メビウスの自閉、あるいは残酷演劇
2008/06/16/Mon
メビウスの輪を考える。とっても簡略的に。参考として挙げておくならば、中沢新一著『芸術人類学』において、レヴィ=ストロースの神話公式に関連して提示されているものが近いだろうか。わたしの文章ならばこれ。
たとえば、自閉症者であろうが、分裂症者であろうが、「自閉」という共通する症状には、二種類あるのではないか。種類分けするのもバカらしく無意味な区分だと自分で思うが、垂れ流す。
メビウスの輪のねじれ部分は、特異点であるが、固定化されない。角度によってその位置は変わる。だから、これから述べる区分にはほとんど意味がない。最初にこう書いておけばなんとなく意味ありげに書けるだろう。動機としての言い訳だな。
見かけのねじれ位置から、輪として遠く離れた地点での自閉と、ねじれに近いところにある自閉。さっきも書いたようにこのねじれは移動可能だから、この二種の自閉には違いがないと言える。でも続ける。
前者の自閉は、定型人がやるような自閉である。ドードーとらさんが言うところの「順応できるのに順応しない順応主義者」や、わたしが言うところの「非スキゾイドによる社会的(自己愛的)ひきこもり」などという自閉症状は、全てこれだと言ってよい。これらの自閉症状は、「非ねじれ」という定型を持っている。定型人的な=神経症者的な症状と言える。
この自閉症状は、自分と同じ「非ねじれ」という領域に住む同じ定型人たちにより引き起こされるものだ。
彼らは常に「非ねじれ」の位置にいるため、ねじれに気づけない。気づきにくい、と言った方が正確か。うっすら定型なるものに矛盾なり断絶なり違和感なりをわずかではあろうが気づけているから、定型人なのに、順応できるのに、順応を否認しているのだ。
しかし、彼らは「非ねじれ」領域に固定されている。そこにねじれは存在しない。まさにラカンが言うようなトーラス構造を生きている。非定型人視点で言うならば、単なる思い込みの世界を、「心の理論」なりという固定観念で整形された世界を、「現実(リアル)」ではない、幻想という意味でフロイトの現実原則的な「現実(リアリティ)」を、生きている。生きられている。
この部分だけ見れば、確かに『アンチ・オイディプス』が述べるような、定型人たちの抑圧が、分裂症者を充実身体上に折りたたませ、結果自閉症状が生じる、という構造は、とても実感として認知しやすい。故に、分裂症者の苦しみは全てオイディプスたちの責任である、などという理屈に連鎖可能であり、それはそれでわかりやすい話であると思える。正常人が正常人として存在する故に狂人は狂人となる、正常人という規定が存在しなければ狂人という規定も存在しない、というわけだ。この理屈をわたしは否定しないが、正常人と狂人が常に既に別の主体になっている文脈が、『アンチ・オイディプス』にはある。主体には正常人も狂人も両方住んでいる。程度の差はあれ。表象される程度の差もあれ。『アンチ・オイディプス』には、自分の中の正常人に苦しめられる狂人の苦しみが存在しない。自分の中の狂人に苦しめられる正常人の苦しみが存在しない。独我論的な苦しみがそこには存在しない。それをわたしは批判している。前掲書内では、たとえば分裂症者に対するマッサージ療法において、「欲望を認知させること」の重要性を説いていたりするが、それこそが欲望機械の固定化=定型化=正常人化=「非ねじれ」化の方向に向かわせている状態ではないのか。分裂症者の中にも、わずかながら正常人的な部分があるからこそ、「欲望を認知させること」が治療=正常人化(正常人部分の増幅)になっているのではないのか。
一方、「非ねじれ」という定型領域を生きる定型人たちにとって、ねじれ領域即ち充実身体は感知されにくい。彼らの自閉症状による悩みや辛さは、神経症的なものとして全て解釈可能だろう。正統な精神分析を受けさせれば、オイディプスだかシニフィアン連鎖だか知らないが、彼らは健康的にそれらの枠内に適応できるだろう。それはそれで、幸せな生き方なのだ。この映画のように、たとえ一時ねじれに近い領域を生きていたとしても、祈りが通じたならば、「非ねじれ」領域で安息できる。その安息が継続的なものか、いつ崩壊するかわからない仮設のものかは、簡単に判断できない。その主体によるだろう。「心の理論」という抑圧を受容でき、それを受容し続けられたならば、確信できたならば、信仰できたならば、自分の中の狂人を棄却できたならば、彼女の生きた歴史は定型人的と解釈されるだろう。専制君主により運営される定型化された人工的システムを、疑いもなく生きられるだろう。それはそれで一つの幸せである、と言ってよい。疑ってしまう人間たち、好き勝手に移動するねじれ領域に襲われてしまう人間たちと比較すると。
では、「自分の中の部分的狂人に苦しめられる正常人」たちが陥るのが、「順応できるのに順応しない順応主義者」や「非スキゾイドによる社会的(自己愛的)ひきこもり」という定型人の自閉症状ならば、対称的に、「自分の中の部分的正常人に苦しめられる狂人」たちが陥るのが、自閉症者や分裂症者に表出する一症状としての自閉症状だと言えるのか。そう簡単な話ではない。確かに「正常人に苦しめられている」度合いは強いだろうが、その苦しみは「自分の中の狂人」によるものでもある。何故なら、メビウスの輪のねじれ領域とは、裏と表を行き来するものだからだ。ねじれ領域に親近する世界を生きる主体は、正常人と狂人という二項間を行き来してしまう。よって、先に述べた定型人的神経症的な自閉症状を「非ねじれ領域的症状」と呼び、後者を「ねじれ領域的症状」と呼ぶことにするならば、「ねじれ領域的症状」は「非ねじれ的症状」を内包する、という言い方になろう。集合論的に言えば、「A」と「非A」ではなく、「A」と「Aあるいは非A」である、ということだ。
狂気は、「常に」定型を内包するのである。
狂気という辺境を含む領域から、定型という部分的あるいは中央集権的あるいは固定的領域を抽出する過程が、(西洋近代主義的な)大人になるということであり、『アンチ・オイディプス』の批判する正統な精神分析的治療である、という言い方でもよかろう。だから、「棄却」という概念を重要視するクリステヴァの表現の方が現実的であると言える。何故なら、「狂気という領域から定型という部分的中央集権的固定的領域を抽出する」こととは、「部分的中央集権的固定的領域が狂気という拡散的辺境的流動的領域を排除=棄却する」ことだからである。つまり、「自閉症者や分裂症者は、定型人視点の「棄却すべきもの」を棄却できない人たちである」という表現になる。この文章は、ラカンの「「父の名」即ち欠如を排除するのが精神病である」と共鳴する。
要するに、「棄却」を志向する何かは、自閉症であれ分裂症であれ、その主体に多少の差はあれども存在する、ということだ。それは確信という情動の、あるいは現象学的な他我の根拠でもあるため、それが弱いということは確信性が弱い、即ちその存在を疑ってしまうということになる。この疑ってしまう根拠の方こそが、「生々しい」という意味で、現実的(実存的)なのである。その領域を、ラカンは現実界と呼び、到達不可能な領域であると論じたのである。一方逆に、現実界以外の領域を一掃した、純粋な現実界的なるものとして、「器官なき身体」を述べるのがドゥルーズ=ガタリだ。理屈ではなくその身振りは、それこそ定型人が定型人たるための、オイディプスがオイディプスたるための、専制君主が専制君主たるための、専制君主国民が専制君主国民たるための条件である「構造から矛盾を排し、目的を理想概念化する行為」に他ならない。「器官なき身体」を自身の理屈体系に組み込む彼らの身振り、文脈そのものに、「棄却」あるいは「排他」あるいは「欠如」が存在している。誰が誰を、自分の中のどこがどこを、どこからどっちを、「棄却」「排他」「欠如」させるのか。その線引きは、言語ゲームのルールとして決められているだけのことである。
わたしはクリステヴァの「棄却する(される)こと」=アブジェクシオン論の文脈から、「棄却されるもの」=アブジェクトを、ケガレと読み直している。わたしの言うケガレとは、そういう意味に定義される。ラカン論で「欠如」と呼ばれているものは、非定型側から見ると「棄却されるもの」即ちケガレとなる、ということだ。これらの文章上では、唯物論的な「ある」と「ない」議論は脱構築される。観測地点によって、「あったり」「なかったり」するのだから。あくまで比喩であると断っておくが、再現性という科学教の信仰教義を揺るがした不確定性原理を思い出してもらってもよかろう。
以上の論は、先に言ったように、ねじれ領域そのものが移動可能なものであるため、区分という非-脱構築的という意味で構築的な手法を取っているにも関わらず、構造的には無意味な非生産的な論となろう。定型人視点での表現ならば空論であると言ってもよい。では何故わざわざに文章にしたのか、と問われると、「わたしが書きたかったから」に他ならない。(自分も含めた)誰かに解答を与えるために書いているわけではない。解答を欲しがるオイディプスに向けて、このことは強調しておきたい。むしろ定型人たちに、(自分の中にもある)定型人部分に疑問を生じさせたがっている。とはいえそれが目的ではない。目的などなく、ただ「書きたいから」書いているのである。だから、この文章になんらかの解答を見出す読者がいたって構わない。この文章からなんらかの生産をしてもらっても構わない。
こういった状態こそが、『アンチ・オイディプス』で述べるところの、欲望機械による生産ではないか、と自己肯定のつもりはないが、ただそういうものとして、わたしは直観する。理解されないことを自覚しながら言うならば、わたしの中に「あって」、わたしの手の届かないところにあるという意味でわたしの独我論的主観世界には「ない」、宇宙的システムの一過程として、こういった文章を書いている。ああ、なんてデムパな言い方だろう。この表現が今んとこ一番しっくり来てしまうから困る。デムパな行間含めて。
直観的に、本論と関係ないと後から読んで自分で思うが、この論を閉じる文章として、デムパ的に「書きたくなった」から書くならば、情動の抑制と、欲望の抑圧は、確かに連接することがあるのは事実だが、確かに別物である。特にねじれ領域に近づくほど、その差異はありありと眼前する。欲望が充実身体に、欲動に近づけば近づくほど、(自閉症者に欠けていると言われる)「心の理論」の接着剤たる情動は、欲望機械の作動油たる情動は、システムの一部と化す。しかし「機械」という言葉は、そのシステムの一部すら、工場内にこもる熱気すら、作動油が何故必要なのかすら排除している。部分を横断するのが分裂症ではないのか。だから『アンチ・オイディプス』は胡散臭い。馴れ馴れしい。キモチワルイ。生理的に。「クールが一番だぜ」とか言いながら全然クールじゃなくて無理しているのが丸見えな定型人の短絡さを感じさせる。自分のクールじゃないところを、「機械」じゃないところを何故認められないのだろう。
閉じるって言っといて閉じれてないな(笑)。まあいいや。デムパったついでに垂れ流しちゃおう。
統合失調症ではなく自閉症の例になってしまうが、非定型人たる自閉症者たちは、「心の理論」の接着剤である情動が不足している、という意味でこのことを捉えて欲しくはない。情動が不足しているのではなく、接着剤あるいは作動油の使い方が、一般的という意味で定型的ではないため、その交換作動がスムーズに行われない、ということだ。定型人が大体似たような箇所に接着剤あるいは作動油を用いているのに対し、見当外れな箇所にそれを用いているのだ。
自閉症に限った話になっているが、たとえばスキゾイドを考えてみよう。スキゾイドは、その情動を定型人たちのように「(自分と同じ形をした)人間(という総体)的なもの」に限定して向ける傾向がないだけで、自然物や人工物や断片的なものに拡散的に向いているのであり、情動がないわけではない。それがスキゾイドの特徴たる「心的距離の遠さ」という表出になっているのであり、そもそもわたしたちが「心的距離」という言葉を考える場合、人間対人間の心的距離しか想像できないから、「遠い」という表現になっているだけなのだ。従って、わたしはスキゾイドについて、「情動の欠如」ではなく、「情動の否認」と表現している。
自閉症にしろスキゾイドにしろ、何か否定的な言い方になっているが、このことは、情動的な束縛装置から自由であるがため、定型人が囚われている「心の理論」なりという固定観念から自由である、という意味にもなる。モノなんて言い様ってことだ。
ちなみに言うなら、ここにハイデガーが「気遣い」や「情状性」を本質契機として挙げていることを引いてもよかろう。めんどいからしないけど。要するに、ハイデガー論においては、自閉症者や分裂症者やスキゾイドは「存在しない」ということだ。フェミニストたちはしばしばラカンの「女性は存在しない」という言葉を批判するが、その批判内容が、女性と同じ構造で存在させられなくなってしまう、女性や子供を含めた広い意味での非定型人たちを、拡散的辺境的流動的領域を生きる人々を存在させなくしていることに何故気づかないのだろうか。部分的中央集権的固定的領域を生きられない主体は人間じゃねえ、(少なくともオレの主観世界からは)排除されちまえ、消え失せろ、と言っているのである。これは、「正しい」思考様式なのだ。自分の中であれ他人の中であれ「ご病気の人」や「空気の読めない人」や「狂人的な部分」を「棄却」「排他」「欠如」させるのが、正常人が正常人たる、彼らが生きる幻想に過ぎない「現実(リアリティ)」の成立条件であり、根拠なのだから。ラカン的な意味ではない、ただの言語ゲームによる「現実(リアリティ)」の。本質的権力者が権力者であることを定立させる権力の。それを棚に上げて、自分より非定型な人間の主観世界を、定型的な自分や自分と同じ多数派の人間が確信している「だけ」の主観世界の様式で考えたがることの。自己美化としての傲慢さの。
この記事で、わたしはある自閉症者の文章を「宛先のない手紙」と表現した。それはこういうことであったのだな、と事後的に自分で解釈できた。彼のブログを読んで無解釈的に脊髄反射的に表現した言葉だったのだが、そういう解釈をされても仕方なかろう。なんせ自分でそう解釈してしまったのだから。要するに、彼らは、少なくとも「語る自閉症者」たちは、手紙を書かないわけではない、定型的に宛先が必要だというわけではない、宛先はあってもなくても構わない、ということだ。補足するならば、これは「手紙は宛先に届くか否か」という議論以前の領域である。「手紙」という言葉は似たようなことを示してはいようが。
こういった「宛先のない(宛先に囚われない)手紙を書く人々」の中に、たとえば「歴史を語らせようとする何か」が現れると、自分の中の狂人が自分の中の正常人に苦しめられ、その多くは多数派の定型に屈するであろう。手紙は届かないより届いた方がいいからだ。自分の中の正常人が喜ぶからだ。自分の中の正常人が増長するからだ。あるいはその時、敏感な正常人ならば、「歴史を語らせようとする」自分が狂人となっていることに気づくかもしれない。自分の中の狂人が苦しんでいるのに気づくかもしれない。しかし、気づいた時にはもう遅い。「宛先のない手紙を書く人々」たちの、サバルタンたちの歴史は、その時点で既に奪われている。サバルタンたちは「語れない」のではなく、「手紙の宛先がない(宛先が必要という固定観念から自由である)」だけなのである。非サバルタンたちが、その宛先に自分の名前を都合よく勝手に書き込んでいるのである。情動の交換作動の標準化が行われているのである。「ISOバンザイ」と、ISOに関する職に就いていたわたしは言う他ない。批判ではない、と言いたいのだ。標準化にも多様化にもメリットデメリットがそれぞれあるということだ。そのデメリットの方を、「サバルタン/非サバルタン」や「(自分の中の)狂人/正常人」に共通させて、標準化させて、「情動」や「苦しみ」という言葉に連鎖させて、取り上げているわけである。意地悪く。あ、意地悪いってことは批判でいいのか。じゃあ批判ってことで。どっちに対してのかは知らないけど。
ともかく、これらのことから、アルトーを語る文章として、わたしは『アンチ・オイディプス』を認めない、という話。その行間にどうしても生理的嫌悪を感じてしまうわたしのことであるから、理屈的なところの理解は不充分かもしれないが、少なくとも彼らの文章を文芸的に読むならば(間違った読み方であるとは自覚しながら言う)、彼らはアルトーをわかっていない。少なくとも「残酷演劇」という言葉の、網の目ではなくピンとしての意味を、理解ではなく感知できていない。アルトーの文章を文芸だと言っておきながら、文芸的な感知ができていない。残酷演劇は、工場などではない。本質的権力者と本質的被権力者の間に生じる、生々しい「現実(リアル)」であり、代理表象という象徴界的な枠を、現実界を利用して(故に残酷的に)破壊するものである。象徴界的に見ればそれは破壊となるが、現実界的に見ればそれは確かに生産である。本質的被権力者として生きたアルトーという語る主体は、確かに工場かもしれない。工場でも構わない。しかし彼らには、その機械が摂理として現実的に発する摩擦熱が見えていない。彼らの(欲望ではなく)情動は、オイディプスの枠内に囚われている。よって、彼らは作動油としての情動に触れられなかったのだ、などという好意的な解釈ぐらいはしといてあげよう。触れてもすぐシステムの方に、設計図の方に逃げている印象がある。そりゃ確かに現場で油まみれになっていたのかもしれんけど、設計者にとって油は洗濯すれば落ちるものだからなあ。肌が変色するほど油に塗れたことはないのだろう。ガタリですら。
『アンチ・オイディプス』の言う「分裂分析」という言葉は、「神経症を分裂症化させる」方向性について、わたしの言う「逆精神分析」に似ている。そう思われても仕方ないと思っている。そう言われてもそれほどムキになって反論しないだろう。適当に言っただけだし。「逆精神分析」なんて。だけどだけど、その内実は、先に書いたような点で全く異なっている、ってことをデムパ的に言いたかっただけ。「逆精神分析」という言葉の時点で精神分析に囚われているじゃないか、なんて短絡的なドゥルージアンに言われそうだから一応張っとくけど、ここのコメント欄読んでね。精神分析が部分的に逆精神分析手法を内包していることを認めた上での言葉である。
さあて、ここで問題です。「分裂分析」と「逆精神分析」、どっちがより多くの「部分を横断」しているでしょうか?
非オイディプスという意味で情動的にオイディプスに囚われているのが分裂分析である、ということだ。だから「分裂分析は政治的社会的精神分析である」などと言っちゃうのだ。オイディプスも精神分析も苦しみも情動も宛先のなさも横断することを認めている(推奨している)のが逆精神分析である。特に情動や宛先のなさに触れられてないことから、彼らの分裂分析は、神経症者を男性的抑鬱症や仮面スキゾイドに導くのみであると、わたしは予想する。『アンチ・オイディプス』を読解しても脱オイディプス化されない、むしろオイディプスを強化しかねない、ということだ。このことは、実際ドゥルージアンにはニヒリストが多いというわたしの経験にも合致する。ドゥルージアンたちの生産力は全く低いのが事実だ。わたしの主観的事実として。とはいえスキゾイドぐらいにはなれるのかもしれない。「戦闘的」とか言っているように攻撃性の横断は認めているのだから。じゃあいいや。それで。要するに、ドゥルージアンたちは、その教義と反比例するかのように、全く充実身体的ではないから、あまり興味をそそられない、ということである。
わたし? わたしはもちろん分裂分析も部分として横断するよ。横断が生産ってことでしょ? そちらの教義では。生産生産、産めよ増やせよ快便主義。え、何? ラカニアンの方が生産してないだろう、だって? あったりまえじゃん。ラカン論は別に生産を教義にしてるわけじゃないんだから。
わたし的には生産なんて言葉よか「道具として利用する」ってのがしっくりくる。使えるところは使う。この記事でやっているようにね。こうしてわたしはどんどん「ずるく」なっていくのであった。
あーそうそう、なんかチャットでは言ったことあるけど、わたしが使う「脱構築」って揶揄的な意味が込められているからね。一時期デリディアンだった自分に対するものでもあるけど。このブログでは「脱構築(笑)」みたいな感じで読んでくだちい。その方がデリダも本望なように思う。巷の浅薄デリディアンが言う「脱構築」なんかより。
とか言いながらガタリ的な「ファルス(笑)」でもあるけれどちょっと違う(笑)だなあと思ったことはどうでもいいや。
あー、あと文中で「狂人」って言葉を連呼しているけど、それに違和感感じた人はここ読んでみてね。「狂人」って言葉に過剰な否定性を連想する人間ほど「狂人」を否定している、ってこと。定型的に否定されるものを否定するのが定型人、ってことやね。このブログでは大体定型的に肯定されるものに対して否定している。つもり。「大体」ね。初期はそうでもないけれど。だって「ずるい」んだもん。わたしって。オイディプス=潔癖症者が愛でる人形なんてもうイヤだけど、人形の心地良さも知っているから。
あーもう、「器官なき身体」も「身体なき器官」も両方あるのが人間じゃん、jk。って2ちゃんのツッコミ的な話なんだけど。
まあ、そういう文章でしたってこと。
たとえば、自閉症者であろうが、分裂症者であろうが、「自閉」という共通する症状には、二種類あるのではないか。種類分けするのもバカらしく無意味な区分だと自分で思うが、垂れ流す。
メビウスの輪のねじれ部分は、特異点であるが、固定化されない。角度によってその位置は変わる。だから、これから述べる区分にはほとんど意味がない。最初にこう書いておけばなんとなく意味ありげに書けるだろう。動機としての言い訳だな。
見かけのねじれ位置から、輪として遠く離れた地点での自閉と、ねじれに近いところにある自閉。さっきも書いたようにこのねじれは移動可能だから、この二種の自閉には違いがないと言える。でも続ける。
前者の自閉は、定型人がやるような自閉である。ドードーとらさんが言うところの「順応できるのに順応しない順応主義者」や、わたしが言うところの「非スキゾイドによる社会的(自己愛的)ひきこもり」などという自閉症状は、全てこれだと言ってよい。これらの自閉症状は、「非ねじれ」という定型を持っている。定型人的な=神経症者的な症状と言える。
この自閉症状は、自分と同じ「非ねじれ」という領域に住む同じ定型人たちにより引き起こされるものだ。
彼らは常に「非ねじれ」の位置にいるため、ねじれに気づけない。気づきにくい、と言った方が正確か。うっすら定型なるものに矛盾なり断絶なり違和感なりをわずかではあろうが気づけているから、定型人なのに、順応できるのに、順応を否認しているのだ。
しかし、彼らは「非ねじれ」領域に固定されている。そこにねじれは存在しない。まさにラカンが言うようなトーラス構造を生きている。非定型人視点で言うならば、単なる思い込みの世界を、「心の理論」なりという固定観念で整形された世界を、「現実(リアル)」ではない、幻想という意味でフロイトの現実原則的な「現実(リアリティ)」を、生きている。生きられている。
この部分だけ見れば、確かに『アンチ・オイディプス』が述べるような、定型人たちの抑圧が、分裂症者を充実身体上に折りたたませ、結果自閉症状が生じる、という構造は、とても実感として認知しやすい。故に、分裂症者の苦しみは全てオイディプスたちの責任である、などという理屈に連鎖可能であり、それはそれでわかりやすい話であると思える。正常人が正常人として存在する故に狂人は狂人となる、正常人という規定が存在しなければ狂人という規定も存在しない、というわけだ。この理屈をわたしは否定しないが、正常人と狂人が常に既に別の主体になっている文脈が、『アンチ・オイディプス』にはある。主体には正常人も狂人も両方住んでいる。程度の差はあれ。表象される程度の差もあれ。『アンチ・オイディプス』には、自分の中の正常人に苦しめられる狂人の苦しみが存在しない。自分の中の狂人に苦しめられる正常人の苦しみが存在しない。独我論的な苦しみがそこには存在しない。それをわたしは批判している。前掲書内では、たとえば分裂症者に対するマッサージ療法において、「欲望を認知させること」の重要性を説いていたりするが、それこそが欲望機械の固定化=定型化=正常人化=「非ねじれ」化の方向に向かわせている状態ではないのか。分裂症者の中にも、わずかながら正常人的な部分があるからこそ、「欲望を認知させること」が治療=正常人化(正常人部分の増幅)になっているのではないのか。
一方、「非ねじれ」という定型領域を生きる定型人たちにとって、ねじれ領域即ち充実身体は感知されにくい。彼らの自閉症状による悩みや辛さは、神経症的なものとして全て解釈可能だろう。正統な精神分析を受けさせれば、オイディプスだかシニフィアン連鎖だか知らないが、彼らは健康的にそれらの枠内に適応できるだろう。それはそれで、幸せな生き方なのだ。この映画のように、たとえ一時ねじれに近い領域を生きていたとしても、祈りが通じたならば、「非ねじれ」領域で安息できる。その安息が継続的なものか、いつ崩壊するかわからない仮設のものかは、簡単に判断できない。その主体によるだろう。「心の理論」という抑圧を受容でき、それを受容し続けられたならば、確信できたならば、信仰できたならば、自分の中の狂人を棄却できたならば、彼女の生きた歴史は定型人的と解釈されるだろう。専制君主により運営される定型化された人工的システムを、疑いもなく生きられるだろう。それはそれで一つの幸せである、と言ってよい。疑ってしまう人間たち、好き勝手に移動するねじれ領域に襲われてしまう人間たちと比較すると。
では、「自分の中の部分的狂人に苦しめられる正常人」たちが陥るのが、「順応できるのに順応しない順応主義者」や「非スキゾイドによる社会的(自己愛的)ひきこもり」という定型人の自閉症状ならば、対称的に、「自分の中の部分的正常人に苦しめられる狂人」たちが陥るのが、自閉症者や分裂症者に表出する一症状としての自閉症状だと言えるのか。そう簡単な話ではない。確かに「正常人に苦しめられている」度合いは強いだろうが、その苦しみは「自分の中の狂人」によるものでもある。何故なら、メビウスの輪のねじれ領域とは、裏と表を行き来するものだからだ。ねじれ領域に親近する世界を生きる主体は、正常人と狂人という二項間を行き来してしまう。よって、先に述べた定型人的神経症的な自閉症状を「非ねじれ領域的症状」と呼び、後者を「ねじれ領域的症状」と呼ぶことにするならば、「ねじれ領域的症状」は「非ねじれ的症状」を内包する、という言い方になろう。集合論的に言えば、「A」と「非A」ではなく、「A」と「Aあるいは非A」である、ということだ。
狂気は、「常に」定型を内包するのである。
狂気という辺境を含む領域から、定型という部分的あるいは中央集権的あるいは固定的領域を抽出する過程が、(西洋近代主義的な)大人になるということであり、『アンチ・オイディプス』の批判する正統な精神分析的治療である、という言い方でもよかろう。だから、「棄却」という概念を重要視するクリステヴァの表現の方が現実的であると言える。何故なら、「狂気という領域から定型という部分的中央集権的固定的領域を抽出する」こととは、「部分的中央集権的固定的領域が狂気という拡散的辺境的流動的領域を排除=棄却する」ことだからである。つまり、「自閉症者や分裂症者は、定型人視点の「棄却すべきもの」を棄却できない人たちである」という表現になる。この文章は、ラカンの「「父の名」即ち欠如を排除するのが精神病である」と共鳴する。
要するに、「棄却」を志向する何かは、自閉症であれ分裂症であれ、その主体に多少の差はあれども存在する、ということだ。それは確信という情動の、あるいは現象学的な他我の根拠でもあるため、それが弱いということは確信性が弱い、即ちその存在を疑ってしまうということになる。この疑ってしまう根拠の方こそが、「生々しい」という意味で、現実的(実存的)なのである。その領域を、ラカンは現実界と呼び、到達不可能な領域であると論じたのである。一方逆に、現実界以外の領域を一掃した、純粋な現実界的なるものとして、「器官なき身体」を述べるのがドゥルーズ=ガタリだ。理屈ではなくその身振りは、それこそ定型人が定型人たるための、オイディプスがオイディプスたるための、専制君主が専制君主たるための、専制君主国民が専制君主国民たるための条件である「構造から矛盾を排し、目的を理想概念化する行為」に他ならない。「器官なき身体」を自身の理屈体系に組み込む彼らの身振り、文脈そのものに、「棄却」あるいは「排他」あるいは「欠如」が存在している。誰が誰を、自分の中のどこがどこを、どこからどっちを、「棄却」「排他」「欠如」させるのか。その線引きは、言語ゲームのルールとして決められているだけのことである。
わたしはクリステヴァの「棄却する(される)こと」=アブジェクシオン論の文脈から、「棄却されるもの」=アブジェクトを、ケガレと読み直している。わたしの言うケガレとは、そういう意味に定義される。ラカン論で「欠如」と呼ばれているものは、非定型側から見ると「棄却されるもの」即ちケガレとなる、ということだ。これらの文章上では、唯物論的な「ある」と「ない」議論は脱構築される。観測地点によって、「あったり」「なかったり」するのだから。あくまで比喩であると断っておくが、再現性という科学教の信仰教義を揺るがした不確定性原理を思い出してもらってもよかろう。
以上の論は、先に言ったように、ねじれ領域そのものが移動可能なものであるため、区分という非-脱構築的という意味で構築的な手法を取っているにも関わらず、構造的には無意味な非生産的な論となろう。定型人視点での表現ならば空論であると言ってもよい。では何故わざわざに文章にしたのか、と問われると、「わたしが書きたかったから」に他ならない。(自分も含めた)誰かに解答を与えるために書いているわけではない。解答を欲しがるオイディプスに向けて、このことは強調しておきたい。むしろ定型人たちに、(自分の中にもある)定型人部分に疑問を生じさせたがっている。とはいえそれが目的ではない。目的などなく、ただ「書きたいから」書いているのである。だから、この文章になんらかの解答を見出す読者がいたって構わない。この文章からなんらかの生産をしてもらっても構わない。
こういった状態こそが、『アンチ・オイディプス』で述べるところの、欲望機械による生産ではないか、と自己肯定のつもりはないが、ただそういうものとして、わたしは直観する。理解されないことを自覚しながら言うならば、わたしの中に「あって」、わたしの手の届かないところにあるという意味でわたしの独我論的主観世界には「ない」、宇宙的システムの一過程として、こういった文章を書いている。ああ、なんてデムパな言い方だろう。この表現が今んとこ一番しっくり来てしまうから困る。デムパな行間含めて。
直観的に、本論と関係ないと後から読んで自分で思うが、この論を閉じる文章として、デムパ的に「書きたくなった」から書くならば、情動の抑制と、欲望の抑圧は、確かに連接することがあるのは事実だが、確かに別物である。特にねじれ領域に近づくほど、その差異はありありと眼前する。欲望が充実身体に、欲動に近づけば近づくほど、(自閉症者に欠けていると言われる)「心の理論」の接着剤たる情動は、欲望機械の作動油たる情動は、システムの一部と化す。しかし「機械」という言葉は、そのシステムの一部すら、工場内にこもる熱気すら、作動油が何故必要なのかすら排除している。部分を横断するのが分裂症ではないのか。だから『アンチ・オイディプス』は胡散臭い。馴れ馴れしい。キモチワルイ。生理的に。「クールが一番だぜ」とか言いながら全然クールじゃなくて無理しているのが丸見えな定型人の短絡さを感じさせる。自分のクールじゃないところを、「機械」じゃないところを何故認められないのだろう。
閉じるって言っといて閉じれてないな(笑)。まあいいや。デムパったついでに垂れ流しちゃおう。
統合失調症ではなく自閉症の例になってしまうが、非定型人たる自閉症者たちは、「心の理論」の接着剤である情動が不足している、という意味でこのことを捉えて欲しくはない。情動が不足しているのではなく、接着剤あるいは作動油の使い方が、一般的という意味で定型的ではないため、その交換作動がスムーズに行われない、ということだ。定型人が大体似たような箇所に接着剤あるいは作動油を用いているのに対し、見当外れな箇所にそれを用いているのだ。
自閉症に限った話になっているが、たとえばスキゾイドを考えてみよう。スキゾイドは、その情動を定型人たちのように「(自分と同じ形をした)人間(という総体)的なもの」に限定して向ける傾向がないだけで、自然物や人工物や断片的なものに拡散的に向いているのであり、情動がないわけではない。それがスキゾイドの特徴たる「心的距離の遠さ」という表出になっているのであり、そもそもわたしたちが「心的距離」という言葉を考える場合、人間対人間の心的距離しか想像できないから、「遠い」という表現になっているだけなのだ。従って、わたしはスキゾイドについて、「情動の欠如」ではなく、「情動の否認」と表現している。
自閉症にしろスキゾイドにしろ、何か否定的な言い方になっているが、このことは、情動的な束縛装置から自由であるがため、定型人が囚われている「心の理論」なりという固定観念から自由である、という意味にもなる。モノなんて言い様ってことだ。
ちなみに言うなら、ここにハイデガーが「気遣い」や「情状性」を本質契機として挙げていることを引いてもよかろう。めんどいからしないけど。要するに、ハイデガー論においては、自閉症者や分裂症者やスキゾイドは「存在しない」ということだ。フェミニストたちはしばしばラカンの「女性は存在しない」という言葉を批判するが、その批判内容が、女性と同じ構造で存在させられなくなってしまう、女性や子供を含めた広い意味での非定型人たちを、拡散的辺境的流動的領域を生きる人々を存在させなくしていることに何故気づかないのだろうか。部分的中央集権的固定的領域を生きられない主体は人間じゃねえ、(少なくともオレの主観世界からは)排除されちまえ、消え失せろ、と言っているのである。これは、「正しい」思考様式なのだ。自分の中であれ他人の中であれ「ご病気の人」や「空気の読めない人」や「狂人的な部分」を「棄却」「排他」「欠如」させるのが、正常人が正常人たる、彼らが生きる幻想に過ぎない「現実(リアリティ)」の成立条件であり、根拠なのだから。ラカン的な意味ではない、ただの言語ゲームによる「現実(リアリティ)」の。本質的権力者が権力者であることを定立させる権力の。それを棚に上げて、自分より非定型な人間の主観世界を、定型的な自分や自分と同じ多数派の人間が確信している「だけ」の主観世界の様式で考えたがることの。自己美化としての傲慢さの。
この記事で、わたしはある自閉症者の文章を「宛先のない手紙」と表現した。それはこういうことであったのだな、と事後的に自分で解釈できた。彼のブログを読んで無解釈的に脊髄反射的に表現した言葉だったのだが、そういう解釈をされても仕方なかろう。なんせ自分でそう解釈してしまったのだから。要するに、彼らは、少なくとも「語る自閉症者」たちは、手紙を書かないわけではない、定型的に宛先が必要だというわけではない、宛先はあってもなくても構わない、ということだ。補足するならば、これは「手紙は宛先に届くか否か」という議論以前の領域である。「手紙」という言葉は似たようなことを示してはいようが。
こういった「宛先のない(宛先に囚われない)手紙を書く人々」の中に、たとえば「歴史を語らせようとする何か」が現れると、自分の中の狂人が自分の中の正常人に苦しめられ、その多くは多数派の定型に屈するであろう。手紙は届かないより届いた方がいいからだ。自分の中の正常人が喜ぶからだ。自分の中の正常人が増長するからだ。あるいはその時、敏感な正常人ならば、「歴史を語らせようとする」自分が狂人となっていることに気づくかもしれない。自分の中の狂人が苦しんでいるのに気づくかもしれない。しかし、気づいた時にはもう遅い。「宛先のない手紙を書く人々」たちの、サバルタンたちの歴史は、その時点で既に奪われている。サバルタンたちは「語れない」のではなく、「手紙の宛先がない(宛先が必要という固定観念から自由である)」だけなのである。非サバルタンたちが、その宛先に自分の名前を都合よく勝手に書き込んでいるのである。情動の交換作動の標準化が行われているのである。「ISOバンザイ」と、ISOに関する職に就いていたわたしは言う他ない。批判ではない、と言いたいのだ。標準化にも多様化にもメリットデメリットがそれぞれあるということだ。そのデメリットの方を、「サバルタン/非サバルタン」や「(自分の中の)狂人/正常人」に共通させて、標準化させて、「情動」や「苦しみ」という言葉に連鎖させて、取り上げているわけである。意地悪く。あ、意地悪いってことは批判でいいのか。じゃあ批判ってことで。どっちに対してのかは知らないけど。
ともかく、これらのことから、アルトーを語る文章として、わたしは『アンチ・オイディプス』を認めない、という話。その行間にどうしても生理的嫌悪を感じてしまうわたしのことであるから、理屈的なところの理解は不充分かもしれないが、少なくとも彼らの文章を文芸的に読むならば(間違った読み方であるとは自覚しながら言う)、彼らはアルトーをわかっていない。少なくとも「残酷演劇」という言葉の、網の目ではなくピンとしての意味を、理解ではなく感知できていない。アルトーの文章を文芸だと言っておきながら、文芸的な感知ができていない。残酷演劇は、工場などではない。本質的権力者と本質的被権力者の間に生じる、生々しい「現実(リアル)」であり、代理表象という象徴界的な枠を、現実界を利用して(故に残酷的に)破壊するものである。象徴界的に見ればそれは破壊となるが、現実界的に見ればそれは確かに生産である。本質的被権力者として生きたアルトーという語る主体は、確かに工場かもしれない。工場でも構わない。しかし彼らには、その機械が摂理として現実的に発する摩擦熱が見えていない。彼らの(欲望ではなく)情動は、オイディプスの枠内に囚われている。よって、彼らは作動油としての情動に触れられなかったのだ、などという好意的な解釈ぐらいはしといてあげよう。触れてもすぐシステムの方に、設計図の方に逃げている印象がある。そりゃ確かに現場で油まみれになっていたのかもしれんけど、設計者にとって油は洗濯すれば落ちるものだからなあ。肌が変色するほど油に塗れたことはないのだろう。ガタリですら。
『アンチ・オイディプス』の言う「分裂分析」という言葉は、「神経症を分裂症化させる」方向性について、わたしの言う「逆精神分析」に似ている。そう思われても仕方ないと思っている。そう言われてもそれほどムキになって反論しないだろう。適当に言っただけだし。「逆精神分析」なんて。だけどだけど、その内実は、先に書いたような点で全く異なっている、ってことをデムパ的に言いたかっただけ。「逆精神分析」という言葉の時点で精神分析に囚われているじゃないか、なんて短絡的なドゥルージアンに言われそうだから一応張っとくけど、ここのコメント欄読んでね。精神分析が部分的に逆精神分析手法を内包していることを認めた上での言葉である。
さあて、ここで問題です。「分裂分析」と「逆精神分析」、どっちがより多くの「部分を横断」しているでしょうか?
非オイディプスという意味で情動的にオイディプスに囚われているのが分裂分析である、ということだ。だから「分裂分析は政治的社会的精神分析である」などと言っちゃうのだ。オイディプスも精神分析も苦しみも情動も宛先のなさも横断することを認めている(推奨している)のが逆精神分析である。特に情動や宛先のなさに触れられてないことから、彼らの分裂分析は、神経症者を男性的抑鬱症や仮面スキゾイドに導くのみであると、わたしは予想する。『アンチ・オイディプス』を読解しても脱オイディプス化されない、むしろオイディプスを強化しかねない、ということだ。このことは、実際ドゥルージアンにはニヒリストが多いというわたしの経験にも合致する。ドゥルージアンたちの生産力は全く低いのが事実だ。わたしの主観的事実として。とはいえスキゾイドぐらいにはなれるのかもしれない。「戦闘的」とか言っているように攻撃性の横断は認めているのだから。じゃあいいや。それで。要するに、ドゥルージアンたちは、その教義と反比例するかのように、全く充実身体的ではないから、あまり興味をそそられない、ということである。
わたし? わたしはもちろん分裂分析も部分として横断するよ。横断が生産ってことでしょ? そちらの教義では。生産生産、産めよ増やせよ快便主義。え、何? ラカニアンの方が生産してないだろう、だって? あったりまえじゃん。ラカン論は別に生産を教義にしてるわけじゃないんだから。
わたし的には生産なんて言葉よか「道具として利用する」ってのがしっくりくる。使えるところは使う。この記事でやっているようにね。こうしてわたしはどんどん「ずるく」なっていくのであった。
あーそうそう、なんかチャットでは言ったことあるけど、わたしが使う「脱構築」って揶揄的な意味が込められているからね。一時期デリディアンだった自分に対するものでもあるけど。このブログでは「脱構築(笑)」みたいな感じで読んでくだちい。その方がデリダも本望なように思う。巷の浅薄デリディアンが言う「脱構築」なんかより。
とか言いながらガタリ的な「ファルス(笑)」でもあるけれどちょっと違う(笑)だなあと思ったことはどうでもいいや。
あー、あと文中で「狂人」って言葉を連呼しているけど、それに違和感感じた人はここ読んでみてね。「狂人」って言葉に過剰な否定性を連想する人間ほど「狂人」を否定している、ってこと。定型的に否定されるものを否定するのが定型人、ってことやね。このブログでは大体定型的に肯定されるものに対して否定している。つもり。「大体」ね。初期はそうでもないけれど。だって「ずるい」んだもん。わたしって。オイディプス=潔癖症者が愛でる人形なんてもうイヤだけど、人形の心地良さも知っているから。
あーもう、「器官なき身体」も「身体なき器官」も両方あるのが人間じゃん、jk。って2ちゃんのツッコミ的な話なんだけど。
まあ、そういう文章でしたってこと。