根源でもあるのだ。この憎悪も無も自他融合的である。ケガレの中に埋没した無が、アガペーを生むと言ってよい。
男性的抑鬱症者が生きる喪には、ケガレが欠けている。よって彼らの喪は、双子の兄弟たるアガペーを生み出しにくい。いやもちろん抑鬱に陥らない人間なんかよりよっぽどアガペーに近い領域を生きていることになるが。
わたしはこのアガペーを否認する。よってその双子の兄弟である喪も否認しなければならない。アガペーを承認してしまうと、グレートマザーになってしまう。わたしはテリブルマザーにこびりつく。ノイマンの論を見れば明らかなように、グレートマザーとテリブルマザーの極点は同じものである。わたしはその極点の、テリブルマザーよりの一歩手前にこびりつく。そういうわけだ。
こういった文章を書いていると、何故かインコの背中の匂いを思い出す。
先に挙げた笙野ファンブログで、ブログ主にうんこを投げつけまくった。自覚的でもあったが、そうせざるを得ない自分も感じながら、罵詈を吐き続けた。もう一歩踏み込みたくて踏み込みたくなかった。だけど、もう一歩踏み込んで、醜悪な自分の言葉の山の前で、ふと我に返った時、とめどもない自虐感の中で、わたしはその匂いを思い出しそうだ、と思った。
昔、仕事で上司と大激論を交わした時もそうだった。かなり大きな予算がついたプロジェクトで、わたしもぴりぴりしていた。わたしは、懲戒という形ではなかったが、体よくプロジェクトから外された。その時、飲み歩いている時か二日酔いの時か仕事中か忘れたが、この匂いを思い出したように思う。
この匂いは、たとえばニワトリ小屋の臭いと似ているものだ。同じ鳥類が集まっているわけだから、そりゃ似ているだろう。だけど、インコの場合は、その糞は鳥篭の床に落ちる。床のところだけ抜き出せる鳥篭だったから、そこに敷いた新聞紙を取り替えたりしたものだ。それに背中である。糞の匂いは、全くないとは言えないだろうけど、ほとんどないインコの体臭である。糞便臭を排除した、空に近い領域の、自然の匂いである。
それがポイントじゃなかろうか、と思ったりする。
わたしがインコを、鳥篭から出そうとすると、インコはあまり逃げなかった、と書こうと思ってよく思い出してみたら、インコが逃げて家の中で捕物をした記憶もあるから、間違っているのだろう。
だけど、両手でインコを押さえつけ、その背中の匂いを嗅いでいたことは、よく覚えている。さっき書いたように時々ふと思い出すのだから、覚えているのは当然だろう。
わたしにとって、喪や無は、虚しさとかそんな情動的なものではなく、インコの背中の匂いなのだ。
もしこの匂いが、わたしの中で大きな位置を占めてきたなら、わたしはアガペーを承認せざるを得ないだろう。抑鬱症者が生きる喪をも。ひいてはグレートマザーをも。
そうしてわたしは「デレ脂」となるのだろう。
おえっ。
……とか書きながら、直後自分の内面で糞便がどぎょどぎょぶじゅぶじゅ沸き上がってしまうのだけどね。困ったものだ。
よく、定型人は、現実は辛いから、小説ぐらいは楽しく癒されるものを読みたい、などと言う。
アンテ・フェストゥム人間にはこれが理解できない。癒しが悪いと言っているのではない。癒しもあれば苦痛もありだろう、と素の顔で思う。
何故なら、わたしたちが生きる日常的現実こそが、小説などと同値の「ネタの世界」なのだから。
ラカン論は、それを臨床と理屈でもって体系化したものである。わたしたちが思う現実とは、器官で受けた刺激を脳で再構成したものであり、狂人が見る幻覚とわたしたちが見る現実に明確な線引きはできないとし、本当の現実は到達不可能なものであるとして、そこに現実界というシニフィアンを設置した。この現実界から感じるうねりに敏感なのが、スキゾイドでありアスペルガーであり統合失調症であり(男性と比較した場合の)女性であり(大人と比較した場合の)子供である、となる。これを一語で説明するならば、リアリティという言葉より、実存感という言葉が、わたし的にはしっくりくる。
斎藤環氏が、現代社会を語るのにラカン論はもっとも適しているとよく言うが、そりゃそうだろう。スキゾイドじゃない人間もスキゾイドに憧れてしまうのが、現代社会の特徴と言っていいからだ。
あたかも、おんたこたちが火星人を食い物にしているように。
だけどその時、これだけは妙に印象に残っていて、だから今でも覚えているのだが、そのインコの匂いを思い出した。
そういえば、わたしはインコを鳥篭から出し、両手で押さえ、背中の匂いを嗅ぐのが好きだった。その匂いが、とても好きだった。いや好きだったかも覚えていない。度々そうしていたから、覚えていただけ。度々そうしたのだから、好きだったのだろう、と事後的に辻褄を合わせている。
笙野頼子関係の話は一区切りと書いたが、わたしは余程笙野にはまっているらしい。以前から好きだったのだが、一度書き始めると詰まったうんこを出し切らないと気が済まない、みたいな感じだろうか。ごめん。笙野話になる。
ある笙野ファンブログに殴り込んだ時、きっかけにした話題が、「虚しさ」だ。『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』のエンディングに書かれてある文章の中にある言葉。
=====
虚しい。助かったのに虚しい。あんなに死と戦ったのに私は助かった、でも自分の力ではなくだ。経過も見えなくてだ。頭が変になりそうだ。助かっても流されただけじゃないか。でもだったらこの生を手放してはならないと思うために、助けてくれた神に私は帰依しようか……。
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この虚しさに、わたしは引っかかっている。
この記事で、わたしは抑鬱症者が嫌いだと書いた。鬱とは喪が原因である。無と自己愛的に同一化した主体。
わたしは、この虚しさや無がどうもピンとこない。わたしの中身は空っぽではなく、糞尿が渦巻いている。こんなものを何故無だと言えるのか、本当にわからない。
生まれてこの方虚しさを感じたことがない、なんて言わない。わたしの人生にだっていろいろある。
クリステヴァ論では、クライン論における抑鬱態勢に、想像的父なる概念を設置している。これがアガペーである、と。つまりアガペーとは喪と双子の兄弟なのである。
抑鬱態勢とは、悪い乳房に取り憑かれた状態である。乳児にとってそれは、具体的に言うならば、たとえば母が父にまなざしを向けることで、母にシカトこかれる自分である。母と一体的な世界を生きている乳児にとってみれば、それは自分の無も意味する。悪い乳房は憎悪の源でもあるが、同時に無の根源でもあるのだ。この憎悪も無も自他融合的である。ケガレの中に埋没した無が、アガペーを生むと言ってよい。
男性的抑鬱症者が生きる喪には、ケガレが欠けている。よって彼らの喪は、双子の兄弟たるアガペーを生み出しにくい。いやもちろん抑鬱に陥らない人間なんかよりよっぽどアガペーに近い領域を生きていることになるが。
わたしはこのアガペーを否認する。よってその双子の兄弟である喪も否認しなければならない。アガペーを承認してしまうと、グレートマザーになってしまう。わたしはテリブルマザーにこびりつく。ノイマンの論を見れば明らかなように、グレートマザーとテリブルマザーの極点は同じものである。わたしはその極点の、テリブルマザーよりの一歩手前にこびりつく。そういうわけだ。
こういった文章を書いていると、何故かインコの背中の匂いを思い出す。
先に挙げた笙野ファンブログで、ブログ主にうんこを投げつけまくった。自覚的でもあったが、そうせざるを得ない自分も感じながら、罵詈を吐き続けた。もう一歩踏み込みたくて踏み込みたくなかった。だけど、もう一歩踏み込んで、醜悪な自分の言葉の山の前で、ふと我に返った時、とめどもない自虐感の中で、わたしはその匂いを思い出しそうだ、と思った。
昔、仕事で上司と大激論を交わした時もそうだった。かなり大きな予算がついたプロジェクトで、わたしもぴりぴりしていた。わたしは、懲戒という形ではなかったが、体よくプロジェクトから外された。その時、飲み歩いている時か二日酔いの時か仕事中か忘れたが、この匂いを思い出したように思う。
この匂いは、たとえばニワトリ小屋の臭いと似ているものだ。同じ鳥類が集まっているわけだから、そりゃ似ているだろう。だけど、インコの場合は、その糞は鳥篭の床に落ちる。床のところだけ抜き出せる鳥篭だったから、そこに敷いた新聞紙を取り替えたりしたものだ。それに背中である。糞の匂いは、全くないとは言えないだろうけど、ほとんどないインコの体臭である。糞便臭を排除した、空に近い領域の、自然の匂いである。
それがポイントじゃなかろうか、と思ったりする。
わたしがインコを、鳥篭から出そうとすると、インコはあまり逃げなかった、と書こうと思ってよく思い出してみたら、インコが逃げて家の中で捕物をした記憶もあるから、間違っているのだろう。
だけど、両手でインコを押さえつけ、その背中の匂いを嗅いでいたことは、よく覚えている。さっき書いたように時々ふと思い出すのだから、覚えているのは当然だろう。
わたしにとって、喪や無は、虚しさとかそんな情動的なものではなく、インコの背中の匂いなのだ。
もしこの匂いが、わたしの中で大きな位置を占めてきたなら、わたしはアガペーを承認せざるを得ないだろう。抑鬱症者が生きる喪をも。ひいてはグレートマザーをも。
そうしてわたしは「デレ脂」となるのだろう。
おえっ。
……とか書きながら、直後自分の内面で糞便がどぎょどぎょぶじゅぶじゅ沸き上がってしまうのだけどね。困ったものだ。
よく、定型人は、現実は辛いから、小説ぐらいは楽しく癒されるものを読みたい、などと言う。
アンテ・フェストゥム人間にはこれが理解できない。癒しが悪いと言っているのではない。癒しもあれば苦痛もありだろう、と素の顔で思う。
何故なら、わたしたちが生きる日常的現実こそが、小説などと同値の「ネタの世界」なのだから。
ラカン論は、それを臨床と理屈でもって体系化したものである。わたしたちが思う現実とは、器官で受けた刺激を脳で再構成したものであり、狂人が見る幻覚とわたしたちが見る現実に明確な線引きはできないとし、本当の現実は到達不可能なものであるとして、そこに現実界というシニフィアンを設置した。この現実界から感じるうねりに敏感なのが、スキゾイドでありアスペルガーであり統合失調症であり(男性と比較した場合の)女性であり(大人と比較した場合の)子供である、となる。これを一語で説明するならば、リアリティという言葉より、実存感という言葉が、わたし的にはしっくりくる。
斎藤環氏が、現代社会を語るのにラカン論はもっとも適しているとよく言うが、そりゃそうだろう。スキゾイドじゃない人間もスキゾイドに憧れてしまうのが、現代社会の特徴と言っていいからだ。
あたかも、おんたこたちが火星人を食い物にしているように。