某ブログに妙な影響を受けた。
2008/06/17/Tue
いろいろいらいらしているので、何か意味のないことでも意味ありげに書いてみたくなった。もう少しいらいら度が上がったり下がったりすれば、たとえばこの記事系統の無意味な文章になったり、論文系統の記事になったりするのだろう。届いて欲しいけれど届かなくてもいい言葉と、届いて欲しいを前面に出した言葉の違い、かな。このどっちつかずないらいら状態は、その中間的な文章を書きたがっている。排泄したがっている。下痢便と硬いうんこの中間というより、両方入り交じったようなもの、だろうか。
ああ、既に意味なし度が高い文章になっている。これじゃあだめなんだよな。いらいら度が増す。こうやっていつもの二系統に分かれていくのかなあ、違うよなあ、違いたいなあ、どうでもいいや。
え? こんな文章わざわざ読んでいる人いるの? と自分で読み返して思った。ああだめだ。削除したくなったので削除したくなくなった。従って残す。続き書けなくても違う記事の頭に付け足したりしてもいいかもしれない。
ああだめだめだめ。ちゃうのよー。ちゃうちゃうちゃうのよー。
これまでの文章はなかったことにして。そう思うとなかったことにしたくなくなるから残す。
さっさと本題入れっちゅーに。以降の文章はこの文章とはなんら関係はありません。っていうか拍手してよ拍手。コメントはいらないから。届いて欲しい分届かせたくない、だけど届かないと凹む。そんな理不尽と思われて当然な状態。
……というわけで。
関係なくはないと思う。違う記事じゃないから。時間的に連続した状態で実は書いている。
木村敏論の、アンテ・フェストゥム、イントラ・フェストゥム、ポスト・フェストゥム論。それらの象徴的症状は、アンテは統合失調症、イントラは癲癇、ポストは鬱病やパラノイア、となる。本当はもっと厳密に語られているが、めんどいのでスルー。男根主義者の論なんて大雑把に解釈してあげた方がいいのだ。ということであえて大雑把に論じていく。
わたしは、自閉症はアンテに属すると考える。大人子供なら、大人はポスト、子供はアンテ。男女なら、男はポスト、女はアンテ。大雑把な傾向で言えば、そういう風に考えることもできるだろう、ということだ。神経症領域ならば、強迫症や抑鬱症はポスト、ヒステリーはアンテ、ボーダーはイントラ、となろう。え、女性的抑鬱症はアンテだってここで書いてるじゃん、とか言わないでね。同じ抑鬱症という領域内で、精神分析的な男性性と女性性(生物学的男女とは別物の)のどっちがアンテ的かポスト的かって話で、度合いの問題。相対的な尺度に過ぎない。こんなの。
わたしってボーダーくせえ、と思ったあなたは多分正解。狂気の領域を、充実身体や現実界を、「愛憎の混淆」などに象徴してしまうわたしの思考回路は、他人事として見てボーダー的。自分でそう思う。自分では違うと言うけどね。ボーダーはむしろ愛憎がくっきり分かれているから、充実身体上の強度的なある地点で混濁する。それが症状として強烈だから、そんな印象になるだけ。むしろ超自我が人一倍強い故そこから漏れちゃうのがボーダー、って説やね。わたしは超自我は弱いと思う。愛憎が混淆している状態の方が長い。ある強度的地点で、やっと愛か憎かに固定される。ボーダーと逆。まあ混淆しているって点では同じだけど。どっちかってとヒステリーの方が当てはまる。自己分析だから信用しないでね。
自慢じゃないが、わたしは子供の頃から成績は良かった。小学六年生の時、全国でトップテンに入ったことがある。麻布中だかラサールだか灘だかほとんどの有名校の合格確実判定をもらった。行ったのは家に近いそこそこの進学校だったけど。なんか入試二位だったらしい。入学金はタダだった。
中学に入ると、夜更かし飲酒プチ家出と定型的な堕落を経験し、ちったあ成績が落ちたものの、高校では普通に成績優秀者だけが入れる特別進学クラスにいた。入試一位の子は落ちぶれていた。
んで普通に東大行った。現役で。慶応医が第一志望だったけど落ちた。あんまり深く考えてなかった。東京で芝居漬けになりたかっただけ。母親の方も厄介払い&東京で遊ぶ理由ができた、みたいな感じだった。とてもうざかった。常時テンションたけえって意味で。パワフルなのだ。わたしのパワーを、お腹にいた時に吸い取ったのか、なんて思う。本気で。精神分析ならこのパワーって心的エネルギーとかリビドーってことになるんだろう。今でもうざいけど、わたしも大人になったので大江戸温泉ぐらいは付き合ってあげている。
……とか書くと、なんて挫折を知らない人生を歩んできたんだお前は、とか言われそうだ。でも事実なんだ。学校とか勉学という面では、確かに挫折を知らない。というか、むしろ学問に対して敵意や反発心を抱く心理が理解できない。わたしは勉強が好きだったわけではない。周りのみんなが偏執的に学問に対し反発していただけ。そんなわけのわからない反発を、みんながみんなするから、適当にやっていたわたしみたいなのが相対的に良くなるだけ。今でもそう思う。部活動みたいな感じで勉強していた。普通の部活もやってたけど。
でもね、違うところで挫折を感じてたんだよ。普通の人には理解できないかもしれないけど、ツレション好きな周りの子たちの、間接的な、真綿で絞められるような圧力が、とてもイヤだった。いじめられてたわけじゃない。浮いてはいたけれど。常に挫折を感じていた。精神年齢的な意味で。自分は精神年齢が低い、などと言いたくないのだけれど、説明としてそういう感じと言うしかない。仕方なく。
そういった感じのものとして、たとえばRPGなら、周りの子たちがレベル30とか50辺りで生活しているのに対し、わたしはレベル15くらいからなかなか上がらなかった、みたいな。
本当に、なんでみんなそんなにうまくやってけるの? と思っていた。そういった「周りとうまくやっていくこと」を、わたしはツレションと比喩している。事実ツレション好きだったし、奴ら。奴らの心理は今でも理解できない。いや、なんとなく理屈ではわかるようになってはいるけど、その理屈に則ろうとはどうしても思えない。こう、なんで「あーわかるわかるー」ってロボットみたいなやり取りするだけでうまくやれるのかがわからない。言えるだけなら言えるけど、それで済んじゃうのがわからない。演技だってのはわかるし演技はできたんだけど、お前らなんでそんなに無意識的にできんの? こそばゆくすらなんないの? 自分の馴れ馴れしさにキモチワルクならないの? 自分の演技の下手さに絶望しないの? っていつも思っていた。仲いい子もいたけどね。表面上。
このブログで、自他の融合こそがケガレだと表現しているのは、もちろん学問的理屈で武装しているが、そういう経験があったからかもしれない。クリステヴァサイコー。
要するに、わたしは不器用な人間である、みたいな言い方がわかりやすいか。一般的に。車の運転とか信じられないくらいに下手らしいし。なんかねー、これやって次これやって、ってなって、パニくっちゃうのよ。ああなんだっけ次こうだよね、って頭ん中で確認してからでないと動けない。結果反応が遅くなる。仮免の時サイドミラーぶち壊した。評判の悪い教官に同情された。「キミ免許取れたとしてもなるべく運転しない方がいいよ」って真顔で言われた。本当にお前らなんでそんな無意識的に動けんだよ、って思う。今でも。
あー……、まわりくどいなあ。本題本題。
こんなカミングアウトしたいわけじゃない。いや、したいのはカミングアウト的なものだけど、こんなことを言いたいわけじゃない。もーなんか妙な影響受けちゃったなあ。
まあ普通に書こう。
わたしは、中学生ぐらいまで、毎月、病院で尿検査、血液検査、脳波検査を受けていた。特に尿検査が困った。出さないと帰れない。出そうと思うほどなかなか出ない。脳波は眠剤入りジュースみたいなん(くそまずかった)飲めばパタッて寝れたけど。検査のある日は、学校でおしっこしないでね、とか母に命令され、途方もない理不尽さを覚えたものだ。毎月じゃなかったけど、何かのテストも何回か受けさせられた。そん時はIQテストって思い込んでたなあ。なんでこんなに成績いいのか自分でよくわからなかったし。
寝ている時、よくひきつけを起こしていたんだと。全く記憶にないけれど。要するに、発達障害とか癲癇を疑われていたわけだな。
しかし、成長するにつれ安定してきたらしく、高校生の頃には、めでたくグレーゾーンから卒業できていた。わたしはすっかり立派な定型人になっていた。とか言いながら欠席日数は学年二番とかだった。一番は心臓病の子だった。二日酔いで休んだりする自分がイヤでしょうがなかった。成績が良かったから何も言われなかっただけで、って今思ったが親が話していたのかもしれない。うわあ。
ちなみに目も色覚異常で右耳も難聴気味だが、全く正常ラインである。地下鉄の路線図とかもっとわかりやすくしろ、ぐらいで日常生活には支障はない。
んで、大学以降はここ参照。
大学で劇団入って、演技を学んで、世界が変わった。レベル15から一気にレベル30まで上がった感じ。経験値10倍チケットみたいな。はらほろひれはれだった。調子こいていた。調子こいていたってレベルじゃない。躁状態、パラノイア状態だった。ちょっと簡単には言えないようこともした。思い出したくないこともたくさんした。劇団では基本スタッフだったが、目も耳も悪いので、制作や大道具をメインでこなしつつ、役者もやらされていた。やらされて良かった。本当にそう思う。周りの空気が怒涛のように読めるようになった。今でも空気は読めない方ではあろうが、それまでの自分がいかに空気の読めない人間であったかを痛感して、死にたくなった。
大学の専攻は物性物理だった。ある時、量子力学と演劇がわたしの中でがきゅーんと繋がった。マジデ。理屈とかそんなチャチなもんじゃねえ状態だった。
それがきっかけとなって、わたしは演劇にのめり込んだ。芸術で死のうとさえ思った。今でも思っているが。
繋がった片方の量子力学はほっぽらかしだった。つまり、大学の成績は惨憺たるものだった。なんとか、ぎりぎりで卒業できた。
卒業してからも、調子はこき続けた。会社に就職し、ばりばり働いた。マジデ有能だった。上司と衝突しまくった。「キミのは議論じゃなくてナイフで刺すようなものだ」とか言われた。当の上司から。なんか可哀相だと思った。人格攻撃とかしてるわけじゃないし、そんなこと言われても、とか言い返した気がする。
そんなこんなで、精神を病んだ。治ったりしてまた病んだり。何回か繰り返したように思うけど、病んだ状態と正常な状態って正直今は区別がつかない。妙な知識を学んだせいもあろう。抑鬱状態とかパニ障。
あー、ついでだから言うと、成長してひきつけはなくなったとか書いたけれど、その頃の脳波検査で、一回だけひきつけを起こした。なんか看護師が「やめてええ」みたいに叫んでいる記憶がうっすらあるが夢臭い。恥ずかしいしわざとだろうとか思われるのがイヤで自分から医者に言った。昔のことを。「ふうん」ってだけだった。会社やめてからは違うとこ通ってる。
病む前から株はやってたけど、なんだかんだで生きてけるなあ、と思っている。母親も、最初はアホウみたいにいろいろ言ってきたが、最近「こんな風になるとは思っていた」とかのたまいやがる。マジデ切れそう。
ああうん、何が言いたいかって話だな。木村論に戻る。わたしはイントラ・フェストゥムを認めない。語れない。
理屈で語るのがイヤになったので、直観というか印象論的な話として述べる。癲癇を疑われた経験のある者から言わせると、アンテやポストはともかく、イントラ・フェストゥムなんて領域は存在しない、ということを言っておきたいのだ。この領域は、アンテとポストを行き来するという意味で捉えて、領域としては存在しないと考えた方がいい。アンテやポストさえも、領域というより逆方向の流れのようなもので、それらが擦り合わさって起きる火花みたいなのがイントラ、とかかなあ。アンテ、ポストの、どっちベクトルかが自分でどっちベクトルかが他人(自分以外のモノ)で、それらが軋む場合を含めて。となると、イントラ・フェストゥムとは本質的な意味での、ラカン論的に現実的なものとしての、出会いそのものである、ってことになる。ボーダーも、自分の中の知らない自分というものを他人とすれば、整合する。前記事で述べている「二種類の自閉」に関連させるならば、アンテは生々しい現実的な出会いを生きている故自閉するのに対し、ポストは共同幻想的な出会いを生きている故自閉する、という言い方になろう。
こんな理屈になるから、認めない方がいいのだ。非一神教的方向で思考すると、理屈的に必ず「中間領域サイコー」に行き着いちゃうのだ。そうやって、高く飛ばない故に落ちないイカロスたちが増えていく。
認めないなら認めないで、精神分析派なだけあってまさしく「死の欲動/生の欲動」っぽい構造になってるけど、まあ、老婆心的に言わせてもらうなら、ってこと。
だから、ボーダーをイントラに含めるのは、正直違和感がある。超自我が強いからボーダーになるって理屈ならば、ポストだろうと思う。でも確かにボーダーって幼児的な恐怖症っぽいところはある。それはアンテ領域であり、アンテとポストを行き来しているのがイントラってわたしがさっき主張した理屈にも符合してしまうから、なんかどうでもよくなった。
あ、言っとくけど癲癇状態を多幸感だとか言っているバカは信用しなくていいよ。記憶装置が混濁する状態なんだから。一時的にせよその装置が混濁するから、それまでの記憶が書き換えられる。思い出したくもない過去がいい思い出になったりする。逆もある。多幸感とか恍惚感なんて後付けの言葉である。経験上じゃなくて理屈的でもないけれど、素でそう思う。それは確かに魅惑的なものではあるが、おぞましいものでもある。クリステヴァ論から借りた言葉だが、そんな表現でしか反論できない。っていうか、愛憎の混淆状態とかそういうもんじゃない?
ああああああああああああ。
どーでもいいですよ♪
ネタバレ記事だな。うん。さあみんなどんどんわたしを気持ち悪がりたまえ。いいのだよ。こんなの気持ち悪くなるのが正常なのだ。正常人も生きていたわたしだから言える。
キチガイは、誰でも、キチガイ本人ですら、気持ち悪いのだ。ぼけ。なんか汗かいてる。
ああうん、ここでの議論も一つのスイッチにはなってそうだ。他人事的解釈として。他にもいろいろスイッチはあるんだろうけれど。
……とかいうキャラ設定って、どうかな?
ああ、既に意味なし度が高い文章になっている。これじゃあだめなんだよな。いらいら度が増す。こうやっていつもの二系統に分かれていくのかなあ、違うよなあ、違いたいなあ、どうでもいいや。
え? こんな文章わざわざ読んでいる人いるの? と自分で読み返して思った。ああだめだ。削除したくなったので削除したくなくなった。従って残す。続き書けなくても違う記事の頭に付け足したりしてもいいかもしれない。
ああだめだめだめ。ちゃうのよー。ちゃうちゃうちゃうのよー。
これまでの文章はなかったことにして。そう思うとなかったことにしたくなくなるから残す。
さっさと本題入れっちゅーに。以降の文章はこの文章とはなんら関係はありません。っていうか拍手してよ拍手。コメントはいらないから。届いて欲しい分届かせたくない、だけど届かないと凹む。そんな理不尽と思われて当然な状態。
……というわけで。
関係なくはないと思う。違う記事じゃないから。時間的に連続した状態で実は書いている。
木村敏論の、アンテ・フェストゥム、イントラ・フェストゥム、ポスト・フェストゥム論。それらの象徴的症状は、アンテは統合失調症、イントラは癲癇、ポストは鬱病やパラノイア、となる。本当はもっと厳密に語られているが、めんどいのでスルー。男根主義者の論なんて大雑把に解釈してあげた方がいいのだ。ということであえて大雑把に論じていく。
わたしは、自閉症はアンテに属すると考える。大人子供なら、大人はポスト、子供はアンテ。男女なら、男はポスト、女はアンテ。大雑把な傾向で言えば、そういう風に考えることもできるだろう、ということだ。神経症領域ならば、強迫症や抑鬱症はポスト、ヒステリーはアンテ、ボーダーはイントラ、となろう。え、女性的抑鬱症はアンテだってここで書いてるじゃん、とか言わないでね。同じ抑鬱症という領域内で、精神分析的な男性性と女性性(生物学的男女とは別物の)のどっちがアンテ的かポスト的かって話で、度合いの問題。相対的な尺度に過ぎない。こんなの。
わたしってボーダーくせえ、と思ったあなたは多分正解。狂気の領域を、充実身体や現実界を、「愛憎の混淆」などに象徴してしまうわたしの思考回路は、他人事として見てボーダー的。自分でそう思う。自分では違うと言うけどね。ボーダーはむしろ愛憎がくっきり分かれているから、充実身体上の強度的なある地点で混濁する。それが症状として強烈だから、そんな印象になるだけ。むしろ超自我が人一倍強い故そこから漏れちゃうのがボーダー、って説やね。わたしは超自我は弱いと思う。愛憎が混淆している状態の方が長い。ある強度的地点で、やっと愛か憎かに固定される。ボーダーと逆。まあ混淆しているって点では同じだけど。どっちかってとヒステリーの方が当てはまる。自己分析だから信用しないでね。
自慢じゃないが、わたしは子供の頃から成績は良かった。小学六年生の時、全国でトップテンに入ったことがある。麻布中だかラサールだか灘だかほとんどの有名校の合格確実判定をもらった。行ったのは家に近いそこそこの進学校だったけど。なんか入試二位だったらしい。入学金はタダだった。
中学に入ると、夜更かし飲酒プチ家出と定型的な堕落を経験し、ちったあ成績が落ちたものの、高校では普通に成績優秀者だけが入れる特別進学クラスにいた。入試一位の子は落ちぶれていた。
んで普通に東大行った。現役で。慶応医が第一志望だったけど落ちた。あんまり深く考えてなかった。東京で芝居漬けになりたかっただけ。母親の方も厄介払い&東京で遊ぶ理由ができた、みたいな感じだった。とてもうざかった。常時テンションたけえって意味で。パワフルなのだ。わたしのパワーを、お腹にいた時に吸い取ったのか、なんて思う。本気で。精神分析ならこのパワーって心的エネルギーとかリビドーってことになるんだろう。今でもうざいけど、わたしも大人になったので大江戸温泉ぐらいは付き合ってあげている。
……とか書くと、なんて挫折を知らない人生を歩んできたんだお前は、とか言われそうだ。でも事実なんだ。学校とか勉学という面では、確かに挫折を知らない。というか、むしろ学問に対して敵意や反発心を抱く心理が理解できない。わたしは勉強が好きだったわけではない。周りのみんなが偏執的に学問に対し反発していただけ。そんなわけのわからない反発を、みんながみんなするから、適当にやっていたわたしみたいなのが相対的に良くなるだけ。今でもそう思う。部活動みたいな感じで勉強していた。普通の部活もやってたけど。
でもね、違うところで挫折を感じてたんだよ。普通の人には理解できないかもしれないけど、ツレション好きな周りの子たちの、間接的な、真綿で絞められるような圧力が、とてもイヤだった。いじめられてたわけじゃない。浮いてはいたけれど。常に挫折を感じていた。精神年齢的な意味で。自分は精神年齢が低い、などと言いたくないのだけれど、説明としてそういう感じと言うしかない。仕方なく。
そういった感じのものとして、たとえばRPGなら、周りの子たちがレベル30とか50辺りで生活しているのに対し、わたしはレベル15くらいからなかなか上がらなかった、みたいな。
本当に、なんでみんなそんなにうまくやってけるの? と思っていた。そういった「周りとうまくやっていくこと」を、わたしはツレションと比喩している。事実ツレション好きだったし、奴ら。奴らの心理は今でも理解できない。いや、なんとなく理屈ではわかるようになってはいるけど、その理屈に則ろうとはどうしても思えない。こう、なんで「あーわかるわかるー」ってロボットみたいなやり取りするだけでうまくやれるのかがわからない。言えるだけなら言えるけど、それで済んじゃうのがわからない。演技だってのはわかるし演技はできたんだけど、お前らなんでそんなに無意識的にできんの? こそばゆくすらなんないの? 自分の馴れ馴れしさにキモチワルクならないの? 自分の演技の下手さに絶望しないの? っていつも思っていた。仲いい子もいたけどね。表面上。
このブログで、自他の融合こそがケガレだと表現しているのは、もちろん学問的理屈で武装しているが、そういう経験があったからかもしれない。クリステヴァサイコー。
要するに、わたしは不器用な人間である、みたいな言い方がわかりやすいか。一般的に。車の運転とか信じられないくらいに下手らしいし。なんかねー、これやって次これやって、ってなって、パニくっちゃうのよ。ああなんだっけ次こうだよね、って頭ん中で確認してからでないと動けない。結果反応が遅くなる。仮免の時サイドミラーぶち壊した。評判の悪い教官に同情された。「キミ免許取れたとしてもなるべく運転しない方がいいよ」って真顔で言われた。本当にお前らなんでそんな無意識的に動けんだよ、って思う。今でも。
あー……、まわりくどいなあ。本題本題。
こんなカミングアウトしたいわけじゃない。いや、したいのはカミングアウト的なものだけど、こんなことを言いたいわけじゃない。もーなんか妙な影響受けちゃったなあ。
まあ普通に書こう。
わたしは、中学生ぐらいまで、毎月、病院で尿検査、血液検査、脳波検査を受けていた。特に尿検査が困った。出さないと帰れない。出そうと思うほどなかなか出ない。脳波は眠剤入りジュースみたいなん(くそまずかった)飲めばパタッて寝れたけど。検査のある日は、学校でおしっこしないでね、とか母に命令され、途方もない理不尽さを覚えたものだ。毎月じゃなかったけど、何かのテストも何回か受けさせられた。そん時はIQテストって思い込んでたなあ。なんでこんなに成績いいのか自分でよくわからなかったし。
寝ている時、よくひきつけを起こしていたんだと。全く記憶にないけれど。要するに、発達障害とか癲癇を疑われていたわけだな。
しかし、成長するにつれ安定してきたらしく、高校生の頃には、めでたくグレーゾーンから卒業できていた。わたしはすっかり立派な定型人になっていた。とか言いながら欠席日数は学年二番とかだった。一番は心臓病の子だった。二日酔いで休んだりする自分がイヤでしょうがなかった。成績が良かったから何も言われなかっただけで、って今思ったが親が話していたのかもしれない。うわあ。
ちなみに目も色覚異常で右耳も難聴気味だが、全く正常ラインである。地下鉄の路線図とかもっとわかりやすくしろ、ぐらいで日常生活には支障はない。
んで、大学以降はここ参照。
大学で劇団入って、演技を学んで、世界が変わった。レベル15から一気にレベル30まで上がった感じ。経験値10倍チケットみたいな。はらほろひれはれだった。調子こいていた。調子こいていたってレベルじゃない。躁状態、パラノイア状態だった。ちょっと簡単には言えないようこともした。思い出したくないこともたくさんした。劇団では基本スタッフだったが、目も耳も悪いので、制作や大道具をメインでこなしつつ、役者もやらされていた。やらされて良かった。本当にそう思う。周りの空気が怒涛のように読めるようになった。今でも空気は読めない方ではあろうが、それまでの自分がいかに空気の読めない人間であったかを痛感して、死にたくなった。
大学の専攻は物性物理だった。ある時、量子力学と演劇がわたしの中でがきゅーんと繋がった。マジデ。理屈とかそんなチャチなもんじゃねえ状態だった。
それがきっかけとなって、わたしは演劇にのめり込んだ。芸術で死のうとさえ思った。今でも思っているが。
繋がった片方の量子力学はほっぽらかしだった。つまり、大学の成績は惨憺たるものだった。なんとか、ぎりぎりで卒業できた。
卒業してからも、調子はこき続けた。会社に就職し、ばりばり働いた。マジデ有能だった。上司と衝突しまくった。「キミのは議論じゃなくてナイフで刺すようなものだ」とか言われた。当の上司から。なんか可哀相だと思った。人格攻撃とかしてるわけじゃないし、そんなこと言われても、とか言い返した気がする。
そんなこんなで、精神を病んだ。治ったりしてまた病んだり。何回か繰り返したように思うけど、病んだ状態と正常な状態って正直今は区別がつかない。妙な知識を学んだせいもあろう。抑鬱状態とかパニ障。
あー、ついでだから言うと、成長してひきつけはなくなったとか書いたけれど、その頃の脳波検査で、一回だけひきつけを起こした。なんか看護師が「やめてええ」みたいに叫んでいる記憶がうっすらあるが夢臭い。恥ずかしいしわざとだろうとか思われるのがイヤで自分から医者に言った。昔のことを。「ふうん」ってだけだった。会社やめてからは違うとこ通ってる。
病む前から株はやってたけど、なんだかんだで生きてけるなあ、と思っている。母親も、最初はアホウみたいにいろいろ言ってきたが、最近「こんな風になるとは思っていた」とかのたまいやがる。マジデ切れそう。
ああうん、何が言いたいかって話だな。木村論に戻る。わたしはイントラ・フェストゥムを認めない。語れない。
理屈で語るのがイヤになったので、直観というか印象論的な話として述べる。癲癇を疑われた経験のある者から言わせると、アンテやポストはともかく、イントラ・フェストゥムなんて領域は存在しない、ということを言っておきたいのだ。この領域は、アンテとポストを行き来するという意味で捉えて、領域としては存在しないと考えた方がいい。アンテやポストさえも、領域というより逆方向の流れのようなもので、それらが擦り合わさって起きる火花みたいなのがイントラ、とかかなあ。アンテ、ポストの、どっちベクトルかが自分でどっちベクトルかが他人(自分以外のモノ)で、それらが軋む場合を含めて。となると、イントラ・フェストゥムとは本質的な意味での、ラカン論的に現実的なものとしての、出会いそのものである、ってことになる。ボーダーも、自分の中の知らない自分というものを他人とすれば、整合する。前記事で述べている「二種類の自閉」に関連させるならば、アンテは生々しい現実的な出会いを生きている故自閉するのに対し、ポストは共同幻想的な出会いを生きている故自閉する、という言い方になろう。
こんな理屈になるから、認めない方がいいのだ。非一神教的方向で思考すると、理屈的に必ず「中間領域サイコー」に行き着いちゃうのだ。そうやって、高く飛ばない故に落ちないイカロスたちが増えていく。
認めないなら認めないで、精神分析派なだけあってまさしく「死の欲動/生の欲動」っぽい構造になってるけど、まあ、老婆心的に言わせてもらうなら、ってこと。
だから、ボーダーをイントラに含めるのは、正直違和感がある。超自我が強いからボーダーになるって理屈ならば、ポストだろうと思う。でも確かにボーダーって幼児的な恐怖症っぽいところはある。それはアンテ領域であり、アンテとポストを行き来しているのがイントラってわたしがさっき主張した理屈にも符合してしまうから、なんかどうでもよくなった。
あ、言っとくけど癲癇状態を多幸感だとか言っているバカは信用しなくていいよ。記憶装置が混濁する状態なんだから。一時的にせよその装置が混濁するから、それまでの記憶が書き換えられる。思い出したくもない過去がいい思い出になったりする。逆もある。多幸感とか恍惚感なんて後付けの言葉である。経験上じゃなくて理屈的でもないけれど、素でそう思う。それは確かに魅惑的なものではあるが、おぞましいものでもある。クリステヴァ論から借りた言葉だが、そんな表現でしか反論できない。っていうか、愛憎の混淆状態とかそういうもんじゃない?
ああああああああああああ。
どーでもいいですよ♪
ネタバレ記事だな。うん。さあみんなどんどんわたしを気持ち悪がりたまえ。いいのだよ。こんなの気持ち悪くなるのが正常なのだ。正常人も生きていたわたしだから言える。
キチガイは、誰でも、キチガイ本人ですら、気持ち悪いのだ。ぼけ。なんか汗かいてる。
ああうん、ここでの議論も一つのスイッチにはなってそうだ。他人事的解釈として。他にもいろいろスイッチはあるんだろうけれど。
……とかいうキャラ設定って、どうかな?