「軸」と「柵」
2008/06/04/Wed
さて、前記事が前記事だけに、今日は「被権力者ブリッコする権力者」としての立場で、定型人が合意を前提にする故執着してしまう、「心の理論」的な領域、固定的かつ多数に共有される定型人同士に類似する思考様式的な立場で、最近飽きつつある表現を反復するなら二次元的領域で、文章を書いてみようと思う。こういうところがとらさんにずるいって言われるところなんだろうな。いえそう言われたからってどうしようもできないわたしなんだけど。
という前置きをしておいて、と。
前記事でわたしはパンサやモモチと名乗る笙野ファンに唾を吐きかけているが、もちろん笙野ファンを一緒くたに考えているわけではない。笙野作品の、笙野の祈りの本質に近づけているな、感づいているな、とわたしには思える(共鳴する)批評などもたまに見かける。笙野ファンを自認している人でなくても。そういう人は意外と理屈屋が多いのがまた面白い。もちろん笙野(という作家性)的な「語る主体」と対立するようなファロセントリックな理屈屋もたくさんいる。最近言及した記事の中なら、そらパパさんやpikarrrさんにはそういう行間が感じられる。わたしはたとえば「自意識が強い人/自意識が弱い人」という二項軸を仮設して論を述べることがある。前者は神経症者や定型人や男性性や大人やポスト・フェストゥムに連鎖し、後者は分裂症やアスペやスキゾや女性性や子供やアンテ・フェストゥムに連鎖する。わたしが主に反論するのは前者のような人たちであるが(これは精神構造の話であり生物学的女性であろうと社会体制的子供であろうとわたしの主観で前者と判断すればその部分について反論する)、「そちらの立場(いや前置きを考慮すれば「こちらの立場」となるか)」というものを排除しようとしているわけではない。事実そらパパさんやpikarrrさんの論文はある程度評価している。
まあ、もっそい短絡的な印象論を言うなら、アスペやスキゾ的主体って文系か理系かって言うと理系っぽいイメージあるしね。そう言えば文学者って「キレイな幻想サイコー」的なボヴァリスト多いもんな。わたしの言葉なら「日本の文学者は傾向的に天使が多い」って表現になるが、「理屈に弱いから逃避的に文学部選びましたー」って学生多いのは事実だし。経験上。「文学論としての」クリステヴァ論一つとっても精神分析理論を組み込む以前の間テクスト性とかしか理解できていないの多いも事実だし。現実的に。そりゃあ精神分析なんてそもそもが「わかりやすさの危険」を説く理屈体系だからな。わかりにくい後期クリステヴァ論は理解できないんだろう。
これは、前記事のコメント欄の「多くのものにうずもれて、楽に生きているとアホになりがちらしい」や「「量産」と(ドゥルーズ=ガタリ的な意味での)「生産」の違い」にも繋がることだ。
超自我などという無意識的固定観念を、構造を助長するマナーや作法としての幻想か。構造を破壊する、アブジェクシオン的な意味で本質的な、器官なき身体が制作する「自己増殖する机」としての幻想か。
幻想を現実と思い込むことで、楽に生きていける神経症者がやる隠蔽としての幻想か。統合失調症者のごとく、おぞましい現実界に溺れて藁を掴むように構築する「幻覚すれすれの幻想」か。
去勢を経た主体が身を委ねるゆりかごのごとき逃避先としての幻想か。非去勢的な主体がおぞましい世界に対峙するための祈りとしての幻想か。
現実界に敏感な人間は、その違いに敏感である。同時にそれらが同じ幻想であることも知っている。幻想とは両価的であることを知っている。現実界を侵食するおんたこウイルスに、キャリアが他人だろうが自分だろうが関係なく、敏感になる。なって「しまう」。
前記事を状況説明として要約するなら、
「中途半端なアンチ・ファロセントリスムを振り回して被権力者ぶってんじゃねえよ。こっちから見たらお前のちっちゃなちんちん丸見えなんだYO。それを自覚しろYO」
という本質的被権力者側にいる人間からの唾吐きである、ってことだな。
わたしはこのパンサという「語る主体」について、「自己美化目的でバイタに同情するババア」と表現している。薬師さんところの記事に保存された文章などまさにそのまんまではないか。奴がバイタに向ける視線は同情に過ぎないから、近づきすぎるとかのような拒否反応を示すのだ。また、これはパンサではなくモモチという当該サイト管理人に当てはまることになろうが、保存された文章のような「陰口」を全削除するという行為こそが、奴らなりの「排除という様式に則った浄化」であると言える。奴らのやっていること全ての根本に、自己美化という目的が透けて見えている。
バイタやキチガイなどというケガレに近寄ることは、同情とは全く別物なのだ。
ここで一つ補足しておく。
わたしは今「自意識が強い人/自意識が弱い人」という二項軸を、大雑把に「本質的権力者/本質的被権力者」になぞらえている。これら二軸の相関性は現実としてあると思っているが、後者の二項軸について少し述べておく。
クリステヴァは、「構造(サンボリック)を破壊するものとしての幻想(セミオティック)」を述べたアブジェクシオン論を、『恐怖の権力』という著作において発表した。
構造を助長するサンボリックな幻想を生きる主体と、アブジェクシオンに親近するセミオティックな幻想を生きる主体が、一対一で対峙した場合、恐怖を感じて相手を畏怖するのは、前者、即ち定型人、即ち神経症者なのだ。これが、「権力」なる概念の本質ではあろう。ちょうど前記事で、ババアがわたしを異常者だとしておぞましく思っているように。
とはいえ、後者の主体も、セミオティック自体がおぞましさ(かつ魅惑的なもの)を惹起するものである故、他人も自分も、常に既に畏怖している。し続けている。これは、クリステヴァが前掲書で「作家とは原則的に幼児性恐怖症者である」と述べていることにも繋がるだろう。
彼らが対峙する時、そこに原理的に発生する畏怖は、両者にとって自他未分化的なものになるのだ。
要するに、アブジェクシオンに親近する領域では、「権力/被権力」という言語的二項対立は、脱構築される、ということだ。
断っておくが、このサンボリック的幻想としての生と、セミオティック的幻想としての生は、一人の人間の中に併存する。その領域がどれだけ大きいか、という違いに過ぎない。自閉症者や統合失調症者は、後者がとても大きい主体である、と言える。たとえば前記事の話ならば、サンボリック的幻想を主に生きていてセミオティック的幻想を抑圧隠蔽排除しがちなババアと、セミオティック的幻想を剥き出しにして対峙して「しまった」わたし、という構図に過ぎない。そういう意味で、「恋愛に溺れる昔の友人」を「子供」と評し、かつその友人のイマージュをわたしにおっかぶせてきたババアの文章は、的を得ていると言えるだろう。
セミオティック的幻想を継続的に生きて「しまう」主体は、主体という領域を仮に固定するためのサンボリックが、一義的連結を主にした理屈的なものになる傾向の説明は、これでつく。
自意識の強い人間がスポーツ的な勝敗として理屈を用いるのに対し、自意識の弱い人間は、自分という流動的な領域を防衛するためのブイとして、理屈を好むのだ。自意識は象徴的ファルスによって発生するわけで、ファルスをサンボリックの「軸」(ラカン用語ならS1)と見做すならば、「軸」がある結果としての理屈か、「軸」がない故仮設する「柵」(ラカン用語なら第四の輪たるサントーム)としての理屈か、の違いである。
ちなみに言うと、この「軸」と「柵」も、アブジェクシオン領域では未分化的になる。個人的直観で言うと。理屈っぽく言うなら、パラノイアとスキゾフレニーの混淆。妄想分裂態勢。「部分は全体、全体は部分」。
そもそも、シニフィアン連鎖の多義性を考えるならば、多義とは有限であり、無限ではない。その有限さを裏打ちするのが、たとえば象徴的ファルスの生の欲動方向への隠喩作用であり、せき立てであり、アスペルガー症候群者に欠けていると言われている「心の理論」である。この有限さの影響が弱い人間だからこそ、有限な多義性を根拠にしたサンボリックを生きられない。彼らは他人と妥協するために、一義性を求めている。無限性の強い有限なシニフィアン連鎖(意味)を生きているからこそ、一義性を選択せざるを得ない。彼らは祈りとして、一義性を選択する傾向がある。『アンチ・オイディプス』はここがわかっていないと言えるだろう。だからわたしはこのテクストに対し、「こっちの世界はお前らが憧れてるほどいいもんじゃねえよwww」や「やっぱ他人事の、「分裂症になりたい非分裂症者」の二次元的戯言だな」のごとき態度を取ってしまう。
もちろんこれらは傾向に過ぎず、この理屈に当てはまらない主体もいるだろう。しかし重要なのは、「心の理論」を保有できている定型人が理屈を選択するのとは、原因が異なる、ということだ。
さて、長々と前置きが(まだ前置きかよ)続いてしまったが、そろそろ本題に入ろう。
わたしはポストコロニアルという思想形態は、とってもオイディプス的に思えて好きじゃない。『アンチ・オイディプス』的に言えば、社会的機械と欲望機械を区別したがる行間が感じられるからだ。自分の内面を振り返らず社会に責任を押しつけたがる神経症的逃避を、彼らの言葉から常に感じる。いや区別はいいのだ。事実違うものだから。彼らの理屈は、その区別が「柵」として機能している。精神分析が欲望をオイディプスの三角形に閉じ込めたと言うならば、ポスコロは社会的抑圧と被抑圧の関係に閉じ込めている。精神分析よりはるかにオイディプス的だと思える。それによる文芸分析などある程度の評価はしているが、エポケー地点がとってもオイディプス的、定型人的でキモチワルクなるのだ。定型人にありがちな、定型人自身を批判する文脈において、自分の内面を掘り下げることにならないことが、その自分の言葉が自分の定型人部分を切り刻んでいることにならないことが、言葉が諸刃の剣になっていないことが、とっても不思議でキモチワルイのだ。自分の権力者である部分を、違う定型人(たとえば歴史上の帝国主義など)に投影し、それを攻撃することで満足している。従って権力者を、人の心を傷つける道具足りえない。何故こんな簡単なことに気づかないのだろう、といつも不思議に思う。それが鏡であることに気づけない人たち。むしろ厚顔で鈍感になることが定型人になることなわけだから彼らの心理は「正常」と言えるんだけどね。要するに、ポスコロな人たちのやっていることは、神経症者の小文字の倒錯に過ぎない、ということだ。
そんな個人的感想は置いておいて。
一方わたしは、定型人が陥りがちな、盲目になってしまう部分を表層に持ち上げる役割を考えると、ポストコロニアル理論という「道具」もわからなくもない、と思っている。笙野頼子の小説などは、ポスコロ視点とってもおいしいサンプルとなろう。
そんなブログを紹介する。ここ。笙野関連記事を挙げておく(1,2,3,4)。
うん。1~3は『だいにっほんシリーズ』がいかにポスコロ思想とマッチングーしてるかってことの説明やね。実際「火星人とは歴史を奪われてきた人たちだ」って種明かしにも符号する。字面だけで考えるならば、火星人なるものはポスコロ理論で語るべきだとも思う。一般向けにはそっちのがわかりやすいだろう。わたしがやっているみたいな精神分析理論で語るよかね。んで4。ここに出てくる「サバルタン」という言葉。これが重要。これまでの文章なら、「自意識の弱い人」がサバルタンに連鎖するだろう。
火星人をサバルタンと解釈する彼は、とても鋭いと思う。見事と言える。しかし彼はそこから進めない。自らの権力者である部分が見えていない故に進めない。それは笙野本人にも感じられることだ。
笙野あるいはこの筆者に欠けているもの。それは、それこそスピヴァクの言葉である『サバルタンは語ることができるか』という問いである。何故サバルタンは自らを語れないのか。何故サバルタンは歴史を奪われてしまうのか。こういった問いがないとは言えないが、その存在感が薄いために、笙野は火星人主人公たるいぶきに歴史を語らせようとする。それ自体が権力の行使に、抑圧に、サバルタンに権力者スーツを着せることになっている。そんな簡単なことに、みんながみんな、気づかないまま。
何故自意識の弱い人は自らを語れないのか。わたしならいくつも答えを用意できる。たとえばそういった人たちは相対的に傾向的に「軸」たる象徴的ファルスが不安定であり、「軸」から発生する隠喩作用が超自我という無意識の言語構造を固定化させるわけだから、彼らの言葉は流動的になる。一貫性がなくなる。語るために必要な自分という固定的視点が存在しなくなる。故に、彼らは自分を語れない。歴史を語れない。語ったとしても、一貫性がないのだから、定型人好みの解釈をされるだけ。あるいは、そこにアスペルガー症候群者を当てはめるのなら、自意識の根本を象徴する判断である「好き/嫌い」さえ彼らは確信できないからだ、などと言うことも可能だ。もっと掘り下げたいならこのブログのアスペルガー症候群、統合失調症、スキゾイド関連の記事を読むとよい。
火星人は、サバルタンは何故語れないのか。わたしの言葉なら、自意識が弱いから、笙野の言葉なら、自我がないから、となろう。
では、自意識が、自我が強ければそれでよいという結論に導かれやしないか。あたかも誘導尋問のごとく。そんな簡単な話なのか? 自意識が、自我があることが正しいことだという考えこそが、権力者の理屈ではないのか? 『アンチ・オイディプス』なら、自意識が、自我が膨張した人間たち即ちパラノイアこそが専制君主の身体なのではないのか? 膨張させなければよいのか? 欲望を抑制すればいいのか? それこそ『アンチ・オイディプス』が批判する精神分析の役割になっていたのではないか? 現代オタクたちという欲望に対し譲歩しまくる部族と何が違うのか?
もう一度言う。そんな簡単な話なのか? そんなに「わかりやすい」話なのか?
こういった問いの答えを、それこそポスコロがやっているように、社会体制に求めるのもよかろう。しかし歴史上の幻想にそれを求めると、歴史幻想における権力者の分析になり、自らの権力者である部分には何も影響が生じない。自他未分化的なおぞましくも魅惑的な領域に辿り着けない。サバルタンは非サバルタン化されることが「正しい」という固定観念から抜け出せない。この記事などよい例である。引用する。
=====
この発言は、沖縄の聴衆を非サバルタンとして扱うことでその声を奪い、彼らを(再)サバルタン化してしまっている。おそらくはこの発言は、沖縄の人々はサバルタンではない、という事実を確認する言明のつもりで発せられたのだろうが、その言明に彼らをサバルタンとして(再び)囲繞する身振りが伴うことに関して鈍感すぎはしないか。
=====
彼は、サバルタン化されることが悪いことであるという固定観念から抜け出せていない自分に気づけていない。彼も等しく、「鈍感すぎ」る。
これは、精神分析論でもあることだ。『アンチ・オイディプス』などは、確かに表面上は、自らを語りえない分裂症の視点で述べていると言えよう。しかし違うのだ。彼らはサバルタンを美化し過ぎている。キラキラした目でこっちを見ている。それは違うのだ。自らを語りえないから、周りで交通する言語から、自らの存在は抜け落ちてしまう。それはそんなにいいものではないのだ。羨しがられるようなものではないのだ。非定型人とは。サバルタンとは。狂人とは。彼らが生きる世界とは。自らの狂気を、もっともおぞましくまた魅惑的に感じているのは、狂人自身なのだ。
統辞的構造、即ち論文としての体裁を整えるのすらバカらしくなってきているので、今日はこれまで。
あ、個人的な感想言うなら、パンサババアなんてちっちゃなちんちん大好きっ子なんかより、ポスコロの人の方がさすがに読めているとは思うよ。まあ知識のお陰だろうが。
笙野も薄々気づいてよさそうだけどなあ。パンサやらモモチやらっていう蝿になりたがる蛆虫が自分を「敵方の文学」における「大作家」に仕立て上げようとしていることに。パラノイアたる専制君主に仕立て上げようとしていることに。まあ言わないだけで取捨選択はしているんだろうとちょっとは信じておこう。疑いは晴れないけど。ごめんねそういう人なの。いや別にいいけどね。非サバルタンの方向で、顕教的な方向で大作家になっても。わたしが読まなくなるだけ。裏切られるのにゃ慣れているし。顕教的なるものを一掃しろだなんて『アンチ・オイディプス』的な考えしてないし。
つーか誰がどう見ても、ここに記録されたババアの本性は、おんたこそのまんまじゃん。この記事とか読んでどう思うのだろう。このババア。
あれえ? 全然定型人側の文章になってねーな。あかんわー。おえんわー。
そういえばポスコロってポコって略した方がかわいくね? 以下このブログではポコちゃんって呼ぼう。
ぶぎゅぎゅぐぶぉあ。
という前置きをしておいて、と。
前記事でわたしはパンサやモモチと名乗る笙野ファンに唾を吐きかけているが、もちろん笙野ファンを一緒くたに考えているわけではない。笙野作品の、笙野の祈りの本質に近づけているな、感づいているな、とわたしには思える(共鳴する)批評などもたまに見かける。笙野ファンを自認している人でなくても。そういう人は意外と理屈屋が多いのがまた面白い。もちろん笙野(という作家性)的な「語る主体」と対立するようなファロセントリックな理屈屋もたくさんいる。最近言及した記事の中なら、そらパパさんやpikarrrさんにはそういう行間が感じられる。わたしはたとえば「自意識が強い人/自意識が弱い人」という二項軸を仮設して論を述べることがある。前者は神経症者や定型人や男性性や大人やポスト・フェストゥムに連鎖し、後者は分裂症やアスペやスキゾや女性性や子供やアンテ・フェストゥムに連鎖する。わたしが主に反論するのは前者のような人たちであるが(これは精神構造の話であり生物学的女性であろうと社会体制的子供であろうとわたしの主観で前者と判断すればその部分について反論する)、「そちらの立場(いや前置きを考慮すれば「こちらの立場」となるか)」というものを排除しようとしているわけではない。事実そらパパさんやpikarrrさんの論文はある程度評価している。
まあ、もっそい短絡的な印象論を言うなら、アスペやスキゾ的主体って文系か理系かって言うと理系っぽいイメージあるしね。そう言えば文学者って「キレイな幻想サイコー」的なボヴァリスト多いもんな。わたしの言葉なら「日本の文学者は傾向的に天使が多い」って表現になるが、「理屈に弱いから逃避的に文学部選びましたー」って学生多いのは事実だし。経験上。「文学論としての」クリステヴァ論一つとっても精神分析理論を組み込む以前の間テクスト性とかしか理解できていないの多いも事実だし。現実的に。そりゃあ精神分析なんてそもそもが「わかりやすさの危険」を説く理屈体系だからな。わかりにくい後期クリステヴァ論は理解できないんだろう。
これは、前記事のコメント欄の「多くのものにうずもれて、楽に生きているとアホになりがちらしい」や「「量産」と(ドゥルーズ=ガタリ的な意味での)「生産」の違い」にも繋がることだ。
超自我などという無意識的固定観念を、構造を助長するマナーや作法としての幻想か。構造を破壊する、アブジェクシオン的な意味で本質的な、器官なき身体が制作する「自己増殖する机」としての幻想か。
幻想を現実と思い込むことで、楽に生きていける神経症者がやる隠蔽としての幻想か。統合失調症者のごとく、おぞましい現実界に溺れて藁を掴むように構築する「幻覚すれすれの幻想」か。
去勢を経た主体が身を委ねるゆりかごのごとき逃避先としての幻想か。非去勢的な主体がおぞましい世界に対峙するための祈りとしての幻想か。
現実界に敏感な人間は、その違いに敏感である。同時にそれらが同じ幻想であることも知っている。幻想とは両価的であることを知っている。現実界を侵食するおんたこウイルスに、キャリアが他人だろうが自分だろうが関係なく、敏感になる。なって「しまう」。
前記事を状況説明として要約するなら、
「中途半端なアンチ・ファロセントリスムを振り回して被権力者ぶってんじゃねえよ。こっちから見たらお前のちっちゃなちんちん丸見えなんだYO。それを自覚しろYO」
という本質的被権力者側にいる人間からの唾吐きである、ってことだな。
わたしはこのパンサという「語る主体」について、「自己美化目的でバイタに同情するババア」と表現している。薬師さんところの記事に保存された文章などまさにそのまんまではないか。奴がバイタに向ける視線は同情に過ぎないから、近づきすぎるとかのような拒否反応を示すのだ。また、これはパンサではなくモモチという当該サイト管理人に当てはまることになろうが、保存された文章のような「陰口」を全削除するという行為こそが、奴らなりの「排除という様式に則った浄化」であると言える。奴らのやっていること全ての根本に、自己美化という目的が透けて見えている。
バイタやキチガイなどというケガレに近寄ることは、同情とは全く別物なのだ。
ここで一つ補足しておく。
わたしは今「自意識が強い人/自意識が弱い人」という二項軸を、大雑把に「本質的権力者/本質的被権力者」になぞらえている。これら二軸の相関性は現実としてあると思っているが、後者の二項軸について少し述べておく。
クリステヴァは、「構造(サンボリック)を破壊するものとしての幻想(セミオティック)」を述べたアブジェクシオン論を、『恐怖の権力』という著作において発表した。
構造を助長するサンボリックな幻想を生きる主体と、アブジェクシオンに親近するセミオティックな幻想を生きる主体が、一対一で対峙した場合、恐怖を感じて相手を畏怖するのは、前者、即ち定型人、即ち神経症者なのだ。これが、「権力」なる概念の本質ではあろう。ちょうど前記事で、ババアがわたしを異常者だとしておぞましく思っているように。
とはいえ、後者の主体も、セミオティック自体がおぞましさ(かつ魅惑的なもの)を惹起するものである故、他人も自分も、常に既に畏怖している。し続けている。これは、クリステヴァが前掲書で「作家とは原則的に幼児性恐怖症者である」と述べていることにも繋がるだろう。
彼らが対峙する時、そこに原理的に発生する畏怖は、両者にとって自他未分化的なものになるのだ。
要するに、アブジェクシオンに親近する領域では、「権力/被権力」という言語的二項対立は、脱構築される、ということだ。
断っておくが、このサンボリック的幻想としての生と、セミオティック的幻想としての生は、一人の人間の中に併存する。その領域がどれだけ大きいか、という違いに過ぎない。自閉症者や統合失調症者は、後者がとても大きい主体である、と言える。たとえば前記事の話ならば、サンボリック的幻想を主に生きていてセミオティック的幻想を抑圧隠蔽排除しがちなババアと、セミオティック的幻想を剥き出しにして対峙して「しまった」わたし、という構図に過ぎない。そういう意味で、「恋愛に溺れる昔の友人」を「子供」と評し、かつその友人のイマージュをわたしにおっかぶせてきたババアの文章は、的を得ていると言えるだろう。
セミオティック的幻想を継続的に生きて「しまう」主体は、主体という領域を仮に固定するためのサンボリックが、一義的連結を主にした理屈的なものになる傾向の説明は、これでつく。
自意識の強い人間がスポーツ的な勝敗として理屈を用いるのに対し、自意識の弱い人間は、自分という流動的な領域を防衛するためのブイとして、理屈を好むのだ。自意識は象徴的ファルスによって発生するわけで、ファルスをサンボリックの「軸」(ラカン用語ならS1)と見做すならば、「軸」がある結果としての理屈か、「軸」がない故仮設する「柵」(ラカン用語なら第四の輪たるサントーム)としての理屈か、の違いである。
ちなみに言うと、この「軸」と「柵」も、アブジェクシオン領域では未分化的になる。個人的直観で言うと。理屈っぽく言うなら、パラノイアとスキゾフレニーの混淆。妄想分裂態勢。「部分は全体、全体は部分」。
そもそも、シニフィアン連鎖の多義性を考えるならば、多義とは有限であり、無限ではない。その有限さを裏打ちするのが、たとえば象徴的ファルスの生の欲動方向への隠喩作用であり、せき立てであり、アスペルガー症候群者に欠けていると言われている「心の理論」である。この有限さの影響が弱い人間だからこそ、有限な多義性を根拠にしたサンボリックを生きられない。彼らは他人と妥協するために、一義性を求めている。無限性の強い有限なシニフィアン連鎖(意味)を生きているからこそ、一義性を選択せざるを得ない。彼らは祈りとして、一義性を選択する傾向がある。『アンチ・オイディプス』はここがわかっていないと言えるだろう。だからわたしはこのテクストに対し、「こっちの世界はお前らが憧れてるほどいいもんじゃねえよwww」や「やっぱ他人事の、「分裂症になりたい非分裂症者」の二次元的戯言だな」のごとき態度を取ってしまう。
もちろんこれらは傾向に過ぎず、この理屈に当てはまらない主体もいるだろう。しかし重要なのは、「心の理論」を保有できている定型人が理屈を選択するのとは、原因が異なる、ということだ。
さて、長々と前置きが(まだ前置きかよ)続いてしまったが、そろそろ本題に入ろう。
わたしはポストコロニアルという思想形態は、とってもオイディプス的に思えて好きじゃない。『アンチ・オイディプス』的に言えば、社会的機械と欲望機械を区別したがる行間が感じられるからだ。自分の内面を振り返らず社会に責任を押しつけたがる神経症的逃避を、彼らの言葉から常に感じる。いや区別はいいのだ。事実違うものだから。彼らの理屈は、その区別が「柵」として機能している。精神分析が欲望をオイディプスの三角形に閉じ込めたと言うならば、ポスコロは社会的抑圧と被抑圧の関係に閉じ込めている。精神分析よりはるかにオイディプス的だと思える。それによる文芸分析などある程度の評価はしているが、エポケー地点がとってもオイディプス的、定型人的でキモチワルクなるのだ。定型人にありがちな、定型人自身を批判する文脈において、自分の内面を掘り下げることにならないことが、その自分の言葉が自分の定型人部分を切り刻んでいることにならないことが、言葉が諸刃の剣になっていないことが、とっても不思議でキモチワルイのだ。自分の権力者である部分を、違う定型人(たとえば歴史上の帝国主義など)に投影し、それを攻撃することで満足している。従って権力者を、人の心を傷つける道具足りえない。何故こんな簡単なことに気づかないのだろう、といつも不思議に思う。それが鏡であることに気づけない人たち。むしろ厚顔で鈍感になることが定型人になることなわけだから彼らの心理は「正常」と言えるんだけどね。要するに、ポスコロな人たちのやっていることは、神経症者の小文字の倒錯に過ぎない、ということだ。
そんな個人的感想は置いておいて。
一方わたしは、定型人が陥りがちな、盲目になってしまう部分を表層に持ち上げる役割を考えると、ポストコロニアル理論という「道具」もわからなくもない、と思っている。笙野頼子の小説などは、ポスコロ視点とってもおいしいサンプルとなろう。
そんなブログを紹介する。ここ。笙野関連記事を挙げておく(1,2,3,4)。
うん。1~3は『だいにっほんシリーズ』がいかにポスコロ思想とマッチングーしてるかってことの説明やね。実際「火星人とは歴史を奪われてきた人たちだ」って種明かしにも符号する。字面だけで考えるならば、火星人なるものはポスコロ理論で語るべきだとも思う。一般向けにはそっちのがわかりやすいだろう。わたしがやっているみたいな精神分析理論で語るよかね。んで4。ここに出てくる「サバルタン」という言葉。これが重要。これまでの文章なら、「自意識の弱い人」がサバルタンに連鎖するだろう。
火星人をサバルタンと解釈する彼は、とても鋭いと思う。見事と言える。しかし彼はそこから進めない。自らの権力者である部分が見えていない故に進めない。それは笙野本人にも感じられることだ。
笙野あるいはこの筆者に欠けているもの。それは、それこそスピヴァクの言葉である『サバルタンは語ることができるか』という問いである。何故サバルタンは自らを語れないのか。何故サバルタンは歴史を奪われてしまうのか。こういった問いがないとは言えないが、その存在感が薄いために、笙野は火星人主人公たるいぶきに歴史を語らせようとする。それ自体が権力の行使に、抑圧に、サバルタンに権力者スーツを着せることになっている。そんな簡単なことに、みんながみんな、気づかないまま。
何故自意識の弱い人は自らを語れないのか。わたしならいくつも答えを用意できる。たとえばそういった人たちは相対的に傾向的に「軸」たる象徴的ファルスが不安定であり、「軸」から発生する隠喩作用が超自我という無意識の言語構造を固定化させるわけだから、彼らの言葉は流動的になる。一貫性がなくなる。語るために必要な自分という固定的視点が存在しなくなる。故に、彼らは自分を語れない。歴史を語れない。語ったとしても、一貫性がないのだから、定型人好みの解釈をされるだけ。あるいは、そこにアスペルガー症候群者を当てはめるのなら、自意識の根本を象徴する判断である「好き/嫌い」さえ彼らは確信できないからだ、などと言うことも可能だ。もっと掘り下げたいならこのブログのアスペルガー症候群、統合失調症、スキゾイド関連の記事を読むとよい。
火星人は、サバルタンは何故語れないのか。わたしの言葉なら、自意識が弱いから、笙野の言葉なら、自我がないから、となろう。
では、自意識が、自我が強ければそれでよいという結論に導かれやしないか。あたかも誘導尋問のごとく。そんな簡単な話なのか? 自意識が、自我があることが正しいことだという考えこそが、権力者の理屈ではないのか? 『アンチ・オイディプス』なら、自意識が、自我が膨張した人間たち即ちパラノイアこそが専制君主の身体なのではないのか? 膨張させなければよいのか? 欲望を抑制すればいいのか? それこそ『アンチ・オイディプス』が批判する精神分析の役割になっていたのではないか? 現代オタクたちという欲望に対し譲歩しまくる部族と何が違うのか?
もう一度言う。そんな簡単な話なのか? そんなに「わかりやすい」話なのか?
こういった問いの答えを、それこそポスコロがやっているように、社会体制に求めるのもよかろう。しかし歴史上の幻想にそれを求めると、歴史幻想における権力者の分析になり、自らの権力者である部分には何も影響が生じない。自他未分化的なおぞましくも魅惑的な領域に辿り着けない。サバルタンは非サバルタン化されることが「正しい」という固定観念から抜け出せない。この記事などよい例である。引用する。
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この発言は、沖縄の聴衆を非サバルタンとして扱うことでその声を奪い、彼らを(再)サバルタン化してしまっている。おそらくはこの発言は、沖縄の人々はサバルタンではない、という事実を確認する言明のつもりで発せられたのだろうが、その言明に彼らをサバルタンとして(再び)囲繞する身振りが伴うことに関して鈍感すぎはしないか。
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彼は、サバルタン化されることが悪いことであるという固定観念から抜け出せていない自分に気づけていない。彼も等しく、「鈍感すぎ」る。
これは、精神分析論でもあることだ。『アンチ・オイディプス』などは、確かに表面上は、自らを語りえない分裂症の視点で述べていると言えよう。しかし違うのだ。彼らはサバルタンを美化し過ぎている。キラキラした目でこっちを見ている。それは違うのだ。自らを語りえないから、周りで交通する言語から、自らの存在は抜け落ちてしまう。それはそんなにいいものではないのだ。羨しがられるようなものではないのだ。非定型人とは。サバルタンとは。狂人とは。彼らが生きる世界とは。自らの狂気を、もっともおぞましくまた魅惑的に感じているのは、狂人自身なのだ。
統辞的構造、即ち論文としての体裁を整えるのすらバカらしくなってきているので、今日はこれまで。
あ、個人的な感想言うなら、パンサババアなんてちっちゃなちんちん大好きっ子なんかより、ポスコロの人の方がさすがに読めているとは思うよ。まあ知識のお陰だろうが。
笙野も薄々気づいてよさそうだけどなあ。パンサやらモモチやらっていう蝿になりたがる蛆虫が自分を「敵方の文学」における「大作家」に仕立て上げようとしていることに。パラノイアたる専制君主に仕立て上げようとしていることに。まあ言わないだけで取捨選択はしているんだろうとちょっとは信じておこう。疑いは晴れないけど。ごめんねそういう人なの。いや別にいいけどね。非サバルタンの方向で、顕教的な方向で大作家になっても。わたしが読まなくなるだけ。裏切られるのにゃ慣れているし。顕教的なるものを一掃しろだなんて『アンチ・オイディプス』的な考えしてないし。
つーか誰がどう見ても、ここに記録されたババアの本性は、おんたこそのまんまじゃん。この記事とか読んでどう思うのだろう。このババア。
あれえ? 全然定型人側の文章になってねーな。あかんわー。おえんわー。
そういえばポスコロってポコって略した方がかわいくね? 以下このブログではポコちゃんって呼ぼう。
ぶぎゅぎゅぐぶぉあ。