「オタク」という仮面
2006/12/01/Fri
パラノ的オタ、自己愛型引きこもりなど、非スキゾ型人格≒パラノ型人格≒一般の正常な人間が、スキゾ型人格の仮面を被る。何が問題なのか。
仮面=ペルソナを被ること自体は批判しません。スキゾ型人格の仮面を選択すること自体もです。だた、その仮面が流行語的な、例えば現代の「オタク」という仮面だった場合、ある危険性があると思います。演劇論をモチーフに少し読み解いてみましょう。
仮面と言っても、ここで言う仮面はお祭りの時売っているようなプラスチックのお面ではありません。簡単に着脱可能なものではありません。それを被れば仮面の表面が被った人間の精神に影響しますし、被ったとしても隠すのは自我だけで、その下にある無意識層は仮面の表面に不用意に現れがちになるのです。これを少しラカン的に掘り下げてみましょう。
役者の演技では、例えば「笑う演技」をしていれば、演技のはずなのに自分の感情が「可笑しく」なってしまったりします。仮面が自己の内部に影響してくるわけですね。役者の演技論では肉体と精神は区別できないものなのです。だからこそ肉体を、その動作の細かいところまで自我のコントロール化におくことがその稽古の目的となります。しかし自我と無意識層は繋がっているので、どうしても仮面は無意識層に影響してきます。これが「役に入り込みすぎて、芝居が終わっても役を引きずる」ということになるのです。
仮面の自我によるコントロールがちゃんとしていればしているほど、その仮面には無意識層の深層の部分が滲み出てきます。これをラカン的に説明するならば、仮面=役が言うセリフ、または動作の元になるト書きは、そのまま大文字の他者(自問自答する時の他者)の言葉のように、自我とエス両方に影響してきます。一般の世界における対話なら、想像的軸(目に見え耳に聞こえまたそこから想像する他者(小文字の他者)と自我とを結ぶ線分)がエスへの影響を妨害しますが、役者の場合はこの軸が直接的ではありません。映像なら後で確認できますが、舞台だと自分が演技しているところを見れないからです。観客という鏡を通してしか「仮面=役」という小文字の他者を想像できないのです。つまり、役のセリフ・ト書きが、一般のコミュニケーションより直接的に(想像的軸による阻害が少ない状態で)エスに影響し、それが再び「役」または「観客」という小文字の他者を通って(鏡面的に反射され)、それを自我が認識するのです。
仮面を被る=演技をすると、合わせ鏡のように仮面の言葉が自我とエスに響いてしまう、という言い方でしょうか。
その合わせ鏡の間を行き来する言葉は、自分だけではなく観客にも聞こえています。だからこそ役者は、肉体+精神=「身体」を自我のコントロール下におく技術が宿命的に必要とされるのです。
アントナン・アルトーは、この無意識層の深層が表出した瞬間の役者の身体を、「器官なき身体」と呼びました。その身体における主観と客観は、合わせ鏡のせいで複雑に絡みあい、境界は曖昧です。逆説的に暗喩的に言えば、開演した瞬間、観客の中に放り出された瞬間の役者の自我を観客は認めていません。彼の「役」について何も知らされていません。観客にとって、その瞬間のその物体は「器官なき身体」になるのです。この観客の視線が、想像界の本質であり(舞台を降りた瞬間、袖に入った瞬間振り返って見る客席と舞台が、さしずめ現実界でしょうか)、仏教的な「自然」=世界なのです。このことは中村雄二郎氏が近代科学を能動的知と表現しそれとの対立項として、「パトスの知」を「受動的知」と表現していましたが、それと呼応する概念だと私は思います。
仮面の話に戻りましょう。このように仮面=演技をするということは、お祭りのお面みたいに気楽に着脱して済むものではなく、自分のエスや無意識層に、通常の対話より密接に関係してくる行為なのです。その演技をしている自分=役が他者になってしまうから、自己と離れてしまうのではなく、逆に他者になるからこそ仮面の言葉や動作が自己の無意識層の深層に響いてきてしまうのです。
とはいえ、人間は一般的に他者のフリ、模倣という「演技」を幼児の頃から学んで成長するものです。「仮面」を広義に捉えればそうなります。そういった成長の中でエスや超自我的なものが育っていくわけです。なので、ここでは流行語的な、例えば現代の「オタク」という言葉を「仮面」にした場合、というような狭義の意味での「仮面」について話を進めていきます。
流行語は、主に新語としての性格を持っています。日常で使われる意味を持つ言葉は流行語ではありませんよね。それはただの一般的な言葉です。流行するからにはそこに何かの言葉としての特殊性、革新性がないといけないわけです。シニフィアンとしての新しさ、シニフィエとしての新しさは問いません。新語であるからには誤解が生じやすくなります。よってその意味を定義づける力も同時に作用します。流行語辞典のようなものですね。普通の言葉なら辞典以外にその言葉が使われた書物や説話など、言葉そのものに歴史があるわけですが、流行語≒新語だとそうはいきません。こうしたことから、デリダ的に言うなら流行語は散種しづらい(意味が拡散しにくい)ものだと言えます。シンボルではなくサイン的なのですね。流行語である時点では。散種の多義性への転倒という状況と類似しています。
それでは流行語となってしまった言葉が仮面として用いられたらどうなるでしょうか。ここでは、90年代以降流行語として一般に広まった「オタク」という言葉を仮面にしてしまった事例を掘り下げていきましょう。
それまでのオタク文化は、命名者である中森明夫氏の文章(83年)や宮崎事件(89年)などにより、社会的に虐げられていました。それでもオタク文化にいる人間というのは、結果スキゾ的人格が多くを占めることになります。彼らは想像界の内的動力が弱いので社会の圧力に関心がないからです。その代わり自分が好きな対象については、無機物であっても人間に注ぐ愛情と同じくらいの愛情を注ぎます。南方熊楠なら粘菌、オタクならアニメやマンガですね。もっと細かく言うなら、象徴界の内的動力は強いので、言葉だけの会話、つまりネットの掲示板やチャットでのコミュニケーションには不都合がなく、むしろ好都合です。ネットに飛びつきます。また抽象化能力は高いので自分の趣味に対する理論武装は高いレベルにあります。ただそれを他者に多弁的に言うことはありません。ネットでも。リアルの世界で、彼らは想像界の弱さから社会に抑圧されてきたのですから、それがトラウマ的に作用しリアルの人間との繋がりを避ける傾向はあります。だからスキゾ的人格は引きこもりになりがちなのです。こうした「引きこもり」と「オタク」が人口的に大きく重なっていたところに、「自己愛型引きこもり」や「非スキゾ的オタク」がその文化に流入してきます。非スキゾ=一般人・正常人である彼らは、ラカンの「人格とはパラノイアである」という説に倣えばパラノ的人格と言えますので、パラノ的オタクとなります。
現状では引きこもりは社会的に虐げられている、侮蔑されている感じがしますが、オタクは電車男などテレビの取り上げ方を見ても比較的虐げられてないことは明らかですね。引きこもりにおける非スキゾ型引きこもり=自己愛型引きこもりより多数の、非スキゾ型オタク=パラノ的オタクがオタク文化に流入していると考えられます。
彼らは前時代のスキゾ的オタクの行動様式を真似ます。「オタク」の仮面を被るわけですね。これが東浩紀氏が言う「シニシズム的な(オタクという)自覚」ということになりましょうか。「オタク」は流行語ですので、まず形から入るしかないのです。
「オタク」という散種しづらい記号の仮面を被った彼らは、無意識層にそれが影響し、彼らにとっての大文字の他者が散種しません。自問自答の言葉が一義的になるため、自問自答が浅いまま終わってしまうのです。これが以前の記事で書いた「思考停止ならぬ散種停止」ということです。科学信仰というマクロ社会での散種停止化の力と、オタクの仮面を被ることによる散種停止化の力が二重に働いているわけですね。これがオタク文化の傾向が、デフォルメ的にポストモダンの特徴として表出してしまう原因・構造だと私は考えます。東氏の「動物化」という現象と同じものだと思います。
さて、パラノ的オタク、自己愛型引きこもりの問題点を具体的にさらっと挙げておきましょう。
彼らはパラノ的(≠病気としてのパラノイア)という、正常な人格形成がなされています。前の記事で書いたような、幼児期の成長において想像界が健全に成長した結果の人格だと思います。赤ちゃんから幼児期にかけて適切な親の愛情を受けて育ってきたのでしょう。それが自己愛過多になるのは、「去勢」の過程・大文字の他者の形成の過程に原因があるのかな、と個人的に思いますが、それはここでは追求しません。
問題なのは本来健全な、リアルの他者とのコミュニケーション能力がある、社交的な人格といえるのに、それを「オタク」という仮面を被ることで、引きこもることで想像的軸の繋がりを自ら断っていることにあると思います。
スキゾ型引きこもりやスキゾ的オタには「もっと現実の人間と関係を持て」と無責任に言えませんが、自己愛型引きこもり・パラノ的オタにはそう言って構わないのではないかな、という気がします。もちろん個々の事例には様々な心の問題が複合的に組み合わさっていると思うので、個々に単純に言っていいとは思いません。そうではなく、社会的なメッセージとして、という意味です。
オタク全体の傾向については、やはりその散種停止、記号のサイン化が気になります。サイン化してしまえば象徴界とも言えなくなりますし、どっちにしろ言葉のサイン化(一義化)は、大文字の他者と自我の対話、自問自答が浅くなってしまうのではないか、と思うのです。自問自答が浅くなれば、自我形成に支障をきたしてしまうのではないでしょうか。それこそ自我同一性の拡散のような。
しかしこれについては私は本気でそう思っているわけではないのですが……。
私の本分は演劇論、ひいては芸術文化論からの視点だと考えています。
オタク文化を表現文化として捉えた場合、そのデフォルメ的な特徴から、私は「記号のサイン化」という傾向を見出しました。今回の記事では「思考停止ならぬ散種停止」がここに還元されると考えます。そしてこれはたまたまオタク文化でデフォルメチックに表出していることで、オタク文化だけではなくポストモダンの表現文化に通底する傾向であるような気がします。私はこれを危惧しています。
こういったオタク文化やサブカルチャーを経験した子供が大人になり、表現文化を支えていくのです。私は表現文化に携わる大人はこのことにもっと意識的であるべきだと考えます。
オタク文化の表現は評論できない、評論に値しない、取るに足らない作品だから触れない、というのはおかしいと思います。文芸界で言えば、自家中毒気味な評論界が今こそその権威をもってライトノベルを「抑圧」すべきではないでしょうか。権威というものは本来そうやって道具として用いることで、「芸術的知」の循環を担うものであるべきだと私は考えます。表現文化における父性として、子を「去勢」する義務が「権威」にはあるのではないでしょうか? こういった意味で私は東浩紀氏や大塚英志氏のような態度が正しい評論家の姿であると思います。
母性的な教育環境で育つ子供に対し、叱らない大人も悪いのですよ……(自嘲気味に)。
仮面=ペルソナを被ること自体は批判しません。スキゾ型人格の仮面を選択すること自体もです。だた、その仮面が流行語的な、例えば現代の「オタク」という仮面だった場合、ある危険性があると思います。演劇論をモチーフに少し読み解いてみましょう。
仮面と言っても、ここで言う仮面はお祭りの時売っているようなプラスチックのお面ではありません。簡単に着脱可能なものではありません。それを被れば仮面の表面が被った人間の精神に影響しますし、被ったとしても隠すのは自我だけで、その下にある無意識層は仮面の表面に不用意に現れがちになるのです。これを少しラカン的に掘り下げてみましょう。
役者の演技では、例えば「笑う演技」をしていれば、演技のはずなのに自分の感情が「可笑しく」なってしまったりします。仮面が自己の内部に影響してくるわけですね。役者の演技論では肉体と精神は区別できないものなのです。だからこそ肉体を、その動作の細かいところまで自我のコントロール化におくことがその稽古の目的となります。しかし自我と無意識層は繋がっているので、どうしても仮面は無意識層に影響してきます。これが「役に入り込みすぎて、芝居が終わっても役を引きずる」ということになるのです。
仮面の自我によるコントロールがちゃんとしていればしているほど、その仮面には無意識層の深層の部分が滲み出てきます。これをラカン的に説明するならば、仮面=役が言うセリフ、または動作の元になるト書きは、そのまま大文字の他者(自問自答する時の他者)の言葉のように、自我とエス両方に影響してきます。一般の世界における対話なら、想像的軸(目に見え耳に聞こえまたそこから想像する他者(小文字の他者)と自我とを結ぶ線分)がエスへの影響を妨害しますが、役者の場合はこの軸が直接的ではありません。映像なら後で確認できますが、舞台だと自分が演技しているところを見れないからです。観客という鏡を通してしか「仮面=役」という小文字の他者を想像できないのです。つまり、役のセリフ・ト書きが、一般のコミュニケーションより直接的に(想像的軸による阻害が少ない状態で)エスに影響し、それが再び「役」または「観客」という小文字の他者を通って(鏡面的に反射され)、それを自我が認識するのです。
仮面を被る=演技をすると、合わせ鏡のように仮面の言葉が自我とエスに響いてしまう、という言い方でしょうか。
その合わせ鏡の間を行き来する言葉は、自分だけではなく観客にも聞こえています。だからこそ役者は、肉体+精神=「身体」を自我のコントロール下におく技術が宿命的に必要とされるのです。
アントナン・アルトーは、この無意識層の深層が表出した瞬間の役者の身体を、「器官なき身体」と呼びました。その身体における主観と客観は、合わせ鏡のせいで複雑に絡みあい、境界は曖昧です。逆説的に暗喩的に言えば、開演した瞬間、観客の中に放り出された瞬間の役者の自我を観客は認めていません。彼の「役」について何も知らされていません。観客にとって、その瞬間のその物体は「器官なき身体」になるのです。この観客の視線が、想像界の本質であり(舞台を降りた瞬間、袖に入った瞬間振り返って見る客席と舞台が、さしずめ現実界でしょうか)、仏教的な「自然」=世界なのです。このことは中村雄二郎氏が近代科学を能動的知と表現しそれとの対立項として、「パトスの知」を「受動的知」と表現していましたが、それと呼応する概念だと私は思います。
仮面の話に戻りましょう。このように仮面=演技をするということは、お祭りのお面みたいに気楽に着脱して済むものではなく、自分のエスや無意識層に、通常の対話より密接に関係してくる行為なのです。その演技をしている自分=役が他者になってしまうから、自己と離れてしまうのではなく、逆に他者になるからこそ仮面の言葉や動作が自己の無意識層の深層に響いてきてしまうのです。
とはいえ、人間は一般的に他者のフリ、模倣という「演技」を幼児の頃から学んで成長するものです。「仮面」を広義に捉えればそうなります。そういった成長の中でエスや超自我的なものが育っていくわけです。なので、ここでは流行語的な、例えば現代の「オタク」という言葉を「仮面」にした場合、というような狭義の意味での「仮面」について話を進めていきます。
流行語は、主に新語としての性格を持っています。日常で使われる意味を持つ言葉は流行語ではありませんよね。それはただの一般的な言葉です。流行するからにはそこに何かの言葉としての特殊性、革新性がないといけないわけです。シニフィアンとしての新しさ、シニフィエとしての新しさは問いません。新語であるからには誤解が生じやすくなります。よってその意味を定義づける力も同時に作用します。流行語辞典のようなものですね。普通の言葉なら辞典以外にその言葉が使われた書物や説話など、言葉そのものに歴史があるわけですが、流行語≒新語だとそうはいきません。こうしたことから、デリダ的に言うなら流行語は散種しづらい(意味が拡散しにくい)ものだと言えます。シンボルではなくサイン的なのですね。流行語である時点では。散種の多義性への転倒という状況と類似しています。
それでは流行語となってしまった言葉が仮面として用いられたらどうなるでしょうか。ここでは、90年代以降流行語として一般に広まった「オタク」という言葉を仮面にしてしまった事例を掘り下げていきましょう。
それまでのオタク文化は、命名者である中森明夫氏の文章(83年)や宮崎事件(89年)などにより、社会的に虐げられていました。それでもオタク文化にいる人間というのは、結果スキゾ的人格が多くを占めることになります。彼らは想像界の内的動力が弱いので社会の圧力に関心がないからです。その代わり自分が好きな対象については、無機物であっても人間に注ぐ愛情と同じくらいの愛情を注ぎます。南方熊楠なら粘菌、オタクならアニメやマンガですね。もっと細かく言うなら、象徴界の内的動力は強いので、言葉だけの会話、つまりネットの掲示板やチャットでのコミュニケーションには不都合がなく、むしろ好都合です。ネットに飛びつきます。また抽象化能力は高いので自分の趣味に対する理論武装は高いレベルにあります。ただそれを他者に多弁的に言うことはありません。ネットでも。リアルの世界で、彼らは想像界の弱さから社会に抑圧されてきたのですから、それがトラウマ的に作用しリアルの人間との繋がりを避ける傾向はあります。だからスキゾ的人格は引きこもりになりがちなのです。こうした「引きこもり」と「オタク」が人口的に大きく重なっていたところに、「自己愛型引きこもり」や「非スキゾ的オタク」がその文化に流入してきます。非スキゾ=一般人・正常人である彼らは、ラカンの「人格とはパラノイアである」という説に倣えばパラノ的人格と言えますので、パラノ的オタクとなります。
現状では引きこもりは社会的に虐げられている、侮蔑されている感じがしますが、オタクは電車男などテレビの取り上げ方を見ても比較的虐げられてないことは明らかですね。引きこもりにおける非スキゾ型引きこもり=自己愛型引きこもりより多数の、非スキゾ型オタク=パラノ的オタクがオタク文化に流入していると考えられます。
彼らは前時代のスキゾ的オタクの行動様式を真似ます。「オタク」の仮面を被るわけですね。これが東浩紀氏が言う「シニシズム的な(オタクという)自覚」ということになりましょうか。「オタク」は流行語ですので、まず形から入るしかないのです。
「オタク」という散種しづらい記号の仮面を被った彼らは、無意識層にそれが影響し、彼らにとっての大文字の他者が散種しません。自問自答の言葉が一義的になるため、自問自答が浅いまま終わってしまうのです。これが以前の記事で書いた「思考停止ならぬ散種停止」ということです。科学信仰というマクロ社会での散種停止化の力と、オタクの仮面を被ることによる散種停止化の力が二重に働いているわけですね。これがオタク文化の傾向が、デフォルメ的にポストモダンの特徴として表出してしまう原因・構造だと私は考えます。東氏の「動物化」という現象と同じものだと思います。
さて、パラノ的オタク、自己愛型引きこもりの問題点を具体的にさらっと挙げておきましょう。
彼らはパラノ的(≠病気としてのパラノイア)という、正常な人格形成がなされています。前の記事で書いたような、幼児期の成長において想像界が健全に成長した結果の人格だと思います。赤ちゃんから幼児期にかけて適切な親の愛情を受けて育ってきたのでしょう。それが自己愛過多になるのは、「去勢」の過程・大文字の他者の形成の過程に原因があるのかな、と個人的に思いますが、それはここでは追求しません。
問題なのは本来健全な、リアルの他者とのコミュニケーション能力がある、社交的な人格といえるのに、それを「オタク」という仮面を被ることで、引きこもることで想像的軸の繋がりを自ら断っていることにあると思います。
スキゾ型引きこもりやスキゾ的オタには「もっと現実の人間と関係を持て」と無責任に言えませんが、自己愛型引きこもり・パラノ的オタにはそう言って構わないのではないかな、という気がします。もちろん個々の事例には様々な心の問題が複合的に組み合わさっていると思うので、個々に単純に言っていいとは思いません。そうではなく、社会的なメッセージとして、という意味です。
オタク全体の傾向については、やはりその散種停止、記号のサイン化が気になります。サイン化してしまえば象徴界とも言えなくなりますし、どっちにしろ言葉のサイン化(一義化)は、大文字の他者と自我の対話、自問自答が浅くなってしまうのではないか、と思うのです。自問自答が浅くなれば、自我形成に支障をきたしてしまうのではないでしょうか。それこそ自我同一性の拡散のような。
しかしこれについては私は本気でそう思っているわけではないのですが……。
私の本分は演劇論、ひいては芸術文化論からの視点だと考えています。
オタク文化を表現文化として捉えた場合、そのデフォルメ的な特徴から、私は「記号のサイン化」という傾向を見出しました。今回の記事では「思考停止ならぬ散種停止」がここに還元されると考えます。そしてこれはたまたまオタク文化でデフォルメチックに表出していることで、オタク文化だけではなくポストモダンの表現文化に通底する傾向であるような気がします。私はこれを危惧しています。
こういったオタク文化やサブカルチャーを経験した子供が大人になり、表現文化を支えていくのです。私は表現文化に携わる大人はこのことにもっと意識的であるべきだと考えます。
オタク文化の表現は評論できない、評論に値しない、取るに足らない作品だから触れない、というのはおかしいと思います。文芸界で言えば、自家中毒気味な評論界が今こそその権威をもってライトノベルを「抑圧」すべきではないでしょうか。権威というものは本来そうやって道具として用いることで、「芸術的知」の循環を担うものであるべきだと私は考えます。表現文化における父性として、子を「去勢」する義務が「権威」にはあるのではないでしょうか? こういった意味で私は東浩紀氏や大塚英志氏のような態度が正しい評論家の姿であると思います。
母性的な教育環境で育つ子供に対し、叱らない大人も悪いのですよ……(自嘲気味に)。