「キモカワ」≠「キモチワルイ」+「カワイイ」
2008/06/23/Mon
某友人が、最近のわたしの文章傾向に何やらいかんともしがたい感情を抱いているらしく、別にそれはそれでいいのだが、前はよかったのだろうか? と疑問に思うところもなきにしもあらずなので、試しに定型人的なツレション的な自分を惹起させて、今日は書いてみようと思う。
最近、某ブログの影響か、ネトゲ関係の知識がわたしの中で急増している。個人的なネトゲバブルである。とはいえ、これまでネトゲを全くやってこなかった、というわけでもない。意外に思われるらしいが、数作品ほどについては、かなりやり込んでいた時期がある。
わたしは子供の頃から、ゲーム自体にそれほど興味を持たなかった。いや全く持たなかったわけではない。スーパーマリオぐらいならやった。海中の場面で必ず死んだ。だけど、わざわざ攻略本とか買って、無限1up技を会得したり、などというところまで行かなかった。女子に限ればむしろわたしレベルが普通ではないか、と思う。
そんなゲーム音痴が、ここ数年のネトゲに触れた時の、その衝撃を想像して欲しい。頭の中はスーパーマリオで時間が止まっているのである。ゲーム=ドット絵だったのである。ポリゴンって何? ってなもんである。「ちょ、何この映像……」ともなろう。
もちろん、CG技術などに関する知識は、一般レベルであるにはあったのだが、自分が操作できる映像として、こんなにも技術は進歩していたのか、というカルチャーショックを受けた。いやホントにびっくらこいたんだから。
ちょうど精神病んで会社クビになったぐらいのことだから、時間もありあまってたし、二作品ほどにはまった。廃人とは行かないまでも、廃人に近いレベルまでやり込んだ。
とはいえ、やり始めた頃は、ゲーム音痴丸出しだった。そのゲームに関する情報すらろくに収集せずにやっていた。
たとえばあるゲームでは、レベル10ぐらいになると、見習いから数種の職業に転職できるのだが、わたしはレベル15ぐらいまでそれを知らなかった。初めて他のプレーヤーとトレードした時、そのプレーヤーに「珍しいね」と笑われて、やっと気づいたのである。気のいいおっさんだった。実年齢で同じくらいだったし、なんとなく気が合い、その後もよくパーティを組んだ。まあこっちは年サバ読んでたが。そのゲームでは軍人をやっていた。今振り返ると、他のネトゲよりプレーヤーの年齢層が高いゲームであったように思う。
違うゲームでは、わたしは魔法使いをやっていたのだが、魔法(スキル)は、ドラクエのようにレベルが上がれば勝手に覚えるものだと思い込んでいて、「なかなか覚えないなあ」などと思いながら、杖で敵を殴り殺し続けていた。初めてパーティを組んで、わたしよりレベルの低いプレーヤーが、がんがんいろんな魔法を使っているのを見て、「あれ?」と気づいたのだ。何回目かのパーティを組んだ時、お調子者の魔法使いがいて、その人に聞いてみると、スキル屋というのが街にあって、そこでスキルを買うものだと初めて知った。パーティチャットは草(www)で溢れかえった。「わざとマゾプレイしているんだと思ってた」とか言われた。「ちぃ、『マゾプレイ』おぼえた」である。可哀相と思ったのか、その魔法使いは、パーティが解散した後も、街までついてきてくれて、スキル屋の場所を教えてくれた。スキルだけではなくいろんなことを教えてくれた。うざかった。その人とはそれっきりだった。
ネトゲだから笑い話になると言えばそうなのだが、わたしにとっては結構恥ずかしい思い出であるのでゲームタイトルは伏せておく。わかる人もいるかもしれんが。
これらのエピソードを違う視点で見ると、面白いことがわかる。
転職やスキルを覚えるのは、より楽にゲームを進めるためである。確かに見習いのままだと、受けられるクエストも装備できるアイテムも限定される。魔法使いなどという力のないキャラが、一体一体敵を殴り殺していくのなんてとても苦労する。まさに「マゾプレイ」である。実際わたしは、なんでこんなめんどくさい、マゾいことをやってられるのだろう? などと思いながらゲームをやっていた。
めんどくさかったら、苦痛であれば、やめればいいのである。フロイトの快楽原則に則るならばそうなるのである。でもわたしは、しみじみと不便なゲームをやり続けた。
ここに、わたしの粘着的な性格が表れている、とも言えるのだ。
この記事では、わたしのそんな性質が、某笙野ファンからキモチワルがらている。では何故、ネトゲのエピソードではそれが笑い話になるのだろう? と不思議に思う。
この二つのエピソードの差異は認知できる。それは、無知かどうかである。相手がわたしのことを無知だと思えるかどうか。
ネトゲのエピソードでは、明らかにわたしは無知な人間である。だから某笙野ファンのようにキモチワルくならず、笑い話になるのである。誤解を生むことを承知で端的に言うなら、わたしは「カワイイ」と思われたのであろう。それはそれでいいのだ。こんなわたしにだってカワイクありたい気持ちはあるのだ。バカにしないで欲しい。いや逆、バカにして欲しい。バカに思われたい。無知でいたい。いわゆる天然キャラでいたい。わたしは、断頭コンプレックスの存在を認知している。
一方、その笙野ファンとの関係性は、彼女との議論を見ていた人間なら知っていると思うが、わたしは初っ端からぶっ飛ばしていた。ラカンフロイトクラインクリステヴァなどという精神分析系の知識を軸に、様々な知識を援用して議論していた。こんなブログを書いているのだから、むしろわかりやすい態度である。
しかしわたしはこうも思う。その笙野ファンと議論していた数人が、ネトゲでわたしと出会っていたら、と。彼らはゲームwikiなどのページを見ながら、知識と行為を統合しながら、ゲームを進めていたであろう。知識と行為が、矛盾や遅延なく同期できるのが、定型人(正常人)の一つの傾向的な特徴である、とわたしは思っている。この記事にあるように、認知を含めた意味で行為を捉え直してみると、統合失調症とはむしろ運動(行為と言えよう)機能障害である、みたいな論があるが(わたしは一部ではあるが同意できる)、その辺りとも繋がることになろう。
ネトゲで彼らと出会っていたならば、わたしは彼らに「カワイイ」と思われていたように思う。
この「カワイイ」と思われるわたしも、「キモチワルイ」と思われるもわたしも、同じ「わたし」という存在である。わたしは無知でもあり該博でもある。わたしは別に「カワイイ」あるいは「キモチワルイ」と思われたくてそんな演技をしているのではない。無知でもあり該博でもあることを隠すわけではない。
とはいえもちろん隠したいと思う気持ちもある。「役者をやって世界が変わった」などと言うぐらいだから、演技をしていないわけではない。ネトゲでは「脂」などというキャラネームは使わない。誰にも言っていない。2ちゃんラウンジ板では違うコテでオフ会にも参加したことがあるが、その誰も、そのコテがこんなブログを書いているわたしであるとは思わないだろう。言えば「あーなんとなくわからなくもないw」ぐらいは言ってくるかもしれないが。だからわたしは、ラカン論における「隠蔽」や「父の名(欠如)」の意味も認知する。
わたしという存在は、無知でもあり該博でもありそれを隠したくもあり隠したくもない存在である。ただそうである存在を、他人が勝手に「カワイイ」と思ったり「キモチワルイ」と思ったりするだけのことである。わたしはただわたしであるだけである。正常人たちの世界では、「ご病気の人」は無知でなければ存在してはならないらしい、というだけの話である。
わたしは矛盾に満ちた存在である。「キモカワ」のごとく簡単に融合できるものではない。融合できない故、存在自体が苦痛になる。それが、「火花がわたしという器官であり身体だ」なり「物自体とは悪意である」という言葉で示差されている。わたしという存在は、「キモカワ」ではない。むしろ融合できないのがわたしである。
わたしは、「カワイイ」と思われることもあれば「キモチワルイ」と思われることもあるが、「キモカワ」ではない。
ただ、それだけのこと。そういう認知である、という話に過ぎない。
「ちぃ、『キモカワ』わからない。『キモイ』たす『カワイイ』? 『キモカワ』ひく『キモイ』? 『カワイイ』おぼえたら『カワイイ』ちがう。『カワイイ』おぼえられない。キモイ? カワイイ? キモ? カワ? カワキモ? カキワ? ワイイイ? キキワワイイ? モカキワカモイイ? ワイカキモモイワキイ? モキカワワイモイワキワカカキモカキキキキキキキキキキキキキ……」
ええ、『ちょびっツ』ぐらいチェックしてますよ。全部見たわけじゃありませんが。
「おまい、わたしが『ちょびっツ』視聴済みだと思ってるだろ?」
……あー自分がキメエ。
某ブログにリンクしていただいたせいか、ネトゲ系ブロガーの足跡がちょこちょこ見られるので、そういう媚び記事だと思ってくれれば。
キキモよりクエルノだろう、jk。
最近、某ブログの影響か、ネトゲ関係の知識がわたしの中で急増している。個人的なネトゲバブルである。とはいえ、これまでネトゲを全くやってこなかった、というわけでもない。意外に思われるらしいが、数作品ほどについては、かなりやり込んでいた時期がある。
わたしは子供の頃から、ゲーム自体にそれほど興味を持たなかった。いや全く持たなかったわけではない。スーパーマリオぐらいならやった。海中の場面で必ず死んだ。だけど、わざわざ攻略本とか買って、無限1up技を会得したり、などというところまで行かなかった。女子に限ればむしろわたしレベルが普通ではないか、と思う。
そんなゲーム音痴が、ここ数年のネトゲに触れた時の、その衝撃を想像して欲しい。頭の中はスーパーマリオで時間が止まっているのである。ゲーム=ドット絵だったのである。ポリゴンって何? ってなもんである。「ちょ、何この映像……」ともなろう。
もちろん、CG技術などに関する知識は、一般レベルであるにはあったのだが、自分が操作できる映像として、こんなにも技術は進歩していたのか、というカルチャーショックを受けた。いやホントにびっくらこいたんだから。
ちょうど精神病んで会社クビになったぐらいのことだから、時間もありあまってたし、二作品ほどにはまった。廃人とは行かないまでも、廃人に近いレベルまでやり込んだ。
とはいえ、やり始めた頃は、ゲーム音痴丸出しだった。そのゲームに関する情報すらろくに収集せずにやっていた。
たとえばあるゲームでは、レベル10ぐらいになると、見習いから数種の職業に転職できるのだが、わたしはレベル15ぐらいまでそれを知らなかった。初めて他のプレーヤーとトレードした時、そのプレーヤーに「珍しいね」と笑われて、やっと気づいたのである。気のいいおっさんだった。実年齢で同じくらいだったし、なんとなく気が合い、その後もよくパーティを組んだ。まあこっちは年サバ読んでたが。そのゲームでは軍人をやっていた。今振り返ると、他のネトゲよりプレーヤーの年齢層が高いゲームであったように思う。
違うゲームでは、わたしは魔法使いをやっていたのだが、魔法(スキル)は、ドラクエのようにレベルが上がれば勝手に覚えるものだと思い込んでいて、「なかなか覚えないなあ」などと思いながら、杖で敵を殴り殺し続けていた。初めてパーティを組んで、わたしよりレベルの低いプレーヤーが、がんがんいろんな魔法を使っているのを見て、「あれ?」と気づいたのだ。何回目かのパーティを組んだ時、お調子者の魔法使いがいて、その人に聞いてみると、スキル屋というのが街にあって、そこでスキルを買うものだと初めて知った。パーティチャットは草(www)で溢れかえった。「わざとマゾプレイしているんだと思ってた」とか言われた。「ちぃ、『マゾプレイ』おぼえた」である。可哀相と思ったのか、その魔法使いは、パーティが解散した後も、街までついてきてくれて、スキル屋の場所を教えてくれた。スキルだけではなくいろんなことを教えてくれた。うざかった。その人とはそれっきりだった。
ネトゲだから笑い話になると言えばそうなのだが、わたしにとっては結構恥ずかしい思い出であるのでゲームタイトルは伏せておく。わかる人もいるかもしれんが。
これらのエピソードを違う視点で見ると、面白いことがわかる。
転職やスキルを覚えるのは、より楽にゲームを進めるためである。確かに見習いのままだと、受けられるクエストも装備できるアイテムも限定される。魔法使いなどという力のないキャラが、一体一体敵を殴り殺していくのなんてとても苦労する。まさに「マゾプレイ」である。実際わたしは、なんでこんなめんどくさい、マゾいことをやってられるのだろう? などと思いながらゲームをやっていた。
めんどくさかったら、苦痛であれば、やめればいいのである。フロイトの快楽原則に則るならばそうなるのである。でもわたしは、しみじみと不便なゲームをやり続けた。
ここに、わたしの粘着的な性格が表れている、とも言えるのだ。
この記事では、わたしのそんな性質が、某笙野ファンからキモチワルがらている。では何故、ネトゲのエピソードではそれが笑い話になるのだろう? と不思議に思う。
この二つのエピソードの差異は認知できる。それは、無知かどうかである。相手がわたしのことを無知だと思えるかどうか。
ネトゲのエピソードでは、明らかにわたしは無知な人間である。だから某笙野ファンのようにキモチワルくならず、笑い話になるのである。誤解を生むことを承知で端的に言うなら、わたしは「カワイイ」と思われたのであろう。それはそれでいいのだ。こんなわたしにだってカワイクありたい気持ちはあるのだ。バカにしないで欲しい。いや逆、バカにして欲しい。バカに思われたい。無知でいたい。いわゆる天然キャラでいたい。わたしは、断頭コンプレックスの存在を認知している。
一方、その笙野ファンとの関係性は、彼女との議論を見ていた人間なら知っていると思うが、わたしは初っ端からぶっ飛ばしていた。ラカンフロイトクラインクリステヴァなどという精神分析系の知識を軸に、様々な知識を援用して議論していた。こんなブログを書いているのだから、むしろわかりやすい態度である。
しかしわたしはこうも思う。その笙野ファンと議論していた数人が、ネトゲでわたしと出会っていたら、と。彼らはゲームwikiなどのページを見ながら、知識と行為を統合しながら、ゲームを進めていたであろう。知識と行為が、矛盾や遅延なく同期できるのが、定型人(正常人)の一つの傾向的な特徴である、とわたしは思っている。この記事にあるように、認知を含めた意味で行為を捉え直してみると、統合失調症とはむしろ運動(行為と言えよう)機能障害である、みたいな論があるが(わたしは一部ではあるが同意できる)、その辺りとも繋がることになろう。
ネトゲで彼らと出会っていたならば、わたしは彼らに「カワイイ」と思われていたように思う。
この「カワイイ」と思われるわたしも、「キモチワルイ」と思われるもわたしも、同じ「わたし」という存在である。わたしは無知でもあり該博でもある。わたしは別に「カワイイ」あるいは「キモチワルイ」と思われたくてそんな演技をしているのではない。無知でもあり該博でもあることを隠すわけではない。
とはいえもちろん隠したいと思う気持ちもある。「役者をやって世界が変わった」などと言うぐらいだから、演技をしていないわけではない。ネトゲでは「脂」などというキャラネームは使わない。誰にも言っていない。2ちゃんラウンジ板では違うコテでオフ会にも参加したことがあるが、その誰も、そのコテがこんなブログを書いているわたしであるとは思わないだろう。言えば「あーなんとなくわからなくもないw」ぐらいは言ってくるかもしれないが。だからわたしは、ラカン論における「隠蔽」や「父の名(欠如)」の意味も認知する。
わたしという存在は、無知でもあり該博でもありそれを隠したくもあり隠したくもない存在である。ただそうである存在を、他人が勝手に「カワイイ」と思ったり「キモチワルイ」と思ったりするだけのことである。わたしはただわたしであるだけである。正常人たちの世界では、「ご病気の人」は無知でなければ存在してはならないらしい、というだけの話である。
わたしは矛盾に満ちた存在である。「キモカワ」のごとく簡単に融合できるものではない。融合できない故、存在自体が苦痛になる。それが、「火花がわたしという器官であり身体だ」なり「物自体とは悪意である」という言葉で示差されている。わたしという存在は、「キモカワ」ではない。むしろ融合できないのがわたしである。
わたしは、「カワイイ」と思われることもあれば「キモチワルイ」と思われることもあるが、「キモカワ」ではない。
ただ、それだけのこと。そういう認知である、という話に過ぎない。
「ちぃ、『キモカワ』わからない。『キモイ』たす『カワイイ』? 『キモカワ』ひく『キモイ』? 『カワイイ』おぼえたら『カワイイ』ちがう。『カワイイ』おぼえられない。キモイ? カワイイ? キモ? カワ? カワキモ? カキワ? ワイイイ? キキワワイイ? モカキワカモイイ? ワイカキモモイワキイ? モキカワワイモイワキワカカキモカキキキキキキキキキキキキキ……」
ええ、『ちょびっツ』ぐらいチェックしてますよ。全部見たわけじゃありませんが。
「おまい、わたしが『ちょびっツ』視聴済みだと思ってるだろ?」
……あー自分がキメエ。
某ブログにリンクしていただいたせいか、ネトゲ系ブロガーの足跡がちょこちょこ見られるので、そういう媚び記事だと思ってくれれば。
キキモよりクエルノだろう、jk。