ドゥルーズ=ガタリは馴れ馴れしい。ラカンは冷たい。
2008/05/18/Sun
ドゥルーズ=ガタリの「充実身体」って言葉はいいねえ。最近のわたしは笙野本人ともやり合える気がするほど充実している。
医学的な肉体はぼろぼろだけどね。健康体とはまるっきり別物であることは強調したい。充実身体やらなんやらってのは。胃が痛い頭が痛い肌ぼろぼろ爪割れた睡眠時間が不規則だ……、なーにが充実身体だよ。器官なき身体は身を痛めつける。分裂症者が「自己増殖する机」を制作している時は、寝る間も惜しんで作業をやっているのだ。止めたくても止まらないのだ。
やっぱ他人事の、「分裂症になりたい非分裂症者」の二次元的戯言だな。本当に充実身体知っているならラカンを選ぶだろう。思想というジャンルに限るならな。定型人の、神経症者の肉を切り裂くにはラカン論の方が切れ味がよい。上野千鶴子の松井冬子作品評である「不幸を(絵を見ているわたしたちに)伝染させようとしている」でも構わんが。
自分を防衛するために学ぶもんじゃないの? と素の顔で思う。わたしという領域を防衛する武器としては、鋭く尖ったメスとしては、ラカン論の方が上だ。近くにいた奴が勝手に怪我するだけ。勝手に伝染しているだけ。ドゥルーズ論は防衛にならない。自分の癌細胞を取り出したいがために学んでいるのに、「あなたはの身体は充実してますよ」とか言われても困る。いやマルクス、ヘーゲルなんかよりよっぽど使えるけど。ドゥルーズ=ガタリは馴れ馴れしい、ラカンは冷たい。だからラカンを選んだ、ってことやね。脂に塗れたメスで他人は切りにくいって話に過ぎんよ。すぎにょ。
つーか、エディプスコンプレックスに塗れてる現実を、資本主義という現実を、男性的主体が運命的にと言ってもいいほど課せられる固定観念を、アーアーキコエナイするためだけに『アンチ・オイディプス』論ぶってる奴が多すぎる。
そんな奴に限ってエディコン、マザコンばりばりなんだが。わたし視点。
ドゥルーズ=ガタリが批判しているのは自分自身のような人間だと気づけない奴ら。そんな奴らが多くてキモイ。言葉狩りだけで満足している奴ら。家族から離脱できないおぼっちゃまおじょーちゃまたち。自ら三角形に閉じこもりたがる厚顔な人間たち。
べーつにエディコンじゃなくていいんだけどね。言葉なんてなんでもいい。ぐめらぼっちょ、とかでも可。
今後「エディコン」のこと「ぐめらぼっちょ」って言おうか? このブログだけでも。ワードって便利よねー。
原則、シニフィアンとは諸刃の剣ってこと。とっても簡単なことなのに、なんでわからなくなっちゃうんだろう? 特に男性。特に定型人。特に神経症者。その鎧、重たくない? 鈍感者くんたち。
ここら辺括るのにエディコンって楽なのよねー。男性的だし定型人的だし神経症的だし。
ドゥルーズ=ガタリ論を学ぶならば、まず、自分自身のエディプスコンプレックスを解体するべきだ、とゆう話。
笙野頼子みたいなんがドゥルーズ=ガタリやるのは構わないと思う。小説家なんて幻想構築が、生産と反生産のせめぎ合いが仕事なんだから、ドゥルーズ選ぶのは、武器として使うなら、正しいのだろう。
ぐみらぼっちょ!
あれ? なんか間違えた?
医学的な肉体はぼろぼろだけどね。健康体とはまるっきり別物であることは強調したい。充実身体やらなんやらってのは。胃が痛い頭が痛い肌ぼろぼろ爪割れた睡眠時間が不規則だ……、なーにが充実身体だよ。器官なき身体は身を痛めつける。分裂症者が「自己増殖する机」を制作している時は、寝る間も惜しんで作業をやっているのだ。止めたくても止まらないのだ。
やっぱ他人事の、「分裂症になりたい非分裂症者」の二次元的戯言だな。本当に充実身体知っているならラカンを選ぶだろう。思想というジャンルに限るならな。定型人の、神経症者の肉を切り裂くにはラカン論の方が切れ味がよい。上野千鶴子の松井冬子作品評である「不幸を(絵を見ているわたしたちに)伝染させようとしている」でも構わんが。
自分を防衛するために学ぶもんじゃないの? と素の顔で思う。わたしという領域を防衛する武器としては、鋭く尖ったメスとしては、ラカン論の方が上だ。近くにいた奴が勝手に怪我するだけ。勝手に伝染しているだけ。ドゥルーズ論は防衛にならない。自分の癌細胞を取り出したいがために学んでいるのに、「あなたはの身体は充実してますよ」とか言われても困る。いやマルクス、ヘーゲルなんかよりよっぽど使えるけど。ドゥルーズ=ガタリは馴れ馴れしい、ラカンは冷たい。だからラカンを選んだ、ってことやね。脂に塗れたメスで他人は切りにくいって話に過ぎんよ。すぎにょ。
つーか、エディプスコンプレックスに塗れてる現実を、資本主義という現実を、男性的主体が運命的にと言ってもいいほど課せられる固定観念を、アーアーキコエナイするためだけに『アンチ・オイディプス』論ぶってる奴が多すぎる。
そんな奴に限ってエディコン、マザコンばりばりなんだが。わたし視点。
ドゥルーズ=ガタリが批判しているのは自分自身のような人間だと気づけない奴ら。そんな奴らが多くてキモイ。言葉狩りだけで満足している奴ら。家族から離脱できないおぼっちゃまおじょーちゃまたち。自ら三角形に閉じこもりたがる厚顔な人間たち。
べーつにエディコンじゃなくていいんだけどね。言葉なんてなんでもいい。ぐめらぼっちょ、とかでも可。
今後「エディコン」のこと「ぐめらぼっちょ」って言おうか? このブログだけでも。ワードって便利よねー。
原則、シニフィアンとは諸刃の剣ってこと。とっても簡単なことなのに、なんでわからなくなっちゃうんだろう? 特に男性。特に定型人。特に神経症者。その鎧、重たくない? 鈍感者くんたち。
ここら辺括るのにエディコンって楽なのよねー。男性的だし定型人的だし神経症的だし。
ドゥルーズ=ガタリ論を学ぶならば、まず、自分自身のエディプスコンプレックスを解体するべきだ、とゆう話。
笙野頼子みたいなんがドゥルーズ=ガタリやるのは構わないと思う。小説家なんて幻想構築が、生産と反生産のせめぎ合いが仕事なんだから、ドゥルーズ選ぶのは、武器として使うなら、正しいのだろう。
ぐみらぼっちょ!
あれ? なんか間違えた?