笙野頼子vs東浩紀 または「ネオリベ」考察
2008/05/02/Fri
つーか笙野ってば東浩紀放置すんのね。ちぇ。笙野vs東見たかったのになあ。だらしなく無責任な観客としては。見てる方はなんて気楽なのかしら。『だいにっほん第二部』で唾吐いてたからちょっと期待したのに。
まー彼女にも戦略はあるのやろうね、中沢新一がアブジェクシオンに触れないように。
斎藤環とかに噛みついたら面白いのになあ。彼マゾ臭いから斬れば斬るほど喜びそうだ。精神科医だから笙野お得意の呪術も理屈化できちゃうだろうしなあ。わたしなんかよりよっぽど。とか言いつつ彼の『文学の徴候』の中の笙野論は……読めてないと言い切れないのだよなー。ラカン派だしいろいろ言葉の裏を読んでしまう。たとえば彼女を評した「ルサンチマン」なんてのは、同一化故の憎悪なわけで、愛憎が混濁する始原の情動をも比喩連鎖しうる。ルサンチマンこそがパトスの本質に「ある程度」近似している、ってことやね。ニーチェは偉大だった。まあ順番が逆になってるけど。「憎しみは愛に先んずる」やね。でも順番っていうのはそれこそ象徴界的なものであり統辞的なものであるわけで、むしろ想像界では無時間性が惹起されるわけで……、みたいな蟻地獄にはまる。あーやだやだラカニアンっていやらしいわ。ラカン論知ってるとそれがよくわかる。ラカン論ってエロイよ。字面だけだと逆印象になるらしいけど。なんでこの淫靡さみんなわからないのかなあ? いや精神分析そのものがエロイっちゃーエロイんだけど、ユング論やドゥルーズ=ガタリ論や木村敏論みたいな中二病的正義感というと言い過ぎだけど、潔癖症感はない。みんな正義とか清廉とか異常に好きよね。ラカン論は、ナイフで刺し合って血に塗れるエロさっていうか、SMチックなエロさ。裏の裏の裏の……みたいな逆メタだな。落ちるメタ。
うーん、ポモ見直しもこんなもんよね。日本文化は和が大事、ってことか。
いや煽るつもりはなくてね。わたしは好きでうんこ投げてうんこに塗れてるわけだから。スカトロジストじゃないけどマゾヒストなわけで。
笙野が批判する「ネオリベ」というシニフィアンも、笙野が批判したい、精神分析的に意地悪く言うなら欲望している対象から、少し離れているように思う。
わたしはもちろんネオリベ批判者で、日本で政治的にネオリベ傾向を決定付けた小泉-竹中政策を、2ちゃんねるのぬ速+などで批判していた。基本わたしは保守なのだ。建築業界または製造業界にいたわけだし。談合ですら世間一般が考えるような短絡的に悪と見做す傾向を批判したい。日本の現場主義においては設計などの頭脳労働にかかる予算はまず最初に削られる。現場主義自体はわたしは大事なことだと考えるが、その結果、現場予算は現実的なものとしてあるので予算を削る時にも最低ラインは維持される一方、頭脳労働というものは目に見えにくいものなので、曖昧にされてしまう。数字に乗せにくいのだ。この曖昧な領域を保持するための機能が、談合にはある。そういった無意識的超自我的構造主義的構造を無視して談合は法律に違反しているからやめるべき、などと言われると反論したくもなる。もちろん談合ではない代わりのシステムがあれば済む話だが。その代替システムの構築を無視して短絡的に談合をなくせなどと言われると、事情知らねえ奴は黙ってろ、と言いたくもなる。代替システムの構築にしろ問題の原因は無意識的超自我的構造主義的構造なわけだからシステム化は難しい。チャットなどでは時々漏らしていることだ。
とはいえそういう選択もありだと考えているので、小泉が首相になったなら、その政策を推し進めるべきだと考えていた。モノなんて言い様なので、良い面も言えれば悪い面も言える。教育者がよく言う良い面だけを伸ばすなんてことは無理なのだ。何故ならその良い面は、視点を変えれば悪い面でありうるからだ。良し悪し、正誤を決めるのは、同じ固定観念構造を持つ多数派が押しつける、ネタとしての基準に過ぎない。
一方今のわたしはプートレーダーである。資本主義者である。
中沢新一が『緑の資本論』で読み解いたように、資本主義の根本原理である利子という概念こそが対象aであり、これによりお金というシニフィアンが増殖している、という論はまさにその通りである。とはいえ農耕文化が資本主義の原型であるというありふれた論の通り、対象aという余剰物を生み出すことを原理に据えるのは、母性原理と言える。豊穣の神は、女性性なのだ。よってテリブルマザーを信仰するわたしはどうしても資本主義者となってしまう。
株をやっていれば誰でも知っていることだが、利子という概念が存在する限り、お金というシニフィアンは無限に増殖するものだが、では何故デフレや不況やバブル崩壊が起こるのか、という問題は、個別的あるいは局所的要因などは確かに論じられているが、マクロなシステム論としては解決されていない。ネオリベが言う「神の見えざる手」というのは、わたし的言葉でいうと、神の鉄槌は、そういった形で下されるのではないか、と思っている。もちろん精神分析論的に言えば、その鉄槌を生み出すのは各個人の無意識の中にあるものだと言えるのだが。死の欲動の集団パニック的アクティングアウトじゃな。まさに供犠。なまはげは悪い子じゃないと食べてくれないのだ。
情動が伝染するのではない。欲動が、伝染するのだ。
笙野頼子はネオリベを批判する。しかし彼女の言うネオリベとはそれこそロリリベであり、ネオリベという思想が無意識化した、超自我化した人間たちが、たとえば母性原理と父性原理両方を包括する芸術の神、笙野の場合は文学の神の脅威となっている状態を指している、という解釈をわたしはしている。このブログの初期のテーマはまさにそれである(例:記事1、記事2、記事3)。表現者と受取手の関係が供給と需要という関係へ連鎖するその構造が、大きな傾向として、現代社会にはある。売り手と買い手になるわけだから、その間に成立する合意が重要課題となる。わたしはネオリベなどという言葉は用いずにこれを商業主義と表現している。ともかく政治経済の問題だけで語っていては、笙野のネオリベ批判は理解できないだろう、という話である。
わたしはこの「ネオリベ」を、商業主義と違うシニフィアンである意味を考えるならば、性器結合主義と解釈している。前戯や愛憎の語らいを軽視して、まんこにちんちんを入れることだけしか考えられないヤロウども(ペニス化した女性含む)。もっとわかりやすく言えば、議論の中身を軽視して短絡化した論旨や勝ち負けや合意を重要視して「しまう」傾向である。断っておくが論旨や勝ち負けや合意が悪いと言っているわけではない。それに固執して「しまう」、そうなって「しまう」多数派の固定観念を問題にしているのだ。
笙野の言葉を引用しよう。
=====
そんな中で、「笙野も呪文からロジックに変身したのか」と昔のいわくいいがたいどろどろした良さが損なわれる事を、憂う人も多い。でもその一方、前の世界の分かりにくくふざけた言葉遊びをまどろこしく思うタイプだっているのである。
しかし言葉遊びを嫌って結論を急ぐやつは、一見熱心に生きているようだけど、その余裕のなさもちょっとネオリベ気味だなあと笙野本人には思えたりする。それに呪文度だって特に下がっていないように思うのだが。
(『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』より)
=====
こういった「言葉遊びを嫌って結論を急ぐやつ」=性器結合主義者を、わたしは「きれいな目をしたジャイアン」や「(「共同体の一員としてのわたし」ではない)共同体としてのわたし」などと表現している。
わたしは先に、笙野の言うネオリベは、笙野が批判したいものから少しずれているのではないか、と書いた。これは批判ではない。むしろ作家としては正当な「ずらし」である。比喩と言い換えた方がいいだろう。作家なのだから、比喩的表現で述べることは正当な行為である。何故なら、精神分析論においては比喩連鎖のスキマに落ちたものが真理であるのだから、ずらして表現した方が、スキマに落ちたものにおける受取手の実存感を惹起するからだ。わたしの「きれいな目をしたジャイアン」などもこの比喩の構造である。
蛇足を述べるなら、精神分析学は比喩表現を多用する。「陰核手淫」などいう言葉はそれこそ象徴として、たとえば文芸的表現として捉え、比喩連鎖させて思考すべきものであるが、一般ではここがわかっていない人が多くて困る。比喩表現が主体になるのは、当然のことである。比喩構造において意味を一義化する方向に制約したのがロジックであり、だからこそ意味を共有しやすくなるのだが、人間の心は一義的意味表現の積み重ねでは捉え切れないからだ。心理学と精神分析学(深層心理学)の違いの一つである。
さて、わたしの今の地球スーツは主に精神分析という武装を施しているのだが、そのナイフを使ってこの辺りを考察したい。
「共同体のわたし」という精神状態は、いわゆる同胞愛的なものである。その共同体の中で同じ幻想を持つ精神状態である。幻想とは連鎖するシニフィアン群(S2)の迷宮を遊ぶことである。同じ幻想を持つには、それが流動する迷宮の構造が、同じでなくてはならない。何故なら幻想とは/S◇対象aの◇であり、シニフィアンの連鎖のスキマから煙のように生じる流動体の集合だからだ。よって、連鎖の仕方が類似してなくては、類似した幻想を生み出すことはできない。しかし逆に言えば、幻想の原子たるものが、シニフィアン連鎖を打ち破るものでもある。
このシニフィアン連鎖の迷宮は、超自我である。超自我とは無意識に浸透したルールである。類似したルールを各々無意識下に持っているからこそ、各人の幻想は共有可能となるのだ。
この幻想は、わたしたちが日常的に考える現実も含まれる。これについてはこのブログで何度も説明しているので、前の記事の短い説明を読むなり、「現実界」でブログ内検索するなりして欲しい。
先にも言ったように、幻想とはシニフィアンの連鎖のスキマから生じる流動体の集合である。即ち幻想とは何か、を突き詰めて考えると、最終的には/Sを裏打ちするあるいは対象aを領域的に含む現実界という概念に突き当たる。現実界とは到達不可能なものである。だからこそ幻想は絶対零度的に固定しないし、尽きることもないのだ。
では、「共同体のわたし」を非難することは、超自我を非難することになるのか。
そうは短絡できない。わたしが今定義した「共同体のわたし」とは共同幻想であり、超自我とはそれが共有可能になる原因である。超自我が原因で幻想は各人類似したものになるのだが、幻想(の原子たるもの)とは原則シニフィアンの迷宮を破壊する作用を持っている。
ここで、クリステヴァによるサンボリック(象徴界)を脅かす象徴界の周縁部分という意味でのセミオティック、またそこでの運動を述べたアブジェクシオンという概念が活用可能になる。わたしの言葉ならは、セミオティックな領域にある幻想の原子が、シニフィアンを接着させることにより棄却されてしまうという状態、即ちケガレである、となる。ケガレにおける接着する作用が、この記事で述べている「無的な自分」や「アガペー」となろう。棄却されてしまうことが、このブログの最近のテーマでもある「憎しみは愛に先んずる」である。棄却されやすいシニフィエを持つシニフィアンが、たとえば女でありスキゾイドである。だから、「女は存在しない」かつ「スキゾイドはなおさら存在しない」となるのである。「女は存在する」と思い込める女性主体は、象徴的ファルスを手にしている。ファルスとはペニスを意味する。即ち、男性的主体であるということを意味する。男でもあり女でもあるのが、女性性なのだ。
わたしは先に、「共同体の一員としてのわたし」と「共同体としてのわたし」は別物である、と書いた。それは棄却すること、アブジェクシオンを排除しているか、排除「できて」いるか、排除して「しまえる」のかどうかの違いである。人間シニフィアンを使っている限り、多かれ少なかれケガレを棄却している。それを認知できていないのが、「共同体としてのわたし」なのだ。
キリストは、姦淫を犯した女を庇った。「あなた方の中で罪のない者が、まず、この女に石を投げつけるがよい」である。
神が死んだ現在、ケガレた女に石を投げつけることを、止める存在はない。いや、中にはケガレた女に同情する人間もいるだろう。同情する人間は、たとえばババアであるとしよう。「同性だから痛みがわかる」などと思い込んでいるババアだ。そのババアはケガレた女を庇うだろう。きれいな服を着て子犬を抱いたデブババアが、薄汚れた服を着た娼婦を庇うのだ。
わたしならば、自分に石を投げる男たちより、まずそのデブババアの顔に唾を吐く。同情なんてキモイものをおっかぶせてくる、傲慢なババアに。
……つっかわかったけど、言葉はいろいろ出てくるけどそれに統辞的構造つけたりリンク貼るのはすげーめんどうだわ。
もっとカオスでいいじゃなーい、と自分に言い聞かせよう。
まー彼女にも戦略はあるのやろうね、中沢新一がアブジェクシオンに触れないように。
斎藤環とかに噛みついたら面白いのになあ。彼マゾ臭いから斬れば斬るほど喜びそうだ。精神科医だから笙野お得意の呪術も理屈化できちゃうだろうしなあ。わたしなんかよりよっぽど。とか言いつつ彼の『文学の徴候』の中の笙野論は……読めてないと言い切れないのだよなー。ラカン派だしいろいろ言葉の裏を読んでしまう。たとえば彼女を評した「ルサンチマン」なんてのは、同一化故の憎悪なわけで、愛憎が混濁する始原の情動をも比喩連鎖しうる。ルサンチマンこそがパトスの本質に「ある程度」近似している、ってことやね。ニーチェは偉大だった。まあ順番が逆になってるけど。「憎しみは愛に先んずる」やね。でも順番っていうのはそれこそ象徴界的なものであり統辞的なものであるわけで、むしろ想像界では無時間性が惹起されるわけで……、みたいな蟻地獄にはまる。あーやだやだラカニアンっていやらしいわ。ラカン論知ってるとそれがよくわかる。ラカン論ってエロイよ。字面だけだと逆印象になるらしいけど。なんでこの淫靡さみんなわからないのかなあ? いや精神分析そのものがエロイっちゃーエロイんだけど、ユング論やドゥルーズ=ガタリ論や木村敏論みたいな中二病的正義感というと言い過ぎだけど、潔癖症感はない。みんな正義とか清廉とか異常に好きよね。ラカン論は、ナイフで刺し合って血に塗れるエロさっていうか、SMチックなエロさ。裏の裏の裏の……みたいな逆メタだな。落ちるメタ。
うーん、ポモ見直しもこんなもんよね。日本文化は和が大事、ってことか。
いや煽るつもりはなくてね。わたしは好きでうんこ投げてうんこに塗れてるわけだから。スカトロジストじゃないけどマゾヒストなわけで。
笙野が批判する「ネオリベ」というシニフィアンも、笙野が批判したい、精神分析的に意地悪く言うなら欲望している対象から、少し離れているように思う。
わたしはもちろんネオリベ批判者で、日本で政治的にネオリベ傾向を決定付けた小泉-竹中政策を、2ちゃんねるのぬ速+などで批判していた。基本わたしは保守なのだ。建築業界または製造業界にいたわけだし。談合ですら世間一般が考えるような短絡的に悪と見做す傾向を批判したい。日本の現場主義においては設計などの頭脳労働にかかる予算はまず最初に削られる。現場主義自体はわたしは大事なことだと考えるが、その結果、現場予算は現実的なものとしてあるので予算を削る時にも最低ラインは維持される一方、頭脳労働というものは目に見えにくいものなので、曖昧にされてしまう。数字に乗せにくいのだ。この曖昧な領域を保持するための機能が、談合にはある。そういった無意識的超自我的構造主義的構造を無視して談合は法律に違反しているからやめるべき、などと言われると反論したくもなる。もちろん談合ではない代わりのシステムがあれば済む話だが。その代替システムの構築を無視して短絡的に談合をなくせなどと言われると、事情知らねえ奴は黙ってろ、と言いたくもなる。代替システムの構築にしろ問題の原因は無意識的超自我的構造主義的構造なわけだからシステム化は難しい。チャットなどでは時々漏らしていることだ。
とはいえそういう選択もありだと考えているので、小泉が首相になったなら、その政策を推し進めるべきだと考えていた。モノなんて言い様なので、良い面も言えれば悪い面も言える。教育者がよく言う良い面だけを伸ばすなんてことは無理なのだ。何故ならその良い面は、視点を変えれば悪い面でありうるからだ。良し悪し、正誤を決めるのは、同じ固定観念構造を持つ多数派が押しつける、ネタとしての基準に過ぎない。
一方今のわたしはプートレーダーである。資本主義者である。
中沢新一が『緑の資本論』で読み解いたように、資本主義の根本原理である利子という概念こそが対象aであり、これによりお金というシニフィアンが増殖している、という論はまさにその通りである。とはいえ農耕文化が資本主義の原型であるというありふれた論の通り、対象aという余剰物を生み出すことを原理に据えるのは、母性原理と言える。豊穣の神は、女性性なのだ。よってテリブルマザーを信仰するわたしはどうしても資本主義者となってしまう。
株をやっていれば誰でも知っていることだが、利子という概念が存在する限り、お金というシニフィアンは無限に増殖するものだが、では何故デフレや不況やバブル崩壊が起こるのか、という問題は、個別的あるいは局所的要因などは確かに論じられているが、マクロなシステム論としては解決されていない。ネオリベが言う「神の見えざる手」というのは、わたし的言葉でいうと、神の鉄槌は、そういった形で下されるのではないか、と思っている。もちろん精神分析論的に言えば、その鉄槌を生み出すのは各個人の無意識の中にあるものだと言えるのだが。死の欲動の集団パニック的アクティングアウトじゃな。まさに供犠。なまはげは悪い子じゃないと食べてくれないのだ。
情動が伝染するのではない。欲動が、伝染するのだ。
笙野頼子はネオリベを批判する。しかし彼女の言うネオリベとはそれこそロリリベであり、ネオリベという思想が無意識化した、超自我化した人間たちが、たとえば母性原理と父性原理両方を包括する芸術の神、笙野の場合は文学の神の脅威となっている状態を指している、という解釈をわたしはしている。このブログの初期のテーマはまさにそれである(例:記事1、記事2、記事3)。表現者と受取手の関係が供給と需要という関係へ連鎖するその構造が、大きな傾向として、現代社会にはある。売り手と買い手になるわけだから、その間に成立する合意が重要課題となる。わたしはネオリベなどという言葉は用いずにこれを商業主義と表現している。ともかく政治経済の問題だけで語っていては、笙野のネオリベ批判は理解できないだろう、という話である。
わたしはこの「ネオリベ」を、商業主義と違うシニフィアンである意味を考えるならば、性器結合主義と解釈している。前戯や愛憎の語らいを軽視して、まんこにちんちんを入れることだけしか考えられないヤロウども(ペニス化した女性含む)。もっとわかりやすく言えば、議論の中身を軽視して短絡化した論旨や勝ち負けや合意を重要視して「しまう」傾向である。断っておくが論旨や勝ち負けや合意が悪いと言っているわけではない。それに固執して「しまう」、そうなって「しまう」多数派の固定観念を問題にしているのだ。
笙野の言葉を引用しよう。
=====
そんな中で、「笙野も呪文からロジックに変身したのか」と昔のいわくいいがたいどろどろした良さが損なわれる事を、憂う人も多い。でもその一方、前の世界の分かりにくくふざけた言葉遊びをまどろこしく思うタイプだっているのである。
しかし言葉遊びを嫌って結論を急ぐやつは、一見熱心に生きているようだけど、その余裕のなさもちょっとネオリベ気味だなあと笙野本人には思えたりする。それに呪文度だって特に下がっていないように思うのだが。
(『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』より)
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こういった「言葉遊びを嫌って結論を急ぐやつ」=性器結合主義者を、わたしは「きれいな目をしたジャイアン」や「(「共同体の一員としてのわたし」ではない)共同体としてのわたし」などと表現している。
わたしは先に、笙野の言うネオリベは、笙野が批判したいものから少しずれているのではないか、と書いた。これは批判ではない。むしろ作家としては正当な「ずらし」である。比喩と言い換えた方がいいだろう。作家なのだから、比喩的表現で述べることは正当な行為である。何故なら、精神分析論においては比喩連鎖のスキマに落ちたものが真理であるのだから、ずらして表現した方が、スキマに落ちたものにおける受取手の実存感を惹起するからだ。わたしの「きれいな目をしたジャイアン」などもこの比喩の構造である。
蛇足を述べるなら、精神分析学は比喩表現を多用する。「陰核手淫」などいう言葉はそれこそ象徴として、たとえば文芸的表現として捉え、比喩連鎖させて思考すべきものであるが、一般ではここがわかっていない人が多くて困る。比喩表現が主体になるのは、当然のことである。比喩構造において意味を一義化する方向に制約したのがロジックであり、だからこそ意味を共有しやすくなるのだが、人間の心は一義的意味表現の積み重ねでは捉え切れないからだ。心理学と精神分析学(深層心理学)の違いの一つである。
さて、わたしの今の地球スーツは主に精神分析という武装を施しているのだが、そのナイフを使ってこの辺りを考察したい。
「共同体のわたし」という精神状態は、いわゆる同胞愛的なものである。その共同体の中で同じ幻想を持つ精神状態である。幻想とは連鎖するシニフィアン群(S2)の迷宮を遊ぶことである。同じ幻想を持つには、それが流動する迷宮の構造が、同じでなくてはならない。何故なら幻想とは/S◇対象aの◇であり、シニフィアンの連鎖のスキマから煙のように生じる流動体の集合だからだ。よって、連鎖の仕方が類似してなくては、類似した幻想を生み出すことはできない。しかし逆に言えば、幻想の原子たるものが、シニフィアン連鎖を打ち破るものでもある。
このシニフィアン連鎖の迷宮は、超自我である。超自我とは無意識に浸透したルールである。類似したルールを各々無意識下に持っているからこそ、各人の幻想は共有可能となるのだ。
この幻想は、わたしたちが日常的に考える現実も含まれる。これについてはこのブログで何度も説明しているので、前の記事の短い説明を読むなり、「現実界」でブログ内検索するなりして欲しい。
先にも言ったように、幻想とはシニフィアンの連鎖のスキマから生じる流動体の集合である。即ち幻想とは何か、を突き詰めて考えると、最終的には/Sを裏打ちするあるいは対象aを領域的に含む現実界という概念に突き当たる。現実界とは到達不可能なものである。だからこそ幻想は絶対零度的に固定しないし、尽きることもないのだ。
では、「共同体のわたし」を非難することは、超自我を非難することになるのか。
そうは短絡できない。わたしが今定義した「共同体のわたし」とは共同幻想であり、超自我とはそれが共有可能になる原因である。超自我が原因で幻想は各人類似したものになるのだが、幻想(の原子たるもの)とは原則シニフィアンの迷宮を破壊する作用を持っている。
ここで、クリステヴァによるサンボリック(象徴界)を脅かす象徴界の周縁部分という意味でのセミオティック、またそこでの運動を述べたアブジェクシオンという概念が活用可能になる。わたしの言葉ならは、セミオティックな領域にある幻想の原子が、シニフィアンを接着させることにより棄却されてしまうという状態、即ちケガレである、となる。ケガレにおける接着する作用が、この記事で述べている「無的な自分」や「アガペー」となろう。棄却されてしまうことが、このブログの最近のテーマでもある「憎しみは愛に先んずる」である。棄却されやすいシニフィエを持つシニフィアンが、たとえば女でありスキゾイドである。だから、「女は存在しない」かつ「スキゾイドはなおさら存在しない」となるのである。「女は存在する」と思い込める女性主体は、象徴的ファルスを手にしている。ファルスとはペニスを意味する。即ち、男性的主体であるということを意味する。男でもあり女でもあるのが、女性性なのだ。
わたしは先に、「共同体の一員としてのわたし」と「共同体としてのわたし」は別物である、と書いた。それは棄却すること、アブジェクシオンを排除しているか、排除「できて」いるか、排除して「しまえる」のかどうかの違いである。人間シニフィアンを使っている限り、多かれ少なかれケガレを棄却している。それを認知できていないのが、「共同体としてのわたし」なのだ。
キリストは、姦淫を犯した女を庇った。「あなた方の中で罪のない者が、まず、この女に石を投げつけるがよい」である。
神が死んだ現在、ケガレた女に石を投げつけることを、止める存在はない。いや、中にはケガレた女に同情する人間もいるだろう。同情する人間は、たとえばババアであるとしよう。「同性だから痛みがわかる」などと思い込んでいるババアだ。そのババアはケガレた女を庇うだろう。きれいな服を着て子犬を抱いたデブババアが、薄汚れた服を着た娼婦を庇うのだ。
わたしならば、自分に石を投げる男たちより、まずそのデブババアの顔に唾を吐く。同情なんてキモイものをおっかぶせてくる、傲慢なババアに。
……つっかわかったけど、言葉はいろいろ出てくるけどそれに統辞的構造つけたりリンク貼るのはすげーめんどうだわ。
もっとカオスでいいじゃなーい、と自分に言い聞かせよう。