アスペルガー症候群者の「フレーム問題」
2008/05/07/Wed
前記事の続き。あえて二次元的、象徴界主義的な視点から述べる。
むしろ言葉を使っている限り、そこにあるものは二次元的に、言語ゲーム的にならざるを得ない。だからこそ人間は二次元からこぼれ落ちたものに執着する。二次元にないものを欲望する。言葉じゃなければ良いということではない。象徴的ファルスを手にしてしまうと、見たもの聞いたものほとんどを象徴化してしまう。味覚や触覚もそうだ。嗅覚でさえも視覚聴覚ほどではないだろうが象徴化されている。即ち、あくまでも比喩的な言い方だと断っておくが、左脳が作動している。
非言語ではあるが、左脳的処理を施されたもの、象徴化されたものを含めるのが、ラカン論におけるシニフィアンという概念である。元ネタのソシュール的な意味だけで考えると、ラカン論は理解できない。ラカン論における「シニフィアンを用いるのが人間の特徴である」というテーマは、言語を喋らない人間は人間とは言えない、などという意味ではない。
左脳が作動するからこそ、人はそれを記憶できる。体系化できる。構造化できる。この構造が、セミオティックな領域を比喩する。刺激する。象徴的ファルスの裏面たるアブジェクシオンがトラウマ的に回帰する。心に刻みつけられる。
ラカンはそれを対象aと呼んだ。だから対象aを「余剰物」と、聖人を「屑」と表現しているのだ。「余剰物」にしろ「屑」にしろ、それらの意味連鎖に共通しているのは、「棄却されたもの」である。わたしはそれを、ケガレと表現する。「余剰物」や「屑」というシニフィアンに、「棄却されたもの」としての、アブジェクシオン的な意味でのケガレを連鎖させない限り、それらの言葉の背景にある構造は読み解けない。そこで交わされるディスクールは、二次元での戯れでしか過ぎなくなる。脱臼し続ける。最近のわたしは、むしろ脱臼したい。意味のないお喋りに戯れたい。四コママンガみたいな、鈍感でなあなあでキレイキレイな世界を生きていたい。二次元から落ちたくない。人形でいたい。そんなことはどうでもいい。
「余剰物」や「屑」という言葉だけでは、何故「糞便」が対象aのシンボルとなるのか、理解できないだろう。それらのシニフィアンは、ケガレ的な意味作用が弱いからだ。
潔癖症者は、二次元でしか生きられない。彼らがいくら相対主義的言葉を述べても、それは口先だけの言葉である。コントでしかない。本当の相対主義的世界は、自他の融合の本質たるケガレと隣接する世界にある。
前置きが長くなった。以上の文章はあくまで前置きである。
この記事を読んで欲しい。引用する。
=====
「フレーム問題」が示すのは、有限の情報処理能力しかないロボットは、無限の可能性がある現実の前に解を収束できない、という当然の帰結である。しかし問題は人間の日常が同様な状況にあるにも関わらず、「フリーズ」せずに行為できているということだ。
=====
次に、この記事を読んで欲しい。
勘のいい方はもうおわかりだろう。アスペルガー症候群者は、まさに「無限の可能性がある現実の前に解を収束できない」世界を生きているのだ。
「フリーズ」という言葉も象徴的である。アスペルガー症候群者の症状特徴としてそれは存在する。この記事(pdf注意)から引用しよう。
=====
人の心情にこたえるような対応や返事を期待しても、何も返ってこないことがあります。このような場面では、そのまま動きが止まってしまう(フリーズしてしまう)こともあれば、
=====
アスペルガー症候群という人格を、ロボットという物体に喩えることに不満を感じる関係者もいるかもしれない。しかしそれは障害の特徴としてあるものだ。この記事から引用しよう。
=====
誤解を恐れずに言い切ってしまえば、分裂病者の知覚変容には生成的な傾向がみてとれるのに対し、自閉症児の知覚変容には物自体へと遡行するような傾向性がある。
=====
「物自体へと遡行するような」印象があるとはいえ、もちろんアスペルガー症候群者も人間である。ロボットのように一律にフリーズしてしまうわけではない。フリーズしない代わりに、パニックを起こしたり、攻撃的にそれを表現したりする。
物自体へと遡行する主体が、フリーズしか知らなければ、それはそれこそpikarrr氏の記事中の「責任」を持たない「コンビニのバイト」となろう。
この記事でわたしは、ポモとはスキゾイドじゃない人間もスキゾイドになりたがる傾向である、と書いた。しかし「ひきこもり」にしろ「オタク文化」にしろ「アヴァン・ポップ」にしろ、彼らのスキゾ化あるいは相対主義者化は失敗している。何故なら、彼らにはフリーズしか見えていないからだ。もう一つの側面であるパニックや攻撃性が見えていないのだ。
和田秀樹氏の解釈による「メランコ人間/シゾフレ人間」 も象徴的である。彼はシゾフレ人間について「周囲との同調」を特徴として挙げている。周囲と同調できないから、アスペルガー症候群者は、スキゾイドは、自閉的な症状を示すのである。統合失調症者も、自意識が破壊されているため、周囲と同調できない。周囲と同調するための、共有すべき幻想を共有できない。和田氏の論は、共同幻想を共有できる人間についてしか述べられていない。シゾフレという言葉を用いてはいるが、そこにアスペやスキゾや統合失調症や女性や子供は存在していない。つまり和田氏の示す「シゾフレ人間」こそが、「「スキゾ的仮面」を被る若者たち」と言えよう。
この記事ならば、
=====
多くの分裂病質の人は、ローマ風の家屋、まぶしく輝く太陽の下にさらされながら鎧戸を固く閉じている別荘のようなものである。しかも、その内部では薄暗い内光の下に祭宴が催されているのである。
=====
の、「薄暗い内光の下に」催されている「祭宴」を、彼らは知らない。それは、
=====
小羊のように温順な、内気な少女が幾月も町で奉公している。彼女は誰に対してもやさしく従順である。ある朝のこと、この家の3人の子供たちが殺害されている。家は焔に包まれている。彼女の精神に異常はない。何もかも承知しているのである。そして犯行を白状しながら、あいまいに微笑する。
他の例――ひとりの青年が美しい青春時代をぼんやりすごしている。彼の動きは大そう鈍くぎこちないので、ゆすぶってやりたいほどである。馬に乗せると落ちてしまう。彼は当惑して、幾分皮肉な微笑をうかべる。彼は何もいわない。ある日彼の手で一冊の詩集が出版される。それには実に繊細な自然の気分がうたわれている。また彼に荒っぽい腕白小僧が加えた乱暴の数々が、内的悲劇として取り扱われており、しかも詩はととのった磨きあげられた韻律をそなえている。
=====
と述べられているように、子殺しや放火や内的悲劇という象徴で表されるような「祭宴」である。
フリーズを、言葉や動きが止まってしまう、即ち無化してしまうことだと考え、パニックや攻撃性を、彼らなりの妄想分裂態勢的な、自他融合的な否定性であると捉えるならば、この記事が参照できよう。スキゾイドならば、彼らの特徴である感情の「無さ」と「薄暗い内光の下に催されている祭宴」が、「無的な自分」と「妄想分裂態勢的な、自他融合的な否定性」の象徴になるだろう。
即ち、アスペのフリーズという無的側面しか見えていない人間がスキゾ化を目指しても、途中で立ち止まってフェティシストになるか、行き着いても強迫症か男性的抑鬱症である、と言える。その症例は、わたしは若いオタクたちが集まるサイトでたくさん見ている。
ここで、pikarrr氏の言葉を真似るならば、何故(アスペルガー症候群者やスキゾイドではない)定型人には「フレーム問題」は起こらないのか、という問いが発生する。
pikarrr氏はその答えに「せき立て」というラカン用語を設置している。同意できる。わたしの言葉ならば、象徴的ファルスの比喩作用の内の、生の欲動的方向、即ち物自体へと遡行する方向と逆の、幻想を構築する方向のものである、となるだろう。
わたしは以前、オタク文化解析で、「パラノ/スキゾ」という二項軸を活用した。そこで、浅田彰氏が用いたスキゾフレニーとしての「スキゾ」ではなく、スキゾイドという意味であることを強調した。パラノが生の欲動的な幻想(妄想)を構築する方向であるなら、スキゾは死の欲動的な幻想を解体する、それこそ物自体へと遡行する方向である。しかし、先の斎藤氏の論文にあるように、統合失調症者は、なんらかの原因で物自体的な世界(わたしの言葉なら「物が悪意になっている世界」)に「落ちて」しまうが、そこから這い上がるかのように、生の欲動方向に、幻想を構築する傾向がある。このことからも、スキゾという言葉に、スキゾフレニー(統合失調症)ではなく、アスペルガー症候群と親近するスキゾイドを当てはめるのが妥当であることがわかるだろう。
pikarrr氏の記事に戻る。
=====
このような「オレがやらねば誰がやる」というような能動的な行為も、「社会的な責任」というときには、暗黙の圧力として「せき立て」られている受動的な行為である。人は無限の可能性を計算する前に、間違っていても決定しなければならないという「せき立て」の状態にある。
=====
わたしの言葉で言い直すならば、「社会的な責任」なりという幻想を、生の欲動に従って構築するから、定型人にはフレーム問題が起こらないのだ、となる。
フレーム問題が起きてしまうアスペルガー症候群者は、
=====
たとえば「おはよう」と言われて、ただ黙っていると、「無視」という意味を発していることになり、かなりの不快感を与えてしまう。
=====
これが彼らの、幻想を解体してしまうような印象となっている。
せき立てという生の欲動に固執する多数派の人間、即ち定型人たちは、
=====
「みんなの考え」を指し示すことで、人々をフリーズから解放し、「責任へのせき立て」の行き先を誘導してあげている。
=====
ことにより、
=====
最近、「KY」などの言葉がはやり、「空気を読む」ということに敏感である、とされる。社会の価値が多様で、流動性が向上することで人々の中に「常識」としての共通の基盤がなくなりつつあり、その場その場で、基盤としての空気を確認することが求められるためだと言われる。
=====
という「社会的現実(リアリティ)」を、共同幻想を作り上げている。それは、たとえばアスペルガー症候群者のような「空気が読めない」人間を棄却して得られる幻想である。それが幻想だからこそ、
=====
みなが「責任へのせき立て」の義務を果たしている。人工知能が陥る無限後退という「外傷的な現実(リアル)」は覆い隠され、「社会的現実(リアリティ)」が共有されているように振る舞われる。なぜ人間には「フレーム問題」は起こらないのか、ではなく、「フレーム問題」こそが人間の現実(リアリティ)の成立条件になっているということだ。
=====
即ち、フレーム問題に常に纏わりつかれているアスペルガー症候群者は、「人間の現実(リアリティ)の成立条件」のさなかを生きている、ということになる。だからアスペルガー症候群者は、「定型人の現実(リアリティ)」を、「コント」や「ネタ」だと表現するのだ。
この記事のコメント欄から引用する。
=====
対人関係は鏡のようなものなんだけれど、相手が自閉症者だと、その鏡は気を使ってくれないというか、【生々しいもの】を映してくれますね。
(【】は筆者による)
=====
この「生々しいもの」こそが、パニックや攻撃性に象徴される、「外傷的な現実(リアル)」であり、現実界という「命のしかめっ面」である。この記事で
=====
この投影同一化は自分を根拠づける間主観的自己感なり言語的自己感を揺り動かし脅かすものである。揺り動かされ脅かされるからこそ、新たな創造が生じるのだが。
ともかく、間主観的自己感や言語的自己感の形成期を通常に通過した一般人から見ると、投影同一化的傾向がある人は、幼児的に思われると同時に畏れられてしまう、ということである。アンビバレントな感情を引き起こす対象となることが多いのだ。結果、一般人から見ると、そういう人たちは不快に思われてしまうことが多くなるわけだ。
=====
と述べているところの、「創造」の源泉たる「不快」である。
それは不快だから定型人は棄却する。現実(リアル)ではなく幻想を生きたがる。この不快を棄却することがアブジェクシオンであり、棄却されるものという意味を付加したものがアブジェクトである。わたしは、このアブジェクトから比喩連鎖するものを包括して、ケガレと呼んでいる。それは、言語的な体系から、二次元から棄却されやすいものである。たとえば先の斎藤氏の論文ならば、
=====
また皮膚科の診断を言語的記述のみで再現することはほとんど不可能である。このあたりの事情は程度の差こそあれ、各科に共通するものであり、わが精神科も例外ではない。分裂病診断における「プレコックス感」の有用性がいまだ廃れていないのもこのためである。およそプレコックス感ほど、表象=再現前化になじまない感覚はないであろう。
=====
の「プレコックス感」が象徴的であると言えよう。それが「生々しい」ケガレだからこそ、二次元から棄却されやすいからこそ、「表象=再現前化になじまない」のである。表象から棄却されてしまうのだ。存在しなくなるのだ。
あん、引用ばっかで長くなってしまった……。そらパパさんの件にちょっと触れようと思ったけど話それたからまた今度。
私信。
ドードーとらさんところ引用しまくりでトラバ送りまくることになるので今回はしません。
アリスさんご心配ありがとう。B型なので多分大丈夫です。
とらさんすみません。「外傷的な現実(リアル)」たる三次元には、少し疲れてしまいました。しばらく二次元に安寧します。
安寧の日記(さー殴るがいい)。
5/28、記事中「アスペルガー症候群者のような~」にリンク追加。
むしろ言葉を使っている限り、そこにあるものは二次元的に、言語ゲーム的にならざるを得ない。だからこそ人間は二次元からこぼれ落ちたものに執着する。二次元にないものを欲望する。言葉じゃなければ良いということではない。象徴的ファルスを手にしてしまうと、見たもの聞いたものほとんどを象徴化してしまう。味覚や触覚もそうだ。嗅覚でさえも視覚聴覚ほどではないだろうが象徴化されている。即ち、あくまでも比喩的な言い方だと断っておくが、左脳が作動している。
非言語ではあるが、左脳的処理を施されたもの、象徴化されたものを含めるのが、ラカン論におけるシニフィアンという概念である。元ネタのソシュール的な意味だけで考えると、ラカン論は理解できない。ラカン論における「シニフィアンを用いるのが人間の特徴である」というテーマは、言語を喋らない人間は人間とは言えない、などという意味ではない。
左脳が作動するからこそ、人はそれを記憶できる。体系化できる。構造化できる。この構造が、セミオティックな領域を比喩する。刺激する。象徴的ファルスの裏面たるアブジェクシオンがトラウマ的に回帰する。心に刻みつけられる。
ラカンはそれを対象aと呼んだ。だから対象aを「余剰物」と、聖人を「屑」と表現しているのだ。「余剰物」にしろ「屑」にしろ、それらの意味連鎖に共通しているのは、「棄却されたもの」である。わたしはそれを、ケガレと表現する。「余剰物」や「屑」というシニフィアンに、「棄却されたもの」としての、アブジェクシオン的な意味でのケガレを連鎖させない限り、それらの言葉の背景にある構造は読み解けない。そこで交わされるディスクールは、二次元での戯れでしか過ぎなくなる。脱臼し続ける。最近のわたしは、むしろ脱臼したい。意味のないお喋りに戯れたい。四コママンガみたいな、鈍感でなあなあでキレイキレイな世界を生きていたい。二次元から落ちたくない。人形でいたい。そんなことはどうでもいい。
「余剰物」や「屑」という言葉だけでは、何故「糞便」が対象aのシンボルとなるのか、理解できないだろう。それらのシニフィアンは、ケガレ的な意味作用が弱いからだ。
潔癖症者は、二次元でしか生きられない。彼らがいくら相対主義的言葉を述べても、それは口先だけの言葉である。コントでしかない。本当の相対主義的世界は、自他の融合の本質たるケガレと隣接する世界にある。
前置きが長くなった。以上の文章はあくまで前置きである。
この記事を読んで欲しい。引用する。
=====
「フレーム問題」が示すのは、有限の情報処理能力しかないロボットは、無限の可能性がある現実の前に解を収束できない、という当然の帰結である。しかし問題は人間の日常が同様な状況にあるにも関わらず、「フリーズ」せずに行為できているということだ。
=====
次に、この記事を読んで欲しい。
勘のいい方はもうおわかりだろう。アスペルガー症候群者は、まさに「無限の可能性がある現実の前に解を収束できない」世界を生きているのだ。
「フリーズ」という言葉も象徴的である。アスペルガー症候群者の症状特徴としてそれは存在する。この記事(pdf注意)から引用しよう。
=====
人の心情にこたえるような対応や返事を期待しても、何も返ってこないことがあります。このような場面では、そのまま動きが止まってしまう(フリーズしてしまう)こともあれば、
=====
アスペルガー症候群という人格を、ロボットという物体に喩えることに不満を感じる関係者もいるかもしれない。しかしそれは障害の特徴としてあるものだ。この記事から引用しよう。
=====
誤解を恐れずに言い切ってしまえば、分裂病者の知覚変容には生成的な傾向がみてとれるのに対し、自閉症児の知覚変容には物自体へと遡行するような傾向性がある。
=====
「物自体へと遡行するような」印象があるとはいえ、もちろんアスペルガー症候群者も人間である。ロボットのように一律にフリーズしてしまうわけではない。フリーズしない代わりに、パニックを起こしたり、攻撃的にそれを表現したりする。
物自体へと遡行する主体が、フリーズしか知らなければ、それはそれこそpikarrr氏の記事中の「責任」を持たない「コンビニのバイト」となろう。
この記事でわたしは、ポモとはスキゾイドじゃない人間もスキゾイドになりたがる傾向である、と書いた。しかし「ひきこもり」にしろ「オタク文化」にしろ「アヴァン・ポップ」にしろ、彼らのスキゾ化あるいは相対主義者化は失敗している。何故なら、彼らにはフリーズしか見えていないからだ。もう一つの側面であるパニックや攻撃性が見えていないのだ。
和田秀樹氏の解釈による「メランコ人間/シゾフレ人間」 も象徴的である。彼はシゾフレ人間について「周囲との同調」を特徴として挙げている。周囲と同調できないから、アスペルガー症候群者は、スキゾイドは、自閉的な症状を示すのである。統合失調症者も、自意識が破壊されているため、周囲と同調できない。周囲と同調するための、共有すべき幻想を共有できない。和田氏の論は、共同幻想を共有できる人間についてしか述べられていない。シゾフレという言葉を用いてはいるが、そこにアスペやスキゾや統合失調症や女性や子供は存在していない。つまり和田氏の示す「シゾフレ人間」こそが、「「スキゾ的仮面」を被る若者たち」と言えよう。
この記事ならば、
=====
多くの分裂病質の人は、ローマ風の家屋、まぶしく輝く太陽の下にさらされながら鎧戸を固く閉じている別荘のようなものである。しかも、その内部では薄暗い内光の下に祭宴が催されているのである。
=====
の、「薄暗い内光の下に」催されている「祭宴」を、彼らは知らない。それは、
=====
小羊のように温順な、内気な少女が幾月も町で奉公している。彼女は誰に対してもやさしく従順である。ある朝のこと、この家の3人の子供たちが殺害されている。家は焔に包まれている。彼女の精神に異常はない。何もかも承知しているのである。そして犯行を白状しながら、あいまいに微笑する。
他の例――ひとりの青年が美しい青春時代をぼんやりすごしている。彼の動きは大そう鈍くぎこちないので、ゆすぶってやりたいほどである。馬に乗せると落ちてしまう。彼は当惑して、幾分皮肉な微笑をうかべる。彼は何もいわない。ある日彼の手で一冊の詩集が出版される。それには実に繊細な自然の気分がうたわれている。また彼に荒っぽい腕白小僧が加えた乱暴の数々が、内的悲劇として取り扱われており、しかも詩はととのった磨きあげられた韻律をそなえている。
=====
と述べられているように、子殺しや放火や内的悲劇という象徴で表されるような「祭宴」である。
フリーズを、言葉や動きが止まってしまう、即ち無化してしまうことだと考え、パニックや攻撃性を、彼らなりの妄想分裂態勢的な、自他融合的な否定性であると捉えるならば、この記事が参照できよう。スキゾイドならば、彼らの特徴である感情の「無さ」と「薄暗い内光の下に催されている祭宴」が、「無的な自分」と「妄想分裂態勢的な、自他融合的な否定性」の象徴になるだろう。
即ち、アスペのフリーズという無的側面しか見えていない人間がスキゾ化を目指しても、途中で立ち止まってフェティシストになるか、行き着いても強迫症か男性的抑鬱症である、と言える。その症例は、わたしは若いオタクたちが集まるサイトでたくさん見ている。
ここで、pikarrr氏の言葉を真似るならば、何故(アスペルガー症候群者やスキゾイドではない)定型人には「フレーム問題」は起こらないのか、という問いが発生する。
pikarrr氏はその答えに「せき立て」というラカン用語を設置している。同意できる。わたしの言葉ならば、象徴的ファルスの比喩作用の内の、生の欲動的方向、即ち物自体へと遡行する方向と逆の、幻想を構築する方向のものである、となるだろう。
わたしは以前、オタク文化解析で、「パラノ/スキゾ」という二項軸を活用した。そこで、浅田彰氏が用いたスキゾフレニーとしての「スキゾ」ではなく、スキゾイドという意味であることを強調した。パラノが生の欲動的な幻想(妄想)を構築する方向であるなら、スキゾは死の欲動的な幻想を解体する、それこそ物自体へと遡行する方向である。しかし、先の斎藤氏の論文にあるように、統合失調症者は、なんらかの原因で物自体的な世界(わたしの言葉なら「物が悪意になっている世界」)に「落ちて」しまうが、そこから這い上がるかのように、生の欲動方向に、幻想を構築する傾向がある。このことからも、スキゾという言葉に、スキゾフレニー(統合失調症)ではなく、アスペルガー症候群と親近するスキゾイドを当てはめるのが妥当であることがわかるだろう。
pikarrr氏の記事に戻る。
=====
このような「オレがやらねば誰がやる」というような能動的な行為も、「社会的な責任」というときには、暗黙の圧力として「せき立て」られている受動的な行為である。人は無限の可能性を計算する前に、間違っていても決定しなければならないという「せき立て」の状態にある。
=====
わたしの言葉で言い直すならば、「社会的な責任」なりという幻想を、生の欲動に従って構築するから、定型人にはフレーム問題が起こらないのだ、となる。
フレーム問題が起きてしまうアスペルガー症候群者は、
=====
たとえば「おはよう」と言われて、ただ黙っていると、「無視」という意味を発していることになり、かなりの不快感を与えてしまう。
=====
これが彼らの、幻想を解体してしまうような印象となっている。
せき立てという生の欲動に固執する多数派の人間、即ち定型人たちは、
=====
「みんなの考え」を指し示すことで、人々をフリーズから解放し、「責任へのせき立て」の行き先を誘導してあげている。
=====
ことにより、
=====
最近、「KY」などの言葉がはやり、「空気を読む」ということに敏感である、とされる。社会の価値が多様で、流動性が向上することで人々の中に「常識」としての共通の基盤がなくなりつつあり、その場その場で、基盤としての空気を確認することが求められるためだと言われる。
=====
という「社会的現実(リアリティ)」を、共同幻想を作り上げている。それは、たとえばアスペルガー症候群者のような「空気が読めない」人間を棄却して得られる幻想である。それが幻想だからこそ、
=====
みなが「責任へのせき立て」の義務を果たしている。人工知能が陥る無限後退という「外傷的な現実(リアル)」は覆い隠され、「社会的現実(リアリティ)」が共有されているように振る舞われる。なぜ人間には「フレーム問題」は起こらないのか、ではなく、「フレーム問題」こそが人間の現実(リアリティ)の成立条件になっているということだ。
=====
即ち、フレーム問題に常に纏わりつかれているアスペルガー症候群者は、「人間の現実(リアリティ)の成立条件」のさなかを生きている、ということになる。だからアスペルガー症候群者は、「定型人の現実(リアリティ)」を、「コント」や「ネタ」だと表現するのだ。
この記事のコメント欄から引用する。
=====
対人関係は鏡のようなものなんだけれど、相手が自閉症者だと、その鏡は気を使ってくれないというか、【生々しいもの】を映してくれますね。
(【】は筆者による)
=====
この「生々しいもの」こそが、パニックや攻撃性に象徴される、「外傷的な現実(リアル)」であり、現実界という「命のしかめっ面」である。この記事で
=====
この投影同一化は自分を根拠づける間主観的自己感なり言語的自己感を揺り動かし脅かすものである。揺り動かされ脅かされるからこそ、新たな創造が生じるのだが。
ともかく、間主観的自己感や言語的自己感の形成期を通常に通過した一般人から見ると、投影同一化的傾向がある人は、幼児的に思われると同時に畏れられてしまう、ということである。アンビバレントな感情を引き起こす対象となることが多いのだ。結果、一般人から見ると、そういう人たちは不快に思われてしまうことが多くなるわけだ。
=====
と述べているところの、「創造」の源泉たる「不快」である。
それは不快だから定型人は棄却する。現実(リアル)ではなく幻想を生きたがる。この不快を棄却することがアブジェクシオンであり、棄却されるものという意味を付加したものがアブジェクトである。わたしは、このアブジェクトから比喩連鎖するものを包括して、ケガレと呼んでいる。それは、言語的な体系から、二次元から棄却されやすいものである。たとえば先の斎藤氏の論文ならば、
=====
また皮膚科の診断を言語的記述のみで再現することはほとんど不可能である。このあたりの事情は程度の差こそあれ、各科に共通するものであり、わが精神科も例外ではない。分裂病診断における「プレコックス感」の有用性がいまだ廃れていないのもこのためである。およそプレコックス感ほど、表象=再現前化になじまない感覚はないであろう。
=====
の「プレコックス感」が象徴的であると言えよう。それが「生々しい」ケガレだからこそ、二次元から棄却されやすいからこそ、「表象=再現前化になじまない」のである。表象から棄却されてしまうのだ。存在しなくなるのだ。
あん、引用ばっかで長くなってしまった……。そらパパさんの件にちょっと触れようと思ったけど話それたからまた今度。
私信。
ドードーとらさんところ引用しまくりでトラバ送りまくることになるので今回はしません。
アリスさんご心配ありがとう。B型なので多分大丈夫です。
とらさんすみません。「外傷的な現実(リアル)」たる三次元には、少し疲れてしまいました。しばらく二次元に安寧します。
安寧の日記(さー殴るがいい)。
5/28、記事中「アスペルガー症候群者のような~」にリンク追加。