痙攣ダンス
2008/05/14/Wed
なんかいろいろ書き散らかしたんだけど統辞的構造つけるの面倒になったのでこんな記事でお茶濁ししてみる。
以前、いささか短絡的に、「女性作家の文章は舞踊である」と書いた。その中で、たとえば笙野頼子の文章は身体性としての文章だとも。
文章の舞踊。ダンス。なかなか自分で気に入っている表現だ。
短絡的に「作家」、とそのまま書きたいところだが、他の記事との整合性を考慮して「作家性」と書こう。
読書というダンスは、文章を統括する作家性がリードに回り、読者がフォローになる。そういう意味では文章はなべて男性的である、となる。「文章」ではなく「テクスト」でも構わないし、その女性性をもって反論されても構わない。そんなポストモダン的な揚げ足取りの議論は、身体性と肌が合わない。
もちろん、この文章も文章である限り身体性とは相容れないことを承知で書くなら、やはり短絡的に書いたほうがいいのであろう。
しかしわたしは揚げ足を取るのも取られるのも興味がある。好意と嫌悪含めての興味だ。揚げ足を取り合わない会話にはとても無関心になってしまう。正直そんな会話、つまらない。
女性作家が書こうとも、読書という場においては、文章はどうしてもダンスのリード役のような男性性を纏ってしまう。これが身体性と接合すると、襲い掛かるようなリードとなる。フォロー役として意識化が未熟な読者は切り刻まれるか弾き飛ばされるかしてしまうだろう。
とはいえ、未熟なフォロー役を侮蔑しているのではない。そもそもダンスが上手くても現代社会的にはほとんど何の役にも立たないのだ。
熟練したリード役と、熟練したフォロー役がいて、さらにその二人の相性がよかった時。彼らのダンスは、周囲の目を集めるだろう。音楽が激しくなるにつれ、そのステップは狂気じみてくるだろう。あたかも癲癇症者の発作のような、痙攣となるだろう。
そんな読書を、芸術を、今の時代に求める方が、おかしいのだ。
以前、いささか短絡的に、「女性作家の文章は舞踊である」と書いた。その中で、たとえば笙野頼子の文章は身体性としての文章だとも。
文章の舞踊。ダンス。なかなか自分で気に入っている表現だ。
短絡的に「作家」、とそのまま書きたいところだが、他の記事との整合性を考慮して「作家性」と書こう。
読書というダンスは、文章を統括する作家性がリードに回り、読者がフォローになる。そういう意味では文章はなべて男性的である、となる。「文章」ではなく「テクスト」でも構わないし、その女性性をもって反論されても構わない。そんなポストモダン的な揚げ足取りの議論は、身体性と肌が合わない。
もちろん、この文章も文章である限り身体性とは相容れないことを承知で書くなら、やはり短絡的に書いたほうがいいのであろう。
しかしわたしは揚げ足を取るのも取られるのも興味がある。好意と嫌悪含めての興味だ。揚げ足を取り合わない会話にはとても無関心になってしまう。正直そんな会話、つまらない。
女性作家が書こうとも、読書という場においては、文章はどうしてもダンスのリード役のような男性性を纏ってしまう。これが身体性と接合すると、襲い掛かるようなリードとなる。フォロー役として意識化が未熟な読者は切り刻まれるか弾き飛ばされるかしてしまうだろう。
とはいえ、未熟なフォロー役を侮蔑しているのではない。そもそもダンスが上手くても現代社会的にはほとんど何の役にも立たないのだ。
熟練したリード役と、熟練したフォロー役がいて、さらにその二人の相性がよかった時。彼らのダンスは、周囲の目を集めるだろう。音楽が激しくなるにつれ、そのステップは狂気じみてくるだろう。あたかも癲癇症者の発作のような、痙攣となるだろう。
そんな読書を、芸術を、今の時代に求める方が、おかしいのだ。