アスペルガー症候群についての二次元的まとめ
2008/05/06/Tue
あーなんかもう。アスペバイナラつってるのに!
わたしってなんでこんなに弱いのかしら。自分自身に。あーやーうーどぅばっぐぼ(いつものことなので気にしないで下さい。汚言症のようなものです)。
はいはい、この記事の続きです。
とらさんが噛みついた獲物を奪う気はないが、そうでいいや、わたしはとらさんじゃないので、わたしが言いたいから言う。そういう話。だからわたしの意見をとらさんの意見と一緒くたに考えないでね、と釘を刺しておこう。外野の意見だ。
わたしが依拠するぶっといちんちんあるいは道具は、精神分析をテクストに応用したクリステヴァ的記号分析である。しかし、わたしのやっていることは「分析者の欲望の介入」もろ出しの、精神分析としては悪例となる行為だ。ごめんわたしの内面のうんこは無限らしい。某笙野ファンブログでの一件で大概疲れたと思ってたのになあ……。ああああもうやだやだやだやだ。他のブログでもやらかしてるし。こっちはブログ主関係ないからとっとと切り上げたいんだけどね。他ブログのアクセス数ばっか増やしてどうするわたし。デザートみたいなもの? 笙野議論で火がついて収まらない、ってカンジ? うへえ。なんてめんどい人格なんだろう。時の流れに身を任せて鎮まるのを待ちますか。
わたしのせいで精神分析嫌いが増えている気がするけど、そもそも精神分析なんて他人を精神的に切開するメスだし、心理学みたいに占い化するよりゃよっぽどマシっしょ。「わかりやすさの危険」ってこと。
そんな感じなので、反論とかではなく、むしろロジック主体の、即ち二次元的な、即ち他人事的な、最近の論のまとめみたいなものにしようと思う。ケンカ上等スタイルってなんか拍手少ないし(こういうところは気にしてしまう小市民)。
さて、今のわたしの脳内理屈体系は、主に精神分析学に依拠している。精神分析は器質因による精神疾患は語れない。従って自閉症というカテゴリにおいては語るものがない。まさに精神分析学という体系の中では、彼らは「存在しない」。とはいえ、アスペルガー症候群については、言語を用いる主体であるので、語れないことはない。アスペルガー症候群は内因性の障害である、という立場をわたしは取っている。内因とは器質因と心因の境界をグラデーション化させるための曖昧領域みたいなもので、そうであることを考えれば、スキゾイドは、内因性かもしれないが、心因性あるいは環境因性「寄り」の障害とし、アスペルガー症候群は器質因性「寄り」の障害とすることで、恣意的に区別することも可能なように思える。この区分に則るならば、スキゾイド症例の方が、精神分析的な問題である、となる。
先にも書いたように、今のわたしは基本クリステヴァ論者だ。なのでクリステヴァ論に沿って、そのアブジェクシオンという概念からの文脈による自他の融合としてのケガレという言葉を、アスペルガー症候群者という「存在自体である概念」を軸とする論に接続させることを目的として、論を述べていく。
アブジェクシオンとは自他(母子あるいは主観世界と主体)の融合(象徴的には「悪い乳房の取り込み」)というケガレを棄却することである。鈍感な大人になってしまったわたしたちは、自他の融合とは愛とかエロスとか美しいものだと思い込みがちだが、鏡像段階以前の乳児にとっては、否定性との融合となる。妄想分裂態勢だ。フロイトなら「憎しみは愛に先んずる」である。
アブジェクシオンという運動の真理的位置は、鏡像段階の裏面であると言ってよい。棄却しなかったものをラカンは説き、それを象徴的ファルスと呼んだわけだ。しかし様々な要因で、鏡像段階なりアブジェクシオンという運動に何か問題が起こることがある。こういう言い方は、「問題がないのが正常人」という正常人的立場に立って言っているだけであり、個人的には「問題」という言葉に違和感を覚える、というエクスキューズをしておく。しかし他に定型人とって伝わりやすい言葉が見当たらないので、そう言うことにする。
鏡像段階なりアブジェクシオンなりに問題がある人格を、あるいはそこで得る象徴的ファルスの比喩作用が弱い人格を、わたしは一括して「自我の弱い人間」と呼ぶことがある。この自我という言葉は精神分析理論においては間違った使い方である。とらさんのブログの言葉なら、この記事の「自意識」という言葉の方が消去法的に正しいように思える。これを踏まえて、他ブログで議論(と呼べないうんこの投げ合い)した時の文章をコピペする。おばちゃんごめんね再利用するよ。
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あるチャットで、こんな説明をしたことがある。
自我の強い人=確信したがり屋、確信して「しまう」傾向の強い人たち。結果、固定観念が強い傾向となる。
自我の弱い人=懐疑したがり屋、懐疑して「しまう」傾向の強い人たち。結果、固定観念が弱く、自由な発想が可能な傾向となる。
もちろんこの自我という言葉は、学問的屁理屈の上では間違った使い方だ。一般的なイメージのものとしての自我。チャットだからな、そんなもん。
前者タイプを称揚するのが近代的自我主義だな。「我思う故に我あり」なんかは象徴的だが、後者タイプのわたしが理屈を用いていうならば、それは「ない」という真実に対しての否認である、と言ったりできる。つまり無意識的に「ない」と感じているからこそ、わざわざこんなトートロジー的な文章を「述べなくてはならかった」のだと。
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また、
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先に言った自我の弱い人たちとは、アスペルガーやスキゾイドや統合失調症や「男性と比較した場合の」女性や「大人と比較した場合の」子供などのことであり、これらは近代においては、言語的社会では排除されてきた存在だ。何故なら少数派だから。固定観念から自由だから徒党を組めない。多数派のキミタチはみんな(構造的に)似たような固定観念を持っている。だから理解し合えて、徒党を組めるのだ。結果少数派は被権力者となる。
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この文章における「自我の強い人/自我の弱い人」は、先にも書いたようなことから、以降「自意識の強い人/自意識の弱い人」と言い換えることにする。
また、「アスペルガーやスキゾイドや統合失調症や「男性と比較した場合の」女性や「大人と比較した場合の」子供などの」自意識が弱い人のことを、アンテ・フェストゥム人間と大雑把に括ってもよいだろう。
この、多数派が持っている「(構造的に)似たような固定観念」こそが、アスペルガー症候群者に欠如していると言われている「心の理論」である。しかしそれは、自意識の弱い人から見れば、単なる多数派が共有する固定観念に過ぎない。象徴的ファルスの比喩作用という力で固定化されたシニフィアン群構造に過ぎない。
クリステヴァ的に言い換えるなら、セミオティックな領域を棄却できているからこそ、その領域が境界として機能し、内的にサンボリック(象徴界)が定立する。セミオティック領域が境界として、道路の縁石のように作用し、道路網のように大まかなロジック的構造が形成される。その道路地図が「心の理論」である、と言えるだろう。アスペルガー症候群者の道路網は、定型人より広範で粗密が激しいのだ。
レヴィ=ストロース風に表現してみよう。中沢新一氏は彼の神話公式を、メビウスの輪やクラインの壷に喩えている(『芸術人類学』より)。メビウスの輪のネジレ部分を排除したのが、「心の理論」であると言えよう。中沢の言葉を借りれば、対称性原理からアウラを剥ぎ取った体系が、対称性原理をコピー化したものの集合が「心の理論」である、と言える。一方、多神教的神話における、中沢論ならば秘密結社的な接し方なりという形で、原則として部分化できないという本質的意味を含意したネジレ部分、たとえばドラマツルギーの起承転結で言うならば転の領域に、常に付き纏われているのが、囚われているのが、自意識の弱い人である、と言える。これは、スキゾイドの特徴である神秘主義的、自然主義的傾向と繋がるだろう。宗教で喩えるなら、密教思想やグノーシス思想が、ちょうどよいシンボルとなるかもしれない。そういえば密教も現世利益説いてて国家鎮守で薬師如来信仰だよな、確か。台密東密とかはよくわからんが。わたしは、ここのコメントにも書いてあるように、笙野頼子氏の宗教観を顕教的なものに連鎖させることについて、強い違和感、警戒感を覚える。密教的世界と顕教的世界の融合などという短絡的な言葉で語れる問題ではないと思う。最近キリスト教に興味持ち始めてるみたいだけど。ちなみにわたしは笙野ファンブログ記事中の、
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百合子はこのみたこに仏教、キリスト教を習合させ百八十度転換の対抗宗教にしたのである。
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などは、まさしくグノーシスの「現存在の姿勢」主義にしか見えない。マニ教みたいだ。
とか言いながらわたしの「物が悪意である」なんてのもとってもグノーシス的で呆れ笑ってしまう。
どうでもよい話だった。
この記事では、アンテ・フェストゥム人間は、間主観的自己感なり象徴的ファルス(の比喩作用)なりという鎧が、比較的弱いため、ディスクールや、社会的生活などという(象徴界と想像界の重なりとしての)意味体系においては、常に被害者となってしまう、常に存在しなくなってしまう、としている。
しかし、象徴的ファルスの発生機制たる鏡像段階は、男女共通である。従って、男性主体傾向と女性主体傾向の、象徴的ファルスの比喩作用の強度差の原因は、(鏡像段階の回帰としての)エディプスコンプレックスにあると言えるだろう。生物学的性差に基づいて主体に課せられた、「女」というシニフィアン(の連鎖の仕方)に問題があると言うこともできる。また、男性性の本質としての象徴的ファルスを得る鏡像段階自体は女性にもあるという理屈から、「女性は女性でもあり男性でもある」などとも表現可能だろう。先の笙野ファンブログコメントから引用しておく。
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この場合の「女」とは、集合としての全体を意味するが、精神分析では無意識という無限の領域を設定しているため、無限の全体集合は存在しないことと同値となる。蚊の大群を想像してみそ。大体この辺に集まっているという領域が男で、それ以外の無限に広がる空間も含めるのが女だ。つまり、領域としては存在しなくなるだろ。「女性は存在しない」「女性は暗黒大陸だ」というのはそういう意味だ。
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この「大体この辺に集まっているという領域」の中心軸が象徴的ファルスである。
また、エディプスコンプレックス期の精神発達における男女差を述べたこの記事からも、少し引用しておく。
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精神的な人格形成から鑑みても、女性は知に対して軽やかな態度を取ることが可能なのである。
「男って単純」という言葉は、実は真理なのかもしれない。
象徴的ファルスの存在を信じて(トラウマ的に)そこに突き進むのが男性ならば、そこにファルスがないことを(直感的に)知りつつ、大文字の他者の海を漂いながらそれを包み込むようにいるのが女性なのである。
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では何故女性は、男性やアスペルガー症候群者と比べ、「傾向的に」象徴界的能力が低いと言われているのだろう? それは、「女」に纏わるシニフィアン連鎖の裏に潜むものが、断頭コンプレックスを誘引し、それを通過するからである。ここではそう簡単に述べるに留めておく。
一方、スキゾイドはよくわからないが、少なくともアスペルガー症候群については、スターン論による間主観的自己感の形成期において、内因性にしろなんにしろ、何か問題(先に書いたような意味での「問題」である)が起きているのではないか、という論がある。乳児はこの間主観的自己感の形成期において、養育者の情動を物真似する。情動表現を学習するのだ。アスペルガー症候群者が、定型人たちの間で行われる情動の交換を理解できない、即ち「空気が読めない」原因である。
この論に倣うならば、生後六、七ヶ月以降から十五あるいは十八ヶ月までと、発育時期を同じくする鏡像段階、即ち象徴的ファルスを所有する過程に問題が起きていると言い換えることが可能だろう。ちなみに「心の理論」の発達も、鏡像段階(生後六ヶ月から十八ヶ月)と同じ時期が重要点となっている。
従って、鏡像段階において問題のなかった女性主体は、鏡像段階において問題のなかった男性主体とを比較すると、エディプスコンプレックスという比喩作用の増幅装置が曖昧な分(トラウマ度が低い分)「自意識の弱い人」となるが、アスペルガー症候群者と比較するなら、より根源的な鏡像段階における問題であるので、アスペルガー症候群者の方が本質的に「自意識の弱い人」となる。
要するに、女性主体傾向としての自意識の弱さの原因は、エディプスコンプレックスにあり、アスペルガー症候群の場合は、自意識の発生機制そのものにある、ということである。その発生規制が、情動交換の学習をも兼ねるため、非自閉症者の女性は問題なく情動交換ができるのに対し、アスペルガー症候群者はそれが不得意となってしまう。
ファルスとはペニスを意味する。即ち象徴的ファルスとは(一般的、普遍的な象徴構造における)男性性なるものの本質である。非男性性というものを考えれば、正常な女性よりアスペルガー症候群者の方が本質的なのだ。だからとらさんは、
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「女は存在しない」と言ったラカンに倣って言うならば、「アスペルガーやらスキゾやらアンテ・フェストゥム人間なんてのは【なおさら】存在しない」となることがw
(【】筆者による)
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と言ったのだ。
以上で、簡単ではあるが、「アスペルガーやスキゾイドや統合失調症や「男性と比較した場合の」女性や「大人と比較した場合の」子供」の内の、アスペ、スキゾ、女性性について、それぞれ述べたことになる。
次は統合失調症について述べておこう。スキゾイドとの比較を考察したわたしの記事や、斎藤環氏の自閉症との比較を考察した論文を参照して欲しい。
前者は、統合失調症者が、ラカン的な意味での幻想を構築する傾向があるのに比べ、スキゾイドは幻想を解体してしまうような印象がある、という論である。ここで言う幻想とは、この記事で言う「ネタ」や「コント」に該当するだろう。今のわたしならば、記事中の「穴」こそがアブジェクシオンである、と述べるだろうが。
後者で斎藤氏が強調する「同定認知」機能の象徴としての「顔」は、ラカン的な象徴的ファルスより、スターン的な間主観的自己感という概念で考えた方が理解しやすいだろう。
また以下の文章は、わたしの論と呼応する。
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こうしてみると、自閉症児の経験する「知覚変容体験」が、単なる持続時間の違いに限らず、分裂病者のそれとはかなり質的にも異なっていることが容易にみてとれる。自閉症児に一般的にみられる「知覚変容」には、分裂病者にみられるような、幻覚すれすれの加工の痕跡に乏しいのである。誤解を恐れずに言い切ってしまえば、分裂病者の知覚変容には生成的な傾向がみてとれるのに対し、自閉症児の知覚変容には物自体へと遡行するような傾向性がある。
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この論文は、器質的な問題視点を取っているため、シニフィアン連鎖としての幻想ではなく「知覚変容」となる。精神分析はシニフィアン連鎖を分析するものであるので、「分裂病や自閉症を前にして陥る失調ぶり」を演じてしまうのである。
残りの「子供」というシニフィアンについては、「退行」というシニフィアンを連鎖させれば、この記事を参照できるだろう。
短絡的に、「大人の方が子供より自意識が強い」という命題は真である、と言い切っていいほどだと思う。
文字数稼ぎがてら蛇足するなら、自意識の強度は、象徴的ファルスの比喩作用は、大人になるにつれオートポイエーシス的に産出されていく、と言ってよいかもしれない。
さて、ここでようやくアブジェクシオンという概念に接続できる。
クリステヴァはその著書『恐怖の権力』において、アブジェクシオンという概念における女性性と幼児性の重要さを説いている。
アブジェクシオンとは鏡像段階あるいは間主観的自己感の形成の、裏面であると書いた。そこで棄却されなかった幻想が一本化されたのが象徴的ファルスであり、自意識なる道路構造を、象徴界を形成する軸となる。
わたしはここで、アスペルガー症候群者やスキゾイドや女性や子供の反感を買うだろうことを承知で、ケガレという言葉を用いる。
アブジェクシオンとは、乳児期の母子一体的な状態という意味での、自分という境界の侵犯である。それはおぞましくも魅惑的な、両価的な情動と癒着している。これをケガレを言ってよいならば、わたしは、自他の融合とはケガレである、という表現をする。
そういう意味で、幾分言い方は悪いかもしれないが、自意識の弱い人たちは、原因はそれぞれでかつ進もうとしている方向も違えど、ケガレという両価的情動を惹起する領域に囚われている、と言えるだろう。
ケガレという領域は、弱かろうと強かろうと、自意識なるものがある時点で、常に既に棄却されやすいものである。棄却されることによって自意識が生成するのだから。「アスペルガー症候群」や「スキゾイド」や「女性」や「子供」というシニフィアンが持つシニフィエは、常に棄却されやすい特徴を持っている、ということになる。この棄却されることが、「子供時代はそのものとしてはもうない」や「女は存在しない」や「アスペやスキゾはなおさら存在しない」という表現に連鎖する。
この、アブジェクシオン的な意味での、棄却されるものとしてのケガレという概念を導入しない限り、自意識の弱い人たちの精神性は、語ることはできないとすら思える。彼ら彼女らが何故「存在しない」のか、何故必然的に被権力者になるのか、このことについて、常に説明不足となってしまうからだ。
……こんなところだろうか、今言いたいことは。
この記事で述べている「アスペルガーの大バーゲン」とは、本来「アスペルガー」という言葉が含意していたケガレ成分が、希薄化している状態を指す。それをわたしは、
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こうやって本質的被権力者たち=棄却されやすい者たち=存在しない者たちの居場所がどんどん失われていっているんだぞ。
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と書いた。
しかし、言葉など生き物なのだから、アングラ演劇が廃れてもネットでアングラ的な文化が栄えたように、グローバリズムのひずみとして9・11テロが起こったように、また違う言葉に、棄却されたケガレは回帰してくるのだろう。
いささか誤解を生む表現であると自覚しながら言うならば、物を喰って排便している限り、便所は清掃しても清掃しても汚れ続けるのだ。自意識の強い人には、この汚れが見えないだろう。ケガレを棄却する能力が高いのだから。結果、便所掃除は自意識の弱い人がすることになる。
記事中の「切断操作」なんてのも典型的なケガレの排除やね。女性性に対する切断操作は、たとえばレヴィ=ストロースの「女性の交換システム」になるのだろう。
とか言いつつ、ケガレを切断、排除、棄却することによって「(精神的な)個」なるものが定立する、と述べているのがアブジェクシオン論でもある。切断、排除、棄却しているから悪い、って短絡的な話じゃないのだ。自意識だって大事なものです。
ああ、胃が痛い。肛門と脳門が同時に締まっている。従って、中間にある胃に緊張が走る。適当に言ってるけど。頭も腰も痛い。
イタイ。
笙野関係にしろ、アスペ関係にしろ、わたしはわたしの触れてはいけないところに触れているようだ。パンサおばちゃんの『だいにっほんシリーズ三部作』の装丁についての解釈は、とても鋭いと思う。わたしは「異質」で「地獄」的な、グノーシス的と呼ぶのは多少躊躇われるが、そんな第二部に固執している。「自我なんてない、っていうかわからん!」と叫ぶ主人公いぶきに自分を喩えたりしている。火星人とは、自意識の弱い人々のことだと解釈している。
多分わたしは、わたしの主観世界においては、平均より自意識の弱い人間だと思えるが、アスペルガー症候群者たちより、自意識は強いと言えると思う。ヤマアラシならば、アスペやスキゾたちより、わたしの針は固く尖っているのだろう。そんなわたしが、わたしより針が脆弱なヤマアラシを抱こうとしている。彼らの血が、針を伝って皮膚に触れる。皮膚を侵食する。
これは、他者の痛みなどではない。アスペやスキゾたちの痛みがわかると言っているのではない。わたしはわたしの針に、自分の言葉に傷ついている。身勝手に。
涙が出そうだ。この涙を流しているわたしは、自意識の強いわたしだ。きれいな目をしたジャイアンのわたしだ。自意識の弱い人たちに対し権力を振るうわたしだ。傲慢な涙だ。そうとわかってあえて文字にしてしまうのは、なんの自己顕示だろう?
クリステヴァの著作タイトル。『初めに愛があった』などと言いたいのだろうか。自ら「うんこ」と呼んでいる自分の「言葉」を「愛」などにしてしまいたいのか。
キ モ チ ワ ル イ 。
自分が。セックスの最中に顔にゲロ吐かれたみたいだ。
分析家とは、クライアントの言葉を聞き取る小路である。神話に耳を傾けている時のレヴィ=ストロースである。分析家の欲望の存在は認めなくてはならないが、それが介入してはならない。
そんなのゴメンだ。
壊れた人形はもうイヤだ。
こんな言い方さえも、まるで水銀燈みたいで、マジキモイ。
アリスさんとか、ホントすげえと思う。アリスさんだけじゃなくて、そういうお子さんを育ててる方たちは、みんなすごい。前記事でロリコンオヤジなんてバカにしたけど、すごいと思う。イヤミでもなんでもなく。そう思うからこそロリコンだなんて揶揄したくなるのだ、という言い訳。
しんどい。でもそうしてしまう。そうなってしまう。
ああもう。わたし何やってるんだろう?
十川幸司氏という精神分析家が、精神分析学と芸術は兄弟だとし、何故なら同じように「不快」に向けて突き進むものだからである、というようなことを述べている(『精神分析 (思考のフロンティア)』より)。あまり鵜呑みにしてよい言葉とは思えないけれど、こんな自分の状態を見ていると納得しそうになる。
不快か……。
パス。小路。
しばらく休もう。そうしよう。ゲロぐらい拭かせろ。拭いてびっくり血反吐だった。あなたの? わたしの?
幻想構築。きれいな目をしたジャイアン召還。あれ、わたしの地球スーツどこいった?
ごめんよとらさんアリスさんパンサおばちゃん、トラバ荒しみたいになって。afcpさんもコメント欄汚してごめんなさい。
胃が痛い頭が痛い腰が痛いいろいろイタイ。
ごめんよロリコンオヤジもきらきらぼしさんもみんなごめんよ。
ああああもう。
だけどこうやって見返してみると、笙野の「私は金毘羅である」ってのは進化論的トートロジーのように思えてくる。選択した神が金毘羅だったから金毘羅が選択されたのだ、みたいな。キリストは「あなたは一体どういう方なのですか?」という問いに、「私がどういう者かは、アルケーから言っているではないか」と答えた。そりゃー神だわ神(半ば呆れながら)。
確信なんか、究極の一つがあればそれでいい。その過ちを犯してしまうと、パラノイアになる。パラノイア、いいじゃない。
びじゅっぐべぁ。
わたしってなんでこんなに弱いのかしら。自分自身に。あーやーうーどぅばっぐぼ(いつものことなので気にしないで下さい。汚言症のようなものです)。
はいはい、この記事の続きです。
とらさんが噛みついた獲物を奪う気はないが、そうでいいや、わたしはとらさんじゃないので、わたしが言いたいから言う。そういう話。だからわたしの意見をとらさんの意見と一緒くたに考えないでね、と釘を刺しておこう。外野の意見だ。
わたしが依拠するぶっといちんちんあるいは道具は、精神分析をテクストに応用したクリステヴァ的記号分析である。しかし、わたしのやっていることは「分析者の欲望の介入」もろ出しの、精神分析としては悪例となる行為だ。ごめんわたしの内面のうんこは無限らしい。某笙野ファンブログでの一件で大概疲れたと思ってたのになあ……。ああああもうやだやだやだやだ。他のブログでもやらかしてるし。こっちはブログ主関係ないからとっとと切り上げたいんだけどね。他ブログのアクセス数ばっか増やしてどうするわたし。デザートみたいなもの? 笙野議論で火がついて収まらない、ってカンジ? うへえ。なんてめんどい人格なんだろう。時の流れに身を任せて鎮まるのを待ちますか。
わたしのせいで精神分析嫌いが増えている気がするけど、そもそも精神分析なんて他人を精神的に切開するメスだし、心理学みたいに占い化するよりゃよっぽどマシっしょ。「わかりやすさの危険」ってこと。
そんな感じなので、反論とかではなく、むしろロジック主体の、即ち二次元的な、即ち他人事的な、最近の論のまとめみたいなものにしようと思う。ケンカ上等スタイルってなんか拍手少ないし(こういうところは気にしてしまう小市民)。
さて、今のわたしの脳内理屈体系は、主に精神分析学に依拠している。精神分析は器質因による精神疾患は語れない。従って自閉症というカテゴリにおいては語るものがない。まさに精神分析学という体系の中では、彼らは「存在しない」。とはいえ、アスペルガー症候群については、言語を用いる主体であるので、語れないことはない。アスペルガー症候群は内因性の障害である、という立場をわたしは取っている。内因とは器質因と心因の境界をグラデーション化させるための曖昧領域みたいなもので、そうであることを考えれば、スキゾイドは、内因性かもしれないが、心因性あるいは環境因性「寄り」の障害とし、アスペルガー症候群は器質因性「寄り」の障害とすることで、恣意的に区別することも可能なように思える。この区分に則るならば、スキゾイド症例の方が、精神分析的な問題である、となる。
先にも書いたように、今のわたしは基本クリステヴァ論者だ。なのでクリステヴァ論に沿って、そのアブジェクシオンという概念からの文脈による自他の融合としてのケガレという言葉を、アスペルガー症候群者という「存在自体である概念」を軸とする論に接続させることを目的として、論を述べていく。
アブジェクシオンとは自他(母子あるいは主観世界と主体)の融合(象徴的には「悪い乳房の取り込み」)というケガレを棄却することである。鈍感な大人になってしまったわたしたちは、自他の融合とは愛とかエロスとか美しいものだと思い込みがちだが、鏡像段階以前の乳児にとっては、否定性との融合となる。妄想分裂態勢だ。フロイトなら「憎しみは愛に先んずる」である。
アブジェクシオンという運動の真理的位置は、鏡像段階の裏面であると言ってよい。棄却しなかったものをラカンは説き、それを象徴的ファルスと呼んだわけだ。しかし様々な要因で、鏡像段階なりアブジェクシオンという運動に何か問題が起こることがある。こういう言い方は、「問題がないのが正常人」という正常人的立場に立って言っているだけであり、個人的には「問題」という言葉に違和感を覚える、というエクスキューズをしておく。しかし他に定型人とって伝わりやすい言葉が見当たらないので、そう言うことにする。
鏡像段階なりアブジェクシオンなりに問題がある人格を、あるいはそこで得る象徴的ファルスの比喩作用が弱い人格を、わたしは一括して「自我の弱い人間」と呼ぶことがある。この自我という言葉は精神分析理論においては間違った使い方である。とらさんのブログの言葉なら、この記事の「自意識」という言葉の方が消去法的に正しいように思える。これを踏まえて、他ブログで議論(と呼べないうんこの投げ合い)した時の文章をコピペする。おばちゃんごめんね再利用するよ。
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あるチャットで、こんな説明をしたことがある。
自我の強い人=確信したがり屋、確信して「しまう」傾向の強い人たち。結果、固定観念が強い傾向となる。
自我の弱い人=懐疑したがり屋、懐疑して「しまう」傾向の強い人たち。結果、固定観念が弱く、自由な発想が可能な傾向となる。
もちろんこの自我という言葉は、学問的屁理屈の上では間違った使い方だ。一般的なイメージのものとしての自我。チャットだからな、そんなもん。
前者タイプを称揚するのが近代的自我主義だな。「我思う故に我あり」なんかは象徴的だが、後者タイプのわたしが理屈を用いていうならば、それは「ない」という真実に対しての否認である、と言ったりできる。つまり無意識的に「ない」と感じているからこそ、わざわざこんなトートロジー的な文章を「述べなくてはならかった」のだと。
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また、
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先に言った自我の弱い人たちとは、アスペルガーやスキゾイドや統合失調症や「男性と比較した場合の」女性や「大人と比較した場合の」子供などのことであり、これらは近代においては、言語的社会では排除されてきた存在だ。何故なら少数派だから。固定観念から自由だから徒党を組めない。多数派のキミタチはみんな(構造的に)似たような固定観念を持っている。だから理解し合えて、徒党を組めるのだ。結果少数派は被権力者となる。
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この文章における「自我の強い人/自我の弱い人」は、先にも書いたようなことから、以降「自意識の強い人/自意識の弱い人」と言い換えることにする。
また、「アスペルガーやスキゾイドや統合失調症や「男性と比較した場合の」女性や「大人と比較した場合の」子供などの」自意識が弱い人のことを、アンテ・フェストゥム人間と大雑把に括ってもよいだろう。
この、多数派が持っている「(構造的に)似たような固定観念」こそが、アスペルガー症候群者に欠如していると言われている「心の理論」である。しかしそれは、自意識の弱い人から見れば、単なる多数派が共有する固定観念に過ぎない。象徴的ファルスの比喩作用という力で固定化されたシニフィアン群構造に過ぎない。
クリステヴァ的に言い換えるなら、セミオティックな領域を棄却できているからこそ、その領域が境界として機能し、内的にサンボリック(象徴界)が定立する。セミオティック領域が境界として、道路の縁石のように作用し、道路網のように大まかなロジック的構造が形成される。その道路地図が「心の理論」である、と言えるだろう。アスペルガー症候群者の道路網は、定型人より広範で粗密が激しいのだ。
レヴィ=ストロース風に表現してみよう。中沢新一氏は彼の神話公式を、メビウスの輪やクラインの壷に喩えている(『芸術人類学』より)。メビウスの輪のネジレ部分を排除したのが、「心の理論」であると言えよう。中沢の言葉を借りれば、対称性原理からアウラを剥ぎ取った体系が、対称性原理をコピー化したものの集合が「心の理論」である、と言える。一方、多神教的神話における、中沢論ならば秘密結社的な接し方なりという形で、原則として部分化できないという本質的意味を含意したネジレ部分、たとえばドラマツルギーの起承転結で言うならば転の領域に、常に付き纏われているのが、囚われているのが、自意識の弱い人である、と言える。これは、スキゾイドの特徴である神秘主義的、自然主義的傾向と繋がるだろう。宗教で喩えるなら、密教思想やグノーシス思想が、ちょうどよいシンボルとなるかもしれない。そういえば密教も現世利益説いてて国家鎮守で薬師如来信仰だよな、確か。台密東密とかはよくわからんが。わたしは、ここのコメントにも書いてあるように、笙野頼子氏の宗教観を顕教的なものに連鎖させることについて、強い違和感、警戒感を覚える。密教的世界と顕教的世界の融合などという短絡的な言葉で語れる問題ではないと思う。最近キリスト教に興味持ち始めてるみたいだけど。ちなみにわたしは笙野ファンブログ記事中の、
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百合子はこのみたこに仏教、キリスト教を習合させ百八十度転換の対抗宗教にしたのである。
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などは、まさしくグノーシスの「現存在の姿勢」主義にしか見えない。マニ教みたいだ。
とか言いながらわたしの「物が悪意である」なんてのもとってもグノーシス的で呆れ笑ってしまう。
どうでもよい話だった。
この記事では、アンテ・フェストゥム人間は、間主観的自己感なり象徴的ファルス(の比喩作用)なりという鎧が、比較的弱いため、ディスクールや、社会的生活などという(象徴界と想像界の重なりとしての)意味体系においては、常に被害者となってしまう、常に存在しなくなってしまう、としている。
しかし、象徴的ファルスの発生機制たる鏡像段階は、男女共通である。従って、男性主体傾向と女性主体傾向の、象徴的ファルスの比喩作用の強度差の原因は、(鏡像段階の回帰としての)エディプスコンプレックスにあると言えるだろう。生物学的性差に基づいて主体に課せられた、「女」というシニフィアン(の連鎖の仕方)に問題があると言うこともできる。また、男性性の本質としての象徴的ファルスを得る鏡像段階自体は女性にもあるという理屈から、「女性は女性でもあり男性でもある」などとも表現可能だろう。先の笙野ファンブログコメントから引用しておく。
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この場合の「女」とは、集合としての全体を意味するが、精神分析では無意識という無限の領域を設定しているため、無限の全体集合は存在しないことと同値となる。蚊の大群を想像してみそ。大体この辺に集まっているという領域が男で、それ以外の無限に広がる空間も含めるのが女だ。つまり、領域としては存在しなくなるだろ。「女性は存在しない」「女性は暗黒大陸だ」というのはそういう意味だ。
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この「大体この辺に集まっているという領域」の中心軸が象徴的ファルスである。
また、エディプスコンプレックス期の精神発達における男女差を述べたこの記事からも、少し引用しておく。
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精神的な人格形成から鑑みても、女性は知に対して軽やかな態度を取ることが可能なのである。
「男って単純」という言葉は、実は真理なのかもしれない。
象徴的ファルスの存在を信じて(トラウマ的に)そこに突き進むのが男性ならば、そこにファルスがないことを(直感的に)知りつつ、大文字の他者の海を漂いながらそれを包み込むようにいるのが女性なのである。
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では何故女性は、男性やアスペルガー症候群者と比べ、「傾向的に」象徴界的能力が低いと言われているのだろう? それは、「女」に纏わるシニフィアン連鎖の裏に潜むものが、断頭コンプレックスを誘引し、それを通過するからである。ここではそう簡単に述べるに留めておく。
一方、スキゾイドはよくわからないが、少なくともアスペルガー症候群については、スターン論による間主観的自己感の形成期において、内因性にしろなんにしろ、何か問題(先に書いたような意味での「問題」である)が起きているのではないか、という論がある。乳児はこの間主観的自己感の形成期において、養育者の情動を物真似する。情動表現を学習するのだ。アスペルガー症候群者が、定型人たちの間で行われる情動の交換を理解できない、即ち「空気が読めない」原因である。
この論に倣うならば、生後六、七ヶ月以降から十五あるいは十八ヶ月までと、発育時期を同じくする鏡像段階、即ち象徴的ファルスを所有する過程に問題が起きていると言い換えることが可能だろう。ちなみに「心の理論」の発達も、鏡像段階(生後六ヶ月から十八ヶ月)と同じ時期が重要点となっている。
従って、鏡像段階において問題のなかった女性主体は、鏡像段階において問題のなかった男性主体とを比較すると、エディプスコンプレックスという比喩作用の増幅装置が曖昧な分(トラウマ度が低い分)「自意識の弱い人」となるが、アスペルガー症候群者と比較するなら、より根源的な鏡像段階における問題であるので、アスペルガー症候群者の方が本質的に「自意識の弱い人」となる。
要するに、女性主体傾向としての自意識の弱さの原因は、エディプスコンプレックスにあり、アスペルガー症候群の場合は、自意識の発生機制そのものにある、ということである。その発生規制が、情動交換の学習をも兼ねるため、非自閉症者の女性は問題なく情動交換ができるのに対し、アスペルガー症候群者はそれが不得意となってしまう。
ファルスとはペニスを意味する。即ち象徴的ファルスとは(一般的、普遍的な象徴構造における)男性性なるものの本質である。非男性性というものを考えれば、正常な女性よりアスペルガー症候群者の方が本質的なのだ。だからとらさんは、
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「女は存在しない」と言ったラカンに倣って言うならば、「アスペルガーやらスキゾやらアンテ・フェストゥム人間なんてのは【なおさら】存在しない」となることがw
(【】筆者による)
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と言ったのだ。
以上で、簡単ではあるが、「アスペルガーやスキゾイドや統合失調症や「男性と比較した場合の」女性や「大人と比較した場合の」子供」の内の、アスペ、スキゾ、女性性について、それぞれ述べたことになる。
次は統合失調症について述べておこう。スキゾイドとの比較を考察したわたしの記事や、斎藤環氏の自閉症との比較を考察した論文を参照して欲しい。
前者は、統合失調症者が、ラカン的な意味での幻想を構築する傾向があるのに比べ、スキゾイドは幻想を解体してしまうような印象がある、という論である。ここで言う幻想とは、この記事で言う「ネタ」や「コント」に該当するだろう。今のわたしならば、記事中の「穴」こそがアブジェクシオンである、と述べるだろうが。
後者で斎藤氏が強調する「同定認知」機能の象徴としての「顔」は、ラカン的な象徴的ファルスより、スターン的な間主観的自己感という概念で考えた方が理解しやすいだろう。
また以下の文章は、わたしの論と呼応する。
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こうしてみると、自閉症児の経験する「知覚変容体験」が、単なる持続時間の違いに限らず、分裂病者のそれとはかなり質的にも異なっていることが容易にみてとれる。自閉症児に一般的にみられる「知覚変容」には、分裂病者にみられるような、幻覚すれすれの加工の痕跡に乏しいのである。誤解を恐れずに言い切ってしまえば、分裂病者の知覚変容には生成的な傾向がみてとれるのに対し、自閉症児の知覚変容には物自体へと遡行するような傾向性がある。
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この論文は、器質的な問題視点を取っているため、シニフィアン連鎖としての幻想ではなく「知覚変容」となる。精神分析はシニフィアン連鎖を分析するものであるので、「分裂病や自閉症を前にして陥る失調ぶり」を演じてしまうのである。
残りの「子供」というシニフィアンについては、「退行」というシニフィアンを連鎖させれば、この記事を参照できるだろう。
短絡的に、「大人の方が子供より自意識が強い」という命題は真である、と言い切っていいほどだと思う。
文字数稼ぎがてら蛇足するなら、自意識の強度は、象徴的ファルスの比喩作用は、大人になるにつれオートポイエーシス的に産出されていく、と言ってよいかもしれない。
さて、ここでようやくアブジェクシオンという概念に接続できる。
クリステヴァはその著書『恐怖の権力』において、アブジェクシオンという概念における女性性と幼児性の重要さを説いている。
アブジェクシオンとは鏡像段階あるいは間主観的自己感の形成の、裏面であると書いた。そこで棄却されなかった幻想が一本化されたのが象徴的ファルスであり、自意識なる道路構造を、象徴界を形成する軸となる。
わたしはここで、アスペルガー症候群者やスキゾイドや女性や子供の反感を買うだろうことを承知で、ケガレという言葉を用いる。
アブジェクシオンとは、乳児期の母子一体的な状態という意味での、自分という境界の侵犯である。それはおぞましくも魅惑的な、両価的な情動と癒着している。これをケガレを言ってよいならば、わたしは、自他の融合とはケガレである、という表現をする。
そういう意味で、幾分言い方は悪いかもしれないが、自意識の弱い人たちは、原因はそれぞれでかつ進もうとしている方向も違えど、ケガレという両価的情動を惹起する領域に囚われている、と言えるだろう。
ケガレという領域は、弱かろうと強かろうと、自意識なるものがある時点で、常に既に棄却されやすいものである。棄却されることによって自意識が生成するのだから。「アスペルガー症候群」や「スキゾイド」や「女性」や「子供」というシニフィアンが持つシニフィエは、常に棄却されやすい特徴を持っている、ということになる。この棄却されることが、「子供時代はそのものとしてはもうない」や「女は存在しない」や「アスペやスキゾはなおさら存在しない」という表現に連鎖する。
この、アブジェクシオン的な意味での、棄却されるものとしてのケガレという概念を導入しない限り、自意識の弱い人たちの精神性は、語ることはできないとすら思える。彼ら彼女らが何故「存在しない」のか、何故必然的に被権力者になるのか、このことについて、常に説明不足となってしまうからだ。
……こんなところだろうか、今言いたいことは。
この記事で述べている「アスペルガーの大バーゲン」とは、本来「アスペルガー」という言葉が含意していたケガレ成分が、希薄化している状態を指す。それをわたしは、
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こうやって本質的被権力者たち=棄却されやすい者たち=存在しない者たちの居場所がどんどん失われていっているんだぞ。
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と書いた。
しかし、言葉など生き物なのだから、アングラ演劇が廃れてもネットでアングラ的な文化が栄えたように、グローバリズムのひずみとして9・11テロが起こったように、また違う言葉に、棄却されたケガレは回帰してくるのだろう。
いささか誤解を生む表現であると自覚しながら言うならば、物を喰って排便している限り、便所は清掃しても清掃しても汚れ続けるのだ。自意識の強い人には、この汚れが見えないだろう。ケガレを棄却する能力が高いのだから。結果、便所掃除は自意識の弱い人がすることになる。
記事中の「切断操作」なんてのも典型的なケガレの排除やね。女性性に対する切断操作は、たとえばレヴィ=ストロースの「女性の交換システム」になるのだろう。
とか言いつつ、ケガレを切断、排除、棄却することによって「(精神的な)個」なるものが定立する、と述べているのがアブジェクシオン論でもある。切断、排除、棄却しているから悪い、って短絡的な話じゃないのだ。自意識だって大事なものです。
ああ、胃が痛い。肛門と脳門が同時に締まっている。従って、中間にある胃に緊張が走る。適当に言ってるけど。頭も腰も痛い。
イタイ。
笙野関係にしろ、アスペ関係にしろ、わたしはわたしの触れてはいけないところに触れているようだ。パンサおばちゃんの『だいにっほんシリーズ三部作』の装丁についての解釈は、とても鋭いと思う。わたしは「異質」で「地獄」的な、グノーシス的と呼ぶのは多少躊躇われるが、そんな第二部に固執している。「自我なんてない、っていうかわからん!」と叫ぶ主人公いぶきに自分を喩えたりしている。火星人とは、自意識の弱い人々のことだと解釈している。
多分わたしは、わたしの主観世界においては、平均より自意識の弱い人間だと思えるが、アスペルガー症候群者たちより、自意識は強いと言えると思う。ヤマアラシならば、アスペやスキゾたちより、わたしの針は固く尖っているのだろう。そんなわたしが、わたしより針が脆弱なヤマアラシを抱こうとしている。彼らの血が、針を伝って皮膚に触れる。皮膚を侵食する。
これは、他者の痛みなどではない。アスペやスキゾたちの痛みがわかると言っているのではない。わたしはわたしの針に、自分の言葉に傷ついている。身勝手に。
涙が出そうだ。この涙を流しているわたしは、自意識の強いわたしだ。きれいな目をしたジャイアンのわたしだ。自意識の弱い人たちに対し権力を振るうわたしだ。傲慢な涙だ。そうとわかってあえて文字にしてしまうのは、なんの自己顕示だろう?
クリステヴァの著作タイトル。『初めに愛があった』などと言いたいのだろうか。自ら「うんこ」と呼んでいる自分の「言葉」を「愛」などにしてしまいたいのか。
キ モ チ ワ ル イ 。
自分が。セックスの最中に顔にゲロ吐かれたみたいだ。
分析家とは、クライアントの言葉を聞き取る小路である。神話に耳を傾けている時のレヴィ=ストロースである。分析家の欲望の存在は認めなくてはならないが、それが介入してはならない。
そんなのゴメンだ。
壊れた人形はもうイヤだ。
こんな言い方さえも、まるで水銀燈みたいで、マジキモイ。
アリスさんとか、ホントすげえと思う。アリスさんだけじゃなくて、そういうお子さんを育ててる方たちは、みんなすごい。前記事でロリコンオヤジなんてバカにしたけど、すごいと思う。イヤミでもなんでもなく。そう思うからこそロリコンだなんて揶揄したくなるのだ、という言い訳。
しんどい。でもそうしてしまう。そうなってしまう。
ああもう。わたし何やってるんだろう?
十川幸司氏という精神分析家が、精神分析学と芸術は兄弟だとし、何故なら同じように「不快」に向けて突き進むものだからである、というようなことを述べている(『精神分析 (思考のフロンティア)』より)。あまり鵜呑みにしてよい言葉とは思えないけれど、こんな自分の状態を見ていると納得しそうになる。
不快か……。
パス。小路。
しばらく休もう。そうしよう。ゲロぐらい拭かせろ。拭いてびっくり血反吐だった。あなたの? わたしの?
幻想構築。きれいな目をしたジャイアン召還。あれ、わたしの地球スーツどこいった?
ごめんよとらさんアリスさんパンサおばちゃん、トラバ荒しみたいになって。afcpさんもコメント欄汚してごめんなさい。
胃が痛い頭が痛い腰が痛いいろいろイタイ。
ごめんよロリコンオヤジもきらきらぼしさんもみんなごめんよ。
ああああもう。
だけどこうやって見返してみると、笙野の「私は金毘羅である」ってのは進化論的トートロジーのように思えてくる。選択した神が金毘羅だったから金毘羅が選択されたのだ、みたいな。キリストは「あなたは一体どういう方なのですか?」という問いに、「私がどういう者かは、アルケーから言っているではないか」と答えた。そりゃー神だわ神(半ば呆れながら)。
確信なんか、究極の一つがあればそれでいい。その過ちを犯してしまうと、パラノイアになる。パラノイア、いいじゃない。
びじゅっぐべぁ。