自己愛型引きこもり
2006/11/30/Thu
以前オタク二分論として、暗喩的に「パラノ的オタ/スキゾ的オタ」という二項を仮設し、論じました。
再度お断りしておきますが、そこでの「パラノ/スキゾ」は精神病のそれとしてではない、あくまで暗喩として用いたものです。また、浅田彰氏の言うスキゾは、スキゾフレニー(統合失調症)ですが、そうではなく、スキゾイド(分裂病質)として散種させました。
ここでは精神病としてのパラノイア、それの人格素因となる(ラカンは全ての人間がパラノイア的人格といっている)パラノ的人格について、オタク文化内での事例を頼りに、素人なりの思考をめぐらしてみましょう。
オタク文化におけるパラノイア。私なんかはすぐ、2ちゃんねるで有名になった話「お兄ちゃんどいて!そいつ殺せない!」を思い出しますねえ。典型的な精神病としてのパラノイア=偏執病の症例だと思います。
パラノイアの構成要素として、
●「強い仲間意識・他者との同一化への希求」
●「強い正義感・差異を明確にするための論理性の希求」
●「強い挫折感・否認への恐怖」
と三つあります。この強い仲間意識と強い正義感により、自己正当化のための論理的な多弁など、強引な、自己中心的な振る舞いが表出する傾向があります。「お兄ちゃん~」の月宮さん(仮称)においては、この論理が「前世」という再現性がないもの、それ以上論理が必要とされないものに準拠してしまっている感じでしょうか。事例における対象者はなるほど構成要件にあてはまりそうです。作り話だとしてもそういった知識があるか(あるような文章には見えない)、そういう症例の実在モデルがいるのでしょう。作り話としてなら「強い挫折感」が表現されてないというところに、登場人物として弱く感じることはありますが、逆にその落ち度が「物語的でないノンフィクションとしてのリアリティ」を増しているような感じがします。
上の三つの構成要素を見てもわかるように、人間誰しもがラカン的鏡像段階で経る葛藤であり、その「去勢」後も普通に感じる葛藤です。だからラカンは「人格とはパラノイアである」みたいなことも言っているわけです。パラノ的人格≒一般人と言ってもよいでしょう。例えば、「論理性」を「強さの優劣」と読み替えたら少年マンガとかでよく見かける主人公の典型になりますね。また英雄や独裁者、有名な政治家などにも、こういった構成要件の葛藤がよく見られます。人はパラノイア的人格に惹きつけられてしまうという一面もあるようです。
ということで、精神病ではない、人格としてのパラノ的人格の話に移りましょう。オタク文化の中でもっとも特徴的に表れているのが「押しかけ厨」だと思います。これは、同人誌の世界で、お手伝いとして無理矢理同人作家の家などに押しかけ、拒否するとキレる、という方々がいるようで、それをそう呼んでいるらしいです。
こちらのサイトでは、本職の精神科医が「押しかけ厨」について分析しております。的確だと思いますし、それに反論するつもりもありません。ここでは私なりに、「パラノイア的人格」という視点でそれを掘り下げてみようと思います。
押しかけ厨にも色々あるようですが、全体のイメージとして、私は、
●「強い仲間意識・他者との同一化への希求」→好きな同人作家との同一化。オタク同人界における仲間意識。
●「強い正義感・差異を明確にするための論理性の希求」→「サイトに『手伝って』って書いてたじゃん」。お手伝い=善意、だから正義。「あげます」口調が特徴的ということにも表れている。
●「強い挫折感・否認への恐怖」→そのまんま「拒否」。
と、パラノイア構成要素に合致するものだと考えます。
「強い仲間意識」について。オタク同人界というのはオタク文化の中でも多少ディープなイメージが私にはあります。そういった「狭い世界」における「仲間意識」というものは感じやすいのですね。大学のサークルみたいなものです。オタク文化がもっと一般化して、同人界もメジャーになっていけばなくなりそうなものですが、それでも広いオタク文化内の「狭い世界」を求めて彼らは徘徊するようにも思えます。
「強い正義感」については、先程のサイトでも触れてますが、「お兄ちゃんどいて~」でも触れた「前世」というキーワードが散見されるようです。先の文章では論理性として「前世」を挙げましたが、この言葉がオタク文化で用いられると、「同一化」「差異化」という二つの暗喩が備わってしまうように思えます。同じ前世の世界を分かち合える仲間との同一化、「私はあなたたち(前世に気付かない人間)とは違う」という差異化。「前世」という妄想世界の中では、「同一化」と「差異化」の葛藤が融合・昇華されてしまうわけです。パラノイア的人格としては格好の「呪文」たりえるわけですね。
さて、先程のサイトでは、「自己愛」という言葉がキーワードとして書かれています。これが彼(彼女)らの根底にあり、その行動の強い原因となっている、という書き方になってますね。鋭い洞察だと思いますし、それ自体には反論しません。これを私なりに、ラカン的に読み解いてみます。
先程のサイトの自己愛の説明では、幼児期の話になります。ここから読み解いてみましょう。
赤ちゃんの頃は人間誰しも「全能感」を持っています。子宮の中にいた頃のような、求めるだけ与えられる世界に彼はいるのです。しかし、この世に生れ落ちたからにはそうもいきません。求めるものが与えられない場合が生じます。これを赤ちゃんは「不快」と感じ、子宮の中にいた頃のような「求めるだけ与えられる」感覚(=全能感)を「快」と感じるのです。赤ちゃんの感情は初めはこの二種類しかありません。ここから感情が複雑化していくわけですね。
そんな「快」「不快」の中、幼児は鏡に映る自分を発見します。その姿は自分が考えた通りに動く物体です。これは彼の全能感を満たしてくれる初めての「自己」です。当然の如く、彼は鏡に映る「自己」に強い愛着を持ちます。指しゃぶりや自分の性器をいじったりするようになります。これが「自己愛」の前身になるわけですね。「自体愛」というものでしょうか。鏡に映らないまでも、他人の言動をみて幼児は「自己」を想像します。「鏡」は暗喩的なものと思ってください。
自分の体という「自己」を手に入れた幼児は、当然の成り行きで「自己」と「他者」の差異に気付きます。与えてくれる相手(母親)が他者だと気付くわけです。他者であるならば、「与えられないという不快」は必然のものだと幼児は気付きます。「与えられるもの・世界」が「絶対・永遠」ではないと気付くわけですね(「萎んだ乳房」という暗喩)。快と不快を包括したそれは、メラニー・クラインの言う「乳房に糞便をかける(暗喩ですよ)」的な感情になります。「自発的な乳離れ」的な感覚になるでしょうか。
ここまでは、ラカン論でいえば、全て言葉のない世界、目に見え耳に聞こえる世界から想像する「想像界」における話です。
やがて幼児は成長していきます。彼らは言葉によりルール化された世界(社会)に入らなければなりません。ここでやっと「父性」が登場します。幼児が疑いながらも持っている「全能感」を、父親が「父の名において(言葉により)」去勢してしまうわけです(しつこいですが暗喩ですよ)。そうして幼児は言葉の世界、今私たちがいる「象徴界」に参入するのです。
去勢された「全能感」。去勢されたとしても去勢の痕は残ります。その「去勢痕」も含めて、「ファルス」といいます。
これがラカンの鏡像段階論です。フロイトでいうならば、口唇期→肛門期→男根期→エディプスコンプレックス→去勢という流れでしょうか。
この流れを見ると、赤ちゃんが元々持っていた全能感・ファルス=同一感が、自己の発見・発達=他者との差異化により葛藤が芽生え、その幕引きとして「去勢」が行われる、というイメージが理解できるでしょう。そして、その葛藤の中で生まれるのが「自己愛」なわけです。また、「去勢痕」が残っているからには去勢後も同様の葛藤があると予想されます。この赤ちゃんの時の原初的な葛藤が、「傷跡」により再発するのがパラノイア的葛藤になるのです。
こう考えると、パラノ的「自己愛」には、同一化と差異化という葛藤そのものが原初的に含まれているということがわかると思います。その葛藤が強く精神に影響する、「パラノ的人格構成要素のオーバーシュート」が、「自己愛」的言動で表れるのは当然だと言えます。
先程のサイトでも書かれているように、この「押しかけ厨」や「お兄ちゃんどいて~」の彼女が持つ感覚の素因・病理は、人間誰しもが持っているものと言えるのです。
ここでパラノ的人格の対立項として示した「スキゾ的人格」をちょっと考えてみましょう。
彼らはその内的動力が「想像界<象徴界」である(具体的には抽象化能力や類化能力が強いなど)、という仮定義をつけました(パラノは逆で想像界>象徴界)。去勢までは同じように成長すると思われますが、彼らは象徴界の内的動力が大きいので、言葉の世界を恐れません。但し全能感を失う恐怖はあるでしょう。全能感は自己の発見・発達という成長により、それがかりそめだと幼児は薄々感づいていると思われます。それらを一緒くたにして、「全能感を失った後に訪れる象徴界」に恐怖しているのが第一次反抗期だとしたら、スキゾ的人格は第一次反抗期において(パラノと比べて)それほど強い反抗的態度を示さないでしょう。身体的成長により「去勢痕」が疼く第二次反抗期も同様だと思います。こういう幼児は自我が弱く育つという傾向が言われています。引きこもりや自閉的性格になりやすいという言い方になるでしょうか。
しかし、本来内的動力として想像界が強い(現実の他者とのコミュニケーション能力がスキゾ的人格より強い)はずのパラノ的人格でも引きこもりになることがあります。彼らは「目に見え耳に聞こえそこから想像する他者」である想像的他者と自我の繋がり=想像的軸を「故意に」断っているのです。彼らはスキゾ的引きこもりと比較すると自我が強いです。パラノ的と考えれば同一化と差異化の葛藤による「自己愛」が言動に表れるのも頷けます。先程のサイトではそれを「自己愛型引きこもり」として紹介していますね。以下引用します。
=====
衣笠隆幸は「自己愛とひきこもり」(精神療法26巻6号,2000)という論文の中で、「自己愛型ひきこもり」という分類を提唱しているのだけれど、これがまさにこのタイプ。
一般に多いといわれているスキゾイドタイプのひきこもりが、他者に対する漠然とした不安感や自信欠乏、陰性の自己像などの理由でひきこもるのに対し、「自己愛型ひきこもり」は、万能的な自己像を傷つける場面を避けるためにひきこもる。そして、幼児的で自己中心的な満足を得るために、家族などにパラサイト的な依存を求める。
性格はというと、児童期までは真面目で成績もよかったものの、思春期青年期の時期にそうした能力が挫折して、もはや以前のようには発揮できなくなった体験を持っているものが多い、とのこと。また、一部には、自分は特別な能力を持っていて、世間がそれを認めてくれない、といった極端に万能的・空想的な自己像を持っている患者もいるという。
=====
これはまさに「ファルス」や「前世」(万能的・空想的な自己像)と呼応する人格モデルです。
パラノ的人格が普通、正常であり、スキゾイド(≠スキゾフレニー、統合失調症)はごく少数派です。非スキゾ的≒パラノ的引きこもりが「自己愛型引きこもり」なのです。
最初の話に戻りましょう。私は「記号のサイン化傾向についての考察」という記事で、オタクを二分化して考えるモデルを示しました。
スキゾ的オタをヘビーオタ、パラノ的オタをライトオタと仮に考えます。昔の「オタク」が虐げられていた時期のオタクたちは、もともと想像界が弱い、引きこもりや自閉的なスキゾイドタイプ、スキゾ的オタ=ヘビーオタが多く集まる傾向があった。そこへ、90年代エヴァンゲリオンなどのオタク文化とメジャーの壁を壊すような作品が生まれ、「オタク」が流行語的に広まっていった。その流れの中で本来のスキゾ的オタとは性質が異なる一般的な(人口的に圧倒する)パラノ人格のオタ=ライトオタが多数オタク文化に流入する結果となる。そういったモデルでした。
「第一世代」などという時間軸による分類ではなく、精神分析用語を暗喩的に用いた人格傾向により「オタク」を分類したわけです。
この記事の論は、パラノ的オタの増加という側面を表している、とはいいませんが、パラノ的オタというものの、強烈な一例として例示してみました、ということになるでしょうか。もちろんこれがオタク文化におけるパラノ的オタの増加ということを論理的に証明するものだとは思っていません。あくまでも例示です。
パラノ的オタクや自己愛型引きこもりについては、パラノ的人格(≒非スキゾ的人格≒一般人)の表面的なスキゾ的人格化、スキゾ的人格の仮面を被るパラノ的人格、というようなモデルになるんでしょうか。
うーん、やはりオタク文化はポストモダンの様々な特徴を多くデフォルメして表出させている文化だなあ、とふと思ったりしてしまいました……。
再度お断りしておきますが、そこでの「パラノ/スキゾ」は精神病のそれとしてではない、あくまで暗喩として用いたものです。また、浅田彰氏の言うスキゾは、スキゾフレニー(統合失調症)ですが、そうではなく、スキゾイド(分裂病質)として散種させました。
ここでは精神病としてのパラノイア、それの人格素因となる(ラカンは全ての人間がパラノイア的人格といっている)パラノ的人格について、オタク文化内での事例を頼りに、素人なりの思考をめぐらしてみましょう。
オタク文化におけるパラノイア。私なんかはすぐ、2ちゃんねるで有名になった話「お兄ちゃんどいて!そいつ殺せない!」を思い出しますねえ。典型的な精神病としてのパラノイア=偏執病の症例だと思います。
パラノイアの構成要素として、
●「強い仲間意識・他者との同一化への希求」
●「強い正義感・差異を明確にするための論理性の希求」
●「強い挫折感・否認への恐怖」
と三つあります。この強い仲間意識と強い正義感により、自己正当化のための論理的な多弁など、強引な、自己中心的な振る舞いが表出する傾向があります。「お兄ちゃん~」の月宮さん(仮称)においては、この論理が「前世」という再現性がないもの、それ以上論理が必要とされないものに準拠してしまっている感じでしょうか。事例における対象者はなるほど構成要件にあてはまりそうです。作り話だとしてもそういった知識があるか(あるような文章には見えない)、そういう症例の実在モデルがいるのでしょう。作り話としてなら「強い挫折感」が表現されてないというところに、登場人物として弱く感じることはありますが、逆にその落ち度が「物語的でないノンフィクションとしてのリアリティ」を増しているような感じがします。
上の三つの構成要素を見てもわかるように、人間誰しもがラカン的鏡像段階で経る葛藤であり、その「去勢」後も普通に感じる葛藤です。だからラカンは「人格とはパラノイアである」みたいなことも言っているわけです。パラノ的人格≒一般人と言ってもよいでしょう。例えば、「論理性」を「強さの優劣」と読み替えたら少年マンガとかでよく見かける主人公の典型になりますね。また英雄や独裁者、有名な政治家などにも、こういった構成要件の葛藤がよく見られます。人はパラノイア的人格に惹きつけられてしまうという一面もあるようです。
ということで、精神病ではない、人格としてのパラノ的人格の話に移りましょう。オタク文化の中でもっとも特徴的に表れているのが「押しかけ厨」だと思います。これは、同人誌の世界で、お手伝いとして無理矢理同人作家の家などに押しかけ、拒否するとキレる、という方々がいるようで、それをそう呼んでいるらしいです。
こちらのサイトでは、本職の精神科医が「押しかけ厨」について分析しております。的確だと思いますし、それに反論するつもりもありません。ここでは私なりに、「パラノイア的人格」という視点でそれを掘り下げてみようと思います。
押しかけ厨にも色々あるようですが、全体のイメージとして、私は、
●「強い仲間意識・他者との同一化への希求」→好きな同人作家との同一化。オタク同人界における仲間意識。
●「強い正義感・差異を明確にするための論理性の希求」→「サイトに『手伝って』って書いてたじゃん」。お手伝い=善意、だから正義。「あげます」口調が特徴的ということにも表れている。
●「強い挫折感・否認への恐怖」→そのまんま「拒否」。
と、パラノイア構成要素に合致するものだと考えます。
「強い仲間意識」について。オタク同人界というのはオタク文化の中でも多少ディープなイメージが私にはあります。そういった「狭い世界」における「仲間意識」というものは感じやすいのですね。大学のサークルみたいなものです。オタク文化がもっと一般化して、同人界もメジャーになっていけばなくなりそうなものですが、それでも広いオタク文化内の「狭い世界」を求めて彼らは徘徊するようにも思えます。
「強い正義感」については、先程のサイトでも触れてますが、「お兄ちゃんどいて~」でも触れた「前世」というキーワードが散見されるようです。先の文章では論理性として「前世」を挙げましたが、この言葉がオタク文化で用いられると、「同一化」「差異化」という二つの暗喩が備わってしまうように思えます。同じ前世の世界を分かち合える仲間との同一化、「私はあなたたち(前世に気付かない人間)とは違う」という差異化。「前世」という妄想世界の中では、「同一化」と「差異化」の葛藤が融合・昇華されてしまうわけです。パラノイア的人格としては格好の「呪文」たりえるわけですね。
さて、先程のサイトでは、「自己愛」という言葉がキーワードとして書かれています。これが彼(彼女)らの根底にあり、その行動の強い原因となっている、という書き方になってますね。鋭い洞察だと思いますし、それ自体には反論しません。これを私なりに、ラカン的に読み解いてみます。
先程のサイトの自己愛の説明では、幼児期の話になります。ここから読み解いてみましょう。
赤ちゃんの頃は人間誰しも「全能感」を持っています。子宮の中にいた頃のような、求めるだけ与えられる世界に彼はいるのです。しかし、この世に生れ落ちたからにはそうもいきません。求めるものが与えられない場合が生じます。これを赤ちゃんは「不快」と感じ、子宮の中にいた頃のような「求めるだけ与えられる」感覚(=全能感)を「快」と感じるのです。赤ちゃんの感情は初めはこの二種類しかありません。ここから感情が複雑化していくわけですね。
そんな「快」「不快」の中、幼児は鏡に映る自分を発見します。その姿は自分が考えた通りに動く物体です。これは彼の全能感を満たしてくれる初めての「自己」です。当然の如く、彼は鏡に映る「自己」に強い愛着を持ちます。指しゃぶりや自分の性器をいじったりするようになります。これが「自己愛」の前身になるわけですね。「自体愛」というものでしょうか。鏡に映らないまでも、他人の言動をみて幼児は「自己」を想像します。「鏡」は暗喩的なものと思ってください。
自分の体という「自己」を手に入れた幼児は、当然の成り行きで「自己」と「他者」の差異に気付きます。与えてくれる相手(母親)が他者だと気付くわけです。他者であるならば、「与えられないという不快」は必然のものだと幼児は気付きます。「与えられるもの・世界」が「絶対・永遠」ではないと気付くわけですね(「萎んだ乳房」という暗喩)。快と不快を包括したそれは、メラニー・クラインの言う「乳房に糞便をかける(暗喩ですよ)」的な感情になります。「自発的な乳離れ」的な感覚になるでしょうか。
ここまでは、ラカン論でいえば、全て言葉のない世界、目に見え耳に聞こえる世界から想像する「想像界」における話です。
やがて幼児は成長していきます。彼らは言葉によりルール化された世界(社会)に入らなければなりません。ここでやっと「父性」が登場します。幼児が疑いながらも持っている「全能感」を、父親が「父の名において(言葉により)」去勢してしまうわけです(しつこいですが暗喩ですよ)。そうして幼児は言葉の世界、今私たちがいる「象徴界」に参入するのです。
去勢された「全能感」。去勢されたとしても去勢の痕は残ります。その「去勢痕」も含めて、「ファルス」といいます。
これがラカンの鏡像段階論です。フロイトでいうならば、口唇期→肛門期→男根期→エディプスコンプレックス→去勢という流れでしょうか。
この流れを見ると、赤ちゃんが元々持っていた全能感・ファルス=同一感が、自己の発見・発達=他者との差異化により葛藤が芽生え、その幕引きとして「去勢」が行われる、というイメージが理解できるでしょう。そして、その葛藤の中で生まれるのが「自己愛」なわけです。また、「去勢痕」が残っているからには去勢後も同様の葛藤があると予想されます。この赤ちゃんの時の原初的な葛藤が、「傷跡」により再発するのがパラノイア的葛藤になるのです。
こう考えると、パラノ的「自己愛」には、同一化と差異化という葛藤そのものが原初的に含まれているということがわかると思います。その葛藤が強く精神に影響する、「パラノ的人格構成要素のオーバーシュート」が、「自己愛」的言動で表れるのは当然だと言えます。
先程のサイトでも書かれているように、この「押しかけ厨」や「お兄ちゃんどいて~」の彼女が持つ感覚の素因・病理は、人間誰しもが持っているものと言えるのです。
ここでパラノ的人格の対立項として示した「スキゾ的人格」をちょっと考えてみましょう。
彼らはその内的動力が「想像界<象徴界」である(具体的には抽象化能力や類化能力が強いなど)、という仮定義をつけました(パラノは逆で想像界>象徴界)。去勢までは同じように成長すると思われますが、彼らは象徴界の内的動力が大きいので、言葉の世界を恐れません。但し全能感を失う恐怖はあるでしょう。全能感は自己の発見・発達という成長により、それがかりそめだと幼児は薄々感づいていると思われます。それらを一緒くたにして、「全能感を失った後に訪れる象徴界」に恐怖しているのが第一次反抗期だとしたら、スキゾ的人格は第一次反抗期において(パラノと比べて)それほど強い反抗的態度を示さないでしょう。身体的成長により「去勢痕」が疼く第二次反抗期も同様だと思います。こういう幼児は自我が弱く育つという傾向が言われています。引きこもりや自閉的性格になりやすいという言い方になるでしょうか。
しかし、本来内的動力として想像界が強い(現実の他者とのコミュニケーション能力がスキゾ的人格より強い)はずのパラノ的人格でも引きこもりになることがあります。彼らは「目に見え耳に聞こえそこから想像する他者」である想像的他者と自我の繋がり=想像的軸を「故意に」断っているのです。彼らはスキゾ的引きこもりと比較すると自我が強いです。パラノ的と考えれば同一化と差異化の葛藤による「自己愛」が言動に表れるのも頷けます。先程のサイトではそれを「自己愛型引きこもり」として紹介していますね。以下引用します。
=====
衣笠隆幸は「自己愛とひきこもり」(精神療法26巻6号,2000)という論文の中で、「自己愛型ひきこもり」という分類を提唱しているのだけれど、これがまさにこのタイプ。
一般に多いといわれているスキゾイドタイプのひきこもりが、他者に対する漠然とした不安感や自信欠乏、陰性の自己像などの理由でひきこもるのに対し、「自己愛型ひきこもり」は、万能的な自己像を傷つける場面を避けるためにひきこもる。そして、幼児的で自己中心的な満足を得るために、家族などにパラサイト的な依存を求める。
性格はというと、児童期までは真面目で成績もよかったものの、思春期青年期の時期にそうした能力が挫折して、もはや以前のようには発揮できなくなった体験を持っているものが多い、とのこと。また、一部には、自分は特別な能力を持っていて、世間がそれを認めてくれない、といった極端に万能的・空想的な自己像を持っている患者もいるという。
=====
これはまさに「ファルス」や「前世」(万能的・空想的な自己像)と呼応する人格モデルです。
パラノ的人格が普通、正常であり、スキゾイド(≠スキゾフレニー、統合失調症)はごく少数派です。非スキゾ的≒パラノ的引きこもりが「自己愛型引きこもり」なのです。
最初の話に戻りましょう。私は「記号のサイン化傾向についての考察」という記事で、オタクを二分化して考えるモデルを示しました。
スキゾ的オタをヘビーオタ、パラノ的オタをライトオタと仮に考えます。昔の「オタク」が虐げられていた時期のオタクたちは、もともと想像界が弱い、引きこもりや自閉的なスキゾイドタイプ、スキゾ的オタ=ヘビーオタが多く集まる傾向があった。そこへ、90年代エヴァンゲリオンなどのオタク文化とメジャーの壁を壊すような作品が生まれ、「オタク」が流行語的に広まっていった。その流れの中で本来のスキゾ的オタとは性質が異なる一般的な(人口的に圧倒する)パラノ人格のオタ=ライトオタが多数オタク文化に流入する結果となる。そういったモデルでした。
「第一世代」などという時間軸による分類ではなく、精神分析用語を暗喩的に用いた人格傾向により「オタク」を分類したわけです。
この記事の論は、パラノ的オタの増加という側面を表している、とはいいませんが、パラノ的オタというものの、強烈な一例として例示してみました、ということになるでしょうか。もちろんこれがオタク文化におけるパラノ的オタの増加ということを論理的に証明するものだとは思っていません。あくまでも例示です。
パラノ的オタクや自己愛型引きこもりについては、パラノ的人格(≒非スキゾ的人格≒一般人)の表面的なスキゾ的人格化、スキゾ的人格の仮面を被るパラノ的人格、というようなモデルになるんでしょうか。
うーん、やはりオタク文化はポストモダンの様々な特徴を多くデフォルメして表出させている文化だなあ、とふと思ったりしてしまいました……。