『ナッツ』――専制君主国家を生きる幸福。
2008/05/19/Mon
この記事(あとこの記事も)に影響されて、『ナッツ』という映画を見た。
うん。おもれえ。
一つだけ気になったところは、記事コメント中のお二人も触れていることだが、とりあえず引用しよう。
=====
あと、過去があきらかになったときに、原因が誰にでもわかりやすいので、そこも現実はそんなに簡単じゃないって思う部分ですけどね。
=====
ここはわたしも気になった。「トラウマを固定化しているような感じ。即ち主人公女性みたいな主体になるのは、性的虐待が原因である、という短絡的因果論の押しつけのようにも見える」ということだけど、お二人もそれについて注釈しているし、わたしとしては何も言うことがなかったりする。
何も言うことがないのに何で書いているかっていうのは後述。
文字数稼ぎがてらこのことについて補足してみる。今ちょうどドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』(新訳)読んでいるんだけど、その視点で言うならば、この映画の脚本そのものが、オイディプス神話というファシズムに洗脳されている、とも言えよう。つまり、彼女の反社会的態度は充実身体によるもので、それを「救済する」目的で、そのトラウマという原因を、エディプスコンプレックス的家族内関係に収斂させた脚本である、というわけ。もちろん主体はオイディプスという男性ではなく女性であるところがミソではあろうが、女性のエディプスコンプレックスたる断頭コンプレックスを媒介させて解釈しても面白いと思った。思ったのでちょっと遊んでみる。
主人公女性は、父から性的虐待を受けている時、何も考えていなかったろう。むしろ何も考えないことが父のためにも自分のためにも良いことだと受け入れていただろう。この時彼女は、人形になろうとしていた。ロリコン親父が愛撫するのに最適な人形に。人形になるために、自分に「考えるな」と言い聞かせていた。これらの描写は、まさに「女はバカで構わない」的な断頭コンプレックスの構造を比喩できている。このことが後の彼女の人生にも影響していった、即ち彼女は断頭コンプレックスに固着しているのだ、などというフェミニズム的野暮な解釈は可能である。人形に固着しているからこそ、人形の中に詰まった充実身体の生産物、即ちアブジェクトに振り回されている、などと言ってもよい。
しかし、この記事でも述べているように、物語作品に対する精神分析的批評とは、登場人物の無意識を探るのではなく、語る主体の無意識を探るものであるべきだとわたしは考えている。この作品は映画であるため、たとえば文芸のように、「語る主体」が固定化され難いのは確かである。なのでわたしは「この映画の脚本」と限定し、そのコノテーション領域にあるものは『アンチ・オイディプス』が批判したものと同じではないか、と解釈したのだ。
そう考えるならば、むしろ、彼女のトラウマが、オイディプス神話という専制君主的抑圧を受け、(エディプスコンプレックスと対になる)断頭コンプレックス的な家族内問題に固定化され、それが救済となっているからこそ、彼女は非分裂症者であり、「ナッツではない」正常者であるのだ、などという意地の悪いメッセージに言い換えることも可能であろう。トラウマという原因を家族内問題に固定化することを受け入れた彼女は、受け入れることが可能だったからこそ、立派な神経症者=定型人=オイディプス神話という専制君主国家の国民足り得たのだ。ラストシーン、主人公女性が、法廷の扉を開け、歩く街中こそが、オイディプス神話を上演する演劇舞台、即ち専制君主国家なのだ、と。
この映画には精神科医が登場するが、むしろ弁護士と法廷という場が、『アンチ・オイディプス』が批判する、専制君主主義の伝道師たる精神分析家として機能していた、という言い方もできよう。ラストシーンで彼女が開ける扉は、長椅子に象徴される分析部屋の扉だったのだ。
もちろん『アンチ・オイディプス』はある時代を背景にして書かれた本であり、この本に書かれている言葉を教条主義的に捉えてはならない、とわたしは考えている。なので以上の論は自分で書いてていささか時代遅れのようにも見える、という言い訳ぐらいはしておこう。
念のため補足するなら、これらは脚本という限定化された領域の話であり、この映画の魅力はそこ以外にもたくさんある。リンク先のお二人も指摘しているように、各々の役者の演技は素晴らしいと思う。演出も、リアリズム的なものに拘りつつ感情を爆発させるドラマティックなシーンへの連結などは見事である。わたしは素直に「おもれえ」と思った。先のいちゃもん的解釈は文字数稼ぎと思ってくれて構わない。ドードーとらさんの言うように、「自閉症だナントカ障害だとかいう当事者やその周辺の人には特に」見て損はない映画だと思う。
あれだね、充実しているからこそこんな二次元的な戯言を垂れ流せるのだろうねえ。結構文章量書けている自分にちょっとびっくり。
んで話戻すとだな。いやとっても自分勝手な感想であって批評でもなんでもないんだが、最近のわたしの当たり構わず唾吐いている態度って、この主人公女性のように見られているんじゃないか、みたいな被害妄想的なものがふと頭をよぎったのだ。
いや、いいんだけどね、コメントでいきなりわたしの話になってるじゃん? カンケーないっちゃーカンケーないんだけど、深読みすると、この映画からわたしみたいな攻撃的主体が連想されたから、わたしの名前が出たのではないか、という妄想がだな。
ああうん、とっても身勝手な妄想なのだ。アリスさんを攻撃しているわけじゃなくてね、ああうん、そうであってもおかしくないな、と自分で思っているのだ。
なんていうか、ヒステリーあるいはボーダーなんだよな。こういうのが。ホントの。みたいな。笙野頼子なら巫女とかって言葉でも構わない。わたしは主人公女性に、ちょっとだけ、巫女を見出している。もちろん、「受け入れられた」からこそ巫女として機能しているのかもしれないし、この映画は巫女を描いているわけじゃないから、それでいいのだけれど。巫女がアレなら、『アケボノノ帯』(『二百回忌』所収)でもいい。
想像的身体、ケガレと針を乗せるための皮膚、っていうかねえ。想像的身体が、マイナスのつかない二次的かつ原初的ファルスとなっている、のか? いや独り言。
ヒステリーやボーダーこそが、ユングが求めていた両性具有者っぽくわたしゃ思える。だけど女ったらしユングはアニマとかって美化しちゃった。「ボクにだけは牙を剥かないで、ファルスを突きつけないで」みたいな。
人形が愛する日常的現実に住まう男性と、人形の中身の糞便が愛する神は別物、ってことかいのう。分裂的ね。
あーうー右京様論書こうと思ったのになんで違う映画の話してんだろ。
充実身体って言うこと聞いてくれないわあ。
うん。おもれえ。
一つだけ気になったところは、記事コメント中のお二人も触れていることだが、とりあえず引用しよう。
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あと、過去があきらかになったときに、原因が誰にでもわかりやすいので、そこも現実はそんなに簡単じゃないって思う部分ですけどね。
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ここはわたしも気になった。「トラウマを固定化しているような感じ。即ち主人公女性みたいな主体になるのは、性的虐待が原因である、という短絡的因果論の押しつけのようにも見える」ということだけど、お二人もそれについて注釈しているし、わたしとしては何も言うことがなかったりする。
何も言うことがないのに何で書いているかっていうのは後述。
文字数稼ぎがてらこのことについて補足してみる。今ちょうどドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』(新訳)読んでいるんだけど、その視点で言うならば、この映画の脚本そのものが、オイディプス神話というファシズムに洗脳されている、とも言えよう。つまり、彼女の反社会的態度は充実身体によるもので、それを「救済する」目的で、そのトラウマという原因を、エディプスコンプレックス的家族内関係に収斂させた脚本である、というわけ。もちろん主体はオイディプスという男性ではなく女性であるところがミソではあろうが、女性のエディプスコンプレックスたる断頭コンプレックスを媒介させて解釈しても面白いと思った。思ったのでちょっと遊んでみる。
主人公女性は、父から性的虐待を受けている時、何も考えていなかったろう。むしろ何も考えないことが父のためにも自分のためにも良いことだと受け入れていただろう。この時彼女は、人形になろうとしていた。ロリコン親父が愛撫するのに最適な人形に。人形になるために、自分に「考えるな」と言い聞かせていた。これらの描写は、まさに「女はバカで構わない」的な断頭コンプレックスの構造を比喩できている。このことが後の彼女の人生にも影響していった、即ち彼女は断頭コンプレックスに固着しているのだ、などというフェミニズム的野暮な解釈は可能である。人形に固着しているからこそ、人形の中に詰まった充実身体の生産物、即ちアブジェクトに振り回されている、などと言ってもよい。
しかし、この記事でも述べているように、物語作品に対する精神分析的批評とは、登場人物の無意識を探るのではなく、語る主体の無意識を探るものであるべきだとわたしは考えている。この作品は映画であるため、たとえば文芸のように、「語る主体」が固定化され難いのは確かである。なのでわたしは「この映画の脚本」と限定し、そのコノテーション領域にあるものは『アンチ・オイディプス』が批判したものと同じではないか、と解釈したのだ。
そう考えるならば、むしろ、彼女のトラウマが、オイディプス神話という専制君主的抑圧を受け、(エディプスコンプレックスと対になる)断頭コンプレックス的な家族内問題に固定化され、それが救済となっているからこそ、彼女は非分裂症者であり、「ナッツではない」正常者であるのだ、などという意地の悪いメッセージに言い換えることも可能であろう。トラウマという原因を家族内問題に固定化することを受け入れた彼女は、受け入れることが可能だったからこそ、立派な神経症者=定型人=オイディプス神話という専制君主国家の国民足り得たのだ。ラストシーン、主人公女性が、法廷の扉を開け、歩く街中こそが、オイディプス神話を上演する演劇舞台、即ち専制君主国家なのだ、と。
この映画には精神科医が登場するが、むしろ弁護士と法廷という場が、『アンチ・オイディプス』が批判する、専制君主主義の伝道師たる精神分析家として機能していた、という言い方もできよう。ラストシーンで彼女が開ける扉は、長椅子に象徴される分析部屋の扉だったのだ。
もちろん『アンチ・オイディプス』はある時代を背景にして書かれた本であり、この本に書かれている言葉を教条主義的に捉えてはならない、とわたしは考えている。なので以上の論は自分で書いてていささか時代遅れのようにも見える、という言い訳ぐらいはしておこう。
念のため補足するなら、これらは脚本という限定化された領域の話であり、この映画の魅力はそこ以外にもたくさんある。リンク先のお二人も指摘しているように、各々の役者の演技は素晴らしいと思う。演出も、リアリズム的なものに拘りつつ感情を爆発させるドラマティックなシーンへの連結などは見事である。わたしは素直に「おもれえ」と思った。先のいちゃもん的解釈は文字数稼ぎと思ってくれて構わない。ドードーとらさんの言うように、「自閉症だナントカ障害だとかいう当事者やその周辺の人には特に」見て損はない映画だと思う。
あれだね、充実しているからこそこんな二次元的な戯言を垂れ流せるのだろうねえ。結構文章量書けている自分にちょっとびっくり。
んで話戻すとだな。いやとっても自分勝手な感想であって批評でもなんでもないんだが、最近のわたしの当たり構わず唾吐いている態度って、この主人公女性のように見られているんじゃないか、みたいな被害妄想的なものがふと頭をよぎったのだ。
いや、いいんだけどね、コメントでいきなりわたしの話になってるじゃん? カンケーないっちゃーカンケーないんだけど、深読みすると、この映画からわたしみたいな攻撃的主体が連想されたから、わたしの名前が出たのではないか、という妄想がだな。
ああうん、とっても身勝手な妄想なのだ。アリスさんを攻撃しているわけじゃなくてね、ああうん、そうであってもおかしくないな、と自分で思っているのだ。
なんていうか、ヒステリーあるいはボーダーなんだよな。こういうのが。ホントの。みたいな。笙野頼子なら巫女とかって言葉でも構わない。わたしは主人公女性に、ちょっとだけ、巫女を見出している。もちろん、「受け入れられた」からこそ巫女として機能しているのかもしれないし、この映画は巫女を描いているわけじゃないから、それでいいのだけれど。巫女がアレなら、『アケボノノ帯』(『二百回忌』所収)でもいい。
想像的身体、ケガレと針を乗せるための皮膚、っていうかねえ。想像的身体が、マイナスのつかない二次的かつ原初的ファルスとなっている、のか? いや独り言。
ヒステリーやボーダーこそが、ユングが求めていた両性具有者っぽくわたしゃ思える。だけど女ったらしユングはアニマとかって美化しちゃった。「ボクにだけは牙を剥かないで、ファルスを突きつけないで」みたいな。
人形が愛する日常的現実に住まう男性と、人形の中身の糞便が愛する神は別物、ってことかいのう。分裂的ね。
あーうー右京様論書こうと思ったのになんで違う映画の話してんだろ。
充実身体って言うこと聞いてくれないわあ。