いいわけ
2006/12/04/Mon
さみしい夜はごめんだぁ~♪ てな感じで。
えーとですね。いろいろ考えてはいるんですが、ちょっとブログで書くような思考テーマじゃないとゆうか、まあ文章にするの難しくね? みたいなものなので、なんかブログ用文章は滞りがちになっております。
あとですね。
前の記事や、他の記事でも書いてた「オタク」という流行語について。
ちょっとある方から指摘を受けたのですが、現在は流行語の段階は終わっているように思えてきました。
19世紀のフランスの芸術至上主義を考えて、そのトレンドは広く見積もって一世紀弱で80年ぐらいだとしたら、オタクという言葉の誕生が1983年、つまり20年以上経っているわけで、またインターネットによる情報化社会という背景も考慮に加えると、「オタク」という言葉においては、一つの言葉の流行語としての寿命、十分流行語としての意味の収束の力が作用している期間は過ぎているのかなあ、なんて今は考えています。
つまり、未だ歴史を背負っているとはいえない「新語」ではありますが、頒布する期間中、頒布する力として生じる「散種停止」的な力は「オタク」という言葉には今はないというか、落ち着いてるのかなあ、ということです。
うーん。頭がぐらぐらするわ。
最近新人作家さんの小説をばらばら読んでいるんですが、なんというか若い(私が言えるセリフじゃないですが)作家さんたちってこうシーン移動・展開が早いですねえ。
昔のトレンディドラマでジェットコースタードラマってゆうのが流行りましたが、筋の流れじゃなく、演出的にそんな感じになっているような。
こういうのって、一シーンの短さというより、シーンの移り目が多い、というのが重要になってくるんじゃないでしょうか。
以前某サイトにお笑いにおける「間」について考察した文章を投稿したことがあるのですが、シーンの繋ぎ目はこの「間」にあたると思います。
シーンの繋ぎ目は、文章がゼロです。小説世界で起こっているはずのことはそこには一切書かれていません。しかし、前後のシーンなどによってそこでは物語は動いているのです。シニフィエ(言葉の意味)がゼロである「純粋なシニフィアン」の逆の、シニフィアン(書く話す問わない「言葉」そのもの)がゼロである「純粋なシニフィエ」みたいな感じがします。
意味はあるけどそこに言葉はない。
言葉という無数の振り子が相互作用を起こして複雑系を形成し、その結果マクロで生じる意味には言葉は与えられていません。行間とか呼ばれてる奴ですね。その文芸作品を読んだ時の自分の内面、感動とか言ってもいいかもしれません。それに言葉を与えるのが評論家でしょう。
評論家も小説家や詩人も、言葉に出来ないものを、その周辺を言葉で表すことで表現するのが仕事ということになるんでしょうか。
その周辺はロゴスでも構いません。ロゴスなんて言葉の「確かなもの」化する力の一つの表出でしかありません。
逆にそう考えると言葉の曖昧さに飲み込まれるのも危険っぽいですねえ。やな予感がします。つうかそれって極めたら純粋なシニフィエ化=「言葉の死」になりますからね。だからこそ言葉を確かなもの化する力、サイン化する力も理解できるような気がします。
要は父性と母性のように、曖昧なものと確かなもののバランスなのかもしれません。太極図みたいなイメージになるんでしょうか。
なんかばりばりデンパっすねえ、今日の文章も……。
つーか株。日経年末18000円予想なんかしてた私が馬鹿でしたわ。あーもう。あほあほ。日銀イザナギ景気越えとか調子こいて利上げなんかしやがったら○っ○○よマジデ。
……いや、キレテナイッスよ?
えーとですね。いろいろ考えてはいるんですが、ちょっとブログで書くような思考テーマじゃないとゆうか、まあ文章にするの難しくね? みたいなものなので、なんかブログ用文章は滞りがちになっております。
あとですね。
前の記事や、他の記事でも書いてた「オタク」という流行語について。
ちょっとある方から指摘を受けたのですが、現在は流行語の段階は終わっているように思えてきました。
19世紀のフランスの芸術至上主義を考えて、そのトレンドは広く見積もって一世紀弱で80年ぐらいだとしたら、オタクという言葉の誕生が1983年、つまり20年以上経っているわけで、またインターネットによる情報化社会という背景も考慮に加えると、「オタク」という言葉においては、一つの言葉の流行語としての寿命、十分流行語としての意味の収束の力が作用している期間は過ぎているのかなあ、なんて今は考えています。
つまり、未だ歴史を背負っているとはいえない「新語」ではありますが、頒布する期間中、頒布する力として生じる「散種停止」的な力は「オタク」という言葉には今はないというか、落ち着いてるのかなあ、ということです。
うーん。頭がぐらぐらするわ。
最近新人作家さんの小説をばらばら読んでいるんですが、なんというか若い(私が言えるセリフじゃないですが)作家さんたちってこうシーン移動・展開が早いですねえ。
昔のトレンディドラマでジェットコースタードラマってゆうのが流行りましたが、筋の流れじゃなく、演出的にそんな感じになっているような。
こういうのって、一シーンの短さというより、シーンの移り目が多い、というのが重要になってくるんじゃないでしょうか。
以前某サイトにお笑いにおける「間」について考察した文章を投稿したことがあるのですが、シーンの繋ぎ目はこの「間」にあたると思います。
シーンの繋ぎ目は、文章がゼロです。小説世界で起こっているはずのことはそこには一切書かれていません。しかし、前後のシーンなどによってそこでは物語は動いているのです。シニフィエ(言葉の意味)がゼロである「純粋なシニフィアン」の逆の、シニフィアン(書く話す問わない「言葉」そのもの)がゼロである「純粋なシニフィエ」みたいな感じがします。
意味はあるけどそこに言葉はない。
言葉という無数の振り子が相互作用を起こして複雑系を形成し、その結果マクロで生じる意味には言葉は与えられていません。行間とか呼ばれてる奴ですね。その文芸作品を読んだ時の自分の内面、感動とか言ってもいいかもしれません。それに言葉を与えるのが評論家でしょう。
評論家も小説家や詩人も、言葉に出来ないものを、その周辺を言葉で表すことで表現するのが仕事ということになるんでしょうか。
その周辺はロゴスでも構いません。ロゴスなんて言葉の「確かなもの」化する力の一つの表出でしかありません。
逆にそう考えると言葉の曖昧さに飲み込まれるのも危険っぽいですねえ。やな予感がします。つうかそれって極めたら純粋なシニフィエ化=「言葉の死」になりますからね。だからこそ言葉を確かなもの化する力、サイン化する力も理解できるような気がします。
要は父性と母性のように、曖昧なものと確かなもののバランスなのかもしれません。太極図みたいなイメージになるんでしょうか。
なんかばりばりデンパっすねえ、今日の文章も……。
つーか株。日経年末18000円予想なんかしてた私が馬鹿でしたわ。あーもう。あほあほ。日銀イザナギ景気越えとか調子こいて利上げなんかしやがったら○っ○○よマジデ。
……いや、キレテナイッスよ?