アヤナミアヤナマーアヤナミスト
2008/06/12/Thu
「恋をすると人は盲目になる」
盲目だから、目に見えないものに過敏になる。こういった行間が失われている。わたしが見ている世界では、目に見えないものを隠蔽しようとする人間たちが、多数派の暴力をもってそういった過敏さを殴り殺している。自分も、他人も。
恋愛すると暴力沙汰になりがちなわたしであるが、わたしも時には、殴り殺す側になる。多数派という虎の威を借りて。自分も、他人も。
知り合いのアスペの人が(以下A氏と呼ぶ)、症状的にはフリーズに当てはまるような精神状態を、「アヤナミモード」と表現していた。彼自身結構気に入っている(拘っている)表現であるらしい。曰く、周りにあるものをただ機械のように感知するだけの存在になる、だとかなんとか。
しかし、この表現には、他のある要素が隠されている、とわたしは感じた。
とても当たり前過ぎて「隠されている」なんて言葉も大仰に思える要素。わざと見ないフリをしている要素、と言った方が適切か。引っ張るほどのものでもない簡単な答えなのであっさり言うが、斎藤環氏の『戦闘美少女の精神分析』を思い出せばよい。
そう、「アヤナミ」という表現には戦闘する者、「戦い傷つく少女(笑)」という意味が含まれている。もっと狭めれば、機械のように戦闘を行う者である。
この戦闘行為に連鎖する攻撃性という要素を、わたしはこの表現に見出したい。補足するならば、冷徹な、機械のような攻撃性。
もちろん、こういった言葉を彼に突きつければ、彼は否認するだろう。しないかもしれない。どっちだっていい。「フリーズ」という症状群の枠にはめるのも否定されるような気さえする。それで構わないと思う。
ただ、「周りにあるものをただ感知するだけの感知機械」であることだけを表現したいのならば、「アヤナミ」でなくてよいはずだ。そう考えるとこの思考は、「わざわざ攻撃性という要素が纏わり着いたシニフィアンを、彼は何故選択したのか」という問いの状況要素として有効であるように思える。
本人たちが否定するであろうことを考慮し、言葉を選ぶならば、この記事で書いてある「スパークのような出会い」という比喩が、わたし的にはまだしっくりくる。ここでは「出会い」なる限定を解除するため、「スパークのような感知」という表現に整形してみよう。
当然「アヤナミ」というキャラクターは表象代理故、その多義性を理屈的に限定させるわけにはいかないが、わたしの解釈と、わたしが解釈するA氏の解釈を交錯させた解釈として、以下の文章を提示してみたい。
エヴァンゲリオンファンにとっては当たり前の解釈ではあろうが、アヤナミの無表情な、無機質的な表層は、鈍感さ故のものではない。過敏過ぎる故の無機質的表層なのだ。全てのほとんどの多くの感知がスパークのようなものとして感知されるから、アヤナミは無機質な表層を纏わせている。少なくともA氏の「周りにあるものをただ感知するだけの感知機械」という解釈と同期するのはこの解釈であろう。
しかし、機械であるからには、感知というインプットにはアウトプットが存在するはずである。物体であるからには、作用があれば反作用が存在する。そんな摂理的なものとして、攻撃性と表現されるものがある。作用しなければいいじゃないか、と言われそうだが、感知を作用としているので、たとえば見るだけでも感じるだけでもそれは作用となり、そこにはなんらかの反作用があるのである。つまり、その主体が世界として感知した時点でそれらは全て作用であり、主体視点での表現たる「反作用」が存在して「しまう」。これが、わたしの言う「物自体とは悪意である」という表現が意味することである。作用と反作用が無数の鏡に反射し合うような世界が、「スパークのような感知」により感知される世界である。物自体間で反射する悪意こそが差異の根源であり、象徴界を裏打ちする象徴界から見た場合の境界(辺境)であり、セミオティックな世界である。物自体の世界に放り込まれた主観が、それ自体が物自体化しつつある主観が感知する世界である。盲目なりという器官なき身体が生きる世界はそんな世界なのである。物自体から悪意が抜け落ちている(わざとカギカッコつきで表現するが)「物自体」とは、既にその時点で、多少なりのなんらかの隠蔽が、抑圧が、排除が、棄却がなされているのだ。
攻撃性なり悪意なりスパークなり否定性なりと表現されるようなこの感知こそが、その主体がフレーム問題を起こすロボットとは別物であることの、最初にあり最後にある根城なのだ。ここに触れられない『アンチ・オイディプス』は、定型人視点で分裂症を見ているからこそ、それを「肯定的」と表現する。一般の世の中が狂気に対して感じる否定的な何かに対抗するためではあろうが、その中で「ある時は男である時は女であり、ある時は大人である時は子供であるのが分裂症者である」などと書かれているように、分裂症者は「ある時は定型人でもある」のだ。心の理論やセミオティックなどと表現される境界が増幅された結果のものである「正常人/狂人」という二極すら、彼らは、いや、人間という存在は、横断して「しまう」のだ。「的」という便利なシニフィアンの使用が許可されるのならば、「肯定的であり否定的である」という意味を示唆できる「スパーク」の方が適しているだろう。
ところで、「アヤナミモード」の無機質性と攻撃性は、分離できるものではない。言語的に区別はされてもよかろうが、言語的に区別されたからと言って現実的に分離できるわけではない。それらは水分子の酸素原子と水素原子のように結びついている。電気分解すればそれば水分子ではなくなる。別物になる。
今わたしはその攻撃性について取り上げて論じているが、そういう意味で捉えて欲しい。
A氏は、自分が「アヤナミモード」になることを恐れていた。彼は言葉にこそしていなかったが、「アヤナミモード」という分子が、無機質性と共に攻撃性を持っていることを、意識的か無意識的か関係なく感知しているから、恐れていたのではないか、などという解釈も可能だろう。
しかしわたしは、「言葉にできるくらいならマダマシ」という定型人的な心の理論的な解釈を投げつけたくなった。そんなせいもあってか、わたしは「それはお前の防衛ラインだ」と表現した。解釈の押しつけだと言われようがなんでもありなのがわたしにとっての精神分析だ。わたしは精神分析家ではない。なりたくもない。欲望の存在を屈折させる壊れた人形なんか、対象aの立場なんかもうゴメンだ。わたしはわたしであれ他人であれ自他に限らない欲望に、自らが妥協しないために精神分析を道具として用いている。精神分析家という一つの宗教集団内では真っ先に排除されなければならない行為だろう。
んなもん、シラネエ。
そうとしか言えない。わたしがやっているみたいに使われたくなければ秘密結社でも創設するがいい。無数の武器の安全装置を改造されたくないのなら、武器庫は隠し通せ。手品師に連想されたいのなら、わかりやすいところにタネを置くな。「わかりやすさの危険」を説くならば、もっと森を繁茂させろ。神経症という蝿の大群が群れられないほどの広大な森を。ミミズたちが自閉できるような暗い暗い森を。
ブラッド・ピットとハリソン・フォードの『デビル』がつまらなくていらいらしているからこんな文章になっていると思ってくれて構わない。冗談だ。全く関係ないむしろ言い訳だと自分で思ってるし違うとも思ってるしどっちでもいいけどどっちでもないけどこんなん言葉で表せられるようなもんじゃねえと思うからもういいや。
雁須磨子さんの『かよちゃんの荷物』が最近面白くなってきた。作品的にじゃなくわたし的に。あ、うんうんって感じの感想文発見。
ひょーん。
盲目だから、目に見えないものに過敏になる。こういった行間が失われている。わたしが見ている世界では、目に見えないものを隠蔽しようとする人間たちが、多数派の暴力をもってそういった過敏さを殴り殺している。自分も、他人も。
恋愛すると暴力沙汰になりがちなわたしであるが、わたしも時には、殴り殺す側になる。多数派という虎の威を借りて。自分も、他人も。
知り合いのアスペの人が(以下A氏と呼ぶ)、症状的にはフリーズに当てはまるような精神状態を、「アヤナミモード」と表現していた。彼自身結構気に入っている(拘っている)表現であるらしい。曰く、周りにあるものをただ機械のように感知するだけの存在になる、だとかなんとか。
しかし、この表現には、他のある要素が隠されている、とわたしは感じた。
とても当たり前過ぎて「隠されている」なんて言葉も大仰に思える要素。わざと見ないフリをしている要素、と言った方が適切か。引っ張るほどのものでもない簡単な答えなのであっさり言うが、斎藤環氏の『戦闘美少女の精神分析』を思い出せばよい。
そう、「アヤナミ」という表現には戦闘する者、「戦い傷つく少女(笑)」という意味が含まれている。もっと狭めれば、機械のように戦闘を行う者である。
この戦闘行為に連鎖する攻撃性という要素を、わたしはこの表現に見出したい。補足するならば、冷徹な、機械のような攻撃性。
もちろん、こういった言葉を彼に突きつければ、彼は否認するだろう。しないかもしれない。どっちだっていい。「フリーズ」という症状群の枠にはめるのも否定されるような気さえする。それで構わないと思う。
ただ、「周りにあるものをただ感知するだけの感知機械」であることだけを表現したいのならば、「アヤナミ」でなくてよいはずだ。そう考えるとこの思考は、「わざわざ攻撃性という要素が纏わり着いたシニフィアンを、彼は何故選択したのか」という問いの状況要素として有効であるように思える。
本人たちが否定するであろうことを考慮し、言葉を選ぶならば、この記事で書いてある「スパークのような出会い」という比喩が、わたし的にはまだしっくりくる。ここでは「出会い」なる限定を解除するため、「スパークのような感知」という表現に整形してみよう。
当然「アヤナミ」というキャラクターは表象代理故、その多義性を理屈的に限定させるわけにはいかないが、わたしの解釈と、わたしが解釈するA氏の解釈を交錯させた解釈として、以下の文章を提示してみたい。
エヴァンゲリオンファンにとっては当たり前の解釈ではあろうが、アヤナミの無表情な、無機質的な表層は、鈍感さ故のものではない。過敏過ぎる故の無機質的表層なのだ。全てのほとんどの多くの感知がスパークのようなものとして感知されるから、アヤナミは無機質な表層を纏わせている。少なくともA氏の「周りにあるものをただ感知するだけの感知機械」という解釈と同期するのはこの解釈であろう。
しかし、機械であるからには、感知というインプットにはアウトプットが存在するはずである。物体であるからには、作用があれば反作用が存在する。そんな摂理的なものとして、攻撃性と表現されるものがある。作用しなければいいじゃないか、と言われそうだが、感知を作用としているので、たとえば見るだけでも感じるだけでもそれは作用となり、そこにはなんらかの反作用があるのである。つまり、その主体が世界として感知した時点でそれらは全て作用であり、主体視点での表現たる「反作用」が存在して「しまう」。これが、わたしの言う「物自体とは悪意である」という表現が意味することである。作用と反作用が無数の鏡に反射し合うような世界が、「スパークのような感知」により感知される世界である。物自体間で反射する悪意こそが差異の根源であり、象徴界を裏打ちする象徴界から見た場合の境界(辺境)であり、セミオティックな世界である。物自体の世界に放り込まれた主観が、それ自体が物自体化しつつある主観が感知する世界である。盲目なりという器官なき身体が生きる世界はそんな世界なのである。物自体から悪意が抜け落ちている(わざとカギカッコつきで表現するが)「物自体」とは、既にその時点で、多少なりのなんらかの隠蔽が、抑圧が、排除が、棄却がなされているのだ。
攻撃性なり悪意なりスパークなり否定性なりと表現されるようなこの感知こそが、その主体がフレーム問題を起こすロボットとは別物であることの、最初にあり最後にある根城なのだ。ここに触れられない『アンチ・オイディプス』は、定型人視点で分裂症を見ているからこそ、それを「肯定的」と表現する。一般の世の中が狂気に対して感じる否定的な何かに対抗するためではあろうが、その中で「ある時は男である時は女であり、ある時は大人である時は子供であるのが分裂症者である」などと書かれているように、分裂症者は「ある時は定型人でもある」のだ。心の理論やセミオティックなどと表現される境界が増幅された結果のものである「正常人/狂人」という二極すら、彼らは、いや、人間という存在は、横断して「しまう」のだ。「的」という便利なシニフィアンの使用が許可されるのならば、「肯定的であり否定的である」という意味を示唆できる「スパーク」の方が適しているだろう。
ところで、「アヤナミモード」の無機質性と攻撃性は、分離できるものではない。言語的に区別はされてもよかろうが、言語的に区別されたからと言って現実的に分離できるわけではない。それらは水分子の酸素原子と水素原子のように結びついている。電気分解すればそれば水分子ではなくなる。別物になる。
今わたしはその攻撃性について取り上げて論じているが、そういう意味で捉えて欲しい。
A氏は、自分が「アヤナミモード」になることを恐れていた。彼は言葉にこそしていなかったが、「アヤナミモード」という分子が、無機質性と共に攻撃性を持っていることを、意識的か無意識的か関係なく感知しているから、恐れていたのではないか、などという解釈も可能だろう。
しかしわたしは、「言葉にできるくらいならマダマシ」という定型人的な心の理論的な解釈を投げつけたくなった。そんなせいもあってか、わたしは「それはお前の防衛ラインだ」と表現した。解釈の押しつけだと言われようがなんでもありなのがわたしにとっての精神分析だ。わたしは精神分析家ではない。なりたくもない。欲望の存在を屈折させる壊れた人形なんか、対象aの立場なんかもうゴメンだ。わたしはわたしであれ他人であれ自他に限らない欲望に、自らが妥協しないために精神分析を道具として用いている。精神分析家という一つの宗教集団内では真っ先に排除されなければならない行為だろう。
んなもん、シラネエ。
そうとしか言えない。わたしがやっているみたいに使われたくなければ秘密結社でも創設するがいい。無数の武器の安全装置を改造されたくないのなら、武器庫は隠し通せ。手品師に連想されたいのなら、わかりやすいところにタネを置くな。「わかりやすさの危険」を説くならば、もっと森を繁茂させろ。神経症という蝿の大群が群れられないほどの広大な森を。ミミズたちが自閉できるような暗い暗い森を。
ブラッド・ピットとハリソン・フォードの『デビル』がつまらなくていらいらしているからこんな文章になっていると思ってくれて構わない。冗談だ。全く関係ないむしろ言い訳だと自分で思ってるし違うとも思ってるしどっちでもいいけどどっちでもないけどこんなん言葉で表せられるようなもんじゃねえと思うからもういいや。
雁須磨子さんの『かよちゃんの荷物』が最近面白くなってきた。作品的にじゃなくわたし的に。あ、うんうんって感じの感想文発見。
ひょーん。