2008/05/24/Sat
わたしにできることは、わたしという領域を守るための、柵を作ること。
君が、わたしが、合わせ鏡のように反射する、多角形の鏡が乱反射させる光を、なるべく漏らさないようにするための、柵を作ること。
歩道橋の下で、何も見ていない目で、無表情な顔で、ただ黙って立っている君を、守るための、守りきれていないけれど、わたしが自分を君を守りたいから、作る柵。わたしにとって、君にとって、空耳のような柵。わたしや君以外の誰かからは、意味のない柵。
柵の中で、泥んこになって遊ぶ君のために。そんな君を、いつまでも見ていたいわたしのために。
でも、わたしは、あの子になりたい。柵の外で、柵も作らず、君に微笑みかけるあの子に。君に見つめられているあの子に。柵を壊して、あの子になりたい。
君には、わたしという存在は、モールス信号でしか届かない。だから君は、わたしを見てくれない。
モールス信号のわたしは、存在している。君の中で、君の幻想の中で、柵の外を歩いている。
「ワタシハ、アルイテイマス」
君が、泥に溶けてしまわないための、柔らかな柵。真綿のような柵。
君を、縛りつけるための柵。
柵の外のあの子を、見つめ続ける君のせいで、作った柵。
君は、それを知ってか知らずか、両手を広げる。背伸びをする。それにびくっとしてしまうわたしは、君にモールス信号を送る。
「ワタシハ、アルイテイマス」
君は、ますます背伸びをする。
アクセス解析してて、いらんとこまで出張ってしまいました。
「もっとこう切り込んだらいいのに!」とかいろいろ思いながらしばらくロムってましたが。
ま、彼は主体性ゆるくないですよ。全然。むしろガッチガチ。
2008-05-25 日 08:02:26 /
URL /ドードーとら /
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ばれたw
ごめんねー。
でも、まあ、あのサイトの中では、文芸という規範の脇での話として、彼はとてもマシな位置につけていると思うのですよ。
もちろん文芸を(書く方にしろ読む方(評論など)にしろ)深く掘り下げることが、自閉症への接近に繋がるとは直接的に言えないけれど、「主体性の揺るがし」への接近にはなると思うのですね。少し近い領域の視野が広がるというか。経験上。
だけどその一方、逆方向の、定型人化、主体性の構築(固定化)の作用も持っているのが、芸術という呪術だとわたしは思うのです。
その狭間で、技巧という概念もあいまって、彼のやり方は認めざるを得ない、という感じでした。
そんな感じで、優しい目になってしまったのかなあ、と。
2008-05-25 日 15:29:28 /URL /脂 /
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うーん。俺なんかは脂さんのそういうとこってずるいよなぁとか思っちゃったりするんですけどね。
俺がちょっと援護してあげよっかなぁと思えば、すかさず俺のはしごをはずしに来やがるんだからもうw
2008-05-25 日 16:40:31 /
URL /ドードーとら /
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ごめんなさい。
二次元にこびりつきたい、こびりついちゃう、うんこなのですよ。
自分でもずるいなあって思うのよね。
あ、どこからロムってたのかわからないけれど、話の発端で、彼の小説を一読した感想として、その「語る主体」は「普通の人」だ、というのは言明したよ。
でも話すうちに、土鍋ごはんさんのところとかにも言及したんだけど、彼の言葉=二次元に、突っ込めなくなっちゃったんだよね。ヤマアラシの針が萎えたっていうか。後半疲れてたし。
ここは自分でもよくわからない。直観的に彼のやり方は違う、とは思うし、彼に伝えた。「熱砂を生きている」にはもうちょっと突っ込みたかったかな、と今は思う。
彼は無神論者ぶってたけれど、マルキ・ド・サドに影響されたっていうのは自認しているから言うならば、彼の神を「所有」しているんだもん。「普通の人」の一線は「守っている」=「(あえて?)言明していない」けれど、鈍感人間だ、と切り捨てるのには「もったいない」というか。
あんまり、この辺になると、何も言えない。まあ逆に言えばここがわたしのカサブタを剥がせていないところなんだろうね。
ごめんね、まんまずるいよなw
2008-05-25 日 17:33:01 /URL /脂 /
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ずるいこと自体については、別にどうこう言うつもりはないんですけどね。
(普通一般の人や無関係の人に対して)自閉症への理解や接近を望んでいる? 誰が? 俺かよ。まさかw …ってほう。
いやぁ、自閉症ってマジでシャレになってないなって最近ますます思いますわぁ。
それはいいとして。本読んでログを遡ってを繰り返しつつ、2時くらいから脂さんがいなくなるまでは見てました。脂さんの逆精神分析のお手並み拝見って感じでね。
俺もしばしば逆精神分析家と化す人間でありますから、それについてのディスカッションをしてみたいな、とか思っちゃうわけです。彼についてどうこうじゃなくて、彼に対するアプローチのどこが良くてどこがまずかったか、みたいな。
まあ、嫌なら嫌でいいんですけど、こういうことを話し合える相手ってなかなかいないもんで。
2008-05-25 日 19:29:33 /
URL /ドードーとら /
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よくよく考えてみたらディスカッションにはならなそうなんで、やっぱり俺の感想を言うだけにします。一応、非公開で。
2008-05-25 日 22:52:36 /
URL /ドードーとら /
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ああそういうことか。>逆精神分析
昨日つまづいた理由は、を考えてみます。それは、小説という要素なんですよね。
彼に突っ込むやり方として、その小説作品を発端にしたのがまずかった。
フロイトは渡米した時、アメリカ人の歓迎ぶりを見て、「彼らはわたしたちがペストを運んできたことに気づいていないようだ」と言いました。
わたしはまだ芸術に神を信じているので、「小説」という要素が、ペストに対するワクチンとして、悪魔に対する十字架(ごめん今見てる映画に影響された言い方)として、機能してしまったのかもしれない。「作家」という言葉がフィルターとして作用した故の、「もったいない」。
要するに、小説という芸術の一要素に対して、わたしはまだ完全に相対化できていない、ということ。
ああうん。たとえば会話の総括的に彼が述べた、「三十年後(自分が書く作品が)どうなっているかわからない」という言葉も、一つの神経症(即ち定型人)的逃避の本質を表しているのかもしれない。
そういうところは、やっぱり「小説」という十字架に対する畏れがわたしの中にあったのかもしれない。
本当に逆精神分析するには、一対一じゃないと、あるいはブログや書籍や講義のように一方通行的なものじゃないと、難しいと思う。何故なら、そういった行為は、本質的に孤立するから。複数人いる場でそれをやってしまうと、原理的に一対多となる。結果、多数派の言葉の中でかき消されてしまう。握り潰されてしまう。祈りとしての呪力は抑圧される。言葉とは、なんだかんだ言って人間同士を群れやすくするための道具でもあるから、それはそれで摂理だと思う。
個人的な比喩になるけれど、言葉(象徴化)を介している、伴っている限り、逆精神分析をする主体は、供犠の生贄のような立場になってしまう。
そういった意味で、昨日は生贄になるところまではいかなかった。気分的に。わたしの中の衝動が足りなかった、ってところかなあ。
とらさんは物足りなかったかい?
2008-05-25 日 23:21:52 /URL /脂 /
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あ、はいー>感想
2008-05-25 日 23:22:41 /URL /脂 /
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2008-05-25 日 23:28:02 / / /
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ああうん、そこは「ガッチガチ」である表出だね。ジェンダー論に影響されているわたしは、男性的主体とかって言う。
その時はなんか観察にまわってた気がする。もう一人と主に喋ってたんじゃないっけ。わたしもレス返したけど、さらって流されたような。
やきもきさせてごめんねw
2008-05-25 日 23:53:09 /URL /脂 /
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2008-05-26 月 00:15:03 / / /
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もう一人とは何度かガチガチやりあった後なんだよね……。
だからこっちの手口も向こうの手口もお互いわかってて、その結果として対抗する立場を自覚してしまっている、みたいな感じなのです。
まあもう一匹(ぉぃ)に対しては個人的事情があるってことで。
2008-05-26 月 00:20:22 /URL /脂 /
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あは。んじゃこの話はこれまでってことで。
勝手にやきもきしちゃってるのは俺なんでね。お気になさらず。ドラマを見てて「○○さんを殺さないで!」とか投書しちゃうような人だと思ってもらえばw
一つ思ったのは、やっぱり「衝動」や「蛮勇」なんだなって。
これも別に文句でも批判でもないんですけど、その決定的な違いにあらためて愕然としちゃうというか。
2008-05-26 月 00:27:53 /
URL /ドードーとら /
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ああなるほど。
そうなって「しまう」のとは違うよね。
2008-05-26 月 00:44:10 /URL /脂 /
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最後の方でちらっと触れた、「オートマティック」の置き方、なんだと思った。
彼の話を信じるならば、彼の言う「カサブタ」が剥がれてしまえば、精神医学的な区分としては違うけれど、「存在自体である概念」のような、二次元ではない、三次元的領域に触れることはできると思う。
だけど、カサブタは、剥ごうと思うものではなく、剥がれて「しまう」もので、オートマティックとはそこに作用するものだと思う。システム的に。
わたし個人の話になるならば、小説という十字架と直面した状態ならば、やっぱり「衝動」と言っちゃうな。
「そのカサブタがあなたの主体性だよ」とわたしは彼に言った。そういう意味では、自閉症者は、カサブタが「でき難い」体質である、なんて言い換えになる。
統合失調症などは、カサブタはできることはできるけど、一般より「剥がれやすい」人たちなんて言い方になるか。
わたしにとって芸術や学問は、カサブタだとは言わないけれど、絆創膏みたいなものです。
なので、彼のやり方はカサブタ=主体性を強化しているものだ、という言葉以上には踏み込めなかった。
そんな感じかな。
あーうん、十字架とか大仰に言っているけれど、小説という要素から拡散し続けてしまうことを、自分で避けちゃってた、ってことですね。
2008-05-26 月 01:11:22 /URL /脂 /
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2008-05-26 月 02:49:20 / / /
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> カサブタは、剥ごうと思うものではなく、剥がれて「しまう」もの
これはどうかなぁ。俺はほとんど賛成できないんですけど。
特に男性性の強い主体ほど上塗りする印象というか。そこで上塗りして対処しようとする傾向をして男性性が強いと言うんじゃなかったっけ、というか。
2008-05-26 月 02:50:02 /
URL /ドードーとら /
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>非公開コメ
精神分析における自我は、「隠蔽機能」となり、自我心理学における自我は、「適応機能」となります。実はどっちも正しい言い方かもしれない、と思います。
自我心理学に則るならば、自我があれば環境に適応できるはずだ、となって、たとえば自閉症者に「正しい行動を仕込む」みたいな考えになりがちでしょう。
隠蔽機能と考えるならば、自閉症者と対峙した時、自分が隠蔽していた「生々しいもの」が鏡像的に反射する、という言い分も筋が通る。わたしの言う、「大人や男性や定型人は鈍感者である」もこっちの理屈が背景になっています。
でも、傷をカサブタにするから、社会に適応できるというのは、体感的にそうだなあ、とも思えた。「あえてそこを避ける」彼の話を聞いていると。
「カサブタ」ってのは、精神分析ジャーゴンでは「去勢」あるいは「去勢痕」ってのにとてもうまく合致するかもね。
>そこで上塗りして対処しようとする傾向をして男性性が強いと言うんじゃなかったっけ
うん、そうそう。「彼のやり方はカサブタ=主体性を強化しているものだ」ということやね。……ってあれ?
男性的主体なり神経症者なり定型人が、意識的に、傷の隠蔽としてのカサブタを剥げるかどうか、という話ならば、意識だけではどうにもならない、それこそ主体じゃないところにあるものが、カサブタじゃないものがカサブタを剥がす、という考えをしています。それがたとえば生身の血肉だと、分裂病質やボーダー的な症状が連想されます。
>これはどうかなぁ。俺はほとんど賛成できないんですけど。
そりゃあーた、逆精神分析やる立場ってのは、「定型人のカサブタを剥がそう」って立場ですもの。逆精神分析やるなら、剥がれて「しまう」なんて言葉に賛成しちゃいけません。
じゃあ、カサブタが剥がれて「しまう」、剥がれるのがオートマティックだとかって文章は、逆精神分析と矛盾するじゃん、って話になるけど、原則矛盾を生きる立場になっちゃうんだよね、逆精神分析する側って。
そらパパさんとの議論で、わたしやとらさんの言葉を、わたしは「祈り」と表現した。祈りは通じて欲しいけれど、100%通じることはまずない。ちょっとだけ通じたとしても、ちょっとだけ主体が揺らいだとしても、すぐカサブタを上塗りして対処されるだろう、みたいな。
だけど、たとえば通じた瞬間であるとか、祈りを聞かせた時は通じなかったけれど、ある時ふとその祈り(呪詛)がトラウマのように回帰してくるかもしれないとか、そういった自己満足的かつ神秘主義的な淡い期待を、ただ持つのみ。
ああ、カワイク言うなら女子がやるおまじないなんてのもこの構図っぽい。揶揄的に言うなら、「とってもひねくれまくった女子がやるおまじない」かもしれない。逆精神分析って。
要約すると、カサブタのある(去勢された)主体にとって、自分が意識的にカサブタを剥がすことは、とても難しい。それこそ上塗り(隠蔽)して対処することこそが、去勢だから。
ただ、自己という意識の外(内面的な外部も含む)からやってくるものが、それを剥がす。
定型人的な主体視点から見ると、とらさんの言う通り、カサブタを上塗りしてしまうもの。だけど、三次元的な、ちょっと大仰に言うなら、「宇宙との一体化」的なものに薄々感づいている視点から見ると、宇宙的システムのオートマティックなものとして、それは剥がれて「しまう」。
これは、自閉症者視点というより、統合失調症的な言い方だと思って。
その「自己の外からやってくるもの」が、逆精神分析という言葉にのりうつるかどうかは、本当に、祈りや呪術やおまじないみたいな、神秘主義的方法論になってしまいそう、とわたしは思う。ここでそっちに屈しちゃいけないな、とも。
こっちでこんなに饒舌になるのは、小説という十字架(手枷足枷)から離れた会話になっているからかなあ、という言い訳めいたことを追記してみます。
2008-05-26 月 05:08:54 /URL /脂 /
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ん~、なるほど。宇宙的システムのオートマティックな運動に身を任せてみようとすると、ときに逆精神分析家になるってことですもんね。
俺としては単にアレゴリーを発生させるってくらいにしか思わないんだけど、神秘主義的なのかなぁ…。わかんねぇや。
2008-05-26 月 17:17:48 /
URL /ドードーとら /
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精神分析を揶揄するつもりで言い始めた「逆精神分析」なんだけど、意外と面白いですね。だから、「議論にならなさそう」ととらさんは仰ってたけど、わたしはこの会話楽しんでいます。
とらさんの場合だと、そちらのブログのいつぞやのコメントで言った「人格否定を伴う効果的な暴れ方」になるのでしょう。
んで、その方法論については、とらさんだと「職人技」みたいな表現になるのでしょうね。
わたしの「逆精神分析」の手法を、他人から神秘主義だと言われると「ちがうー」って思うけれど、最近「ヌミノース」や「アイオーン」って概念がどうもあちこちで引っかかって……。これらも美化し過ぎで微妙なんだけど。
「言葉」が通じる通じないじゃないところの、「祈り」が通じる通路、鍵穴みたいなものは、定型人であれ男性的主体であれ持っていると、ある程度信じていたい、ということかな。
2008-05-26 月 18:45:10 /URL /脂 /
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お。楽しんでもらっているなら何よりです。
いやぁ、ねぇ。どうせ物事変わんないんだからと俺にニヒリズムを説く人もたくさんいますよ。
でもそんなの、俺からすれば、その人の自白にすぎないんです。誰もがしかたないと屈服して陰口言うのが関の山って状況では、必ず自分も屈服する。そういう状況を他の誰かが個人の突破力で切り開いちゃった現場に居合わせたこともない。いざそういう状況になれば切り開いちゃうんじゃないかって人を友達や同僚に持ったこともない、って。
俺は俺で、事実として、本当に物事変えちゃったりしつつ、ここまでやってきてますから。通路が通じていないと信じる理由も、特にないんですよね。
2008-05-27 火 01:09:28 /
URL /ドードーとら /
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何かの論文で、精神的なるものの運動の「過程」と「結果」を区別して論じていたものがありました。
その中に、神経症とは、精神運動の「結果」としての症状であり、精神病(パラノイアや分裂病)は、「過程」の症状だ、みたいな文章がありました。
この論の枠組みを借りるなら、ニヒリズムというのは、「結果」的な帰着としての定点、症状であり、とらさんの「生」は「過程」と言えるなあ、と思いました。
去勢というのは、不安定で動的な主体を、安定化させる儀礼であると考えることもできます。
となると、「結果」的なものに安定化してしまった定型人を、不安定な運動中の「過程」に引き戻すのが、逆精神分析……ってこれだけだと本当の精神分析の一過程に含まれちゃいそうですが。
本当の精神分析でも、デプレッションなる過程が重要視されています。でも、やはり「治療」という軸は外せないので、デプレッション後の回復期も必要、となります。
逆に言えば、逆精神分析的手法を、方法論の一過程に持っている精神分析論って、やっぱり道具としては便利だなあ、って思えます。
「結果」という言葉もおかしいかな、と思います。「固定状態」と「過程状態」みたいな言い方だと、ニワトリが先か卵が先かという議論も関係なくなりますし。
去勢(固定状態)と非去勢(過程状態)の間を、行き来するのが、人間の本来の姿じゃないかなあ、とわたしは思うのです。もちろんこの行き来の歴史は人それぞれです。ああ、そうなると木村敏の「あいだ」論になってしまう……うぎゃー。
うーん、とらさん固有の、逆精神分析の臨床(そらパパさんにやったようなもの)を、ブログで読めればわたしは楽しいというか、興味を持ちますよ、という社交辞令的言葉で無理矢理文章を閉じてみます。
2008-05-27 火 02:16:15 /URL /脂 /
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本当はね、俺自身はもっと安定してたいんです。けど、周りに変なとこで安定されちゃうと、自分は安定してられなくなる。
「ミンナニデクノボートヨバレ」るくらいにしていたかったのに右翼活動や農業指導に奔走せざるをえなかった宮澤賢治を見ているようだと言われたことがあって、確かに長生きはできなさそうだなってw
そんな感じで、俺も文章を閉じます。
2008-05-27 火 10:43:09 /
URL /ドードーとら /
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2008-05-28 水 16:23:58 / / /
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>非公開コメ
そちらのブログコメントの方でお答えしました。
2008-05-28 水 21:42:38 /URL /脂 /
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2008-05-28 水 21:45:13 / / /
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了解ですー。
2008-05-28 水 21:53:51 /URL /脂 /
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