ロリコンオヤジんところつっついてきた。
2008/05/20/Tue
ここ。
ほれほれここここ、笙野ファンどもここのコメント欄読んでみろ。
お前らが批判すべき奴らが眼前してるだろーが。
「心の闇(笙野なら「どろどろの権現」、パンサババアなら「ぐちょぐちょ」とか「渾沌」)なんて実在するかどうかわからないからスルー」などと言う奴ら。「ある」という確信はあるのに「ない」と口先だけで言う奴ら。火星人に地球スーツを強制して、社会に組み込ませて消費物にしたがる奴ら。火星人遊郭で、卒業と称し少女を惨殺するおんたこたち。
もっと内省してじっくり考えて、それから世の中見回してみろ。
自分の中にも、周囲四方八方にも、おんたころんちくろりりべ(このオヤジについては最後はよくしらん)はうじゃうじゃ密集している。
笙野が「こいつがおんたこだ」つった奴しか攻撃しないなら、お前らにも心なんてねえよ。ただのロボットだ。
あー断っておくがこのロリコンオヤジを攻撃しろつってるわけじゃないぞ。わたしゃ笙野頼子じゃないからな。
笙野の言葉を祈りを呪文を本当に理解したいなら、言葉の向こうにある本質を求めろ、ということだ。その本質は、あると思ってしまったらダメだ。その時点でそれは本質ではない。求めることが大事なのだ。そうしてたとえばそこに仮設され言語化されたものが、同じ文章からのものであっても、別々であって構わない。この「仮設」を「確信」と言い換えようとも構わない。
リンク先のババアなんかは笙野の言葉の表層をつるつる滑っているだけだ。わたしから見ればそれこそ二次元評論家と笙野が批判する田中和生などと違わないように思える。
何故、一歩踏み込まない? 踏み込めないんだろうな。お前が飲み込んだお前の内部にある笙野の言葉に。乳児が母親の母乳を吸い尽くすがごとく飲み込んだ呪いの中に。
そういうことだ。
最初の記事のロリコンオヤジに対するわたしの態度は、攻撃的にはなっているが、わたしゃむしろ傲慢鈍感自己美化ババアなんかよりこのロリコンオヤジに組するだろう。このオヤジはまだ権力者であることを自覚できている。彼が精神分析を活用しないのも批判しないしむしろ理解できるし、自閉症者との断絶を目の前にして、「こっち側」に、笙野言語で言うなら二次元側に立つことを、自分が二次元から外れられないことを自覚しつつ、メリットデメリットもそこそこ知りつつ、それを自分で言明しているからな。その立場は尊重できる。
自己美化のために二次元側から二次元から外れたものに同情するババアなんかよりよっぽどマシ。
つーか自分の子供には、精神分析は適用されないってだけで、そっちを学んでいるわたしもそれに同意して、別に彼が脳科学やら認知系に行くのは、わたしは理解できるのに、なーんで彼は「マスコミが、障害や心の病に犯罪の原因を求める」ことの原因が精神分析だ、なんて言っちゃうのだろう。それって犯罪心理学であり精神分析とは無縁だ。心理学は哲学からの派生であり、精神分析は医学(科学)からの派生である。もちろんあちこちで融合しとるが。つーかそんなんジョーシキっしょ。
精神分析では、犯罪者だろうがロリコンだろうが中二病だろうが、そこにいるのは等しくクライアントだ。ロリコンオヤジも心理士ならわかるだろうそれくらい。
ロリコンオヤジは精神分析じゃない道具を選んだ、ってだけの話がなーんで「精神分析」を仮想敵にしないと気が済まないのかねえ? ここが問題。っていうかわたしが興味を持った(コメントに殴り込んだ)理由。
この記事とかでわたしにさっくり斬られたから? ちょっと屈折した否認じゃろうかね。もしそうならますますこのメスに惚れ惚れするわあ。まあいいけど。
ラカン「萌え」派の精神科医たる斎藤環とかが「心理学ブーム」を批判した本書いてたが、わたしもそれには同意できる。今の心理学なんて占い化していると思うし、自我心理学バンジャーイな心理カウンセラーたちにも批判をかましてきた。それ系ブログにも殴り込んだことがある。
かと言ってわたしは精神分析自体も批判している。
そういったわたしから見ると、ロリコンオヤジの言葉は短絡し過ぎ、ってことだ。そこのコメントから引用しよう。
=====
だいたい世間もマスコミもアスペルガーと診断されればアスペルガーのせいにし、そうでなければゲームや漫画のせいにする。
そんな単純なものじゃないでしょうーに。
=====
お前は「単純に」斎藤環曰く「心理学化する社会」を精神分析のせいにしているに過ぎんよ。むしろ、世間やマスコミに流通しているのは、心理学でも精神分析でもない、「占い化」「信仰化」「単純化」された、「ゲーム脳」などといったニセ科学ならぬニセ心理学だろうが。精神分析はこの辺をきちんと知っている。「わかりやすさの危険」って奴だ。何より精神分析なんて最初から鼻にもひっかかっておらん。日本の世間やマスコミには。ニセ精神分析もないわけではないが。日本で精神分析受けたって人どんだけいると思ってんだ? 心理カウンセリングなんかと比べて。
社会やマスコミが、障害や心の病に犯罪の原因を求めることの原因は、他でもない社会の一員でもあり心理士でもあるお前自身の中に「も」あるのだよ。もちろんわたしの中にもあるだろう。ブログでは間違った精神分析応用を展開してるがねw わざと。
要するに、わたしゃお前に精神分析を学べなどとは強制していない、ということだ。お前の学のやり方もあり、わたしの学のやり方もありだ。この記事でもヒント出してあげてるだろう。
=====
さて、今のわたしの脳内理屈体系は、主に精神分析学に依拠している。精神分析は器質因による精神疾患は語れない。従って自閉症というカテゴリにおいては語るものがない。まさに精神分析学という体系の中では、彼らは「存在しない」。とはいえ、アスペルガー症候群については、言語を用いる主体であるので、語れないことはない。
=====
アスペルガー症候群ではない、重度の自閉症について、フロイト-ラカン的な精神分析理論はその体系に組み込めていない(統合失調症についても精神分析はぼろぼろ)という批判なら受けつける。それは正しいからだ。
その分お前みたいな定型人を分析するにゃー持ってこいだ。とってもよく切れるメスだが、反面、信仰化単純化されると定型人を称揚するものにもなる。毒にもなれば薬にもなるってカンジ? そっちの面を『アンチ・オイディプス』は批判しているのだろうな。いやごめんこれは独り言。
しかし、このロリコンオヤジは倫理を放棄する。
=====
いろいろな行動の原因を、非常に複雑だとされる「心」に求める(心理化・内面化)というのは、最近の私たちにとってとても「当たり前」のことのように感じられますが、実はある種の倫理的な「立場」であって、絶対的なものではないと思っています。
=====
ほーれ笙野ファンども、こいつがおんたこである証拠だ。まあそれはいいとして。
確かに「倫理」という言葉は微妙だ。わたしもこんな文章を使うかもしれない。倫理と言うなら、自分自身内部から惹起される倫理とかって言うだろうな。言語的に矛盾臭いが。
そう考えるならば、確かに絶対的なものじゃない。むしろそれは相対的なものだ。しかし、このロリコンは一つだけ見えていない。それは自分自身を相対化できてないこと。自分なるものを表面的にしか、二次元的にしか捉えられていないことだ。
アスペルガー症候群者は、判断基準として根源的な、「好き/嫌い」あるいは「快/不快」さえ、自己判断し難いのだ。好きでもないし嫌いでもないから、とりあえずでいいなら好きとも嫌いとも言える。なんとまあ相対主義的主体であろう。
このロリコンオヤジは、ドードーとらさんと論争していたのだが、とらさんは言った。
=====
「自分が受けた印象を疑ってくれ」と裁判官に言わなきゃいけないし
=====
ロリコンオヤジは、こんな言葉を吐けないだろう。自分自身を相対化できていないからだ。確かに二次元的言語的社会的領域では相対化できているのだろう。たとえばそれこそ心理士という肩書きなり。
しかし、彼は、「自分という存在自体である概念」について、疑えていない。
これこそが、わたしの言う、「ある」と確信しているのに口先だけで「ない」という奴ら、相対主義を口先だけぶって本当の相対主義主体はアブジェクシオンの最中にいることを知らない奴らであり、これが、笙野の言う「おんたこ」の正体である。
ここが疑えていないように見えるから、お前の言葉は軽薄に、二次元的に見えるのだ。
どーでもいいけどお前んとこのレス自閉症者なりの「親」とか「関係者」ばっかりだよな。定型人向けブログではあろう。別にそれはそれでよい。わたしはお前に罵詈を浴びせることで、非定型人側に引き寄せようとしているのだから。わー、ドゥルーズ=ガタリの分裂分析みたーい、と思って自分でイヤになった。ごめん。もうやめる。
犯罪心理学的なものと精神分析を繋げるなんてバカ丸出し過ぎて突っ込まざるを得なかったのよ。いやこのオヤジの認知科学系のアプローチとか鋭いと思うところあるしね。身近に研究サンプルがいるんだもの。そりゃー鋭くもなるさ。ブログに発表している論文などはそこそこ評価している。
こういう人が「自分の精神分析についての無知を棚上げにして無知をさらけ出すことになっている状況」って見ててすっごく恥ずかしいのよ。応援しているからこその罵倒だ。とか言い訳だけどな。
私信+追記。
ごめん思わず引用しちゃったけど、ドードーとらさんの論争とは関係のない話です。わたしが勝手にむかついただけ。
後あっちでやると、わたしの脳内野次馬がうざそうだし、ここで言いたいこといったから、以降あっちへのコメントは控えるよ。めんどくさい。わたしに読ませたい文章があるならこっち書いて。秘密コメントでもいいし。
あーだるー。
ほれほれここここ、笙野ファンどもここのコメント欄読んでみろ。
お前らが批判すべき奴らが眼前してるだろーが。
「心の闇(笙野なら「どろどろの権現」、パンサババアなら「ぐちょぐちょ」とか「渾沌」)なんて実在するかどうかわからないからスルー」などと言う奴ら。「ある」という確信はあるのに「ない」と口先だけで言う奴ら。火星人に地球スーツを強制して、社会に組み込ませて消費物にしたがる奴ら。火星人遊郭で、卒業と称し少女を惨殺するおんたこたち。
もっと内省してじっくり考えて、それから世の中見回してみろ。
自分の中にも、周囲四方八方にも、おんたころんちくろりりべ(このオヤジについては最後はよくしらん)はうじゃうじゃ密集している。
笙野が「こいつがおんたこだ」つった奴しか攻撃しないなら、お前らにも心なんてねえよ。ただのロボットだ。
あー断っておくがこのロリコンオヤジを攻撃しろつってるわけじゃないぞ。わたしゃ笙野頼子じゃないからな。
笙野の言葉を祈りを呪文を本当に理解したいなら、言葉の向こうにある本質を求めろ、ということだ。その本質は、あると思ってしまったらダメだ。その時点でそれは本質ではない。求めることが大事なのだ。そうしてたとえばそこに仮設され言語化されたものが、同じ文章からのものであっても、別々であって構わない。この「仮設」を「確信」と言い換えようとも構わない。
リンク先のババアなんかは笙野の言葉の表層をつるつる滑っているだけだ。わたしから見ればそれこそ二次元評論家と笙野が批判する田中和生などと違わないように思える。
何故、一歩踏み込まない? 踏み込めないんだろうな。お前が飲み込んだお前の内部にある笙野の言葉に。乳児が母親の母乳を吸い尽くすがごとく飲み込んだ呪いの中に。
そういうことだ。
最初の記事のロリコンオヤジに対するわたしの態度は、攻撃的にはなっているが、わたしゃむしろ傲慢鈍感自己美化ババアなんかよりこのロリコンオヤジに組するだろう。このオヤジはまだ権力者であることを自覚できている。彼が精神分析を活用しないのも批判しないしむしろ理解できるし、自閉症者との断絶を目の前にして、「こっち側」に、笙野言語で言うなら二次元側に立つことを、自分が二次元から外れられないことを自覚しつつ、メリットデメリットもそこそこ知りつつ、それを自分で言明しているからな。その立場は尊重できる。
自己美化のために二次元側から二次元から外れたものに同情するババアなんかよりよっぽどマシ。
つーか自分の子供には、精神分析は適用されないってだけで、そっちを学んでいるわたしもそれに同意して、別に彼が脳科学やら認知系に行くのは、わたしは理解できるのに、なーんで彼は「マスコミが、障害や心の病に犯罪の原因を求める」ことの原因が精神分析だ、なんて言っちゃうのだろう。それって犯罪心理学であり精神分析とは無縁だ。心理学は哲学からの派生であり、精神分析は医学(科学)からの派生である。もちろんあちこちで融合しとるが。つーかそんなんジョーシキっしょ。
精神分析では、犯罪者だろうがロリコンだろうが中二病だろうが、そこにいるのは等しくクライアントだ。ロリコンオヤジも心理士ならわかるだろうそれくらい。
ロリコンオヤジは精神分析じゃない道具を選んだ、ってだけの話がなーんで「精神分析」を仮想敵にしないと気が済まないのかねえ? ここが問題。っていうかわたしが興味を持った(コメントに殴り込んだ)理由。
この記事とかでわたしにさっくり斬られたから? ちょっと屈折した否認じゃろうかね。もしそうならますますこのメスに惚れ惚れするわあ。まあいいけど。
ラカン「萌え」派の精神科医たる斎藤環とかが「心理学ブーム」を批判した本書いてたが、わたしもそれには同意できる。今の心理学なんて占い化していると思うし、自我心理学バンジャーイな心理カウンセラーたちにも批判をかましてきた。それ系ブログにも殴り込んだことがある。
かと言ってわたしは精神分析自体も批判している。
そういったわたしから見ると、ロリコンオヤジの言葉は短絡し過ぎ、ってことだ。そこのコメントから引用しよう。
=====
だいたい世間もマスコミもアスペルガーと診断されればアスペルガーのせいにし、そうでなければゲームや漫画のせいにする。
そんな単純なものじゃないでしょうーに。
=====
お前は「単純に」斎藤環曰く「心理学化する社会」を精神分析のせいにしているに過ぎんよ。むしろ、世間やマスコミに流通しているのは、心理学でも精神分析でもない、「占い化」「信仰化」「単純化」された、「ゲーム脳」などといったニセ科学ならぬニセ心理学だろうが。精神分析はこの辺をきちんと知っている。「わかりやすさの危険」って奴だ。何より精神分析なんて最初から鼻にもひっかかっておらん。日本の世間やマスコミには。ニセ精神分析もないわけではないが。日本で精神分析受けたって人どんだけいると思ってんだ? 心理カウンセリングなんかと比べて。
社会やマスコミが、障害や心の病に犯罪の原因を求めることの原因は、他でもない社会の一員でもあり心理士でもあるお前自身の中に「も」あるのだよ。もちろんわたしの中にもあるだろう。ブログでは間違った精神分析応用を展開してるがねw わざと。
要するに、わたしゃお前に精神分析を学べなどとは強制していない、ということだ。お前の学のやり方もあり、わたしの学のやり方もありだ。この記事でもヒント出してあげてるだろう。
=====
さて、今のわたしの脳内理屈体系は、主に精神分析学に依拠している。精神分析は器質因による精神疾患は語れない。従って自閉症というカテゴリにおいては語るものがない。まさに精神分析学という体系の中では、彼らは「存在しない」。とはいえ、アスペルガー症候群については、言語を用いる主体であるので、語れないことはない。
=====
アスペルガー症候群ではない、重度の自閉症について、フロイト-ラカン的な精神分析理論はその体系に組み込めていない(統合失調症についても精神分析はぼろぼろ)という批判なら受けつける。それは正しいからだ。
その分お前みたいな定型人を分析するにゃー持ってこいだ。とってもよく切れるメスだが、反面、信仰化単純化されると定型人を称揚するものにもなる。毒にもなれば薬にもなるってカンジ? そっちの面を『アンチ・オイディプス』は批判しているのだろうな。いやごめんこれは独り言。
しかし、このロリコンオヤジは倫理を放棄する。
=====
いろいろな行動の原因を、非常に複雑だとされる「心」に求める(心理化・内面化)というのは、最近の私たちにとってとても「当たり前」のことのように感じられますが、実はある種の倫理的な「立場」であって、絶対的なものではないと思っています。
=====
ほーれ笙野ファンども、こいつがおんたこである証拠だ。まあそれはいいとして。
確かに「倫理」という言葉は微妙だ。わたしもこんな文章を使うかもしれない。倫理と言うなら、自分自身内部から惹起される倫理とかって言うだろうな。言語的に矛盾臭いが。
そう考えるならば、確かに絶対的なものじゃない。むしろそれは相対的なものだ。しかし、このロリコンは一つだけ見えていない。それは自分自身を相対化できてないこと。自分なるものを表面的にしか、二次元的にしか捉えられていないことだ。
アスペルガー症候群者は、判断基準として根源的な、「好き/嫌い」あるいは「快/不快」さえ、自己判断し難いのだ。好きでもないし嫌いでもないから、とりあえずでいいなら好きとも嫌いとも言える。なんとまあ相対主義的主体であろう。
このロリコンオヤジは、ドードーとらさんと論争していたのだが、とらさんは言った。
=====
「自分が受けた印象を疑ってくれ」と裁判官に言わなきゃいけないし
=====
ロリコンオヤジは、こんな言葉を吐けないだろう。自分自身を相対化できていないからだ。確かに二次元的言語的社会的領域では相対化できているのだろう。たとえばそれこそ心理士という肩書きなり。
しかし、彼は、「自分という存在自体である概念」について、疑えていない。
これこそが、わたしの言う、「ある」と確信しているのに口先だけで「ない」という奴ら、相対主義を口先だけぶって本当の相対主義主体はアブジェクシオンの最中にいることを知らない奴らであり、これが、笙野の言う「おんたこ」の正体である。
ここが疑えていないように見えるから、お前の言葉は軽薄に、二次元的に見えるのだ。
どーでもいいけどお前んとこのレス自閉症者なりの「親」とか「関係者」ばっかりだよな。定型人向けブログではあろう。別にそれはそれでよい。わたしはお前に罵詈を浴びせることで、非定型人側に引き寄せようとしているのだから。わー、ドゥルーズ=ガタリの分裂分析みたーい、と思って自分でイヤになった。ごめん。もうやめる。
犯罪心理学的なものと精神分析を繋げるなんてバカ丸出し過ぎて突っ込まざるを得なかったのよ。いやこのオヤジの認知科学系のアプローチとか鋭いと思うところあるしね。身近に研究サンプルがいるんだもの。そりゃー鋭くもなるさ。ブログに発表している論文などはそこそこ評価している。
こういう人が「自分の精神分析についての無知を棚上げにして無知をさらけ出すことになっている状況」って見ててすっごく恥ずかしいのよ。応援しているからこその罵倒だ。とか言い訳だけどな。
私信+追記。
ごめん思わず引用しちゃったけど、ドードーとらさんの論争とは関係のない話です。わたしが勝手にむかついただけ。
後あっちでやると、わたしの脳内野次馬がうざそうだし、ここで言いたいこといったから、以降あっちへのコメントは控えるよ。めんどくさい。わたしに読ませたい文章があるならこっち書いて。秘密コメントでもいいし。
あーだるー。