アスペルガー症候群とスキゾイドと女性的抑鬱症
2008/05/08/Thu
この記事や前記事で、アスペルガー症候群を軸とし、統合失調症と(男性性と比較した場合の)女性性各々について、その自意識の弱さとでも呼べるような類似点と、各々の差異を同時に示した。
類似点は、共に、間主観的自己感や象徴的ファルスの比喩作用の不安定さである。木村敏氏の論を用いるならば、象徴的ファルスの生の欲動方向の比喩作用、即ち「せき立て」が弱いため、ノエマ的自己が安定しない、アンテ・フェストゥム人間である、と総括することが理屈的に可能になる。
一方、スキゾイドについては、その差異を微妙な言い方でしか示すことができなかった。引用する。
=====
アスペルガー症候群は内因性の障害である、という立場をわたしは取っている。内因とは器質因と心因の境界をグラデーション化させるための曖昧領域みたいなもので、そうであることを考えれば、スキゾイドは、内因性かもしれないが、心因性あるいは環境因性「寄り」の障害とし、アスペルガー症候群は器質因性「寄り」の障害とすることで、恣意的に区別することも可能なように思える。この区分に則るならば、スキゾイド症例の方が、精神分析的な問題である、となる。
=====
果たしてそうであるのか、また、スキゾイドが精神分析的問題であるならば、他の精神分析的症状、即ち神経症や倒錯と関連づけて述べられるはずである。
今日はその辺りを思考したい。
断っておくが、アスペルガー症候群とスキゾイドの差異を述べるにしても、ある人格において、それらが併存することは当然可能性としてあるという前提で論ずる。アスペルガー症候群が素因となって、二次障害的にスキゾイドとなった、などというケースを否定するものではない。
この記事から、スキゾイドの定義を引用する。
=====
(1)家族の一員であることを含めて、親密な関係を持ちたいと思わない、またはそれを楽しく感じない。
(2)ほとんどいつも孤立した行動を選択する。
(3)他人と性体験を持つことに対する興味が、もしあったとしても、少ししかない。
(4)喜びを感じられるような活動が、もしあったとしても、少ししかない。
(5)親兄弟以外には、親しい友人または信頼できる友人がいない。
(6)他人の賞賛や批判に対して無関心にみえる。
(7)情緒的な冷たさ、よそよそしさ、または平板な感情。
=====
これらの情動を無化しているような特徴は、わたしには抑鬱と似ているように思える。とはいえ、抑鬱症は喪という、たとえば虚しさや悲観などといった情動を伴うものだが、そういった情動すらない。
クリステヴァは、抑鬱症者の症状を総括して、「シニフィアンの否認」と述べた。それと対比するなら、スキゾイド症状とは「情動の否認」であると言うことが可能だろう。
この記事でも述べているが、ラカン論における象徴的ファルスを得る鏡像段階は、スターン論における養育者の情動を物真似し学習する間主観的自己感の形成と重なっている。言い換えるならば、象徴的ファルスの想像界的側面、たとえばそれこそ鏡としてのa'となろう。ここでの鏡はあくまでも比喩表現であり、「自分と意志が通じているような自分の体と似たような形をもつ体」などでもいい。この「一」である自分というイメージが、アスペルガー症候群者に欠けていると言われている「心の理論」の卵である。無茶苦茶簡単に言うと、「形が似ているんだから心の動きも似ているだろう」、大人ならば「話せばわかるだろう(合意できるだろう)」という考えが、「心の理論」という道路地図の存在を確信させることになる。実際にはない道路地図に沿って、情動の物真似を通じ、乳児は「心の理論」というステレオタイプな構造の道路網を作り出していく。
では、スキゾイドに「心の理論」はあるのか、という話になる。
彼らは情動を否認している。道路地図の存在の裏打ちたる情動を。アスペルガー症候群のように、その発生規制に問題がないスキゾイドならば、「心の理論」はある時点であったかもしれないが、情動を否認することで、「心の理論」のタガが外れかかっているのだろう。
アスペルガー症候群が素因としてある主体ならば、自分が「心の理論」という固定観念に縛られていない事実を承認することが、「情動の否認」として表れるのではないだろうか。
この情動を嫌悪する傾向は、アスペルガー症候群者にも見られる特徴である。アスペルガー症候群者にとって情動とは、自他の融合たるケガレに他ならない。
妄想分裂態勢→抑鬱態勢→鏡像段階という過程を経て、「心の理論」は発生するのだが、鏡像段階(あるいは間主観的自己感の形成期)で問題があっただろうと推測される彼には、妄想分裂態勢的あるいは抑鬱態勢的な情動しかない。即ち、自他融合的(ケガレ的)な否定性と、無的(喪的)な自分という情動しか。クリステヴァ的に言うと、彼らの世界には、想像的父あるいはアガペーが、存在しない。このアガペーを経て、自他の融合はエロスや愛になるのだが、だから彼らにとって愛情とは、定型人が思うような美しく正しいものではなく、汚らしく胡散臭いものとして感じられるのだ。
スキゾイドは、様々な要因で、「情動の否認」から「アガペーの否認」まで悪化した主体であると言えよう。だから彼らは、「スキゾイドってなんの欠陥?」という問いに、「愛」と答えてしまうのだ。
この受け答えは、2ちゃんメンヘル板のスキゾスレにあったものだが、ここでは時々アスペルガー症候群とスキゾイドの差異についても議論されている。そこでは大体、アスペルガー症候群者の攻撃性などをもって、スキゾイドとの差異として結論づけられることが多い。しかしそれは逆に言えば、情動の否認に留まって、アガペーを否認できていない自称スキゾイドが多いからではないだろうか。
否認は真実を指すことがある。いくら主体が情動を否認していても、情動は主体が見ないようにしている場所に蠢いている。それがたとえば、前記事で述べたような「子殺しや放火や内的悲劇という象徴で表されるような祭宴」である。この祭宴は、自他融合的な否定性(攻撃性)と無的(喪的)な自分が混濁した、妄想分裂態勢的かつ抑鬱態勢的なものでなくてはならない。死の欲動的な享楽的なものでなければならない。そういった意味では、アスペルガー症候群者の攻撃性こそが、スキゾイドが目指している「本当に愛のない世界」の情動なのである。ここのコメント欄から引用する。
=====
精神分析においては、愛情の本質は憎悪だと言えます。この憎悪は否定性などとも呼ばれます。攻撃性っぽいでしょ? 愛情の裏返しが憎悪ではなく、憎悪の裏返しが愛情だということです。
(中略)
わたしはあなたを自己愛的だみたいな表現をしていますが、自己愛そのものは批判しませんよ。対象愛の本質は自己愛です。
しかし、もう一歩本質を抉れば、それは憎悪や攻撃性となるのです。
=====
情動や愛が、物自体へと遡行し、抑鬱というゼロを飛び越えると、そこには悲劇的な憎悪や攻撃性があるのだ。
スキゾイドが、アスペルガー症候群者の攻撃性を嫌悪するのは、同属嫌悪と解釈もできるし、そう述べる主体がただの「従来のスキゾイド型ひきこもりではない社会型ひきこもり」あるいは「順応できていない順応主義(可能)者」あるいは「本当の相対主義的主体は狂気の領域にあることを知らない口先だけの相対主義者」などといった、「スキゾイド仮面を被る非スキゾイド」であるからかもしれない。
前者の同属嫌悪については、「アンテ・フェストゥム人間はドッペルゲンガーを怖れる」という特徴に合致する。自分に似た人格へと情動が向くのは、ポスト・フェストゥム人間も同じだが、アンテの場合その情動は、始原的な、否定性を伴う情動となる傾向がある。
とはいえ所詮2ちゃんねるなので、よくわからないというのが本音だ。あえて大雑把にそのレスを見ていくと、相対的にスキゾイド的臭いのする文章と、非スキゾイド的臭いのする文章が交じり合っているように思える。その見分け方は、この記事にも述べているように、それこそ自意識や(男性性の本質たる)象徴的ファルスの比喩作用の強度などになるだろう。固定観念的な主体、いろいろ確信してしまう傾向がある主体、確信していることが多数ある主体、「責任」などの言葉を多用する役割同一性に固執する主体、「相手もきっとこう思っている、最後には合意できる」といったような行間が感じられる文章を述べる主体は、非スキゾイド人間であると判断してよかろう。蛇足になるが、2ちゃんねる管理人の名言「嘘を嘘と見抜けないと(掲示板を使うのは)難しい」は、まさにスキゾイド的な、自意識が弱い人の「懐疑してしまう傾向」を示しているように思える。
先に、スキゾイドの定義について、わたしは抑鬱症に似ている、と書いた。抑鬱もアスペルガー症候群の二次障害として存在する。彼らの情動は、妄想分裂態勢的かつ抑鬱態勢的なものであるので、後者が強くなった状態であると言えよう。乳児発達論視点からは、むしろ彼らの抑鬱状態は、快復傾向と捉えてもよいのではないだろうか。もちろん一概にそうだとは言えないが、抑鬱態勢的な状態を反復することで、彼らはその壊れた象徴的ファルスを多少なりとも修復しようとしているのだと、楽観的に考えることもそれほどおかしくないように思える。一般の精神分析治療においても、分析前期に生じるデプレッションは、治療過程に不可欠なものだとされている。
このデプレッションは、男性的抑鬱症が固執する喪と別物として考えなければならない。
わたしは女性的抑鬱症と男性的抑鬱症は別物だと考えている。世間一般に述べられている、あるいは共同幻想的に共有されている抑鬱のイメージは、男性的抑鬱症であると言ってよい。もちろんこの「女性/男性」は、精神分析の文脈上にあり、生物学的な男性が女性的抑鬱症になってもいいし、逆もあってよい。傾向的な話だと考えてもらって構わない。
この記事で述べている「自意識の強い人/自意識の弱い人」という二項軸にも当てはまることだが、女性的抑鬱症は、無化されるノエマ的自己がそもそも不安定であり、男性的抑鬱症のそれは固定化されている。固定化されていたノエマ的自己(木村氏本人は失敗の論だとしているが、短絡的にシニフィアン的自己と言い換えて考えた方がわかりやすいだろう)が無化するから、男性的抑鬱症は、「失ったノエマ的自己」に固執する。大事な人を亡くしたりした時、ほぼ多くの人間が感じるのと同じ状態になる。それが喪である。「失ったノエマ的自己」に固執することは、喪に固執することと言い換えることができる。
一方女性的抑鬱症の場合、そもそものノエマ的自己が不安定なので、ノエマ的自己が隠蔽する「生々しい」現実界のうねりに敏感である。これは自意識の弱い人に共通の特徴であると言える。結果、不安定なノエマ的自己が無化されても、喪に固執する度合いは低くなる。むしろ、それが隠蔽していた生々しいうねりに直面することになる。無というオブラートに包まれた生々しいもの、ケガレに直面する。
男性的抑鬱症の場合、あたかも潔癖症のように、無というオブラートしか見えていない。
ケガレと無というオブラートが同時に存在するからこそ、デプレッションは治療の一過程となり得る。ケガレに塗れた無がアガペーに昇華されて、初めて原初的なファルスの構築へと向かえる。
クリステヴァ論によると、妄想分裂態勢→抑鬱態勢→鏡像段階という過程において、ケガレと混濁する無に飲み込まれたのが抑鬱態勢であり、それがセミオティック化されたものがアガペー(想像的父)である、となる。このアガペーにより、鏡像段階は可能になるのだ。ラカン風に言うならば、「寸断された身体」は、無のセミオティックであるアガペーという接着剤により、鏡に映る「個」という身体が組み上がる、などと言ってもよいだろう。
男性的抑鬱症の喪は、その無は、ケガレに塗れていない。よって彼らの喪はアガペーを生み出すことはない。とはいえ、生々しいうねりは、気づき難いだけで誰にもあるものだから、抑鬱症に陥らない人間などよりよっぽどアガペーを生み出せる領域に近いところにいるとは言えるだろう。
また、女性的抑鬱症は喪的状態が比較的希薄だということであり、完全に喪がないというわけではない。
この喪は、情動的には虚しさや喪失感に変換される。
スキゾイド症状では、確かにこの喪的な情動、虚しさや喪失感を感じさせることは少ない。あってもアスペルガー症候群と同様に、二次障害的に捉えられる。
抑鬱症は「シニフィアンの否認」であり、スキゾイド症状は「情動の否認」であるのだから、当然の表出とも言える。しかし、シニフィアンの中空軸たる象徴的ファルスは、スターン論でいう間主観的自己感という側面も持っている。間主観的自己感は情動の物真似によって形成される。即ち、シニフィアン連鎖も情動表現も、その発生地点は鏡像段階あるいは間主観的自己感の形成にあるのだ。彼らの否認が継続するならば、同じところに行き着くだろう。自意識の「ある/ない」の狭間へ。もちろん彼らはその一歩手前で立ち止まる。象徴的ファルスとは享楽そのものでもあるからだ。即ち、リアルな無としての死。
その一歩手前の領域で、スキゾイドは多少のシニフィアンを、女性的抑鬱症者は多少の虚しさを保持しながら、オブラートの敷物が敷かれたケガレの大地を、歩いている。スキゾイドは子殺しや放火や内的悲劇などという祭宴を、女性的抑鬱症者は食人などというサバトのような倒錯的幻想を、死の欲動的な享楽的な世界を、生々しいうねりの中を、生きている。
まとめよう。
アスペルガー症候群にしろスキゾイドにしろ女性性にしろ、まず象徴的ファルスの比喩作用の弱さを考えなければならない。これはこの記事で言うところの「せき立て」の弱さと言い換えてもよい。
この弱さの原因は、アスペルガー症候群については、内因的なものであると考えるため、ここでは触れなかった。スキゾイドについては、女性的抑鬱症と対比することで、心因あるいは環境因の可能性を提起できた。
アスペルガー症候群という、内因的領域にある症状を土台にして考えたならば、スキゾイドは女性的抑鬱症と親近する領域にあるのではないだろうか。そういう論旨である。
……あれ? なんか言い忘れたことあったような気がするけどまあいっか。
ピノうまー。
類似点は、共に、間主観的自己感や象徴的ファルスの比喩作用の不安定さである。木村敏氏の論を用いるならば、象徴的ファルスの生の欲動方向の比喩作用、即ち「せき立て」が弱いため、ノエマ的自己が安定しない、アンテ・フェストゥム人間である、と総括することが理屈的に可能になる。
一方、スキゾイドについては、その差異を微妙な言い方でしか示すことができなかった。引用する。
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アスペルガー症候群は内因性の障害である、という立場をわたしは取っている。内因とは器質因と心因の境界をグラデーション化させるための曖昧領域みたいなもので、そうであることを考えれば、スキゾイドは、内因性かもしれないが、心因性あるいは環境因性「寄り」の障害とし、アスペルガー症候群は器質因性「寄り」の障害とすることで、恣意的に区別することも可能なように思える。この区分に則るならば、スキゾイド症例の方が、精神分析的な問題である、となる。
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果たしてそうであるのか、また、スキゾイドが精神分析的問題であるならば、他の精神分析的症状、即ち神経症や倒錯と関連づけて述べられるはずである。
今日はその辺りを思考したい。
断っておくが、アスペルガー症候群とスキゾイドの差異を述べるにしても、ある人格において、それらが併存することは当然可能性としてあるという前提で論ずる。アスペルガー症候群が素因となって、二次障害的にスキゾイドとなった、などというケースを否定するものではない。
この記事から、スキゾイドの定義を引用する。
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(1)家族の一員であることを含めて、親密な関係を持ちたいと思わない、またはそれを楽しく感じない。
(2)ほとんどいつも孤立した行動を選択する。
(3)他人と性体験を持つことに対する興味が、もしあったとしても、少ししかない。
(4)喜びを感じられるような活動が、もしあったとしても、少ししかない。
(5)親兄弟以外には、親しい友人または信頼できる友人がいない。
(6)他人の賞賛や批判に対して無関心にみえる。
(7)情緒的な冷たさ、よそよそしさ、または平板な感情。
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これらの情動を無化しているような特徴は、わたしには抑鬱と似ているように思える。とはいえ、抑鬱症は喪という、たとえば虚しさや悲観などといった情動を伴うものだが、そういった情動すらない。
クリステヴァは、抑鬱症者の症状を総括して、「シニフィアンの否認」と述べた。それと対比するなら、スキゾイド症状とは「情動の否認」であると言うことが可能だろう。
この記事でも述べているが、ラカン論における象徴的ファルスを得る鏡像段階は、スターン論における養育者の情動を物真似し学習する間主観的自己感の形成と重なっている。言い換えるならば、象徴的ファルスの想像界的側面、たとえばそれこそ鏡としてのa'となろう。ここでの鏡はあくまでも比喩表現であり、「自分と意志が通じているような自分の体と似たような形をもつ体」などでもいい。この「一」である自分というイメージが、アスペルガー症候群者に欠けていると言われている「心の理論」の卵である。無茶苦茶簡単に言うと、「形が似ているんだから心の動きも似ているだろう」、大人ならば「話せばわかるだろう(合意できるだろう)」という考えが、「心の理論」という道路地図の存在を確信させることになる。実際にはない道路地図に沿って、情動の物真似を通じ、乳児は「心の理論」というステレオタイプな構造の道路網を作り出していく。
では、スキゾイドに「心の理論」はあるのか、という話になる。
彼らは情動を否認している。道路地図の存在の裏打ちたる情動を。アスペルガー症候群のように、その発生規制に問題がないスキゾイドならば、「心の理論」はある時点であったかもしれないが、情動を否認することで、「心の理論」のタガが外れかかっているのだろう。
アスペルガー症候群が素因としてある主体ならば、自分が「心の理論」という固定観念に縛られていない事実を承認することが、「情動の否認」として表れるのではないだろうか。
この情動を嫌悪する傾向は、アスペルガー症候群者にも見られる特徴である。アスペルガー症候群者にとって情動とは、自他の融合たるケガレに他ならない。
妄想分裂態勢→抑鬱態勢→鏡像段階という過程を経て、「心の理論」は発生するのだが、鏡像段階(あるいは間主観的自己感の形成期)で問題があっただろうと推測される彼には、妄想分裂態勢的あるいは抑鬱態勢的な情動しかない。即ち、自他融合的(ケガレ的)な否定性と、無的(喪的)な自分という情動しか。クリステヴァ的に言うと、彼らの世界には、想像的父あるいはアガペーが、存在しない。このアガペーを経て、自他の融合はエロスや愛になるのだが、だから彼らにとって愛情とは、定型人が思うような美しく正しいものではなく、汚らしく胡散臭いものとして感じられるのだ。
スキゾイドは、様々な要因で、「情動の否認」から「アガペーの否認」まで悪化した主体であると言えよう。だから彼らは、「スキゾイドってなんの欠陥?」という問いに、「愛」と答えてしまうのだ。
この受け答えは、2ちゃんメンヘル板のスキゾスレにあったものだが、ここでは時々アスペルガー症候群とスキゾイドの差異についても議論されている。そこでは大体、アスペルガー症候群者の攻撃性などをもって、スキゾイドとの差異として結論づけられることが多い。しかしそれは逆に言えば、情動の否認に留まって、アガペーを否認できていない自称スキゾイドが多いからではないだろうか。
否認は真実を指すことがある。いくら主体が情動を否認していても、情動は主体が見ないようにしている場所に蠢いている。それがたとえば、前記事で述べたような「子殺しや放火や内的悲劇という象徴で表されるような祭宴」である。この祭宴は、自他融合的な否定性(攻撃性)と無的(喪的)な自分が混濁した、妄想分裂態勢的かつ抑鬱態勢的なものでなくてはならない。死の欲動的な享楽的なものでなければならない。そういった意味では、アスペルガー症候群者の攻撃性こそが、スキゾイドが目指している「本当に愛のない世界」の情動なのである。ここのコメント欄から引用する。
=====
精神分析においては、愛情の本質は憎悪だと言えます。この憎悪は否定性などとも呼ばれます。攻撃性っぽいでしょ? 愛情の裏返しが憎悪ではなく、憎悪の裏返しが愛情だということです。
(中略)
わたしはあなたを自己愛的だみたいな表現をしていますが、自己愛そのものは批判しませんよ。対象愛の本質は自己愛です。
しかし、もう一歩本質を抉れば、それは憎悪や攻撃性となるのです。
=====
情動や愛が、物自体へと遡行し、抑鬱というゼロを飛び越えると、そこには悲劇的な憎悪や攻撃性があるのだ。
スキゾイドが、アスペルガー症候群者の攻撃性を嫌悪するのは、同属嫌悪と解釈もできるし、そう述べる主体がただの「従来のスキゾイド型ひきこもりではない社会型ひきこもり」あるいは「順応できていない順応主義(可能)者」あるいは「本当の相対主義的主体は狂気の領域にあることを知らない口先だけの相対主義者」などといった、「スキゾイド仮面を被る非スキゾイド」であるからかもしれない。
前者の同属嫌悪については、「アンテ・フェストゥム人間はドッペルゲンガーを怖れる」という特徴に合致する。自分に似た人格へと情動が向くのは、ポスト・フェストゥム人間も同じだが、アンテの場合その情動は、始原的な、否定性を伴う情動となる傾向がある。
とはいえ所詮2ちゃんねるなので、よくわからないというのが本音だ。あえて大雑把にそのレスを見ていくと、相対的にスキゾイド的臭いのする文章と、非スキゾイド的臭いのする文章が交じり合っているように思える。その見分け方は、この記事にも述べているように、それこそ自意識や(男性性の本質たる)象徴的ファルスの比喩作用の強度などになるだろう。固定観念的な主体、いろいろ確信してしまう傾向がある主体、確信していることが多数ある主体、「責任」などの言葉を多用する役割同一性に固執する主体、「相手もきっとこう思っている、最後には合意できる」といったような行間が感じられる文章を述べる主体は、非スキゾイド人間であると判断してよかろう。蛇足になるが、2ちゃんねる管理人の名言「嘘を嘘と見抜けないと(掲示板を使うのは)難しい」は、まさにスキゾイド的な、自意識が弱い人の「懐疑してしまう傾向」を示しているように思える。
先に、スキゾイドの定義について、わたしは抑鬱症に似ている、と書いた。抑鬱もアスペルガー症候群の二次障害として存在する。彼らの情動は、妄想分裂態勢的かつ抑鬱態勢的なものであるので、後者が強くなった状態であると言えよう。乳児発達論視点からは、むしろ彼らの抑鬱状態は、快復傾向と捉えてもよいのではないだろうか。もちろん一概にそうだとは言えないが、抑鬱態勢的な状態を反復することで、彼らはその壊れた象徴的ファルスを多少なりとも修復しようとしているのだと、楽観的に考えることもそれほどおかしくないように思える。一般の精神分析治療においても、分析前期に生じるデプレッションは、治療過程に不可欠なものだとされている。
このデプレッションは、男性的抑鬱症が固執する喪と別物として考えなければならない。
わたしは女性的抑鬱症と男性的抑鬱症は別物だと考えている。世間一般に述べられている、あるいは共同幻想的に共有されている抑鬱のイメージは、男性的抑鬱症であると言ってよい。もちろんこの「女性/男性」は、精神分析の文脈上にあり、生物学的な男性が女性的抑鬱症になってもいいし、逆もあってよい。傾向的な話だと考えてもらって構わない。
この記事で述べている「自意識の強い人/自意識の弱い人」という二項軸にも当てはまることだが、女性的抑鬱症は、無化されるノエマ的自己がそもそも不安定であり、男性的抑鬱症のそれは固定化されている。固定化されていたノエマ的自己(木村氏本人は失敗の論だとしているが、短絡的にシニフィアン的自己と言い換えて考えた方がわかりやすいだろう)が無化するから、男性的抑鬱症は、「失ったノエマ的自己」に固執する。大事な人を亡くしたりした時、ほぼ多くの人間が感じるのと同じ状態になる。それが喪である。「失ったノエマ的自己」に固執することは、喪に固執することと言い換えることができる。
一方女性的抑鬱症の場合、そもそものノエマ的自己が不安定なので、ノエマ的自己が隠蔽する「生々しい」現実界のうねりに敏感である。これは自意識の弱い人に共通の特徴であると言える。結果、不安定なノエマ的自己が無化されても、喪に固執する度合いは低くなる。むしろ、それが隠蔽していた生々しいうねりに直面することになる。無というオブラートに包まれた生々しいもの、ケガレに直面する。
男性的抑鬱症の場合、あたかも潔癖症のように、無というオブラートしか見えていない。
ケガレと無というオブラートが同時に存在するからこそ、デプレッションは治療の一過程となり得る。ケガレに塗れた無がアガペーに昇華されて、初めて原初的なファルスの構築へと向かえる。
クリステヴァ論によると、妄想分裂態勢→抑鬱態勢→鏡像段階という過程において、ケガレと混濁する無に飲み込まれたのが抑鬱態勢であり、それがセミオティック化されたものがアガペー(想像的父)である、となる。このアガペーにより、鏡像段階は可能になるのだ。ラカン風に言うならば、「寸断された身体」は、無のセミオティックであるアガペーという接着剤により、鏡に映る「個」という身体が組み上がる、などと言ってもよいだろう。
男性的抑鬱症の喪は、その無は、ケガレに塗れていない。よって彼らの喪はアガペーを生み出すことはない。とはいえ、生々しいうねりは、気づき難いだけで誰にもあるものだから、抑鬱症に陥らない人間などよりよっぽどアガペーを生み出せる領域に近いところにいるとは言えるだろう。
また、女性的抑鬱症は喪的状態が比較的希薄だということであり、完全に喪がないというわけではない。
この喪は、情動的には虚しさや喪失感に変換される。
スキゾイド症状では、確かにこの喪的な情動、虚しさや喪失感を感じさせることは少ない。あってもアスペルガー症候群と同様に、二次障害的に捉えられる。
抑鬱症は「シニフィアンの否認」であり、スキゾイド症状は「情動の否認」であるのだから、当然の表出とも言える。しかし、シニフィアンの中空軸たる象徴的ファルスは、スターン論でいう間主観的自己感という側面も持っている。間主観的自己感は情動の物真似によって形成される。即ち、シニフィアン連鎖も情動表現も、その発生地点は鏡像段階あるいは間主観的自己感の形成にあるのだ。彼らの否認が継続するならば、同じところに行き着くだろう。自意識の「ある/ない」の狭間へ。もちろん彼らはその一歩手前で立ち止まる。象徴的ファルスとは享楽そのものでもあるからだ。即ち、リアルな無としての死。
その一歩手前の領域で、スキゾイドは多少のシニフィアンを、女性的抑鬱症者は多少の虚しさを保持しながら、オブラートの敷物が敷かれたケガレの大地を、歩いている。スキゾイドは子殺しや放火や内的悲劇などという祭宴を、女性的抑鬱症者は食人などというサバトのような倒錯的幻想を、死の欲動的な享楽的な世界を、生々しいうねりの中を、生きている。
まとめよう。
アスペルガー症候群にしろスキゾイドにしろ女性性にしろ、まず象徴的ファルスの比喩作用の弱さを考えなければならない。これはこの記事で言うところの「せき立て」の弱さと言い換えてもよい。
この弱さの原因は、アスペルガー症候群については、内因的なものであると考えるため、ここでは触れなかった。スキゾイドについては、女性的抑鬱症と対比することで、心因あるいは環境因の可能性を提起できた。
アスペルガー症候群という、内因的領域にある症状を土台にして考えたならば、スキゾイドは女性的抑鬱症と親近する領域にあるのではないだろうか。そういう論旨である。
……あれ? なんか言い忘れたことあったような気がするけどまあいっか。
ピノうまー。