「殺したいから殺した」
2008/06/21/Sat
あーなるほどねー。
正直今は器官なき身体お休み中。抑圧機械がわたしの欲望を抑圧している。
だから文章も書けない。こういう時にはむしろ幻想構築して「欲望の介入をさせない」精神分析家ごっこするのも楽しいかもしれない。
うぜー。めんどー。
あー秋葉原事件ね。加藤容疑者ネットで神呼ばわりだと。どこよ? ってヒサブリにぬ速見てた。ほへーん。
正直、宅間事件でもそうだが、こういった事件になんでみんなこんなにも欲望できるのだろう? と思う。
欲望とは、伴う情動が好きか嫌いかなんて関係ない。加藤の行為を称賛するも批判するも関係ない。わたしから見れば、みんな等しく「加藤のしたこと」に強い興味抱いている、ということになる。ここでの欲望という言葉は興味を抱くという意味に捉えた方がいいかもしれない。
いやいいんだ。確かにラカン的享楽を主題にした作品なんだから。世の中に流布している「加藤事件」は、一つの芸術作品として理解されねばならない。そういう解釈をしないと、何故これほど多数の人間が注目しているのかが説明できない。
わたしは、殺された人間に知り合いはいなかったし、加藤自体も知り合いじゃないし、アキバなんて街に思い入れはない。
加藤本人や、被害者や被害者の関係者や、秋葉原に店を構える経営者などの方が、テレビで見ただけのわたしたちなんかより、よっぽどこの事件について欲望しているだろう。
事件についての欲望度は、恐らく、
加藤本人=被害者>被害者の関係者>警察=目撃者>秋葉原という街に関係する人たちとか諸々=マスコミ≧テレビで見ただけのわたしたち、
みたいな感じになるだろうか。
警察は、欲望の抑圧システムとして、犯罪というシニフィアンにぶら下がるものに欲望を向かわせるものだから、そこら辺にしといた。
正直、テレビで見ただけの事件について、加藤を称賛したり批判したり被害者に同情したり社会の歪みを見出したりしているのがわからない。
加藤事件について、欲望剥き出しで語る奴ほど定型人だ、と思う。定型人たちにとっては、いい欲望のガス抜き穴だったのだろう。欲望を固定的に抑圧されているのが定型人なわけだから。
加藤を称賛する2ちゃんねらーも同様である。「加藤称賛なんてネタだろネタwww」とも言えなくもない。しかし一部の板では、派遣という労働形態に関する限りでは、別な本音が書かれている。要するに、「派遣の待遇の悪さは社会的問題だ。加藤の行為は、この問題を社会に浮上させたのだ」という理屈で、加藤を称賛しているのが多い。社会や政治に一石を投じたから「神」なわけだ。
これらのことから、加藤事件に欲望している者の多くが、称賛であれ批判であれ、社会や政治という人間の集合体に欲望を固定された、定型人=神経症者=オイディプスたちであることがわかるだろう。
わたしはむしろ、加藤事件を取り巻く定型人たちの集団心理学的症状に欲望している。
加藤事件なんてそもそもどうでもいい。とかいうと、定型人の中でも定型人度が強い人間は、「被害者家族に失礼な態度だ」とか言ってくるが、わたしの情動をお前に指図される謂れはない。そういった言葉には、他人の情動が、自分が考える通りの構造でないと気が済まない、という権力者的あるいはパラノイアックな欲望が働いている。「お前自身やお前の家族が被害者だったら、とか考えてみろ」という理屈も理解できない。何故なら、加藤事件においては、わたしやわたしの家族が被害者だったわけではないからだ。ここでも、他人の想像を、自分の思い通りに構築させたい、という支配者的欲望が表れている。
とはいえそんな言葉に対し、想像しないという反応も否認的であるため、一応想像してなくはない。正直に答えるなら、「そんなものなってみないとわからない」である。
わたしは、塾の講師や学校の教師や先輩や会社の同僚や劇団の後輩など(親族は除外した)、「あんたって葬式づいてるねえ」と親に言われたほど、小さい頃から人の死に関わってきた。知人だけではなく、祖父の職業柄、他人の死とも近い位置にいたかもしれない。そのどれもどのケースもどの瞬間でも、別々の情動が浮かんだ。普通に葬式の時に悲しくなった時もあれば、通夜や葬式は取り立てて何もなかったのに、数ヵ月後、何がきっかけかわからないけど、ふわっとその死に感応し抑鬱モードに入ったこともある。
もっと小さい頃は、その人の死より、周りのロボットのような反応が怖くて泣きわめいたりした。それは今でもある。その怖れを抑えようと、葬式でのわたしは、沈痛な面持ちとなる。
わたしはむしろ、人の死より、人の死が惹起する集団的な何かに、目が向いてしまう。人の死という祭祀に群がる衆人のぎらぎらした目が、わたしを取り囲んでいる。先にも書いただろう。
「わたしはむしろ、加藤事件を取り巻く定型人たちの集団心理学的症状に欲望している。」
「人が死んだら悲しまなくてはならない。遺族の気持ちになって考えなくてはならない」
多分、定型人の集合体、即ち精神的中央集権政府の、もっとも強い権力が行使されているのは、この辺りだと思う。
そもそも、「他人の気持ちになって考えろ」という言葉こそが、もっとも本質的被権力者を、サバルタンを傷つけるナイフである。この言葉は、「他人の気持ちに自分の想像的な気持ちを押しつけている」のであり、神経症者=定型人=本質的権力者が、無意識的に行っている暴力である。何故なら、本質的被権力者は、押しつけられるほど自分の気持ちを固定化できていないからだ。確定的に認知できないからだ。
人間は他人なんかになれない。その気持ちを、完全に理解することはできない。当然の話だ。それを前提として、「他人の気持ちをわかれ」と言っている、という反論があり得るだろう。
よろしい。
定型人が言う「他人の気持ちをわかれ」というのは、完全にわかるはずがない、という前提で述べられていることとしよう。
ならば、「他人の気持ちをわかる」こととは、その気持ちを劣化させることにはならないか? 完全にわかるはずがないのだろう? であるならば、「わかった気になった」他人の気持ちなど、現実の他人の気持ちから見ると、劣化に他ならないではないか。
劣化されてもいい、それよりも、人は気持ちをわかって欲しいのだ。
なるほど。定型人というものは、そういう思考様式なのか。
わたしは、わたしの気持ちを、他人に劣化などされたくない。完全に理解できない他人なんかに、わたしの気持ちなどわかって欲しくはない。いやわかって欲しい。だけどそれが劣化だとわたしは知っている。劣化されたわたしの気持ちが、フィードバックされてわたしを締めつける。
劣化されようともわかって欲しい、などという言葉は、鈍感だから言えるのだろう。何故なら、劣化されたものは、自分に返ってくるからだ。共鳴するように、わたしの気持ちは劣化していく。完全に理解できない他人のせいで。
だからわたしは、被害者家族の気持ちなど、わかろうと思わない。
被害者が知り合いであれば、関わろうとするかもしれない。それは慰めという言葉で美化された劣化だと知りつつ。わかって欲しい、わかりたい、からではない。それは、わたしがその知り合いを欲望しているからである。知り合いという主体を欲望しているから、その主体の一部である人の死という祭祀を、劣化させたくなる。隠蔽したくなる。
わたしも、劣化させたくなる時はあるだろう。そんな時は、祭祀を欲情した目で見つめる「衆人」になんかではなく、完全ではないにしろわたしを理解していてくれる「誰か」に、劣化してもらう。いなかったら仕方ない。そもそも、それは「誰か」でなくてもいい。ただの物でもいい。断片でもいい。断片になると、劣化は劣化とならなくなりそうではあるが。
定型人は、「気持ちの資本家」である。劣化されようとも、気持ちをわかってくれる他人の数が増殖することを望んでいる。常に多数派でいたがっている。加藤の言い分、「ワイドショーで有名になりたかった」と何が違うのか。やり方が違うだけである。法律という倫理ではないただのルールに許されているかどうかである。倫理とは現実界と繋がってなくてはならない。現代社会の倫理は繋がっていない。加藤の行為を、称賛するにしても批判するにしても、同じことなのである。社会などといった「定型人の集合体」が基準になっており、それが加藤の精神構造と類似のものであるのに、衆人は「わたしは加藤とは違う」と確信を持って言えるのだ。彼らの倫理は、現実界から乖離しているという意味で、劣化している。倫理が元来持っている冷酷さ身勝手さ厳格さを、隠蔽し劣化させた、ただのルールとしての法律によって、罪と罰が決まる。
この「定型人の集合体」は、加藤本人の気持ちも抑圧する。殺害の理由に、様々な幻想を付加させる。それはそれでよいのだ。気持ちなど劣化するものだから。わたしも精神分析を学んでいるのであるから、加藤の精神状態について、なんらかの幻想を付加してもよい。わたしが楽しければそうやってもよい。今はそういう気になっていない。だからしない。
しかし、完全にはわからなくとも、現実的なものとして、気持ちの本質的なところにあるものを、わたしは知っている。それは、適当に表現してよいのならば、こんな言葉で表されるか。
「殺したいから殺した」
である。
加藤の犯行について、様々な理由や目的を騙る言葉が、二次的な幻想としてぶら下がっている。派遣という職種の待遇の悪さが問題だっただの、社会的に負け組だっただの、家庭環境が問題だったの、女性に振られただの。
それらも、完全に理解できないという前提を考えるなら、他人の気持ちを解釈するものとして、ありだろう。わたしは解釈するななどと言うつもりはない。
しかし、それらの言葉は、わたしには、「殺したいから殺した」という本質を、隠蔽したがっているようにしか見えないのだ。わたしにはそれは、人の死という祭祀に欲情する自分を誤魔化しているように見える。自分も一度は誰かを殺したいと思ったことについての言い訳のように見える。共同幻想の、自律的な自動修復機能のように思える。共同幻想が、その破壊された一部を自己修復しようと、合意できる答えを探しているように思える。本質を探るための解釈ではなく、合意を目的として、それは行われている。
派遣という職種の待遇の悪さだの、社会的に負け組だっただの、家庭環境の問題だの、女性に振られただのは、「何故殺したいか」の理由や原因ではない。「殺したいから」が、本質に親近する原因なのだ。それを結果に逆転させるのが、定型人の暴力なのだ。
人がなんらかの症状や行為を起こす理由や原因やきっかけは、一つではない。一つに確定できない。様々なところにあるものを、仮に確定して学問的に演繹するのもよかろう。ただし、加藤が非定型人だったならば、それらは定型人に理解されないものとなる、というだけの話である。
この「殺したい」という欲望は、人間ならば普遍的に誰でも持っているものだと思える。人間誰しも一度はそういう欲望を持ったことがあるだろう。
だから、わたしはそれを「本質的なところにある」原因と表現したのだ。
わたしは正直言うと、加藤本人にはそれほど興味が引かれない。さらっと知った情報によるならば、定型人だと思う。以前わたしは、主体の中には正常人と狂人両方が住んでいると書いたが、押し殺していた狂人が間欠泉のように噴き出した、というあまりにも聞きなれた解釈になるだろう。とってもつまらない解釈に。書く方もである。なのでわたしの解釈機械は作動しないが、もし作動したならば、この「殺したいから」という原因を本質に据えて語るだろう。資料さえ整ってれば。少なくとも、「殺したい」という欲望の存在を認めているわたしならば、語れる。「殺したいから殺した」というアクティングアウトを、ジャーゴンでロジカルにデコレートできる。そうした方が、読者という解釈機械は作動しやすいだろう。材料が豊富になるのだから。
だけどしない。何故なら、「どうでもいい話だから」。資料というかデータすら集めてないし。
加藤本人より、彼を見つめる定型人の集合体に目が行ってしまうわたしのことだ。解釈機械を作動させても、この記事のように、人の死という祭祀に欲情する衆人たちの解釈に、いつの間にやらなってしまうだろう。
別にそれなら書く気も起きるかもしれないが、今はやる気ない。いろいろと。
この「殺したい」という欲望が本質的なのは、(ラカン的な意味での)享楽に近い領域にあるからだ。むしろ、この享楽が人類に普遍だからこそ、人の死という祭祀に人は群がって「しまう」のだ。「殺したいけど実際に殺すのは生々しくて怖いから、その隠蔽として加藤事件に興味を持った」という定型人たちより、「殺したいから殺した」という加藤の方が正直であったとすら言える。
しかし、享楽という極点をもって考えるならば、加藤の今回の行為は、享楽として甘いと言わざるを得ない。何故なら、「殺そうと思って殺した」からである。殺す瞬間、殺した後のことを想像して、彼はそれを行為した。享楽は、予測されると享楽足り得ない。ヌミノースと同じである。こういう理屈で、敬虔な享楽主義者であるわたしは、自殺も享楽度を下げてしまう行為だと考えている。それと同じ理屈で、加藤の行為は、加藤にとって享楽度は低かったと解釈できる。むしろ、突然襲われた被害者たちの方に、それは強い強度を持って立ち現れたであろう。精神分析的にわかりやすく言うならば、幸運にも怪我で済んだ被害者たちにとって、程度の差はあれども、この事件はトラウマとなったであろう。享楽がトラウマを生むのだ。心的外傷というジャーゴンは、享楽の一側面を説明している。
補足するならば、享楽的な領域にある「殺したい」という欲望は、「殺されたい」と混淆している。殺したい殺されたいのが自分か他人か固定化されていないのが、享楽である。比喩的に言えば心中なのである。ただ、自分を軸として考える定型人の世界から見ると、享楽という極点に辿り着く道程は、「他人を殺したい」と「他人に殺されたい」という大体二つに分けられる、という話である。ラカン論では、前者をファルス的享楽と呼び、後者を他者の享楽と呼ぶ。
だが、繰り返しになるが、この区分は定型人視点のものである。故に、その視点を放棄して(分裂症者視点で)理屈を構築したドゥルーズ=ガタリ論ならば、享楽とは、強度の丘などという言葉に読み替えられる。
人の死とは享楽である、などという言葉は、定型人の固定観念的に許されないものであろうから、強度の丘の方が言葉として使いやすいかもしれない。定型人視点では、「殺す」という言葉に象徴されているように、享楽とは一面として確かに破壊を意味するが、ドゥルーズ=ガタリに言わせると、スピノザ的に生産となる。ラカン的には、神経症者の主観世界(象徴界的あるいは想像界的なるもの)の死的破壊は、到達不可能な現実界から何かが回帰することになる、みたいな文章になろうか。
ドゥルーズ=ガタリ論は、あたかも定型人たちに気を遣いまくっているようだ。いや、確かに定型人に反論する際、有効な言い方だろうけど。道具としては認められる。
とはいえ、彼ら自身は、非定型人視点で述べているつもりかも知れないが、定型人側から非定型人側即ち狂人側をきらきらした目で見ている行間になっているのは、こういったところにも表れている、などと情動的にケチをつけてしまいたくなる。ドゥルーズ=ガタリ論の方が、定型人は合意しやすいのだ。ラカンよりドゥルーズ=ガタリの方が、自らの視点を定型人側に保ちたがっている。理屈ではなく、文芸的な読みにおいて。理屈的には、逆精神分析を標榜するわたしの理屈体系と寄り添えるであろうが、わたしは情動的にそれを拒否する。
「わかったような口聞いてんじゃねえ。狂人になりたい正常人ごときが」
先にわたしは、「むしろわたしは人の死という祭祀に群がる衆人に欲望している」と書いた。しかしそれは、衆人になりたがっているのではない。衆人を、円形劇場の客席を、パフォーマンスを包囲する人垣を、破壊したがっているのだ。定型人の集合体たる共同幻想を、定型人一人一人に具わっている同型の固定観念を、殺したがっている。
しかし、この文章では、大した傷にならないかもしれない。むしろ共同幻想を、固定観念を助長する作用もあるかもしれない。
それでいいのだ。
共同幻想や固定観念を破壊するものとして、一面的に読まれることこそが、わたしの恐れることだからである。わたしにも固定観念を、倫理や道徳を、ツレションルールを守ろうとする定型人部分がある。
こんな文章を書くことで、固定観念から外れたわたしと、固定観念に縛られたわたしが、コミュニケーションしている。爪とメスで切り裂いているような、生々しいコミュニケーションが、そこにはある。
加藤ではなく、そこに群がる欲情した獣たちに対峙して、わたしの器官なき身体は震えている。享楽の予兆に。
断っておくが、人の死が全て享楽になるというわけではない。享楽とは全て人の死であるというわけではない。器官なき身体を、定型的な機械で覆い尽くした主体は、たとえ人の死を目の前にしても、誰かを殺しても、誰かに殺されかけても、享楽を味わえないかもしれない。そんな主体は、きっと、自分の死の瞬間においてでしか、享楽に触れられないだろう。
しかし、逆の言い方もできる。たとえば、機械が定型的ではない(粗密が激しい)自閉症者たちを考えてみたい。彼らにとっては、人の死によって、享楽によって、定型のヒントを、心の理論のささやかな概要を、知ることができるのかもしれない。日常的な時間軸において数年後という遅れを伴ったとしても。そう、ドナ・ウィリアムズのように。
科学のゆりかごに守られた現代社会では、想像的象徴的問わず、様々な隠蔽が施され、享楽を味わい難くなっている。そんなことにも気づけない主体が、定型人が、神経症者が、ほとんどであり、多数派の権力を握っているのである。
ただそうである事実を、わたしは述べているのだ。この文章は、批判というより、露悪主義的な暴露に近い。
……充実身体が元気だと、医学的健康は損なわれる。これマジ。医学的健康が、わたしの充実身体を抑制する。ありがたやありがたや。
まーそんな場繋ぎ的記事でしたっと。
ノーステイルをぼちぼちやっとりま。息抜きにゃいーねこれ。絵もそこそこ。
某レベルの時空の石につまずいてますが。
正直今は器官なき身体お休み中。抑圧機械がわたしの欲望を抑圧している。
だから文章も書けない。こういう時にはむしろ幻想構築して「欲望の介入をさせない」精神分析家ごっこするのも楽しいかもしれない。
うぜー。めんどー。
あー秋葉原事件ね。加藤容疑者ネットで神呼ばわりだと。どこよ? ってヒサブリにぬ速見てた。ほへーん。
正直、宅間事件でもそうだが、こういった事件になんでみんなこんなにも欲望できるのだろう? と思う。
欲望とは、伴う情動が好きか嫌いかなんて関係ない。加藤の行為を称賛するも批判するも関係ない。わたしから見れば、みんな等しく「加藤のしたこと」に強い興味抱いている、ということになる。ここでの欲望という言葉は興味を抱くという意味に捉えた方がいいかもしれない。
いやいいんだ。確かにラカン的享楽を主題にした作品なんだから。世の中に流布している「加藤事件」は、一つの芸術作品として理解されねばならない。そういう解釈をしないと、何故これほど多数の人間が注目しているのかが説明できない。
わたしは、殺された人間に知り合いはいなかったし、加藤自体も知り合いじゃないし、アキバなんて街に思い入れはない。
加藤本人や、被害者や被害者の関係者や、秋葉原に店を構える経営者などの方が、テレビで見ただけのわたしたちなんかより、よっぽどこの事件について欲望しているだろう。
事件についての欲望度は、恐らく、
加藤本人=被害者>被害者の関係者>警察=目撃者>秋葉原という街に関係する人たちとか諸々=マスコミ≧テレビで見ただけのわたしたち、
みたいな感じになるだろうか。
警察は、欲望の抑圧システムとして、犯罪というシニフィアンにぶら下がるものに欲望を向かわせるものだから、そこら辺にしといた。
正直、テレビで見ただけの事件について、加藤を称賛したり批判したり被害者に同情したり社会の歪みを見出したりしているのがわからない。
加藤事件について、欲望剥き出しで語る奴ほど定型人だ、と思う。定型人たちにとっては、いい欲望のガス抜き穴だったのだろう。欲望を固定的に抑圧されているのが定型人なわけだから。
加藤を称賛する2ちゃんねらーも同様である。「加藤称賛なんてネタだろネタwww」とも言えなくもない。しかし一部の板では、派遣という労働形態に関する限りでは、別な本音が書かれている。要するに、「派遣の待遇の悪さは社会的問題だ。加藤の行為は、この問題を社会に浮上させたのだ」という理屈で、加藤を称賛しているのが多い。社会や政治に一石を投じたから「神」なわけだ。
これらのことから、加藤事件に欲望している者の多くが、称賛であれ批判であれ、社会や政治という人間の集合体に欲望を固定された、定型人=神経症者=オイディプスたちであることがわかるだろう。
わたしはむしろ、加藤事件を取り巻く定型人たちの集団心理学的症状に欲望している。
加藤事件なんてそもそもどうでもいい。とかいうと、定型人の中でも定型人度が強い人間は、「被害者家族に失礼な態度だ」とか言ってくるが、わたしの情動をお前に指図される謂れはない。そういった言葉には、他人の情動が、自分が考える通りの構造でないと気が済まない、という権力者的あるいはパラノイアックな欲望が働いている。「お前自身やお前の家族が被害者だったら、とか考えてみろ」という理屈も理解できない。何故なら、加藤事件においては、わたしやわたしの家族が被害者だったわけではないからだ。ここでも、他人の想像を、自分の思い通りに構築させたい、という支配者的欲望が表れている。
とはいえそんな言葉に対し、想像しないという反応も否認的であるため、一応想像してなくはない。正直に答えるなら、「そんなものなってみないとわからない」である。
わたしは、塾の講師や学校の教師や先輩や会社の同僚や劇団の後輩など(親族は除外した)、「あんたって葬式づいてるねえ」と親に言われたほど、小さい頃から人の死に関わってきた。知人だけではなく、祖父の職業柄、他人の死とも近い位置にいたかもしれない。そのどれもどのケースもどの瞬間でも、別々の情動が浮かんだ。普通に葬式の時に悲しくなった時もあれば、通夜や葬式は取り立てて何もなかったのに、数ヵ月後、何がきっかけかわからないけど、ふわっとその死に感応し抑鬱モードに入ったこともある。
もっと小さい頃は、その人の死より、周りのロボットのような反応が怖くて泣きわめいたりした。それは今でもある。その怖れを抑えようと、葬式でのわたしは、沈痛な面持ちとなる。
わたしはむしろ、人の死より、人の死が惹起する集団的な何かに、目が向いてしまう。人の死という祭祀に群がる衆人のぎらぎらした目が、わたしを取り囲んでいる。先にも書いただろう。
「わたしはむしろ、加藤事件を取り巻く定型人たちの集団心理学的症状に欲望している。」
「人が死んだら悲しまなくてはならない。遺族の気持ちになって考えなくてはならない」
多分、定型人の集合体、即ち精神的中央集権政府の、もっとも強い権力が行使されているのは、この辺りだと思う。
そもそも、「他人の気持ちになって考えろ」という言葉こそが、もっとも本質的被権力者を、サバルタンを傷つけるナイフである。この言葉は、「他人の気持ちに自分の想像的な気持ちを押しつけている」のであり、神経症者=定型人=本質的権力者が、無意識的に行っている暴力である。何故なら、本質的被権力者は、押しつけられるほど自分の気持ちを固定化できていないからだ。確定的に認知できないからだ。
人間は他人なんかになれない。その気持ちを、完全に理解することはできない。当然の話だ。それを前提として、「他人の気持ちをわかれ」と言っている、という反論があり得るだろう。
よろしい。
定型人が言う「他人の気持ちをわかれ」というのは、完全にわかるはずがない、という前提で述べられていることとしよう。
ならば、「他人の気持ちをわかる」こととは、その気持ちを劣化させることにはならないか? 完全にわかるはずがないのだろう? であるならば、「わかった気になった」他人の気持ちなど、現実の他人の気持ちから見ると、劣化に他ならないではないか。
劣化されてもいい、それよりも、人は気持ちをわかって欲しいのだ。
なるほど。定型人というものは、そういう思考様式なのか。
わたしは、わたしの気持ちを、他人に劣化などされたくない。完全に理解できない他人なんかに、わたしの気持ちなどわかって欲しくはない。いやわかって欲しい。だけどそれが劣化だとわたしは知っている。劣化されたわたしの気持ちが、フィードバックされてわたしを締めつける。
劣化されようともわかって欲しい、などという言葉は、鈍感だから言えるのだろう。何故なら、劣化されたものは、自分に返ってくるからだ。共鳴するように、わたしの気持ちは劣化していく。完全に理解できない他人のせいで。
だからわたしは、被害者家族の気持ちなど、わかろうと思わない。
被害者が知り合いであれば、関わろうとするかもしれない。それは慰めという言葉で美化された劣化だと知りつつ。わかって欲しい、わかりたい、からではない。それは、わたしがその知り合いを欲望しているからである。知り合いという主体を欲望しているから、その主体の一部である人の死という祭祀を、劣化させたくなる。隠蔽したくなる。
わたしも、劣化させたくなる時はあるだろう。そんな時は、祭祀を欲情した目で見つめる「衆人」になんかではなく、完全ではないにしろわたしを理解していてくれる「誰か」に、劣化してもらう。いなかったら仕方ない。そもそも、それは「誰か」でなくてもいい。ただの物でもいい。断片でもいい。断片になると、劣化は劣化とならなくなりそうではあるが。
定型人は、「気持ちの資本家」である。劣化されようとも、気持ちをわかってくれる他人の数が増殖することを望んでいる。常に多数派でいたがっている。加藤の言い分、「ワイドショーで有名になりたかった」と何が違うのか。やり方が違うだけである。法律という倫理ではないただのルールに許されているかどうかである。倫理とは現実界と繋がってなくてはならない。現代社会の倫理は繋がっていない。加藤の行為を、称賛するにしても批判するにしても、同じことなのである。社会などといった「定型人の集合体」が基準になっており、それが加藤の精神構造と類似のものであるのに、衆人は「わたしは加藤とは違う」と確信を持って言えるのだ。彼らの倫理は、現実界から乖離しているという意味で、劣化している。倫理が元来持っている冷酷さ身勝手さ厳格さを、隠蔽し劣化させた、ただのルールとしての法律によって、罪と罰が決まる。
この「定型人の集合体」は、加藤本人の気持ちも抑圧する。殺害の理由に、様々な幻想を付加させる。それはそれでよいのだ。気持ちなど劣化するものだから。わたしも精神分析を学んでいるのであるから、加藤の精神状態について、なんらかの幻想を付加してもよい。わたしが楽しければそうやってもよい。今はそういう気になっていない。だからしない。
しかし、完全にはわからなくとも、現実的なものとして、気持ちの本質的なところにあるものを、わたしは知っている。それは、適当に表現してよいのならば、こんな言葉で表されるか。
「殺したいから殺した」
である。
加藤の犯行について、様々な理由や目的を騙る言葉が、二次的な幻想としてぶら下がっている。派遣という職種の待遇の悪さが問題だっただの、社会的に負け組だっただの、家庭環境が問題だったの、女性に振られただの。
それらも、完全に理解できないという前提を考えるなら、他人の気持ちを解釈するものとして、ありだろう。わたしは解釈するななどと言うつもりはない。
しかし、それらの言葉は、わたしには、「殺したいから殺した」という本質を、隠蔽したがっているようにしか見えないのだ。わたしにはそれは、人の死という祭祀に欲情する自分を誤魔化しているように見える。自分も一度は誰かを殺したいと思ったことについての言い訳のように見える。共同幻想の、自律的な自動修復機能のように思える。共同幻想が、その破壊された一部を自己修復しようと、合意できる答えを探しているように思える。本質を探るための解釈ではなく、合意を目的として、それは行われている。
派遣という職種の待遇の悪さだの、社会的に負け組だっただの、家庭環境の問題だの、女性に振られただのは、「何故殺したいか」の理由や原因ではない。「殺したいから」が、本質に親近する原因なのだ。それを結果に逆転させるのが、定型人の暴力なのだ。
人がなんらかの症状や行為を起こす理由や原因やきっかけは、一つではない。一つに確定できない。様々なところにあるものを、仮に確定して学問的に演繹するのもよかろう。ただし、加藤が非定型人だったならば、それらは定型人に理解されないものとなる、というだけの話である。
この「殺したい」という欲望は、人間ならば普遍的に誰でも持っているものだと思える。人間誰しも一度はそういう欲望を持ったことがあるだろう。
だから、わたしはそれを「本質的なところにある」原因と表現したのだ。
わたしは正直言うと、加藤本人にはそれほど興味が引かれない。さらっと知った情報によるならば、定型人だと思う。以前わたしは、主体の中には正常人と狂人両方が住んでいると書いたが、押し殺していた狂人が間欠泉のように噴き出した、というあまりにも聞きなれた解釈になるだろう。とってもつまらない解釈に。書く方もである。なのでわたしの解釈機械は作動しないが、もし作動したならば、この「殺したいから」という原因を本質に据えて語るだろう。資料さえ整ってれば。少なくとも、「殺したい」という欲望の存在を認めているわたしならば、語れる。「殺したいから殺した」というアクティングアウトを、ジャーゴンでロジカルにデコレートできる。そうした方が、読者という解釈機械は作動しやすいだろう。材料が豊富になるのだから。
だけどしない。何故なら、「どうでもいい話だから」。資料というかデータすら集めてないし。
加藤本人より、彼を見つめる定型人の集合体に目が行ってしまうわたしのことだ。解釈機械を作動させても、この記事のように、人の死という祭祀に欲情する衆人たちの解釈に、いつの間にやらなってしまうだろう。
別にそれなら書く気も起きるかもしれないが、今はやる気ない。いろいろと。
この「殺したい」という欲望が本質的なのは、(ラカン的な意味での)享楽に近い領域にあるからだ。むしろ、この享楽が人類に普遍だからこそ、人の死という祭祀に人は群がって「しまう」のだ。「殺したいけど実際に殺すのは生々しくて怖いから、その隠蔽として加藤事件に興味を持った」という定型人たちより、「殺したいから殺した」という加藤の方が正直であったとすら言える。
しかし、享楽という極点をもって考えるならば、加藤の今回の行為は、享楽として甘いと言わざるを得ない。何故なら、「殺そうと思って殺した」からである。殺す瞬間、殺した後のことを想像して、彼はそれを行為した。享楽は、予測されると享楽足り得ない。ヌミノースと同じである。こういう理屈で、敬虔な享楽主義者であるわたしは、自殺も享楽度を下げてしまう行為だと考えている。それと同じ理屈で、加藤の行為は、加藤にとって享楽度は低かったと解釈できる。むしろ、突然襲われた被害者たちの方に、それは強い強度を持って立ち現れたであろう。精神分析的にわかりやすく言うならば、幸運にも怪我で済んだ被害者たちにとって、程度の差はあれども、この事件はトラウマとなったであろう。享楽がトラウマを生むのだ。心的外傷というジャーゴンは、享楽の一側面を説明している。
補足するならば、享楽的な領域にある「殺したい」という欲望は、「殺されたい」と混淆している。殺したい殺されたいのが自分か他人か固定化されていないのが、享楽である。比喩的に言えば心中なのである。ただ、自分を軸として考える定型人の世界から見ると、享楽という極点に辿り着く道程は、「他人を殺したい」と「他人に殺されたい」という大体二つに分けられる、という話である。ラカン論では、前者をファルス的享楽と呼び、後者を他者の享楽と呼ぶ。
だが、繰り返しになるが、この区分は定型人視点のものである。故に、その視点を放棄して(分裂症者視点で)理屈を構築したドゥルーズ=ガタリ論ならば、享楽とは、強度の丘などという言葉に読み替えられる。
人の死とは享楽である、などという言葉は、定型人の固定観念的に許されないものであろうから、強度の丘の方が言葉として使いやすいかもしれない。定型人視点では、「殺す」という言葉に象徴されているように、享楽とは一面として確かに破壊を意味するが、ドゥルーズ=ガタリに言わせると、スピノザ的に生産となる。ラカン的には、神経症者の主観世界(象徴界的あるいは想像界的なるもの)の死的破壊は、到達不可能な現実界から何かが回帰することになる、みたいな文章になろうか。
ドゥルーズ=ガタリ論は、あたかも定型人たちに気を遣いまくっているようだ。いや、確かに定型人に反論する際、有効な言い方だろうけど。道具としては認められる。
とはいえ、彼ら自身は、非定型人視点で述べているつもりかも知れないが、定型人側から非定型人側即ち狂人側をきらきらした目で見ている行間になっているのは、こういったところにも表れている、などと情動的にケチをつけてしまいたくなる。ドゥルーズ=ガタリ論の方が、定型人は合意しやすいのだ。ラカンよりドゥルーズ=ガタリの方が、自らの視点を定型人側に保ちたがっている。理屈ではなく、文芸的な読みにおいて。理屈的には、逆精神分析を標榜するわたしの理屈体系と寄り添えるであろうが、わたしは情動的にそれを拒否する。
「わかったような口聞いてんじゃねえ。狂人になりたい正常人ごときが」
先にわたしは、「むしろわたしは人の死という祭祀に群がる衆人に欲望している」と書いた。しかしそれは、衆人になりたがっているのではない。衆人を、円形劇場の客席を、パフォーマンスを包囲する人垣を、破壊したがっているのだ。定型人の集合体たる共同幻想を、定型人一人一人に具わっている同型の固定観念を、殺したがっている。
しかし、この文章では、大した傷にならないかもしれない。むしろ共同幻想を、固定観念を助長する作用もあるかもしれない。
それでいいのだ。
共同幻想や固定観念を破壊するものとして、一面的に読まれることこそが、わたしの恐れることだからである。わたしにも固定観念を、倫理や道徳を、ツレションルールを守ろうとする定型人部分がある。
こんな文章を書くことで、固定観念から外れたわたしと、固定観念に縛られたわたしが、コミュニケーションしている。爪とメスで切り裂いているような、生々しいコミュニケーションが、そこにはある。
加藤ではなく、そこに群がる欲情した獣たちに対峙して、わたしの器官なき身体は震えている。享楽の予兆に。
断っておくが、人の死が全て享楽になるというわけではない。享楽とは全て人の死であるというわけではない。器官なき身体を、定型的な機械で覆い尽くした主体は、たとえ人の死を目の前にしても、誰かを殺しても、誰かに殺されかけても、享楽を味わえないかもしれない。そんな主体は、きっと、自分の死の瞬間においてでしか、享楽に触れられないだろう。
しかし、逆の言い方もできる。たとえば、機械が定型的ではない(粗密が激しい)自閉症者たちを考えてみたい。彼らにとっては、人の死によって、享楽によって、定型のヒントを、心の理論のささやかな概要を、知ることができるのかもしれない。日常的な時間軸において数年後という遅れを伴ったとしても。そう、ドナ・ウィリアムズのように。
科学のゆりかごに守られた現代社会では、想像的象徴的問わず、様々な隠蔽が施され、享楽を味わい難くなっている。そんなことにも気づけない主体が、定型人が、神経症者が、ほとんどであり、多数派の権力を握っているのである。
ただそうである事実を、わたしは述べているのだ。この文章は、批判というより、露悪主義的な暴露に近い。
……充実身体が元気だと、医学的健康は損なわれる。これマジ。医学的健康が、わたしの充実身体を抑制する。ありがたやありがたや。
まーそんな場繋ぎ的記事でしたっと。
ノーステイルをぼちぼちやっとりま。息抜きにゃいーねこれ。絵もそこそこ。
某レベルの時空の石につまずいてますが。