『CSI:NY2』――生々しいスーパーマン
2008/06/15/Sun
夢を見た。
ドラマに影響された夢を見るってのはなんか久しぶりだ。眠りの浅い時だったかせいか、そこそこ整合性が取れている筋書きだった。
題材になったのは、『CSI:NY2』の第19話『スーパーヒーロー』。この刑事ドラマは大体二つの事件を一話で取り扱う。今回のもそうだ。「スーパーマン」とマスコミに呼ばれている有望なフットボール新人選手の殺害事件と、スーパーマンの扮装をした若者の殺害事件。
後者の事件は、被害者は精神病院で暮らす知的障害者だった。別にそんなところでいろいろ突っ込む気はないので、被害者の胃から向精神薬が見つかったことから生じた「彼はスーパーマンになりきっていたのだな」とかいうセリフもスルー。設定では統合失調症でもないらしいので、どうでもいいのだが、あえて言うなら、分裂症は充実身体上のさまざまに変容する強度に対し歴史上の人物なり物語の登場人物というシニフィアンを「恣意させる」のであり、定型人が想像するような「なりきり」や「同一化」とは別物だと言いたいが、どうでもいい。どうでもいいが続けるならば、定型人の思考様式では、同一化していないかどうかは頭のどっかで「スーパーマンではない自分」を把握しているか、ってことになるが、分裂症者の言う「私はスーパーマンである」は、定型人がそれを言う場合と比較すると、意識的に把握している上での言葉、即ち「口先だけの言葉、たとえば隠喩を目的とした言葉」などであるとは確かに言えない。だからと言って(精神分析的な文脈での、即ちアブジェクシオンあるいは現実界という命のしかめっ面を隠蔽するものとしての)想像的同一化であるというのは誤謬である。そもそもこの充実身体上の強度は変容するもので、一種政治的とも呼べるようなエコノミーの結果として、強度を一時だけでも固定せんがために「シニフィアンの恣意性」を利用しているのである故、定型人が映画を見た後アクションスターに想像的に同一化しそのスターっぽい振る舞いをしてしまうのとはまた違う機制である、ということだ。ファルス的享楽による自傷的心中的同一化、もっとあっさり言うなら定型人のそれと比して現実界の作用が強い同一化、とも呼べようか。分裂症者はその内面を「スーパーマン」という言葉にぶら下がる様々な意味群でできた広い構造(モル的様態)に「投影」しているのではない。むしろ狭い構造(分子的様態)が充実身体上の強度を恣意的に示差できるから、「私はスーパーマンである」と言っているのだ。これは、言語構造という網の目を利用して、ある内的現象を概念化して言っているのではない。強度の丘は網の目をすり抜けるからだ。むしろ昆虫標本の「ピン止め」として「スーパーマン」という言葉が作用している。ピン止めだから複雑な隠喩(連鎖)構造は必要ない。しかし充実身体は生きている。飛び回る昆虫を、網ではなく複数の様々なピンで刺し続けなければならない。それらのピンの間に差異や矛盾はあれども隠喩はない。そこにあるのはソシュール論的な言語の事実である。隠喩によってその隙間に欠如や「父の名」が生じるわけだから、ラカンが「「父の名」(欠如)の排除が精神病である」と言ったのは正しい。だから、ガタリは分裂症者のそれを「隠喩ではない」と強調する。『アンチ・オイディプス』は精神分析がまくし立てる「欠如」を批判する。
前記事で触れたアスペルガー症候群者の言う「アヤナミモード」も、確かにそこにはある程度の隠喩構造が見て取れるが、わたしたちが思うような隠喩を目的として言っているのではない。隠喩により構造を構築させるためにあるいは隠喩構造を破壊するために言っているのではない。その記事を見たA氏の反応、「おまいあたしがエヴァンゲリオン視聴済みだと思っているだろ」という釘刺しは、それが網の目のような想像的同一化や隠喩目的ではないことを言いたかったのではないだろうか、とわたしは思った。思っただけでどうでもよかった。
そんなことをぼうっと考えながら、このドラマを見ていた。
思うに、ラカンの「想像界‐象徴界‐現実界なる三界」という見方と対立するものと考えるならば、クリステヴァ論と『アンチ・オイディプス』は、現実界と非現実界という二項間の差異を問題にしているという意味で、近しい。「想像界/象徴界/現実界」という考え方と「想像界あるいは象徴界/現実界」という考え方。
とはいえ、クリステヴァ論における、サンボリック=象徴界と対立するものとして提示されるセミオティック領域やアブジェクシオンを、単純に想像界に繋げることはできない。『アンチ・オイディプス』では欲望機械がその差異を示すものに当てはまるだろう。
しかし、クリステヴァ論では重要な点となっている、その領域における「未分化」や「おぞましさ」という要素は、『アンチ・オイディプス』では、それもオイディプス化の副作用であるとして否定される。「未分化」という言葉を考えるならば、この領域の未分化性とはクライン論における妄想分裂態勢に依拠している。わたしの言葉なら「断片の世界」である。この世界においては、乳児は、胎内にいた頃の世界をことごとく否定する新しい世界の刺激と同一化しようとする、否定性と同一化しようとしている、とわたしは解釈している。そういった意味では、「断片の世界」論は、クライン論的な「母‐私」という二項論ではなく、「世界‐私」という視座になり、「主体の本質には家族構成ではなく社会野が相関している」と暴露する『アンチ・オイティプス』に寄り添うことになろう。しかし、「断片の世界」においては、否定性と同一化、即ち分化と未分化は、分子内の原子のように結合しているのであり、『アンチ・オイディプス』にはこの視点が欠けている、という立場になる。このことが、あたかも精神病者の世界をきらきらした目で見ているような行間に繋がっている。精神疾患者が感じている辛さにあえて目をつぶって、あるいはその辛さは全てオイディプスたちの、神経症者たちの、定型人たちのせいだとして、「みんな人間の本質たる分裂症になろうぜ」とアジる詐欺師のような定型人的欺瞞を感じる。分裂症者にも(確かに神経症者と比べたら脆弱なものであろうが)生体システムとして内在されている定型化への機制を、ないものとして考えている。もちろんそういった機制が全くないと言えるような「理想的な分裂症者」も存在するかもしれない。しかし、分裂症者群という総体で考えるならば、比較的脆弱なのは確かであろうが、それが完全にないと言えてしまうその状態は、まさしく「オイディプスを告発することは即ちオイディプスの枠内に閉じ込められてしまうこと」という意味で、ドゥルーズ=ガタリという語る主体は非『アンチ・オイディプス』化している状態に他ならない。そういった非現実的なものとして、アジテーションのための理想概念として、完全な実現は困難であるという前提を持つマニフェストとして、「器官なき身体」は捉えられなければならない。以上のことから、クリステヴァの『恐怖の権力』の方が、その文体や理論性と反比例して、現実的であると言える。
非定型人の苦しみは神経症者たちのせいだけではない。定型的なるものさえ、抑圧に従順してしまうかもしれない自分さえ、自分が横断してしまうことから生じている。人間の苦しみの原因は、内在しているのだ。
いつものようにどうでもいいことで文字数を稼いでやっと本題に入りたいと思う。
ネタバレする気もないので言っておくが、ドラマの中で暴かれていく事件の事実とは異なっている。夢だから当然である。
ドラマの中で捕まった真犯人は真犯人ではなかった。確かに被害者ともみ合い彼に怪我を負わせたが、その時点で彼は生きていた。すぐ手当てをすれば助かったかもしれない。現場に誰も気づかなかったのか? いや、直後そこを通り過ぎた人間がいた。真犯人に会うために、精神病院の精神科医がそこを訪れたのだ。それはわたしだった。わたしは死にかけているスーパーマンあるいは知的障害者あるいは自分の病院の入院患者を目の前にして、凍りつく。そこに知り合いたる真犯人がいたであろうことを考えると、こうなったことの真相の大体は想像がつく。
被害者が倒れているのは、路地裏だった。被害者の倒れているすぐ近くに、汚れた赤いドアがある。赤いペンキはところどころ剥げている。ドアのある建物の店舗は知っている。誰かいるかいないかはわからないが、声をかけたら協力してくれるだろう。
しかし、わたしは彼を助けられなかった。
何故なら、この状態こそが、彼をスーパーマンたらしめたものだからだ。彼がスーパーマンであるためには、この状態を変容させてはならない。
今わたしの目の前に、ピン止めされた強度の丘が現れている。抱擁するような侵食してくるような生々しい圧倒的さをもって。
彼らのピン止めは、ある種政治的なものだ。充実身体と欲望機械を連結させるためのものだ。わたしたちに語りかけるためではないが、わたしたちという他者あるいは断片の集合体と妥協するために、シニフィアンというシステムの力を借り、そうしているのだ。
彼はピクリとも動かない。生きているというのはわたしの誤診だったのか。いや、この夢の設定では彼は生きていることになっている。死んでしまったら強度の丘さえ無に帰す。わたしが凍りつくためには、彼は死んでいてはならない。よって彼は生きている。しかし、死んでいるのなら強度の丘など存在しないはずだ。わたしは何を怯えているのだろう。まだ、かすかに息はある。息をしてないように見えるけれど、彼は生きている。死んでいたとしても、その器官なき身体は、激しく痙攣している。
赤いドアが、脈打っている。彼の心臓は、まだ動いている。思い出した。この向こう側は、ゴミ集積所だ。何故かわからないが、悪臭対策のためか、一つの部屋の中に建物のゴミを集めているのだ。各階に設置してあるダストシューターのゴール地点だ。
わたしはそのドアの向こうに、真実があるように思えた。
わたしはドアを開けた。
シーンが変わる。
わたしは警察で取り調べを受けている。科学捜査はわたしを追い詰めた。わたしは黒人男性になっている。わたしは嘘をつく。その時間そんな路地にはいなかったと。しかしマック刑事に証拠を突きつけられる。
多分、説明してもわからないだろう。警察なんてものは、強固に定型化された定型人の中の定型人がなるものだから。しかし科学という鋼線でできた網の目ならば、それを持っている者ならば、わかるかもしれない。わからないだろう。そんな葛藤のまま、わたしの口からは自動的に言葉が漏れる。
マック刑事はわたしを批判する。予想通りの批判。「その時手当てをすれば……」、そんなことわかっている。そんな問題ではないのだ。そんな軽々しく処置できる状況ではなかったのだ。
わたしは刑事に向かってこう言う。
「君は真実に触れたことがないのだ」
刑事の眉がひそまる。わたしの口は笑いと思われるような形を取る。
「君は、ドアを開けたことがあるのか? 赤く脈打つドアを。開けようとしたことはあるはずだ。科学者ならば」
わたしの頭の中で、ラカンがこう言っている。
「科学はいつもその危機に直面し続けている。故に、科学者は狂気を生きている」
そう言う代わりに、わたしは刑事にこう言った。
「わたしが助けられるのは人間だ。クリプトン星人は助けられない。わたしが処置を施してしまったなら、彼は人間に戻れたかもしれないだろう。しかし、彼は、少なくともあの状況においては、スーパーマンだった。これは、思い込みや喩えなんかじゃあない。ただの、そうあるだけの、真実だ」
刑事は目をつむった。やはりわからなかったか。彼は科学者ではなく、門番に過ぎないのだ。刑事は下からわたしをにらみつけた。そしてこう言った。
「真実に直面して、君は逃げたわけだ」
彼の言葉は、自分に言い聞かせているように聞こえた。
「違う。わたしは、真実のドアを開けたのだ」
彼の指がふわっとある証拠品を指し示す。指紋シートだ。
「そう。君は、その赤いドアを開けて、そこから逃げた」
「彼の心臓の内側にある、真実を覗いたのだ」
刑事は溜息をつく。わたしはついかっとなる。
「わたしは開けたんだ。真実のドアを。彼が、障害のせいでスーパーマンを演じているのではなく、スーパーマンであった真実を」
わたしは立ち上がる。警官がわたしの肩を押さえる。押さえる力が弱まる。刑事に何か合図をされたらしい。わたしは真実を再演する。取調室のドアノブを掴む。
「わたしは、確かに、真実のドアを開けたんだ」
開いた。理性で考えると開くはずないのに、開いた。ドアの向こうでは、わたしの患者たちが、一斉にわたしを見ていた。
わたしは恐ろしくなって、ドアを閉めた。
わたしは、何を見たのだろう。
何も言えない。言えないものを真実と言っているだけだ。言えないことが真実だという言葉こそが逃避ではないのか。
刑事の低い声が、部屋の中で響く。
「どうした。逃げないのか?」
……もう、何を言っても無駄だ。
わたしは力なく、机の方に戻る。警官が乱暴にわたしの腕を掴み、後ろ手に手錠をかける。
わたしは、最後に一言だけ、言ってみたかった。言っても無駄だと知りながら、口走ってしまった。
「あんたの科学は、正義は、真実なのか?」
刑事はわたしを一瞥しただけで、何も答えなかった。
警官に連行され、わたしは退場する……。
わたしは視聴者に戻っている。
ラストシーン。マック刑事とスーパーマンの兄が会話している。兄は靴磨きをやっている。待たされている靴磨きの客が、新聞を読んでいる。その一面に、こんな見出しが踊っている。
「実在したスーパーヒーロー」
――うん。とてもありがちなシーンになっている。もっとごちゃごちゃしてたけど、めんどくさいからほどよく省略的脚色をした。
このドラマは二つの事件を一話で取り扱うと書いたが、夢なんてのも、いくつかのストーリーが関係なく交錯したりしなかったりするもの。もう一つ印象に残っている夢を見たが、それは書きたくない。内容は書けないが、痛みを感じた夢だったことは記しておこう。痛みを感じなかったら夢だ、なんてのは嘘である。確かに痛みが持続しない傾向はあるが、痛みの瞬間、拳がこめかみに当たる瞬間の、ナイフが皮膚を貫く瞬間の、しびれるようなスパークのような感覚は、夢で再現される。わたしの場合。
誰か、わたしをピン止めしてください。
誰でもいいわけじゃないけれど。
ドラマに影響された夢を見るってのはなんか久しぶりだ。眠りの浅い時だったかせいか、そこそこ整合性が取れている筋書きだった。
題材になったのは、『CSI:NY2』の第19話『スーパーヒーロー』。この刑事ドラマは大体二つの事件を一話で取り扱う。今回のもそうだ。「スーパーマン」とマスコミに呼ばれている有望なフットボール新人選手の殺害事件と、スーパーマンの扮装をした若者の殺害事件。
後者の事件は、被害者は精神病院で暮らす知的障害者だった。別にそんなところでいろいろ突っ込む気はないので、被害者の胃から向精神薬が見つかったことから生じた「彼はスーパーマンになりきっていたのだな」とかいうセリフもスルー。設定では統合失調症でもないらしいので、どうでもいいのだが、あえて言うなら、分裂症は充実身体上のさまざまに変容する強度に対し歴史上の人物なり物語の登場人物というシニフィアンを「恣意させる」のであり、定型人が想像するような「なりきり」や「同一化」とは別物だと言いたいが、どうでもいい。どうでもいいが続けるならば、定型人の思考様式では、同一化していないかどうかは頭のどっかで「スーパーマンではない自分」を把握しているか、ってことになるが、分裂症者の言う「私はスーパーマンである」は、定型人がそれを言う場合と比較すると、意識的に把握している上での言葉、即ち「口先だけの言葉、たとえば隠喩を目的とした言葉」などであるとは確かに言えない。だからと言って(精神分析的な文脈での、即ちアブジェクシオンあるいは現実界という命のしかめっ面を隠蔽するものとしての)想像的同一化であるというのは誤謬である。そもそもこの充実身体上の強度は変容するもので、一種政治的とも呼べるようなエコノミーの結果として、強度を一時だけでも固定せんがために「シニフィアンの恣意性」を利用しているのである故、定型人が映画を見た後アクションスターに想像的に同一化しそのスターっぽい振る舞いをしてしまうのとはまた違う機制である、ということだ。ファルス的享楽による自傷的心中的同一化、もっとあっさり言うなら定型人のそれと比して現実界の作用が強い同一化、とも呼べようか。分裂症者はその内面を「スーパーマン」という言葉にぶら下がる様々な意味群でできた広い構造(モル的様態)に「投影」しているのではない。むしろ狭い構造(分子的様態)が充実身体上の強度を恣意的に示差できるから、「私はスーパーマンである」と言っているのだ。これは、言語構造という網の目を利用して、ある内的現象を概念化して言っているのではない。強度の丘は網の目をすり抜けるからだ。むしろ昆虫標本の「ピン止め」として「スーパーマン」という言葉が作用している。ピン止めだから複雑な隠喩(連鎖)構造は必要ない。しかし充実身体は生きている。飛び回る昆虫を、網ではなく複数の様々なピンで刺し続けなければならない。それらのピンの間に差異や矛盾はあれども隠喩はない。そこにあるのはソシュール論的な言語の事実である。隠喩によってその隙間に欠如や「父の名」が生じるわけだから、ラカンが「「父の名」(欠如)の排除が精神病である」と言ったのは正しい。だから、ガタリは分裂症者のそれを「隠喩ではない」と強調する。『アンチ・オイディプス』は精神分析がまくし立てる「欠如」を批判する。
前記事で触れたアスペルガー症候群者の言う「アヤナミモード」も、確かにそこにはある程度の隠喩構造が見て取れるが、わたしたちが思うような隠喩を目的として言っているのではない。隠喩により構造を構築させるためにあるいは隠喩構造を破壊するために言っているのではない。その記事を見たA氏の反応、「おまいあたしがエヴァンゲリオン視聴済みだと思っているだろ」という釘刺しは、それが網の目のような想像的同一化や隠喩目的ではないことを言いたかったのではないだろうか、とわたしは思った。思っただけでどうでもよかった。
そんなことをぼうっと考えながら、このドラマを見ていた。
思うに、ラカンの「想像界‐象徴界‐現実界なる三界」という見方と対立するものと考えるならば、クリステヴァ論と『アンチ・オイディプス』は、現実界と非現実界という二項間の差異を問題にしているという意味で、近しい。「想像界/象徴界/現実界」という考え方と「想像界あるいは象徴界/現実界」という考え方。
とはいえ、クリステヴァ論における、サンボリック=象徴界と対立するものとして提示されるセミオティック領域やアブジェクシオンを、単純に想像界に繋げることはできない。『アンチ・オイディプス』では欲望機械がその差異を示すものに当てはまるだろう。
しかし、クリステヴァ論では重要な点となっている、その領域における「未分化」や「おぞましさ」という要素は、『アンチ・オイディプス』では、それもオイディプス化の副作用であるとして否定される。「未分化」という言葉を考えるならば、この領域の未分化性とはクライン論における妄想分裂態勢に依拠している。わたしの言葉なら「断片の世界」である。この世界においては、乳児は、胎内にいた頃の世界をことごとく否定する新しい世界の刺激と同一化しようとする、否定性と同一化しようとしている、とわたしは解釈している。そういった意味では、「断片の世界」論は、クライン論的な「母‐私」という二項論ではなく、「世界‐私」という視座になり、「主体の本質には家族構成ではなく社会野が相関している」と暴露する『アンチ・オイティプス』に寄り添うことになろう。しかし、「断片の世界」においては、否定性と同一化、即ち分化と未分化は、分子内の原子のように結合しているのであり、『アンチ・オイディプス』にはこの視点が欠けている、という立場になる。このことが、あたかも精神病者の世界をきらきらした目で見ているような行間に繋がっている。精神疾患者が感じている辛さにあえて目をつぶって、あるいはその辛さは全てオイディプスたちの、神経症者たちの、定型人たちのせいだとして、「みんな人間の本質たる分裂症になろうぜ」とアジる詐欺師のような定型人的欺瞞を感じる。分裂症者にも(確かに神経症者と比べたら脆弱なものであろうが)生体システムとして内在されている定型化への機制を、ないものとして考えている。もちろんそういった機制が全くないと言えるような「理想的な分裂症者」も存在するかもしれない。しかし、分裂症者群という総体で考えるならば、比較的脆弱なのは確かであろうが、それが完全にないと言えてしまうその状態は、まさしく「オイディプスを告発することは即ちオイディプスの枠内に閉じ込められてしまうこと」という意味で、ドゥルーズ=ガタリという語る主体は非『アンチ・オイディプス』化している状態に他ならない。そういった非現実的なものとして、アジテーションのための理想概念として、完全な実現は困難であるという前提を持つマニフェストとして、「器官なき身体」は捉えられなければならない。以上のことから、クリステヴァの『恐怖の権力』の方が、その文体や理論性と反比例して、現実的であると言える。
非定型人の苦しみは神経症者たちのせいだけではない。定型的なるものさえ、抑圧に従順してしまうかもしれない自分さえ、自分が横断してしまうことから生じている。人間の苦しみの原因は、内在しているのだ。
いつものようにどうでもいいことで文字数を稼いでやっと本題に入りたいと思う。
ネタバレする気もないので言っておくが、ドラマの中で暴かれていく事件の事実とは異なっている。夢だから当然である。
ドラマの中で捕まった真犯人は真犯人ではなかった。確かに被害者ともみ合い彼に怪我を負わせたが、その時点で彼は生きていた。すぐ手当てをすれば助かったかもしれない。現場に誰も気づかなかったのか? いや、直後そこを通り過ぎた人間がいた。真犯人に会うために、精神病院の精神科医がそこを訪れたのだ。それはわたしだった。わたしは死にかけているスーパーマンあるいは知的障害者あるいは自分の病院の入院患者を目の前にして、凍りつく。そこに知り合いたる真犯人がいたであろうことを考えると、こうなったことの真相の大体は想像がつく。
被害者が倒れているのは、路地裏だった。被害者の倒れているすぐ近くに、汚れた赤いドアがある。赤いペンキはところどころ剥げている。ドアのある建物の店舗は知っている。誰かいるかいないかはわからないが、声をかけたら協力してくれるだろう。
しかし、わたしは彼を助けられなかった。
何故なら、この状態こそが、彼をスーパーマンたらしめたものだからだ。彼がスーパーマンであるためには、この状態を変容させてはならない。
今わたしの目の前に、ピン止めされた強度の丘が現れている。抱擁するような侵食してくるような生々しい圧倒的さをもって。
彼らのピン止めは、ある種政治的なものだ。充実身体と欲望機械を連結させるためのものだ。わたしたちに語りかけるためではないが、わたしたちという他者あるいは断片の集合体と妥協するために、シニフィアンというシステムの力を借り、そうしているのだ。
彼はピクリとも動かない。生きているというのはわたしの誤診だったのか。いや、この夢の設定では彼は生きていることになっている。死んでしまったら強度の丘さえ無に帰す。わたしが凍りつくためには、彼は死んでいてはならない。よって彼は生きている。しかし、死んでいるのなら強度の丘など存在しないはずだ。わたしは何を怯えているのだろう。まだ、かすかに息はある。息をしてないように見えるけれど、彼は生きている。死んでいたとしても、その器官なき身体は、激しく痙攣している。
赤いドアが、脈打っている。彼の心臓は、まだ動いている。思い出した。この向こう側は、ゴミ集積所だ。何故かわからないが、悪臭対策のためか、一つの部屋の中に建物のゴミを集めているのだ。各階に設置してあるダストシューターのゴール地点だ。
わたしはそのドアの向こうに、真実があるように思えた。
わたしはドアを開けた。
シーンが変わる。
わたしは警察で取り調べを受けている。科学捜査はわたしを追い詰めた。わたしは黒人男性になっている。わたしは嘘をつく。その時間そんな路地にはいなかったと。しかしマック刑事に証拠を突きつけられる。
多分、説明してもわからないだろう。警察なんてものは、強固に定型化された定型人の中の定型人がなるものだから。しかし科学という鋼線でできた網の目ならば、それを持っている者ならば、わかるかもしれない。わからないだろう。そんな葛藤のまま、わたしの口からは自動的に言葉が漏れる。
マック刑事はわたしを批判する。予想通りの批判。「その時手当てをすれば……」、そんなことわかっている。そんな問題ではないのだ。そんな軽々しく処置できる状況ではなかったのだ。
わたしは刑事に向かってこう言う。
「君は真実に触れたことがないのだ」
刑事の眉がひそまる。わたしの口は笑いと思われるような形を取る。
「君は、ドアを開けたことがあるのか? 赤く脈打つドアを。開けようとしたことはあるはずだ。科学者ならば」
わたしの頭の中で、ラカンがこう言っている。
「科学はいつもその危機に直面し続けている。故に、科学者は狂気を生きている」
そう言う代わりに、わたしは刑事にこう言った。
「わたしが助けられるのは人間だ。クリプトン星人は助けられない。わたしが処置を施してしまったなら、彼は人間に戻れたかもしれないだろう。しかし、彼は、少なくともあの状況においては、スーパーマンだった。これは、思い込みや喩えなんかじゃあない。ただの、そうあるだけの、真実だ」
刑事は目をつむった。やはりわからなかったか。彼は科学者ではなく、門番に過ぎないのだ。刑事は下からわたしをにらみつけた。そしてこう言った。
「真実に直面して、君は逃げたわけだ」
彼の言葉は、自分に言い聞かせているように聞こえた。
「違う。わたしは、真実のドアを開けたのだ」
彼の指がふわっとある証拠品を指し示す。指紋シートだ。
「そう。君は、その赤いドアを開けて、そこから逃げた」
「彼の心臓の内側にある、真実を覗いたのだ」
刑事は溜息をつく。わたしはついかっとなる。
「わたしは開けたんだ。真実のドアを。彼が、障害のせいでスーパーマンを演じているのではなく、スーパーマンであった真実を」
わたしは立ち上がる。警官がわたしの肩を押さえる。押さえる力が弱まる。刑事に何か合図をされたらしい。わたしは真実を再演する。取調室のドアノブを掴む。
「わたしは、確かに、真実のドアを開けたんだ」
開いた。理性で考えると開くはずないのに、開いた。ドアの向こうでは、わたしの患者たちが、一斉にわたしを見ていた。
わたしは恐ろしくなって、ドアを閉めた。
わたしは、何を見たのだろう。
何も言えない。言えないものを真実と言っているだけだ。言えないことが真実だという言葉こそが逃避ではないのか。
刑事の低い声が、部屋の中で響く。
「どうした。逃げないのか?」
……もう、何を言っても無駄だ。
わたしは力なく、机の方に戻る。警官が乱暴にわたしの腕を掴み、後ろ手に手錠をかける。
わたしは、最後に一言だけ、言ってみたかった。言っても無駄だと知りながら、口走ってしまった。
「あんたの科学は、正義は、真実なのか?」
刑事はわたしを一瞥しただけで、何も答えなかった。
警官に連行され、わたしは退場する……。
わたしは視聴者に戻っている。
ラストシーン。マック刑事とスーパーマンの兄が会話している。兄は靴磨きをやっている。待たされている靴磨きの客が、新聞を読んでいる。その一面に、こんな見出しが踊っている。
「実在したスーパーヒーロー」
――うん。とてもありがちなシーンになっている。もっとごちゃごちゃしてたけど、めんどくさいからほどよく省略的脚色をした。
このドラマは二つの事件を一話で取り扱うと書いたが、夢なんてのも、いくつかのストーリーが関係なく交錯したりしなかったりするもの。もう一つ印象に残っている夢を見たが、それは書きたくない。内容は書けないが、痛みを感じた夢だったことは記しておこう。痛みを感じなかったら夢だ、なんてのは嘘である。確かに痛みが持続しない傾向はあるが、痛みの瞬間、拳がこめかみに当たる瞬間の、ナイフが皮膚を貫く瞬間の、しびれるようなスパークのような感覚は、夢で再現される。わたしの場合。
誰か、わたしをピン止めしてください。
誰でもいいわけじゃないけれど。