やばげ
2008/05/03/Sat
あ、やばいやばいやばい、
だめだ。死にたい。死ね。つまんない。怖い。周りの人間がみんな同じに見える。ロボットに見える。悪意というモノになっている。
だからと言って自傷や自殺するのは享楽主義者のわたしが許さない。共同体としてのわたしはむしろ身勝手なわたしなんか死ねと言ってくる。
笙野に嫉妬するわ。作家だから「極私的言語」とか言えるわけで。
自傷や自殺なんてのは、自分の身を傷つける、自分を無化することをわかってやっている。そうなることを予測してやっている。
それがダメなのだ。
傷や死なんてものは、突然やって来るから享楽できるのだ。驚愕するから、それは享楽足り得るのだ。握り潰しているなんて思ってないから、握り潰された蝉の抜け殻を見て泣くのだ。
だから、故二階堂奥歯氏は、享楽主義者としてアマイ、と言わざるを得ない。
彼女は自分が死ぬことを言語化している。その時点でその死の享楽度は低くなっている。
坂東眞砂子氏などは論外だ。彼女は複数の子猫を殺している。即ち反復している。反復したら、コピー化したら、享楽度は下がるに決まっているだろう。彼女の子猫殺しは小説を読んで得る快楽と変わらない。彼女は欲望主義的な思想を持っているが、享楽主義者の視点から見ると、彼女の行為はアマ過ぎてクリームパンを食べているようだ。激辛喰おうよ。欲望主義者なら。
自分の主観世界の外から突然ソレはやって来る。人間という生き物は自我や超自我をもってソレから防衛する。突然やって来るからこそ、防衛しているからこそ、マゾヒストはソレに享楽できるのだ。
などと言いながら、知らず知らずの内にやって「しまって」いる自傷や自殺はおkだ。
「たとえば」痛飲して記憶をなくして起きたら異常に体調が悪くて二日酔いだけの苦痛じゃないなと薄々感づいてうわこんなに寝てたの? ってちょっと動揺してデルモンテのトマトジュースなんか飲んで一息ついて薬飲もうと思って見たら初めて軽くODしていることに気づいた、なんてのはおkだ。享楽主義的倫理に則れば。意識がある状態でODしちゃうとダメよ、ってことだな。気がついたら自分の内臓を引きずり出しているなんてのはおk。トマトジュース飲もうと思って自分の腕がコップ持ってて「え、なんでコップ持ってるの?」みたいに思えてなんて身勝手な腕なんだろうとか思えてでも身勝手なのはわたしなのだから腕がわたしであってじゃあ腕を見ているわたしって何? とか思えてきて結果トマトジュースがわたしという糞袋に飲まれたがっているのかもしれないとか感じてキモチワルクなるとか、ない? ないもの?
どうなるか予測できてやっちゃうと、二階堂の自殺や坂東の子猫殺しとなんら変わらない。好物を後にとっとけないタイプなのはわたしも同じだからわかるけど、死というゴチソウは一回きりなんだもん。神の鉄槌は一回きりだと自分に言い聞かせるから、その鉄槌の享楽度は上がるのだ。
でも最近その後が辛い。年には勝てない。痛めつけ過ぎたよなー、この糞袋。主に酒。死の予感を感じながらもアガペーを否認するわたしってステキ。うるせえ黒い少女。
自分の死は一回きりだから、「たとえば」あーあのババア死んでくれねえかな、とか思うけど、その死を想像するとコピー化しちゃうから、享楽主義者のわたしがその想像を止めようとする。ババアなんてシラネエよ、ふんふんふん、なんて生きててある日そいつ死んだということを聞いて、「もしかしてわたしの呪詛が効いたんじゃないか」と苦悩するのがいいんであって、「あ、やっぱ死んだのねー」だと享楽にならないのだ。
なのに無意識的に呪詛は口から漏れる。「死ね」。「死にたい」。
ということでここは共同体としてのわたしに、きれいな目をしたジャイアンたるわたしにご登場願おう。刺激なんてうぜー、なあなあがいーんじゃなーい、わからなくても「あーわかるわかるう」とか言っときゃ生温い糞尿風呂に浸かっていられるんだから。
ということで共同体としてのわたしに移動します。バイナラ。スキゾ、アスペ、アンテ人間たちよ。陰核いじってちんちんにします。ブログ初期の、象徴的父に見られがちなわたしに戻ります。
そうなったとして、たとえばあるババアのブログでの自分の言葉を見ると恥ずかしゅーてしょうがない。死にたくなる。「一緒に死んで」みたいなことゆってドンビキする男の顔が思い浮かぶ。浮かんでないけど。
わたしにとってわたしとは平均台なわけだから、こっちに落ちないようにするとそっちに落ちる。自分の言葉が呪文になっている。享楽主義者のわたしの呪詛が、共同体としてのわたしを攻撃する。
うーん、もうちょっとイントラ・フェストゥム強くないとなー。自分のうんこ的言葉を棄却できない。まー反復してりゃ棄却できるんだろうけどね。ケガレとしてのわたしを。
というわけでちょっとモードチェンジ。できるかどうかしらんけどこう書いとけばこの言葉が呪文になってできるかもしれない、という短絡的考え。よーは自己治療のための文章やね。この記事とかもそうやけどやっぱイテエなあw これ系の時期の文章ってw
うきゃきゃ、なんて笑いはやめて、サイバラ的極悪な笑みをするように心がけます、という記事でした。
黒い少女は黙ってろ、という呪詛。
オチル。オチタクナイ。
陰部に箸刺して死ぬとかってステキよね。仮面の下の物自体という悪意を知ってしまうと。
人から嫌われる自分の根本構造知ってしまってどうやって他人を信じられるかって言うんだ。
お前らは、わたしは、ただの悪意だ。
こんなブログにするつもりなかったのになあ。もっとクールでポップでスタイリッシュで潔癖症なブログにするつもりだったのに。とかゆって書いてた初期の記事とか「この頃の脂さんカテエwww」とか笑われるしよー。なんかしらんけど拍手多いこの記事でも書いてるじゃん。「わたしはスタイリッシュ主義だ」と。「糞便なんてパス」とか書いといて「うんこ」連発してるわたしwww 自分の文章の呪詛にはまってるwww
どうしたらいいんだよ。
答えなんてないのですよね。ええわかってます。ない方がいいのです。あった時の享楽度は高くなるから。
あ、わたしの頭、あんなところに。
だめだ。死にたい。死ね。つまんない。怖い。周りの人間がみんな同じに見える。ロボットに見える。悪意というモノになっている。
だからと言って自傷や自殺するのは享楽主義者のわたしが許さない。共同体としてのわたしはむしろ身勝手なわたしなんか死ねと言ってくる。
笙野に嫉妬するわ。作家だから「極私的言語」とか言えるわけで。
自傷や自殺なんてのは、自分の身を傷つける、自分を無化することをわかってやっている。そうなることを予測してやっている。
それがダメなのだ。
傷や死なんてものは、突然やって来るから享楽できるのだ。驚愕するから、それは享楽足り得るのだ。握り潰しているなんて思ってないから、握り潰された蝉の抜け殻を見て泣くのだ。
だから、故二階堂奥歯氏は、享楽主義者としてアマイ、と言わざるを得ない。
彼女は自分が死ぬことを言語化している。その時点でその死の享楽度は低くなっている。
坂東眞砂子氏などは論外だ。彼女は複数の子猫を殺している。即ち反復している。反復したら、コピー化したら、享楽度は下がるに決まっているだろう。彼女の子猫殺しは小説を読んで得る快楽と変わらない。彼女は欲望主義的な思想を持っているが、享楽主義者の視点から見ると、彼女の行為はアマ過ぎてクリームパンを食べているようだ。激辛喰おうよ。欲望主義者なら。
自分の主観世界の外から突然ソレはやって来る。人間という生き物は自我や超自我をもってソレから防衛する。突然やって来るからこそ、防衛しているからこそ、マゾヒストはソレに享楽できるのだ。
などと言いながら、知らず知らずの内にやって「しまって」いる自傷や自殺はおkだ。
「たとえば」痛飲して記憶をなくして起きたら異常に体調が悪くて二日酔いだけの苦痛じゃないなと薄々感づいてうわこんなに寝てたの? ってちょっと動揺してデルモンテのトマトジュースなんか飲んで一息ついて薬飲もうと思って見たら初めて軽くODしていることに気づいた、なんてのはおkだ。享楽主義的倫理に則れば。意識がある状態でODしちゃうとダメよ、ってことだな。気がついたら自分の内臓を引きずり出しているなんてのはおk。トマトジュース飲もうと思って自分の腕がコップ持ってて「え、なんでコップ持ってるの?」みたいに思えてなんて身勝手な腕なんだろうとか思えてでも身勝手なのはわたしなのだから腕がわたしであってじゃあ腕を見ているわたしって何? とか思えてきて結果トマトジュースがわたしという糞袋に飲まれたがっているのかもしれないとか感じてキモチワルクなるとか、ない? ないもの?
どうなるか予測できてやっちゃうと、二階堂の自殺や坂東の子猫殺しとなんら変わらない。好物を後にとっとけないタイプなのはわたしも同じだからわかるけど、死というゴチソウは一回きりなんだもん。神の鉄槌は一回きりだと自分に言い聞かせるから、その鉄槌の享楽度は上がるのだ。
でも最近その後が辛い。年には勝てない。痛めつけ過ぎたよなー、この糞袋。主に酒。死の予感を感じながらもアガペーを否認するわたしってステキ。うるせえ黒い少女。
自分の死は一回きりだから、「たとえば」あーあのババア死んでくれねえかな、とか思うけど、その死を想像するとコピー化しちゃうから、享楽主義者のわたしがその想像を止めようとする。ババアなんてシラネエよ、ふんふんふん、なんて生きててある日そいつ死んだということを聞いて、「もしかしてわたしの呪詛が効いたんじゃないか」と苦悩するのがいいんであって、「あ、やっぱ死んだのねー」だと享楽にならないのだ。
なのに無意識的に呪詛は口から漏れる。「死ね」。「死にたい」。
ということでここは共同体としてのわたしに、きれいな目をしたジャイアンたるわたしにご登場願おう。刺激なんてうぜー、なあなあがいーんじゃなーい、わからなくても「あーわかるわかるう」とか言っときゃ生温い糞尿風呂に浸かっていられるんだから。
ということで共同体としてのわたしに移動します。バイナラ。スキゾ、アスペ、アンテ人間たちよ。陰核いじってちんちんにします。ブログ初期の、象徴的父に見られがちなわたしに戻ります。
そうなったとして、たとえばあるババアのブログでの自分の言葉を見ると恥ずかしゅーてしょうがない。死にたくなる。「一緒に死んで」みたいなことゆってドンビキする男の顔が思い浮かぶ。浮かんでないけど。
わたしにとってわたしとは平均台なわけだから、こっちに落ちないようにするとそっちに落ちる。自分の言葉が呪文になっている。享楽主義者のわたしの呪詛が、共同体としてのわたしを攻撃する。
うーん、もうちょっとイントラ・フェストゥム強くないとなー。自分のうんこ的言葉を棄却できない。まー反復してりゃ棄却できるんだろうけどね。ケガレとしてのわたしを。
というわけでちょっとモードチェンジ。できるかどうかしらんけどこう書いとけばこの言葉が呪文になってできるかもしれない、という短絡的考え。よーは自己治療のための文章やね。この記事とかもそうやけどやっぱイテエなあw これ系の時期の文章ってw
うきゃきゃ、なんて笑いはやめて、サイバラ的極悪な笑みをするように心がけます、という記事でした。
黒い少女は黙ってろ、という呪詛。
オチル。オチタクナイ。
陰部に箸刺して死ぬとかってステキよね。仮面の下の物自体という悪意を知ってしまうと。
人から嫌われる自分の根本構造知ってしまってどうやって他人を信じられるかって言うんだ。
お前らは、わたしは、ただの悪意だ。
こんなブログにするつもりなかったのになあ。もっとクールでポップでスタイリッシュで潔癖症なブログにするつもりだったのに。とかゆって書いてた初期の記事とか「この頃の脂さんカテエwww」とか笑われるしよー。なんかしらんけど拍手多いこの記事でも書いてるじゃん。「わたしはスタイリッシュ主義だ」と。「糞便なんてパス」とか書いといて「うんこ」連発してるわたしwww 自分の文章の呪詛にはまってるwww
どうしたらいいんだよ。
答えなんてないのですよね。ええわかってます。ない方がいいのです。あった時の享楽度は高くなるから。
あ、わたしの頭、あんなところに。