解釈機械の含み笑い
2008/06/19/Thu
生産機械は、摂理として、そこに様々な熱を生じさせる、とここで書いた。生産品以外にも、別の物を生じさせている。熱だけではない。振動、騒音、不良品、労働者の労働、製造装置そのものの故障……。
ドゥルーズ=ガタリは、精神分析のやっていることを、欲望機械の一種という意味で、解釈機械であると述べた。言い得て妙である。精神分析家が「分析においては、欲望の存在は認めこそすれ、欲望の介入があってはならない」と言いたがる精神構造をうまく言い当てている。欲望的なものを露出するようなものじゃない意味としての機械。だけど欲望機械の一種に過ぎない機械。
解釈機械も、生産機械である。解釈は、何かしらの真理を解き明かすものではない。何かしらの生産が生じるだけのものである。解釈とは、必ず真理を追究する手段でなければならない、という定型人の固定観念は、どこから生じているのだろう? いつも不思議に思う。
少なくともわたしは、言葉の裏にある真理を解き明かそうとして、オタク文化やBLファンや心理カウンセラーや笙野頼子やアスペルガー症候群者やスキゾイドや女性などという、様々な対象を解釈しているわけではない。特にブログ初期の頃の文章はよく誤解されがちだが、一般の読者には馴染みの浅い学術的用語を多用しているせいか、「なんらかの解答を与えてくれる文章」として読まれることが多かった。それらの記事の批判も、行間にそういったものを感じるものが多かった。
別に、わたしの文章になんらかの解答を見出そうとして読んでくれるのは、全然構わない。ただ、わたしの方が、なんらかの解答を読者に与えようとして書いているわけではない、というだけのことだ。
ではなんのために書いているのか? と聞かれるのもよくわからない。与えるものじゃないとしても、とにかく解答に突き進むのが論文というものである、という固定観念には、わたしは捕らえられていない。そういう言い方ならば、むしろ既存の解答を揺るがす目的で書いている、と言えるだろう。即ち、読者に疑問を生じさせるために書いている、と。しかし、他人からそう指摘されたならば、「違う」と答える。わたしはただ書きたいから書いているだけだ、と反論する。
厳密に言えば、それは、自分の文章を事後的に解釈してそう言っているだけであり、確かにその行間に解答ではなく疑問を生じさせる印象はあるかもしれないが、わたしにとってそれは副産物である。生産機械が生産する生産品以外のものである。
しかし欲望機械とは、ある生産品を生産する目的で存在するのではない。欲望、即ちこの場合、「わたしは書きたいから書いている」だけに過ぎない。これを欲望機械と呼ぶならば、何か決まった生産品を生産する機械ではないことがわかる。その生産品は、全て副産物なのだ。ラインに乗って形成される自動車部品も、その過程で生じる熱や騒音や不良品や労働者の労働や製造装置の故障も、全て等しく生産品であり副産物なのである。
欲望機械とは、そういう機械である。
受取手が、それらの総体を、ゴミやアクシデントや不良品や正規の生産品に分別するのみである。この分別機械こそが、解釈機械である、とも言えよう。
欲望機械に、自らに都合のいい品だけを生産させようとすることが、欲望の抑圧なのである。そこから生じた様々な生産品を材料にして、別の欲望機械が作動し、また熱や騒音や不良品や労働者の労働や製造装置の故障を生産する。それが、ディスクールというものである。
表現者や書き手だけが、欲望機械なのではない。受取手や読者も、欲望機械なのだ。即ち、このブログを読んでいるあなたも。読んでいるという行為自体が、欲望機械の作動なのだ。
受取手が、様々な生産品の中から、自分に有用な生産品を欲するならば、受取手の欲望機械を作動させなければならない。その一つの形態として、精神分析などという差異化の機能に優れた解釈機械があるだけである。わたしはその機械を、まさに「道具として」用いているのである。
人形が、生産するのではない。人形は、破壊もしない。人形を見つめる人間たちが、その欲望機械が、何かしらのものを生産あるいは破壊するのである。
生産されたものなど、それを生産する欲望機械そのものにとっては、それほど重要ではない。むしろ、人形にとってそれは、ひび割れた箇所から漏れ出る、どろどろした汚らしいものだったりもする。受取手の分別機械が分別できない「何か」。欲望機械にインプットされる時点で棄却されてしまう「何か」。それを見て人形はこう言うだろう。
「コンナモノ、ワタシジャナイ」
『アンチ・オイディプス』は、劇場と工場を対比させる。オイディプスのような物語化あるいは美化された構造の象徴としての劇場と、物語化や美化といった隠蔽がないものとしての工場と、という意味で。そういった意味では同意できる。
とはいえ、実際劇場でスタッフをやっていた人間から言えば、この表現は、いきなり中学生の感想文レベルの神経症的行間がぽっこりと現れているように見えて、とても可笑しい。ユーモアとしてならちょっと評価する。劇場とかじゃなく社交界とか言っとけば理屈的にはすっきりするのにしないところがまたいい。文芸的に見るなら、あまりにも定型的構造に縛られ過ぎている比喩と言える。そこがカワイイ。
演じる側にとっては、劇場内こそが、様々な隠蔽のない、狂気的な、充実身体的な、露悪的な空間である。そこでは、スタッフも役者も演出家もみんな狂人である。それは実際に演劇に関わらないとわからないことだ。アルトーが何故演劇というシニフィアンを選択したのか。理屈ではなく体感として納得できないだろう。ドゥルーズ=ガタリはそれを体感できていない。
一方、製造業にいたので工場もよく知っている。製造機械の現実がどういうものかも知っている。そんなわたしから見れば、工場の中の光景の方こそが、マニュアルや生産ラインなどという意味で物語的であり、不良品即ちケガレを棄却するシステムという意味で美化された空間である。生産機械に分別機械を連結固定させしまっているのが工場なのだ。即ち、工場という総体で見るならば、それは欲望の抑圧機構でもあると言えるわけだ。コンタミなどという言葉を知っているのだろうか? ドゥルーズ=ガタリは。
強度の丘は、むしろ劇場の中にある。袖幕の向こうに。奈落の底に。セリフを間違えた役者の汗に。他の観客の体臭に。野外演劇で、豪雨に塗れる役者と観客。雷が落ち、予期せぬ暗転に襲われる空間。静謐な能楽堂の中、催眠術を解く合図のように響く「破」の動作……。そういったひび割れから滲み出るものが、観客という分別機械との間に、火花を起こす。充実身体は、情動という作動油に滑りながら、劇場という世界を横断する。劇場機械は、うなりを上げて、リアルに身を震わせる。
工場に、このうなりはあるだろうか? いやあるのだ。それを制御するのが生産技術という仕事だ。機械をなだめ命令通りに動くように仕向けるのが彼らの役割だ。生産は統御される。欲望は抑圧される。労働者というオイディプスたちは、火花を嫌う。そういった意味では、「分析家は欲望の存在を認めながら、分析に欲望を介入させてはならない」と述べる精神分析こそが、工場であると言える。象徴的ファルスという規格品を生産する工場だ。分析家のディスクールとはそういうものである。分析家たちは、工場になりたがっている。
『アンチ・オイディプス』は、あまりにもオイディプス的に、劇場の表層しか見ていなかった。所詮彼らは、現場を知らない設計者に過ぎなかった。観客の立場に固着するオイディプス。客席から出たがらないオイディプス。プロセニアムアーチという父に圧倒されるオイディプス。ラカンならば、主人のディスクールにおける、S2即ち奴隷。S1即ちプロセニアムアーチという物言わぬ主人の意を、十全に汲み取って働く労働者。
正直言って、ドゥルーズ=ガタリという語る主体は、あまりにも、一般的な意味での、文芸的センスがなさ過ぎる。比喩がベタ過ぎる。定型人的過ぎる。
ベタ、即ちそこから連鎖する隠喩構造が貧弱であっても、それが強度の丘をピン止めするものならばいいのだ。それこそアルトーのような。しかしそれも彼らには感じられない。分裂症を語っているのに生々しさが欠けている。強度の丘を求めて、分裂分析という概念をこしらえたり挑発的な文体にしているのだろうが、そういった領域は文芸のオハコである。彼らがそのテクストで見せたかったものは、理屈じゃないところの、まさしく彼らが言及しているアルトーやプルーストが示差した文芸的なものだったように思える。
しかし、これは誠に遺憾なことなのだが、彼らには(一般的な意味でもアルトー的な意味でも)文芸的センスが皆無であった。
主体を揺るがすという意味で、分裂分析の方向と同期する文芸作品は、確かに存在する。作家で言うなら、アルトーなりジュネなりセリーヌなりデュラスなり笙野頼子なり車谷長吉なり……。
科学文明を生きる非サバルタンが、未開文明を生きるサバルタンを語ろうとすると、必ずサバルタンに都合の悪いように解釈される。『アンチ・オイディプス』はその好例である。
とはいえ、多かれ少なかれ、書物という形態を取っている限り、その語る主体は非サバルタンとなって「しまう」。それは事実である。ただそうである事実。何故なら、非サバルタンとサバルタンを分かつのは、言語構造の軸として構造総体を固定化させるファルスの強弱だからである。よって、言語を用いている限り、その語る主体には、非サバルタン即ち本質的権力者の要素が、常にこびりついてしまう。
よって、レヴィ=ストロースなどの研究も、等しく「科学文明を生きる非サバルタンが、未開文明を生きるサバルタンを語ろうとすると、必ずサバルタンに都合の悪いように解釈され」てしまった一例と言える。それはもう、言語を用いるという選択肢を取った時点で、抗えないことなのだ。言語を、左脳的処理としての象徴化という意味でのシニフィアンにまで拡大したならば、もはや人間には避けられない業である、と言える。むしろ犬や猫にさえもわずかながらに見られるかもしれない原罪である。象徴化という知恵の実を食べた人間は、構造化された積み木の城の中でしか生きられない。楽園から落とされた世界が、まさしくコンクリートジャングルだったのだ。
構造は、生々しさを捉えられない。いくら高層ビルを建てても、楽園には届かない。しかし、構造と生々しさの間に、火花は生じる。避雷針に導かれて、雷は落ちる。
こういった領域において、ドゥルーズが、レヴィ=ストロースより唯一確実に勝っている点がある。
それは、ドゥルーズの死に様である。
このアクティングアウトを、彼の名前というシニフィアンに文脈的に付加させて読むならば、その文芸センスのなさは、カバーされる。
彼の充実身体は、その死に様によって、事後的に強度を得た。しかし現実に死んでしまっているのだから、その強度は、常に既に幻想化する。彼は、その死に様によって、強度の丘を示すことができたとも言えよう。同時に、定型的な世界においては、常に既に幻想化してしまうため、『アンチ・オイディプス』が一番伝えたかった相手であろうオイディプスたちには、示すことができなかったと言える。これは批判ではない。強度の丘なりという現実界的なものを、言語的なものを道具にしてコミュニケートさせることを、わたしは笙野頼子の言葉から拝借して「祈り」と表現するが、祈りは、届いた方がいいに決まっているが、届かせることを目的とした言葉ではないからである。『アンチ・オイディプス』が示そうとした祈りが届いていないことにより、むしろ彼らが理屈的に示す専制君主的なものに対する告発が、より一層空恐ろしいもの、現実的なものとして、わたしの前に立ち現れる。確かに現在では言語狩り的にエディプスコンプレックスという言葉を聞かなくなった。しかしそれが『アンチ・オイディプス』が求めていたことではない。むしろ彼らが告発しようとしたものは、彼ら自身の著作ですら一因となって、現代でも増長し続けているように、わたしには思える。
ガタリはわからないが、少なくともドゥルーズは、ラカンのように、ハイウェイをぶっ飛ばし続けた方がよかったのかもしれない。彼自身にとって。宝の地図を取り返そうとして、彼は退行してしまったのだ。それ故、幻想であるとはいえ、強度っぽいものが、ドゥルーズのテクストにはある。
メンヘラに惚れて自分もメンヘラになってしまうってのは、よくある話。まさしく転移。
三浦雅士という評論家が、「評論家(読者)がする行為とは、読解というより、感応である」みたいなことを述べていた。ここでは、「読む行為とは、解釈機械の作動というより、強度の丘を感応することである」と読み替えてみよう。
強度の丘に感応するために、解釈機械は作動しているのか。多くの精神分析家はそうかもしれないが、わたしの場合は否、と答える。感応が原因となって解釈機械が作動しているのか、という問いには、一面はそうだが一面は違う、と答える。感応が、様々な刺激の一原因として作用しているのは確かであろう。しかし、感応したせいで、解釈機械が作動しているわけではない。
わたしの解釈機械は、わたしでありわたしじゃないものの、それこそ宇宙的システムの一部として作動している、というデムパ的表現でしか言えない。解釈機械で生産される解釈やその他諸々のものが、目的なのではない。他者の充実身体の強度に対する感応だけが、原因なのではない。そいつは、わたしの中の強度も喰らっている。わたしの言葉は、機械の生産品なんかではない。分裂症者の症状は、機械の生産品なんかではない。それは、むしろ排便というシステムに近い。この方が、生産品などという資本主義的フェティシスムの文脈から逃れられている、と事後的に思った。生産されたものとしての「糞便」あるいは「吐瀉物」ならば、ファルスの換喩として固定化され難い。この強度の丘をピン止めするならば、そういったピンを、わたしは用いる。それを「機械」や「工場」などと美化=フェティッシュ化させてしまうドゥルーズ=ガタリこそが、ケガレが見えていないオイディプスなのだ。
隠喩ではなく、わたしのエクリチュールは、糞便である。
わたしは、この記事などで、神という言葉を吐いているが、わたしを救済するのは神であって、人間ではない。少なくとも、お前という人間ではない。現世利益求めるなら密教行け密教。
「自分は神になってはいないか」「神ではない自分がする救済など、所詮人を傷つけるだけではないか」こんな簡単な問いを感知できない人間こそが、獣である。自分が獣になっていることに気づけないのが、本質的な獣である。
帝国主義は植民地を救済しようとしていたのだ。帝国主義者はそう言うだろう。非サバルタンの暴力とは、そういうものなのだ。
本質的被権力者の姿を、心の理論や超自我などといったフィルターで歪曲してしまう。自分と同じ本質的権力者だと見做してしまう。結果、自分が無意識の内に行使している権力に気づけない。周りが同じナイフを持っているから、自分もナイフを持っていることに気づけない。その手にしているものがナイフであることに気づけない。これこそが、本質的権力者が本質的権力者足り得る条件なのだ。
自分をヤマアラシだと自覚してヤマアラシを抱くわたしは、そんな奴ら「アホか」と呆れるだけだけどね。突っ込むのすら可哀相だ。特に定型的な男の子だとここらへん鈍感になるのは仕方ないよねー、ぐらいには思ってる。うふふ。
神の現出は圧倒的である。不合理的である。不合理ということは、必然的に驚愕を伴う。何故なら不合理故予測できないからだ。予測、予知していた神の現出など、ヌミノースとしては低レベルなものである。それは神などではなくこっくりさんである。ただ、それが余りにも圧倒的かつ驚愕的であるため、その経験自体によって記憶が書き換えられ、事後的に「わたしはそれを予感していました」などと「言わされる」ことはある。事後的に構造を付加させて「しまう」のだ。ユングの言う共時性である。むしろそのケースが一般的即ち定型的であろう。象徴的ファルスの隠喩作用によって、その経験はそういう歴史に再構成されてしまうのだ。
ヌミノースとは、戦慄的あるいは魅力的なものである。クリステヴァ論といとも簡単に繋がる。おぞましくも魅惑的な、両価的なものがアブジェクシオンだからである。まるで仕組まれたかのように、ヌミノースという概念に、正確に言えばその裏側に、導かれる。
よってわたしは、クリステヴァ論における表側を、想像的父即ちアガペーを否認する。わたしは神の現出と、精神病による幻覚や薬物による幻覚とを別物に扱わない。それらは現実的に同じ現象だからである。しかしわたしのひきつけは神の現出などではない。自閉症者が生きる世界は神が住まう世界などではない。ただの「現実(リアル)」である。神の現出と幻覚を分かつものこそが、本質的権力者の条件たる象徴的ファルスである。
その証拠を挙げてみよう。定型人即ち本質的権力者の前に神が現出すれば、彼は象徴的ファルスを神と措定する。象徴的ファルスを神というシニフィアンに書き換えることで、「父の名」という欠如が排除される。彼はめでたくパラノイアの世界に迎え入れられる。専制君主的な充実身体を与えられる。天使たちの賛歌の内に。エヴァンゲリオン最終回の「おめでとう」という拍手の内に。ともかく、こういった過程で、キリスト教という歴史は、様々なサバルタンの歴史を書き換え焼却していったのだ。これは批判ではなく、事実である。現代キリスト教においては、わたしはむしろそのことに開き直って欲しい。旧約聖書にあるような、冷酷で身勝手で厳格な父を取り戻して欲しい。愛や聖霊などのせいで劣化してしまった父を再び勃起させて欲しい。聖女テレジアを貫いたあの熱く激しい男根を復活させて欲しい。そんなことはどうでもいい。
象徴的ファルスを疑えない者ほど、即ち定型人ほど、狂人の世界に神を見出したがる。一方、狂人は、神と距離を置くことでしか、自らのささやかなファルスを、本質的権力者部分を保護できない。即ち正常人部分を保持できない。
非定型人であればあるほど、神の現出を否定しなければならない。政治的に、社会的に、ささやかながらも正常人であるため。だからわたしは無神論者である。わたしが神を認めると、多分すんなりとパラノイアになるだろう。たやすく専制君主的身体を得られるだろう。つーか今でさえうっすら自罰パラノイアっぺえじゃん。あーあ(香ばしいアヴァン・ポップ文学者とやらの言葉のエコラリア)。
劣化の否認という神経症領域を軽々と飛び越え、劣化と劣化の排除を往復してしまうのが、妄想分裂態勢の回帰である。だからわたしは劣化はして「しまう」ものという現実の立場を取る。故に劣化の存在を認知できる。おんたこウイルスを完全に排除した世界など幻想に過ぎないと暴露できる。おんたこウイルスを否認するババアのおんたこさを告発できる。自分の言葉でオタク文化に特徴的なおんたこ症状を分析できる。
現実界寄りの視点では、美化とは隠蔽になる。隠蔽こそが劣化となる。そこでは、化粧は糞便となる。ドゥルーズ=ガタリが批判している通りだ。
本質的権力者たちはきらきらした目でこちらを見る。こちら側の糞便を化粧としてしか見えていない。こちら側を語る言葉は露悪主義と呼ばれ棄却され改竄される。「神は神でも多神教的神だ」などと言い訳しても、きらきらした目には変わりはない。わたしにとってそれは、エサを前にした肉食動物の涎に見える。吐き気すら覚える。その目こそが、わたしにとってナイフなのだ。まばゆい光の中に刃のきらめきを隠しているだけである。
くすくすくす……。
なんだろうにやにや笑いが止まらない。面白い。定型人ってなんて滑稽なんだろう。この記事とかどこの小学生向けギャクマンガだろうって思う。B級ゾンビ映画みたいだ。あ、そういうのも嫌いじゃないよ。
バカ(このババア自分で自分をそう表現してた)で固定観念ばりばりで本質的権力者な人間って救いようないよね。あ、だから他人を救いたがるのか。自分をシモンに喩えたりできるんだな。自分は救われていると思っているから。その救いに胡散臭さを、疑いを感じられない鈍感者だから。
B級人間がA級ぶるのほど面白いものはない。級外の立場から言わせてもらうと。
いいねえ。幸せそうな人生だ。そりゃー神の現出が三度もあった人は幸せだろう。そんなんを神だと信じられる鈍感さが既におんたこ症状の一つだと気づかないのだろう。筋金入りの「救われたと思い込みたがり屋」だねえ。だからそんなただの幻想で他人を救いたがるのだね。ただの精神病や薬物による幻覚と変わらないものを、ホームレスに食事を振る舞うがごとく他人に投げつけてくるわけだね。ああ面白いなあ定型人の精神構造って浅はかで。話だけ聞いてればそんなレベルですらない低級ヌミノースにしか思えないけど。こっくりさんやってて自殺した女子高生と同レベル。まあ実際は知らない。それ以前に三回も出てきてくれるような劣化した神なんて正直興味ない。ちっちゃなちんちんでいいならそこら辺に転がっている。
低級ヌミノースしか知らないから、わたしのような「ご病気の人」を排除したがるのだね。なんとなくわかってきたよ。ツレション天使たちの心理。
ひふひひひ。
そうそうなんか予告しとくと、笙野の言うフェティッシュな、ファクティッシュって表現のが正しいんじゃないか、みたいな論を書いているけど書き上げるかは不明。オタクたちの同じフィギュアを三つ買うとかっていうフェティッシュと、笙野が祈りの際握る小石というファクティッシュ。
構造としての現実(リアリティ)という共同幻想を強化するための呪物か、生々しい現実(リアル)から救われようと構築する跳躍的幻想のための呪物か。
多数の呪物に溢れ返る現代社会で、他の幻想と連結するための呪物か、生々しい自然に囲まれた未開文明で、ささやかな構造を維持するための一抹の呪物か。
同じ言語を用いる社会の中で、ノエマ的自己が安定しているポスト・フェストゥムが求める量産的呪物か、言語が異なる社会に放り込まれ、ノエマ的自己が不安定になったアンテ・フェストゥムが求める生産的呪物か。
どちらも同じ呪物である。幻想のスイッチであり、幻想そのものでもある。どちらとも、物自体なんかではない。フェティッシュもファクティッシュも現実的には同じものだ。使用場面が異なるだけ。道具なんだから使用場面で別物になるのも当たり前。彫刻刀で目玉をくり抜く。場面や視点によって、それが芸術表現(表象代理)か殺人(生々しいケガレ)かに変わるだけ。
ラカンの三界で考えたら少し理解し難いことかもしれない。「想像界と象徴界/現実界」という視点を取らないと。かといって現実界なんて到達不可能な領域なわけだから、この視点を純粋に取るのは不可能となる。ヌミノースじゃないけれど、不合理的なもの、非想像的なもの、という否定神学的理屈を取らざるを得ない。純粋な器官なき身体など不可能だということだ。かといって純粋な身体なき器官も不可能なんだけど。ラカンならメビウスの輪になるのかね。要するに「想像界と象徴界/現実界」の「/」は原理的に不確定だってこと。
不可能だから、会話とは、コミュニケーションとは、出会いとは、尽きることがないという意味で、理不尽なのだ。
あーなんか概要説明できたんで書く気失せた。
あー……ホントくだんねえな。カス人間って。こんなん殺しても享楽になんねえよ。幻想どっぷりに生きている人間を肉体的に殺しても、共同幻想の一部の破壊でしかない。すぐまたそこに別の人間が当てはまるだけ。幻想は再構築されるだけ。自動で自律修復されるだけ。
そんなんじゃ、現実界的な生産にならない。
お前たちの殺したいものは、肉体の中にだけあるものではない。精神と肉体が絡み合ったものの内にある。幻想に塗れた現代では、肉体的傷害より、精神的傷害の方が、快楽ではなく享楽に触れられる近道かもしれない。現代思想において精神障害者にヌミノースを見出したがる傾向と合致することかもしれない。きらきらした目の原因かもしれない。
肉体を傷つけるより、心を傷つける方が、お前たちが望むものを得られるだろう。お前たちは生産し生産されるだろう。この文章において、わたしは、傷つけ傷つけられるのが自分か他人かは区別していない。その意味がわかる人間に向けて言っている。全ての人間に具わっている器官なき身体に向けて言っている。全ての人間に具わっている身体なき器官を攻撃してしまう運命について述べている。お前たちの運命を切り刻んでいる。傲慢なアドバイスをしている。命令でも構わない。
お前たちは、傲慢なわたしを攻撃するもよい。ケガレた自分を攻撃するもよい。無差別に攻撃するもよい。神を攻撃するもよい。まやかされるな。そんなのは、定型人による、中央集権政府による区別に過ぎない。差別に過ぎない。区別も差別も変わりない。まやかしが事実だ。ファクティッシュだ。だからなんでもいいのだ。なんでもいいことが、現実(リアル)からの火花を生む。精神分析という幻想の中の、うめきや叫びは、そうやって生じる。
それが、なんでもよくない倫理のヘソの緒だ。獣と人間の差異の成立条件だ。獣と人間を癒着させる神話の洞窟だ。非対称性と対称性を離接させるものだ。
破壊と構築のせめぎ合いこそが、享楽なのだ。
強度や丘という言葉は、硬度や高度を連想させるから、正直違和感がある。
せめぎ合い、火花、痙攣、うめき……、ああ、言語ってくだらない。
いろいろ飽きてきたわ。飽きてるから可笑しいのか。くだらなくて可笑しい。サイバラ漫画が言語の本性だとすら思う。笙野作品は(本当の文学ではなく)文学の本性だと言える。だからゾンビロボットみたいなババアが自分の劣化した神を笙野の金毘羅に投影させるのを見ていると、腹立たしくてしょうがない。腹立たしくありたい。飲み込むことに合意されるとそれは金毘羅である必要がなくなる。ただの資本主義的交通システムとなる。わたしが笙野の行間に投影させている「何か」も劣化する。わたしの「何か」におんたこウイルスが伝染する。蝿になりたがる蛆虫が笙野作品を本当の文学に仕立て上げようとする。器官なき身体にとっては劣化(隠蔽)である昇華を施そうとする。わたしはいつまでたっても消化できない。笙野作品はトラウマ的なものであり続ける。あ、いいのかそれで。なーんだ君たちもちゃんと役に立ってるじゃん。わたしの神の。かといってわたしは神自体を擁護できない。正常人でありたいから。ぎりぎりでも。情動的に無神論の立場を取る。だから「何か」と言った。だから最近オカシクなっている。
あーいやババアだけのせいじゃないけどね。自意識過剰そうだから一応断っといてあげよう。
サイバラのユリイカ特集号とかはあーユリイカだしとか思えたんだけどなあ。サイバラ作品には思想のシの字もないからかなあ。どうでもいい表面的差異に過ぎないのかなあ。ああそうそうサイバラの出身校ではこっくりさんを校則で禁じているらしい。こっくりさんやってて自殺した生徒がいるんだとよ。一方ババアはキリスト教系の学校に通っていたそうだ。そんな違いなのかなあ。比喩的に。わたしゃわたしで理系脳だしなあ。
……痛みはいつまでたっても痙攣にならない。トラウマであり続ける。神は鉄槌を振り下ろしてくれない。魔女は生き続ける。神は、わたしにとって常に手の届かないところにいる。
夢で感じる痛みこそが、世界の痛みなのに。神からのモールス信号なのに。夢はすぐ「現実(リアリティ)」という幻想になる。「現実(リアル)」には届かない。肉体的だろうが精神的だろうが関係ないのだ。痛みは痛みだ!
……夢の痛み。
わたしは母と寝ている。わたしは人形であり、母だ。母は父だった。父は人形を愛撫する。父あるいは母の指が、わたしの肛門を貫く。貫いた分、下腹部が盛り上がる。ペニスだ。ペニスは指だった。亀頭は頭だった。ヴァギナは口だった。口は宇宙だった。宇宙は肛門だった。鼻糞は惑星だった。
これが、母が父がわたしが人形が指が肛門が下腹部がペニスが亀頭が頭がヴァギナが口が宇宙が、ヌーメンとやらではないのか? お前たちの言うヌーメンはただのザーメンになってはいないか? ティッシュに包まれて捨てられるものに落ちぶれてはいないか? キンタマを握り潰されて萎縮しているだけではないのか? 断頭という幻想で子宮が摘出されているだけはないのか? 惑星という鼻糞になりたがってはいないか?
わたしたちは、本当にガタリの言う「生産」がわかっているのか?
わたしにとっては、幻想も物自体も、身体なき器官も器官なき身体も、ヌーメンでさえも、ただの悪意である。
火花こそが、わたしの器官であり身体だ。隠喩ではなく。この文章は、鼻糞でよい。隠喩として。
目糞鼻糞。くすくすくす……。
ドゥルーズ=ガタリは、精神分析のやっていることを、欲望機械の一種という意味で、解釈機械であると述べた。言い得て妙である。精神分析家が「分析においては、欲望の存在は認めこそすれ、欲望の介入があってはならない」と言いたがる精神構造をうまく言い当てている。欲望的なものを露出するようなものじゃない意味としての機械。だけど欲望機械の一種に過ぎない機械。
解釈機械も、生産機械である。解釈は、何かしらの真理を解き明かすものではない。何かしらの生産が生じるだけのものである。解釈とは、必ず真理を追究する手段でなければならない、という定型人の固定観念は、どこから生じているのだろう? いつも不思議に思う。
少なくともわたしは、言葉の裏にある真理を解き明かそうとして、オタク文化やBLファンや心理カウンセラーや笙野頼子やアスペルガー症候群者やスキゾイドや女性などという、様々な対象を解釈しているわけではない。特にブログ初期の頃の文章はよく誤解されがちだが、一般の読者には馴染みの浅い学術的用語を多用しているせいか、「なんらかの解答を与えてくれる文章」として読まれることが多かった。それらの記事の批判も、行間にそういったものを感じるものが多かった。
別に、わたしの文章になんらかの解答を見出そうとして読んでくれるのは、全然構わない。ただ、わたしの方が、なんらかの解答を読者に与えようとして書いているわけではない、というだけのことだ。
ではなんのために書いているのか? と聞かれるのもよくわからない。与えるものじゃないとしても、とにかく解答に突き進むのが論文というものである、という固定観念には、わたしは捕らえられていない。そういう言い方ならば、むしろ既存の解答を揺るがす目的で書いている、と言えるだろう。即ち、読者に疑問を生じさせるために書いている、と。しかし、他人からそう指摘されたならば、「違う」と答える。わたしはただ書きたいから書いているだけだ、と反論する。
厳密に言えば、それは、自分の文章を事後的に解釈してそう言っているだけであり、確かにその行間に解答ではなく疑問を生じさせる印象はあるかもしれないが、わたしにとってそれは副産物である。生産機械が生産する生産品以外のものである。
しかし欲望機械とは、ある生産品を生産する目的で存在するのではない。欲望、即ちこの場合、「わたしは書きたいから書いている」だけに過ぎない。これを欲望機械と呼ぶならば、何か決まった生産品を生産する機械ではないことがわかる。その生産品は、全て副産物なのだ。ラインに乗って形成される自動車部品も、その過程で生じる熱や騒音や不良品や労働者の労働や製造装置の故障も、全て等しく生産品であり副産物なのである。
欲望機械とは、そういう機械である。
受取手が、それらの総体を、ゴミやアクシデントや不良品や正規の生産品に分別するのみである。この分別機械こそが、解釈機械である、とも言えよう。
欲望機械に、自らに都合のいい品だけを生産させようとすることが、欲望の抑圧なのである。そこから生じた様々な生産品を材料にして、別の欲望機械が作動し、また熱や騒音や不良品や労働者の労働や製造装置の故障を生産する。それが、ディスクールというものである。
表現者や書き手だけが、欲望機械なのではない。受取手や読者も、欲望機械なのだ。即ち、このブログを読んでいるあなたも。読んでいるという行為自体が、欲望機械の作動なのだ。
受取手が、様々な生産品の中から、自分に有用な生産品を欲するならば、受取手の欲望機械を作動させなければならない。その一つの形態として、精神分析などという差異化の機能に優れた解釈機械があるだけである。わたしはその機械を、まさに「道具として」用いているのである。
人形が、生産するのではない。人形は、破壊もしない。人形を見つめる人間たちが、その欲望機械が、何かしらのものを生産あるいは破壊するのである。
生産されたものなど、それを生産する欲望機械そのものにとっては、それほど重要ではない。むしろ、人形にとってそれは、ひび割れた箇所から漏れ出る、どろどろした汚らしいものだったりもする。受取手の分別機械が分別できない「何か」。欲望機械にインプットされる時点で棄却されてしまう「何か」。それを見て人形はこう言うだろう。
「コンナモノ、ワタシジャナイ」
『アンチ・オイディプス』は、劇場と工場を対比させる。オイディプスのような物語化あるいは美化された構造の象徴としての劇場と、物語化や美化といった隠蔽がないものとしての工場と、という意味で。そういった意味では同意できる。
とはいえ、実際劇場でスタッフをやっていた人間から言えば、この表現は、いきなり中学生の感想文レベルの神経症的行間がぽっこりと現れているように見えて、とても可笑しい。ユーモアとしてならちょっと評価する。劇場とかじゃなく社交界とか言っとけば理屈的にはすっきりするのにしないところがまたいい。文芸的に見るなら、あまりにも定型的構造に縛られ過ぎている比喩と言える。そこがカワイイ。
演じる側にとっては、劇場内こそが、様々な隠蔽のない、狂気的な、充実身体的な、露悪的な空間である。そこでは、スタッフも役者も演出家もみんな狂人である。それは実際に演劇に関わらないとわからないことだ。アルトーが何故演劇というシニフィアンを選択したのか。理屈ではなく体感として納得できないだろう。ドゥルーズ=ガタリはそれを体感できていない。
一方、製造業にいたので工場もよく知っている。製造機械の現実がどういうものかも知っている。そんなわたしから見れば、工場の中の光景の方こそが、マニュアルや生産ラインなどという意味で物語的であり、不良品即ちケガレを棄却するシステムという意味で美化された空間である。生産機械に分別機械を連結固定させしまっているのが工場なのだ。即ち、工場という総体で見るならば、それは欲望の抑圧機構でもあると言えるわけだ。コンタミなどという言葉を知っているのだろうか? ドゥルーズ=ガタリは。
強度の丘は、むしろ劇場の中にある。袖幕の向こうに。奈落の底に。セリフを間違えた役者の汗に。他の観客の体臭に。野外演劇で、豪雨に塗れる役者と観客。雷が落ち、予期せぬ暗転に襲われる空間。静謐な能楽堂の中、催眠術を解く合図のように響く「破」の動作……。そういったひび割れから滲み出るものが、観客という分別機械との間に、火花を起こす。充実身体は、情動という作動油に滑りながら、劇場という世界を横断する。劇場機械は、うなりを上げて、リアルに身を震わせる。
工場に、このうなりはあるだろうか? いやあるのだ。それを制御するのが生産技術という仕事だ。機械をなだめ命令通りに動くように仕向けるのが彼らの役割だ。生産は統御される。欲望は抑圧される。労働者というオイディプスたちは、火花を嫌う。そういった意味では、「分析家は欲望の存在を認めながら、分析に欲望を介入させてはならない」と述べる精神分析こそが、工場であると言える。象徴的ファルスという規格品を生産する工場だ。分析家のディスクールとはそういうものである。分析家たちは、工場になりたがっている。
『アンチ・オイディプス』は、あまりにもオイディプス的に、劇場の表層しか見ていなかった。所詮彼らは、現場を知らない設計者に過ぎなかった。観客の立場に固着するオイディプス。客席から出たがらないオイディプス。プロセニアムアーチという父に圧倒されるオイディプス。ラカンならば、主人のディスクールにおける、S2即ち奴隷。S1即ちプロセニアムアーチという物言わぬ主人の意を、十全に汲み取って働く労働者。
正直言って、ドゥルーズ=ガタリという語る主体は、あまりにも、一般的な意味での、文芸的センスがなさ過ぎる。比喩がベタ過ぎる。定型人的過ぎる。
ベタ、即ちそこから連鎖する隠喩構造が貧弱であっても、それが強度の丘をピン止めするものならばいいのだ。それこそアルトーのような。しかしそれも彼らには感じられない。分裂症を語っているのに生々しさが欠けている。強度の丘を求めて、分裂分析という概念をこしらえたり挑発的な文体にしているのだろうが、そういった領域は文芸のオハコである。彼らがそのテクストで見せたかったものは、理屈じゃないところの、まさしく彼らが言及しているアルトーやプルーストが示差した文芸的なものだったように思える。
しかし、これは誠に遺憾なことなのだが、彼らには(一般的な意味でもアルトー的な意味でも)文芸的センスが皆無であった。
主体を揺るがすという意味で、分裂分析の方向と同期する文芸作品は、確かに存在する。作家で言うなら、アルトーなりジュネなりセリーヌなりデュラスなり笙野頼子なり車谷長吉なり……。
科学文明を生きる非サバルタンが、未開文明を生きるサバルタンを語ろうとすると、必ずサバルタンに都合の悪いように解釈される。『アンチ・オイディプス』はその好例である。
とはいえ、多かれ少なかれ、書物という形態を取っている限り、その語る主体は非サバルタンとなって「しまう」。それは事実である。ただそうである事実。何故なら、非サバルタンとサバルタンを分かつのは、言語構造の軸として構造総体を固定化させるファルスの強弱だからである。よって、言語を用いている限り、その語る主体には、非サバルタン即ち本質的権力者の要素が、常にこびりついてしまう。
よって、レヴィ=ストロースなどの研究も、等しく「科学文明を生きる非サバルタンが、未開文明を生きるサバルタンを語ろうとすると、必ずサバルタンに都合の悪いように解釈され」てしまった一例と言える。それはもう、言語を用いるという選択肢を取った時点で、抗えないことなのだ。言語を、左脳的処理としての象徴化という意味でのシニフィアンにまで拡大したならば、もはや人間には避けられない業である、と言える。むしろ犬や猫にさえもわずかながらに見られるかもしれない原罪である。象徴化という知恵の実を食べた人間は、構造化された積み木の城の中でしか生きられない。楽園から落とされた世界が、まさしくコンクリートジャングルだったのだ。
構造は、生々しさを捉えられない。いくら高層ビルを建てても、楽園には届かない。しかし、構造と生々しさの間に、火花は生じる。避雷針に導かれて、雷は落ちる。
こういった領域において、ドゥルーズが、レヴィ=ストロースより唯一確実に勝っている点がある。
それは、ドゥルーズの死に様である。
このアクティングアウトを、彼の名前というシニフィアンに文脈的に付加させて読むならば、その文芸センスのなさは、カバーされる。
彼の充実身体は、その死に様によって、事後的に強度を得た。しかし現実に死んでしまっているのだから、その強度は、常に既に幻想化する。彼は、その死に様によって、強度の丘を示すことができたとも言えよう。同時に、定型的な世界においては、常に既に幻想化してしまうため、『アンチ・オイディプス』が一番伝えたかった相手であろうオイディプスたちには、示すことができなかったと言える。これは批判ではない。強度の丘なりという現実界的なものを、言語的なものを道具にしてコミュニケートさせることを、わたしは笙野頼子の言葉から拝借して「祈り」と表現するが、祈りは、届いた方がいいに決まっているが、届かせることを目的とした言葉ではないからである。『アンチ・オイディプス』が示そうとした祈りが届いていないことにより、むしろ彼らが理屈的に示す専制君主的なものに対する告発が、より一層空恐ろしいもの、現実的なものとして、わたしの前に立ち現れる。確かに現在では言語狩り的にエディプスコンプレックスという言葉を聞かなくなった。しかしそれが『アンチ・オイディプス』が求めていたことではない。むしろ彼らが告発しようとしたものは、彼ら自身の著作ですら一因となって、現代でも増長し続けているように、わたしには思える。
ガタリはわからないが、少なくともドゥルーズは、ラカンのように、ハイウェイをぶっ飛ばし続けた方がよかったのかもしれない。彼自身にとって。宝の地図を取り返そうとして、彼は退行してしまったのだ。それ故、幻想であるとはいえ、強度っぽいものが、ドゥルーズのテクストにはある。
メンヘラに惚れて自分もメンヘラになってしまうってのは、よくある話。まさしく転移。
三浦雅士という評論家が、「評論家(読者)がする行為とは、読解というより、感応である」みたいなことを述べていた。ここでは、「読む行為とは、解釈機械の作動というより、強度の丘を感応することである」と読み替えてみよう。
強度の丘に感応するために、解釈機械は作動しているのか。多くの精神分析家はそうかもしれないが、わたしの場合は否、と答える。感応が原因となって解釈機械が作動しているのか、という問いには、一面はそうだが一面は違う、と答える。感応が、様々な刺激の一原因として作用しているのは確かであろう。しかし、感応したせいで、解釈機械が作動しているわけではない。
わたしの解釈機械は、わたしでありわたしじゃないものの、それこそ宇宙的システムの一部として作動している、というデムパ的表現でしか言えない。解釈機械で生産される解釈やその他諸々のものが、目的なのではない。他者の充実身体の強度に対する感応だけが、原因なのではない。そいつは、わたしの中の強度も喰らっている。わたしの言葉は、機械の生産品なんかではない。分裂症者の症状は、機械の生産品なんかではない。それは、むしろ排便というシステムに近い。この方が、生産品などという資本主義的フェティシスムの文脈から逃れられている、と事後的に思った。生産されたものとしての「糞便」あるいは「吐瀉物」ならば、ファルスの換喩として固定化され難い。この強度の丘をピン止めするならば、そういったピンを、わたしは用いる。それを「機械」や「工場」などと美化=フェティッシュ化させてしまうドゥルーズ=ガタリこそが、ケガレが見えていないオイディプスなのだ。
隠喩ではなく、わたしのエクリチュールは、糞便である。
わたしは、この記事などで、神という言葉を吐いているが、わたしを救済するのは神であって、人間ではない。少なくとも、お前という人間ではない。現世利益求めるなら密教行け密教。
「自分は神になってはいないか」「神ではない自分がする救済など、所詮人を傷つけるだけではないか」こんな簡単な問いを感知できない人間こそが、獣である。自分が獣になっていることに気づけないのが、本質的な獣である。
帝国主義は植民地を救済しようとしていたのだ。帝国主義者はそう言うだろう。非サバルタンの暴力とは、そういうものなのだ。
本質的被権力者の姿を、心の理論や超自我などといったフィルターで歪曲してしまう。自分と同じ本質的権力者だと見做してしまう。結果、自分が無意識の内に行使している権力に気づけない。周りが同じナイフを持っているから、自分もナイフを持っていることに気づけない。その手にしているものがナイフであることに気づけない。これこそが、本質的権力者が本質的権力者足り得る条件なのだ。
自分をヤマアラシだと自覚してヤマアラシを抱くわたしは、そんな奴ら「アホか」と呆れるだけだけどね。突っ込むのすら可哀相だ。特に定型的な男の子だとここらへん鈍感になるのは仕方ないよねー、ぐらいには思ってる。うふふ。
神の現出は圧倒的である。不合理的である。不合理ということは、必然的に驚愕を伴う。何故なら不合理故予測できないからだ。予測、予知していた神の現出など、ヌミノースとしては低レベルなものである。それは神などではなくこっくりさんである。ただ、それが余りにも圧倒的かつ驚愕的であるため、その経験自体によって記憶が書き換えられ、事後的に「わたしはそれを予感していました」などと「言わされる」ことはある。事後的に構造を付加させて「しまう」のだ。ユングの言う共時性である。むしろそのケースが一般的即ち定型的であろう。象徴的ファルスの隠喩作用によって、その経験はそういう歴史に再構成されてしまうのだ。
ヌミノースとは、戦慄的あるいは魅力的なものである。クリステヴァ論といとも簡単に繋がる。おぞましくも魅惑的な、両価的なものがアブジェクシオンだからである。まるで仕組まれたかのように、ヌミノースという概念に、正確に言えばその裏側に、導かれる。
よってわたしは、クリステヴァ論における表側を、想像的父即ちアガペーを否認する。わたしは神の現出と、精神病による幻覚や薬物による幻覚とを別物に扱わない。それらは現実的に同じ現象だからである。しかしわたしのひきつけは神の現出などではない。自閉症者が生きる世界は神が住まう世界などではない。ただの「現実(リアル)」である。神の現出と幻覚を分かつものこそが、本質的権力者の条件たる象徴的ファルスである。
その証拠を挙げてみよう。定型人即ち本質的権力者の前に神が現出すれば、彼は象徴的ファルスを神と措定する。象徴的ファルスを神というシニフィアンに書き換えることで、「父の名」という欠如が排除される。彼はめでたくパラノイアの世界に迎え入れられる。専制君主的な充実身体を与えられる。天使たちの賛歌の内に。エヴァンゲリオン最終回の「おめでとう」という拍手の内に。ともかく、こういった過程で、キリスト教という歴史は、様々なサバルタンの歴史を書き換え焼却していったのだ。これは批判ではなく、事実である。現代キリスト教においては、わたしはむしろそのことに開き直って欲しい。旧約聖書にあるような、冷酷で身勝手で厳格な父を取り戻して欲しい。愛や聖霊などのせいで劣化してしまった父を再び勃起させて欲しい。聖女テレジアを貫いたあの熱く激しい男根を復活させて欲しい。そんなことはどうでもいい。
象徴的ファルスを疑えない者ほど、即ち定型人ほど、狂人の世界に神を見出したがる。一方、狂人は、神と距離を置くことでしか、自らのささやかなファルスを、本質的権力者部分を保護できない。即ち正常人部分を保持できない。
非定型人であればあるほど、神の現出を否定しなければならない。政治的に、社会的に、ささやかながらも正常人であるため。だからわたしは無神論者である。わたしが神を認めると、多分すんなりとパラノイアになるだろう。たやすく専制君主的身体を得られるだろう。つーか今でさえうっすら自罰パラノイアっぺえじゃん。あーあ(香ばしいアヴァン・ポップ文学者とやらの言葉のエコラリア)。
劣化の否認という神経症領域を軽々と飛び越え、劣化と劣化の排除を往復してしまうのが、妄想分裂態勢の回帰である。だからわたしは劣化はして「しまう」ものという現実の立場を取る。故に劣化の存在を認知できる。おんたこウイルスを完全に排除した世界など幻想に過ぎないと暴露できる。おんたこウイルスを否認するババアのおんたこさを告発できる。自分の言葉でオタク文化に特徴的なおんたこ症状を分析できる。
現実界寄りの視点では、美化とは隠蔽になる。隠蔽こそが劣化となる。そこでは、化粧は糞便となる。ドゥルーズ=ガタリが批判している通りだ。
本質的権力者たちはきらきらした目でこちらを見る。こちら側の糞便を化粧としてしか見えていない。こちら側を語る言葉は露悪主義と呼ばれ棄却され改竄される。「神は神でも多神教的神だ」などと言い訳しても、きらきらした目には変わりはない。わたしにとってそれは、エサを前にした肉食動物の涎に見える。吐き気すら覚える。その目こそが、わたしにとってナイフなのだ。まばゆい光の中に刃のきらめきを隠しているだけである。
くすくすくす……。
なんだろうにやにや笑いが止まらない。面白い。定型人ってなんて滑稽なんだろう。この記事とかどこの小学生向けギャクマンガだろうって思う。B級ゾンビ映画みたいだ。あ、そういうのも嫌いじゃないよ。
バカ(このババア自分で自分をそう表現してた)で固定観念ばりばりで本質的権力者な人間って救いようないよね。あ、だから他人を救いたがるのか。自分をシモンに喩えたりできるんだな。自分は救われていると思っているから。その救いに胡散臭さを、疑いを感じられない鈍感者だから。
B級人間がA級ぶるのほど面白いものはない。級外の立場から言わせてもらうと。
いいねえ。幸せそうな人生だ。そりゃー神の現出が三度もあった人は幸せだろう。そんなんを神だと信じられる鈍感さが既におんたこ症状の一つだと気づかないのだろう。筋金入りの「救われたと思い込みたがり屋」だねえ。だからそんなただの幻想で他人を救いたがるのだね。ただの精神病や薬物による幻覚と変わらないものを、ホームレスに食事を振る舞うがごとく他人に投げつけてくるわけだね。ああ面白いなあ定型人の精神構造って浅はかで。話だけ聞いてればそんなレベルですらない低級ヌミノースにしか思えないけど。こっくりさんやってて自殺した女子高生と同レベル。まあ実際は知らない。それ以前に三回も出てきてくれるような劣化した神なんて正直興味ない。ちっちゃなちんちんでいいならそこら辺に転がっている。
低級ヌミノースしか知らないから、わたしのような「ご病気の人」を排除したがるのだね。なんとなくわかってきたよ。ツレション天使たちの心理。
ひふひひひ。
そうそうなんか予告しとくと、笙野の言うフェティッシュな、ファクティッシュって表現のが正しいんじゃないか、みたいな論を書いているけど書き上げるかは不明。オタクたちの同じフィギュアを三つ買うとかっていうフェティッシュと、笙野が祈りの際握る小石というファクティッシュ。
構造としての現実(リアリティ)という共同幻想を強化するための呪物か、生々しい現実(リアル)から救われようと構築する跳躍的幻想のための呪物か。
多数の呪物に溢れ返る現代社会で、他の幻想と連結するための呪物か、生々しい自然に囲まれた未開文明で、ささやかな構造を維持するための一抹の呪物か。
同じ言語を用いる社会の中で、ノエマ的自己が安定しているポスト・フェストゥムが求める量産的呪物か、言語が異なる社会に放り込まれ、ノエマ的自己が不安定になったアンテ・フェストゥムが求める生産的呪物か。
どちらも同じ呪物である。幻想のスイッチであり、幻想そのものでもある。どちらとも、物自体なんかではない。フェティッシュもファクティッシュも現実的には同じものだ。使用場面が異なるだけ。道具なんだから使用場面で別物になるのも当たり前。彫刻刀で目玉をくり抜く。場面や視点によって、それが芸術表現(表象代理)か殺人(生々しいケガレ)かに変わるだけ。
ラカンの三界で考えたら少し理解し難いことかもしれない。「想像界と象徴界/現実界」という視点を取らないと。かといって現実界なんて到達不可能な領域なわけだから、この視点を純粋に取るのは不可能となる。ヌミノースじゃないけれど、不合理的なもの、非想像的なもの、という否定神学的理屈を取らざるを得ない。純粋な器官なき身体など不可能だということだ。かといって純粋な身体なき器官も不可能なんだけど。ラカンならメビウスの輪になるのかね。要するに「想像界と象徴界/現実界」の「/」は原理的に不確定だってこと。
不可能だから、会話とは、コミュニケーションとは、出会いとは、尽きることがないという意味で、理不尽なのだ。
あーなんか概要説明できたんで書く気失せた。
あー……ホントくだんねえな。カス人間って。こんなん殺しても享楽になんねえよ。幻想どっぷりに生きている人間を肉体的に殺しても、共同幻想の一部の破壊でしかない。すぐまたそこに別の人間が当てはまるだけ。幻想は再構築されるだけ。自動で自律修復されるだけ。
そんなんじゃ、現実界的な生産にならない。
お前たちの殺したいものは、肉体の中にだけあるものではない。精神と肉体が絡み合ったものの内にある。幻想に塗れた現代では、肉体的傷害より、精神的傷害の方が、快楽ではなく享楽に触れられる近道かもしれない。現代思想において精神障害者にヌミノースを見出したがる傾向と合致することかもしれない。きらきらした目の原因かもしれない。
肉体を傷つけるより、心を傷つける方が、お前たちが望むものを得られるだろう。お前たちは生産し生産されるだろう。この文章において、わたしは、傷つけ傷つけられるのが自分か他人かは区別していない。その意味がわかる人間に向けて言っている。全ての人間に具わっている器官なき身体に向けて言っている。全ての人間に具わっている身体なき器官を攻撃してしまう運命について述べている。お前たちの運命を切り刻んでいる。傲慢なアドバイスをしている。命令でも構わない。
お前たちは、傲慢なわたしを攻撃するもよい。ケガレた自分を攻撃するもよい。無差別に攻撃するもよい。神を攻撃するもよい。まやかされるな。そんなのは、定型人による、中央集権政府による区別に過ぎない。差別に過ぎない。区別も差別も変わりない。まやかしが事実だ。ファクティッシュだ。だからなんでもいいのだ。なんでもいいことが、現実(リアル)からの火花を生む。精神分析という幻想の中の、うめきや叫びは、そうやって生じる。
それが、なんでもよくない倫理のヘソの緒だ。獣と人間の差異の成立条件だ。獣と人間を癒着させる神話の洞窟だ。非対称性と対称性を離接させるものだ。
破壊と構築のせめぎ合いこそが、享楽なのだ。
強度や丘という言葉は、硬度や高度を連想させるから、正直違和感がある。
せめぎ合い、火花、痙攣、うめき……、ああ、言語ってくだらない。
いろいろ飽きてきたわ。飽きてるから可笑しいのか。くだらなくて可笑しい。サイバラ漫画が言語の本性だとすら思う。笙野作品は(本当の文学ではなく)文学の本性だと言える。だからゾンビロボットみたいなババアが自分の劣化した神を笙野の金毘羅に投影させるのを見ていると、腹立たしくてしょうがない。腹立たしくありたい。飲み込むことに合意されるとそれは金毘羅である必要がなくなる。ただの資本主義的交通システムとなる。わたしが笙野の行間に投影させている「何か」も劣化する。わたしの「何か」におんたこウイルスが伝染する。蝿になりたがる蛆虫が笙野作品を本当の文学に仕立て上げようとする。器官なき身体にとっては劣化(隠蔽)である昇華を施そうとする。わたしはいつまでたっても消化できない。笙野作品はトラウマ的なものであり続ける。あ、いいのかそれで。なーんだ君たちもちゃんと役に立ってるじゃん。わたしの神の。かといってわたしは神自体を擁護できない。正常人でありたいから。ぎりぎりでも。情動的に無神論の立場を取る。だから「何か」と言った。だから最近オカシクなっている。
あーいやババアだけのせいじゃないけどね。自意識過剰そうだから一応断っといてあげよう。
サイバラのユリイカ特集号とかはあーユリイカだしとか思えたんだけどなあ。サイバラ作品には思想のシの字もないからかなあ。どうでもいい表面的差異に過ぎないのかなあ。ああそうそうサイバラの出身校ではこっくりさんを校則で禁じているらしい。こっくりさんやってて自殺した生徒がいるんだとよ。一方ババアはキリスト教系の学校に通っていたそうだ。そんな違いなのかなあ。比喩的に。わたしゃわたしで理系脳だしなあ。
……痛みはいつまでたっても痙攣にならない。トラウマであり続ける。神は鉄槌を振り下ろしてくれない。魔女は生き続ける。神は、わたしにとって常に手の届かないところにいる。
夢で感じる痛みこそが、世界の痛みなのに。神からのモールス信号なのに。夢はすぐ「現実(リアリティ)」という幻想になる。「現実(リアル)」には届かない。肉体的だろうが精神的だろうが関係ないのだ。痛みは痛みだ!
……夢の痛み。
わたしは母と寝ている。わたしは人形であり、母だ。母は父だった。父は人形を愛撫する。父あるいは母の指が、わたしの肛門を貫く。貫いた分、下腹部が盛り上がる。ペニスだ。ペニスは指だった。亀頭は頭だった。ヴァギナは口だった。口は宇宙だった。宇宙は肛門だった。鼻糞は惑星だった。
これが、母が父がわたしが人形が指が肛門が下腹部がペニスが亀頭が頭がヴァギナが口が宇宙が、ヌーメンとやらではないのか? お前たちの言うヌーメンはただのザーメンになってはいないか? ティッシュに包まれて捨てられるものに落ちぶれてはいないか? キンタマを握り潰されて萎縮しているだけではないのか? 断頭という幻想で子宮が摘出されているだけはないのか? 惑星という鼻糞になりたがってはいないか?
わたしたちは、本当にガタリの言う「生産」がわかっているのか?
わたしにとっては、幻想も物自体も、身体なき器官も器官なき身体も、ヌーメンでさえも、ただの悪意である。
火花こそが、わたしの器官であり身体だ。隠喩ではなく。この文章は、鼻糞でよい。隠喩として。
目糞鼻糞。くすくすくす……。