エレン・ペイジ――ガキ版桃井かおり
2008/05/28/Wed
ドラマとか良さげなのをチェックしてとりあえず録画して溜まってから見るタイプなんだけど、第一話で「あーだめだ」って思って全部消すことも多い。
『リ・ジェネシス』もそんな感じだった。でも見続けた。それは、主人公科学者の娘、リリスの演技がものすごく良かったから。彼女を見ているついでに父である主人公科学者視点も面白くなったし、恋人であるミックのわかりやすい演技も素直に見れた。
うん。タイトルにも書いてるけど、ガキ版桃井かおりだと思った。
演技的に目立つのよね。とても。個性的。だけど、固定化されていない。「こういう人っぽいから、こういう行動取るだろう」的な予測が立ち難い。だから、演技は個性的だけど、そこに代理表象される人格は固定的じゃない、なんて不思議な状態になる。彼女の演技は、「どんな」とは言い過ぎだけど、ある程度広い登場人物造形やストーリーに適応可能だ。そのクセ、クセがあるのだ。これってすごくね? まさしく桃井かおりもそんな感じじゃない。
とか思いながら見ていて、サイト見てあらまあすげえ、リリス役のエレン・ペイジ、第80回アカデミー賞の主演女優賞(『JUNO/ ジュノ』)ノミネートだとよ。知らなかったわ。っていうかその映画も知らなかった。
いやなんか、ジュノって名前にもちょっと思い入れあるしとかそれはどうでもいいんだけれど。
ともかく、ここ。「演技は個性的だけど、そこに代理表象される人格は固定的じゃない」ってのがすげえポイント。
『JUNO/ ジュノ』は見ていないんだけれど、サイトのムービーちらちら見る限りでは、彼女の個性的な演技は、クセのようなものだと思える。桃井かおりもそうじゃん、どんな役やっても桃井かおりだと思える。桃井かおりの場合年のせいか「クセ」は「アク」にもなりかねない感じはするけど。
クセがあるのに、そこで演じられる登場人格の人格には、幅があるのだ。
クセとしての個性的演技が、演じられる人格を限定していないのが、彼女たちの共通点であり、すごいところだと思う。
いやちょっとびっくらこいたわ。こういう役者の存在って。
なんていうか、一方日本は、最近はドラマの登場人物ですらアニメキャラ化している状況なのだけれど、わたしはそれはそれでありだと思うのよね。笙野頼子ならそれこそおんたこウイルスのせいだとなりそうだ。でも見ててそうなんだよねえ、と納得できる部分がある。浮世絵文化なんか考えると、元々日本文化ってそういうコピー化、笙野曰く劣化に寛容なところがあると思うのだ。とてもおかしな言い方ではあるけれど、礼儀としてのキャラ化、みたいなところはあると思う。
礼儀や作法やマナーっていうものは、人間が元々持つ動物性、野生のような本性を、隠蔽する役目がある。それはとてもシニフィアン的なもの。言語的なものである。キャラというのもそうでしょ? 複雑な、たとえばアスペルガー症候群者が「解を収束できない」現実を、シニフィアン化(象徴化)してすっきりさせる。複雑な内面や表情や仕草やそれら諸々の現象を、キャラというシニフィアン的なもので単純化させている。
そう考えると、日本文化の「本音と建前」的な、建前としての、マナーとしての「キャラ化」と言えなくもないと思うのだ。
なーんか急にここ最近の記事と正反対な二次元側擁護の立場に回っているけれど、なんでだろう?
このブログでも何度か書いたけれど、わたしは演劇をやっていた。舞台美術が本命で、役者も面白そうだな、ぐらいだったけれど、小劇団のお約束でがんがん舞台に立たされた。
でも、わたしはそれでものすごく色んなことを知ったと思う。演技というものを知って。
わたしって、中高と友人は少ない方で、大学デビューだったのだよね。でもそれは、進学で東京出てきて、もちろん大学デビューの王道の原因たる「初めて親元を離れる」ことも関係しているんだろうけど、わたし的にはやっぱ役者の稽古をしたからだと思える。中学の時にはよくわからなかった、周りの人たちが交わしている(ように思えた)言葉や表情の裏の駆け引きみたいなものが、一気にわかるようになった。本当に、パーッと霧が晴れるようにわかった。演技をするのが楽しかった。演技が通用するのが嬉しかった。勢い余ってホステスをやったこともある。「演技の勉強になる」みたいな言い訳をして。大道具のクセに。
遊び倒していた頃のわたしの座右の銘は、「人生とは、作・演出・主演=自分の、演劇である」だった。「人生は夢、世界は劇場」をそのまんま生きていた。
そう、人間関係とは、演技による駆け引きなんだ、という、当たり前のことを知ったのは、大学生になってから、役者の演技を学んだお陰なのだ。
だけど、わたしの全てが演技なのだから、じゃあわたしって何? という問いがいつも纏わりついていた。それを打ち消すために演劇論からアルトーついでにポモ思想勉強したり、就職して立身出世を目指したりした。
でも、やっぱり全てが演技なわけだから、いつも取り繕うのに必死だった。取り繕うたびに、じゃあわたしって何? という問いが大きくなった。そう問うわたしの中のわたしは、いつもヒステリックだった。
まあそんなこんなで色々あってアル中んなって精神病んで見事社会からドロップアウトしたわけですわ。ありがちな話ー。
そう考えると、役者の演技をそのまんまオタク文化のアニメキャラ化に結びつけるのは大反対なのだけれど、程度が違うだけのようにも思えるのは確かだ。わたしは「役者の演技あるいはアニメキャラ化」的なものに救われ、同時に叩きのめされたのだ。
そういった、両価的な二つの面をわたしは知っている。だから、オタク文化に代表される人間のアニメキャラ化も、頭ごなしに否定できない。いや、批判する時はばっさり批判するけれど、頭のどこかでいつも引っかかっている。だから、それらを批判する時は、いつも心の奥底で多少なりとも悩んでいる。悩んでいるっつーか、迷っている。
……あれ? こんなこと書くつもりじゃなかったんだけどな。
まあいいや。単なるエレン・ペイジすげーなーって話でした。
『リ・ジェネシス』もそんな感じだった。でも見続けた。それは、主人公科学者の娘、リリスの演技がものすごく良かったから。彼女を見ているついでに父である主人公科学者視点も面白くなったし、恋人であるミックのわかりやすい演技も素直に見れた。
うん。タイトルにも書いてるけど、ガキ版桃井かおりだと思った。
演技的に目立つのよね。とても。個性的。だけど、固定化されていない。「こういう人っぽいから、こういう行動取るだろう」的な予測が立ち難い。だから、演技は個性的だけど、そこに代理表象される人格は固定的じゃない、なんて不思議な状態になる。彼女の演技は、「どんな」とは言い過ぎだけど、ある程度広い登場人物造形やストーリーに適応可能だ。そのクセ、クセがあるのだ。これってすごくね? まさしく桃井かおりもそんな感じじゃない。
とか思いながら見ていて、サイト見てあらまあすげえ、リリス役のエレン・ペイジ、第80回アカデミー賞の主演女優賞(『JUNO/ ジュノ』)ノミネートだとよ。知らなかったわ。っていうかその映画も知らなかった。
いやなんか、ジュノって名前にもちょっと思い入れあるしとかそれはどうでもいいんだけれど。
ともかく、ここ。「演技は個性的だけど、そこに代理表象される人格は固定的じゃない」ってのがすげえポイント。
『JUNO/ ジュノ』は見ていないんだけれど、サイトのムービーちらちら見る限りでは、彼女の個性的な演技は、クセのようなものだと思える。桃井かおりもそうじゃん、どんな役やっても桃井かおりだと思える。桃井かおりの場合年のせいか「クセ」は「アク」にもなりかねない感じはするけど。
クセがあるのに、そこで演じられる登場人格の人格には、幅があるのだ。
クセとしての個性的演技が、演じられる人格を限定していないのが、彼女たちの共通点であり、すごいところだと思う。
いやちょっとびっくらこいたわ。こういう役者の存在って。
なんていうか、一方日本は、最近はドラマの登場人物ですらアニメキャラ化している状況なのだけれど、わたしはそれはそれでありだと思うのよね。笙野頼子ならそれこそおんたこウイルスのせいだとなりそうだ。でも見ててそうなんだよねえ、と納得できる部分がある。浮世絵文化なんか考えると、元々日本文化ってそういうコピー化、笙野曰く劣化に寛容なところがあると思うのだ。とてもおかしな言い方ではあるけれど、礼儀としてのキャラ化、みたいなところはあると思う。
礼儀や作法やマナーっていうものは、人間が元々持つ動物性、野生のような本性を、隠蔽する役目がある。それはとてもシニフィアン的なもの。言語的なものである。キャラというのもそうでしょ? 複雑な、たとえばアスペルガー症候群者が「解を収束できない」現実を、シニフィアン化(象徴化)してすっきりさせる。複雑な内面や表情や仕草やそれら諸々の現象を、キャラというシニフィアン的なもので単純化させている。
そう考えると、日本文化の「本音と建前」的な、建前としての、マナーとしての「キャラ化」と言えなくもないと思うのだ。
なーんか急にここ最近の記事と正反対な二次元側擁護の立場に回っているけれど、なんでだろう?
このブログでも何度か書いたけれど、わたしは演劇をやっていた。舞台美術が本命で、役者も面白そうだな、ぐらいだったけれど、小劇団のお約束でがんがん舞台に立たされた。
でも、わたしはそれでものすごく色んなことを知ったと思う。演技というものを知って。
わたしって、中高と友人は少ない方で、大学デビューだったのだよね。でもそれは、進学で東京出てきて、もちろん大学デビューの王道の原因たる「初めて親元を離れる」ことも関係しているんだろうけど、わたし的にはやっぱ役者の稽古をしたからだと思える。中学の時にはよくわからなかった、周りの人たちが交わしている(ように思えた)言葉や表情の裏の駆け引きみたいなものが、一気にわかるようになった。本当に、パーッと霧が晴れるようにわかった。演技をするのが楽しかった。演技が通用するのが嬉しかった。勢い余ってホステスをやったこともある。「演技の勉強になる」みたいな言い訳をして。大道具のクセに。
遊び倒していた頃のわたしの座右の銘は、「人生とは、作・演出・主演=自分の、演劇である」だった。「人生は夢、世界は劇場」をそのまんま生きていた。
そう、人間関係とは、演技による駆け引きなんだ、という、当たり前のことを知ったのは、大学生になってから、役者の演技を学んだお陰なのだ。
だけど、わたしの全てが演技なのだから、じゃあわたしって何? という問いがいつも纏わりついていた。それを打ち消すために演劇論からアルトーついでにポモ思想勉強したり、就職して立身出世を目指したりした。
でも、やっぱり全てが演技なわけだから、いつも取り繕うのに必死だった。取り繕うたびに、じゃあわたしって何? という問いが大きくなった。そう問うわたしの中のわたしは、いつもヒステリックだった。
まあそんなこんなで色々あってアル中んなって精神病んで見事社会からドロップアウトしたわけですわ。ありがちな話ー。
そう考えると、役者の演技をそのまんまオタク文化のアニメキャラ化に結びつけるのは大反対なのだけれど、程度が違うだけのようにも思えるのは確かだ。わたしは「役者の演技あるいはアニメキャラ化」的なものに救われ、同時に叩きのめされたのだ。
そういった、両価的な二つの面をわたしは知っている。だから、オタク文化に代表される人間のアニメキャラ化も、頭ごなしに否定できない。いや、批判する時はばっさり批判するけれど、頭のどこかでいつも引っかかっている。だから、それらを批判する時は、いつも心の奥底で多少なりとも悩んでいる。悩んでいるっつーか、迷っている。
……あれ? こんなこと書くつもりじゃなかったんだけどな。
まあいいや。単なるエレン・ペイジすげーなーって話でした。