あーなんかついでに一言。
2008/06/23/Mon
怪物が、化物が、倫理を生むのだ。
人間は、倫理を劣化コピーする存在に過ぎない。
『アンチ・オイディプス(宇野邦一訳)』より。
=====
問題は、オイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずることが最も少ないひとたちなのである。
(上巻p206)
=====
……しかしガタリは、現実的な物事が、悪意であることを隠蔽する。
分裂症者たちの苦しみを、全てオイディプスのせいにする。
オイディプスをも含めるのが、オイディプスになりたがる部分もあるのが、信仰してしまう性質も存在するのが、現実なのに。物事がよく見えて「しまう」人間の現実とは、そういうものなのに。
彼らは、アルトーのうめき声が聞こえていない。
彼らは、精神分析という信仰から、逃れられていない。
反-信仰とは、信仰である。
ガタリこそが、信仰を括弧に入れられていない、オイディプスなのだ。故に、矛盾を括弧に入れることこそが、非定型人の苦痛であることに、触れ「られない」のだ。
こんな、分裂症者になりたがる非分裂症者の戯言が、何故「非定型人を語っている」ことになるのだろう? 素で思う。
非定型人が、定型人にどう自分を語ればいいのか、サバルタンはサバルタンをどう語ればいいのか、その不可能さすら感じさせる困難さが、この著作には立ち表れている。逆説的に。わたしにとって。
読者は、自分がオイディプスであることを認知しながら、この著作を読まなければならない。自分が切り刻まれながら、読まなくてはならない。
=====
いつの時代も、ひとはもう死んでいたものを殺しただけなのだ。神の死という知らせのもたらす収穫は、死の花も生の蕾も、等しく抹殺するのだ。生きているか、死んでいるかは、ただ信仰の問題でしかなく、ひとは信仰の粋から出ていないからである。
=====
彼らの主観世界には、信仰の枠からはみ出て「しまう」人間たちが、存在していない。
オイディプスを欲望し過ぎるあまり。
=====
エンゲルスは、母権や父権のもろもろの形態と、これらの形態間の対立や関係を神話の中に発見したバハオーフェンの天才を讃えている。ところが、エンゲルスは、ひとつの非難をそこに忍ばせていて、事態は一変する。バハオーフェンは、まるで本当にそれを信じているようだ、つまりもろもろの神話、エリニュエス、アポロン、アテナを信じきっているようだ、というのだ。
=====
わたしは忍ばせずに言おう。
ドゥルーズ=ガタリは、まるで本当に、精神分析という神話を、信じきっているようだ、と。
彼らは、まるで鏡の国を信じているようだ。精神分析という鏡に映る、鏡の向こうの世界を。鏡の向こうしか見えていないから、鏡のひび割れから漏れるどろどろしたものを語れない。
だから無意識にとっての、「自然と人間とが外延をともにしている」ことを、あっさりと個人と社会の関係に結びつける。「社会」とは人間の総体である。人間的なるものと人間的なるものの関係性により成り立っているものである。少なくともそれは「自然」ではない。わたしの「断片の世界」論が示す、主体と世界という関係性における、「世界」ではない。
既にこの時点で、欲望を、人間的なものにしか向けられないものとして抑圧している事実に、彼らは気づけていないことがわかる。クラインの部分対象にまで触れながら、「機械」という言葉を強調しながら、こんな簡単な誤謬に気づけていない。
彼らには、分裂症者を、アルトーを、少なくともスキゾイドを語る資格はない。何故なら、欲望を人間的なもの以外にも向けて「しまう」故、情動が希薄なように見えるのが、スキゾイドだからだ。彼らは、スキゾイドについて「心的距離が遠い」と表現する精神科医たちと等しく、オイディプスの病から逃れられていない。「心的距離」という言葉の示す距離に、人間的なるものと人間的なるものの間の距離しか思い浮かばない固定観念から、逃れられていない。
オイディプスの「父母に欲望を固定する、固定させる」症状を、「人間的なるものに欲望を固定する、固定させる」症状まで解体したのが、ラカンの鏡像段階である。彼らが言うように、確かにラカン論は、神経症者を分裂症化させるのに非常に優れた道具であろう。しかし、彼ら自身の無意識が、鏡像段階というオイディプスの黒幕から、逃れられていないのだ。
だから、わたしは読んでいて、とても生理的に不愉快になる。理屈ではなく、その行間から、神経症者の分裂症者に対する、定型人の非定型人に対する暴力を、感じてしまう。アガペーの押しつけという暴力を。
彼らは、人間愛というアガペーを否認できていない。これが彼らが神経症者である、オイディプスである証拠なのだ。だからこそこの精神分析信仰者たちは、無意識を牧歌的なものなどと言えるのだ。鏡の向こうの世界しか見えていないのだ。
サイバラ系ギャグ思想として読んだ方がいいんじゃね? という話。
まー時代背景とか訳書であることを考慮したげてもいいんだがね。
どうであれキモイものはキモイ。それだけ。
人間は、倫理を劣化コピーする存在に過ぎない。
『アンチ・オイディプス(宇野邦一訳)』より。
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問題は、オイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずることが最も少ないひとたちなのである。
(上巻p206)
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……しかしガタリは、現実的な物事が、悪意であることを隠蔽する。
分裂症者たちの苦しみを、全てオイディプスのせいにする。
オイディプスをも含めるのが、オイディプスになりたがる部分もあるのが、信仰してしまう性質も存在するのが、現実なのに。物事がよく見えて「しまう」人間の現実とは、そういうものなのに。
彼らは、アルトーのうめき声が聞こえていない。
彼らは、精神分析という信仰から、逃れられていない。
反-信仰とは、信仰である。
ガタリこそが、信仰を括弧に入れられていない、オイディプスなのだ。故に、矛盾を括弧に入れることこそが、非定型人の苦痛であることに、触れ「られない」のだ。
こんな、分裂症者になりたがる非分裂症者の戯言が、何故「非定型人を語っている」ことになるのだろう? 素で思う。
非定型人が、定型人にどう自分を語ればいいのか、サバルタンはサバルタンをどう語ればいいのか、その不可能さすら感じさせる困難さが、この著作には立ち表れている。逆説的に。わたしにとって。
読者は、自分がオイディプスであることを認知しながら、この著作を読まなければならない。自分が切り刻まれながら、読まなくてはならない。
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いつの時代も、ひとはもう死んでいたものを殺しただけなのだ。神の死という知らせのもたらす収穫は、死の花も生の蕾も、等しく抹殺するのだ。生きているか、死んでいるかは、ただ信仰の問題でしかなく、ひとは信仰の粋から出ていないからである。
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彼らの主観世界には、信仰の枠からはみ出て「しまう」人間たちが、存在していない。
オイディプスを欲望し過ぎるあまり。
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エンゲルスは、母権や父権のもろもろの形態と、これらの形態間の対立や関係を神話の中に発見したバハオーフェンの天才を讃えている。ところが、エンゲルスは、ひとつの非難をそこに忍ばせていて、事態は一変する。バハオーフェンは、まるで本当にそれを信じているようだ、つまりもろもろの神話、エリニュエス、アポロン、アテナを信じきっているようだ、というのだ。
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わたしは忍ばせずに言おう。
ドゥルーズ=ガタリは、まるで本当に、精神分析という神話を、信じきっているようだ、と。
彼らは、まるで鏡の国を信じているようだ。精神分析という鏡に映る、鏡の向こうの世界を。鏡の向こうしか見えていないから、鏡のひび割れから漏れるどろどろしたものを語れない。
だから無意識にとっての、「自然と人間とが外延をともにしている」ことを、あっさりと個人と社会の関係に結びつける。「社会」とは人間の総体である。人間的なるものと人間的なるものの関係性により成り立っているものである。少なくともそれは「自然」ではない。わたしの「断片の世界」論が示す、主体と世界という関係性における、「世界」ではない。
既にこの時点で、欲望を、人間的なものにしか向けられないものとして抑圧している事実に、彼らは気づけていないことがわかる。クラインの部分対象にまで触れながら、「機械」という言葉を強調しながら、こんな簡単な誤謬に気づけていない。
彼らには、分裂症者を、アルトーを、少なくともスキゾイドを語る資格はない。何故なら、欲望を人間的なもの以外にも向けて「しまう」故、情動が希薄なように見えるのが、スキゾイドだからだ。彼らは、スキゾイドについて「心的距離が遠い」と表現する精神科医たちと等しく、オイディプスの病から逃れられていない。「心的距離」という言葉の示す距離に、人間的なるものと人間的なるものの間の距離しか思い浮かばない固定観念から、逃れられていない。
オイディプスの「父母に欲望を固定する、固定させる」症状を、「人間的なるものに欲望を固定する、固定させる」症状まで解体したのが、ラカンの鏡像段階である。彼らが言うように、確かにラカン論は、神経症者を分裂症化させるのに非常に優れた道具であろう。しかし、彼ら自身の無意識が、鏡像段階というオイディプスの黒幕から、逃れられていないのだ。
だから、わたしは読んでいて、とても生理的に不愉快になる。理屈ではなく、その行間から、神経症者の分裂症者に対する、定型人の非定型人に対する暴力を、感じてしまう。アガペーの押しつけという暴力を。
彼らは、人間愛というアガペーを否認できていない。これが彼らが神経症者である、オイディプスである証拠なのだ。だからこそこの精神分析信仰者たちは、無意識を牧歌的なものなどと言えるのだ。鏡の向こうの世界しか見えていないのだ。
サイバラ系ギャグ思想として読んだ方がいいんじゃね? という話。
まー時代背景とか訳書であることを考慮したげてもいいんだがね。
どうであれキモイものはキモイ。それだけ。