『肉眼論』補遺(*1)
2008/06/24/Tue
お前たちは知っているのだろうか。
その瞬間、圧倒的な現実感をもって立ち表れる世界を。自分を。何かを。
それは、フィクションでも日常的な現実でもない。「実存」なんて便利な言葉もあるが、わたしは好きじゃない。以降はそれを「何か」と言う。
それはフィクションでも日常的な現実でもないものだから、フィクションにも日常的現実にも、時々立ち現れる。
肉眼で見える世界。肉体が感じる自分。
日常を生きるわたしたちは、肉眼で物事を見えていない。肉体で自分を生きていない。それと比較すると、そういう風にしか思えない、「何か」。それを知ってしまうと、日常も映画も夢も同じフィクションであるとしか思えなくなる、「何か」。
だから、このブログに書いてあることも、全てフィクションである。お前たちの読むという行為すら、フィクションである。お前たちが理解したつもりでいる意味など、クレヨンしんちゃんと同じフィクションである。
ここにある文章は、クレヨンしんちゃんたちに向けて、語っている。わたしというクレヨンしんちゃんは、お前たちというクレヨンしんちゃんを殴りつけている。
クレヨンしんちゃんは、クレヨンしんちゃんでいろ。即ち、コメントなどつけるな。コメントするならば、自分というクレヨンしんちゃんを虐待していることだと理解しながら、しろ。
だからお前はコメントしたがるのだ。自分というクレヨンしんちゃんを虐待する暴力の楽しみが、そこにある。鬼子母神が流す血の涙という美酒に、酔いしれている。
鏡の国など、ここでは便所である。お前もわたしも、糞便である。(*2)
……とても苦しい夢を見た。痛みを感じる夢だった。わたしにとって痛みは、夢と日常を繋ぎ止めるものである。だから、痛みを感じなかったら夢である、なんて理屈は理解できない。痛みが夢に導く。痛みで夢から覚める。
わたしはバイだった。付き合ってた彼女は情緒不安定だった。情緒不安定過ぎて、顔形すら曖昧だった。目や鼻や耳は思い出せなくもないのに、その子を目の前にして、ああこういう顔だったな、と思う。でもすぐ忘れてしまう。そんなわたしに、彼女はいつも怒っていた。わたしがそうさせていた。おちょくっていたぶって怒らせるのは、自分でもイヤなのに、いつもそうしてしまう。だから、今考えると、わたしが怒らせたがっていたように思える。
彼女が怒っている時は、わたしは必ずその口を見ていた。目や鼻や耳が、彼女の怒りに任せて、どっかに飛び散ってしまいそうだったから。口だけでもあれば、飛び散らないだろうと思えたから。
ある日、その怒りは包丁を使った。わたしの二の腕を刺した。彼女は豹変した。ごめんねごめんねと泣きながら謝った。女も男も変わらない、と思った。四針縫った。医者には、料理していた彼女に、わたしがちょっかいを出して、彼女が大仰に驚いたせいでこうなった、と説明した。とても冷静に説明できた。世間に流布する事実とはその程度だと知っていたからだ。
二の腕はじんじん痛んだ。じんじん痛むのに、夜は眠らなければならない。眠れるわけがない。しかし体は眠ろうとする。わたしはこの感覚をよく知っていた。夢で痛みを感じて覚める時と同じ感覚だからだ。だからわたしは、日常と夢を繋ぐのは、痛みであると知っている。痛みが、夢に導くのだと……。
そこは、痩せた老人たちが、硝子の破片を握って、切りつけ合う世界だった。硝子は鏡のようでもあった。老人たちはとても背が高く、細く、杉の木が動いているようだった。手が四本ある人もいれば、足が一本しかなく、ぴょんぴょん飛び跳ねているのもいた。とてもぎくしゃくした動きだった。破片なので、それを握る手からも血がこぼれていたが、相手の血なのかもしれなかった。破片だからそうだろう、と思ったのだった。
栄養失調で、お腹だけ膨れたガキたちが、ところどころにいた。老人たちが、肉を持ってきてくれるのを待っているのかもしれない、と思った。ガキたちの膨れたお腹は、頭だった。目や鼻や耳がついていた。鼻から下はなかった。一方、首の上にある口は、さまざまな罵詈雑言を吐いて、老人たちの祝祭を囃し立てていた。
わたしは、そんな中、沼の上で寝ていた。沼というより、泥土の上。老人たちが流した血かガキたちが漏らした小便かわからないが、とても臭い泥の上で、わたしは寝ていた。
体が動かなかった。金縛りだった。助けを呼びたかった。こんなところからは逃げ出したかった。声も出なかった。動かない体の中でのた打ち回る体があった。オブラートにくるまれた数百匹のムカデ。食い破られた終わりだ。オブラートだから、血に溶けてしまう。ムカデは世界中に拡散し、繁殖していく……。動かない体とのた打ち回る体が奏でる軋みが、わたしの口という穴から漏れていた。
ムカデたちは、オブラートの中で繁殖していった。わたしの頭は膨らんでいった。時々、運よく出口に辿り着けた勇者ムカデが、わたしの口からうめき声と共に出て行ったが、口で起きたことなので、よく見えなかった。だけど、頭が膨張していく感覚はあった。三倍ぐらいになっているように思えた。頭痛というより、二日酔いの時の胸焼けに近い痛みだった。頭焼けだった。だから、うめき声しか吐けなかった。
わたしは腕を伸ばした。動かないはずなのに、動かせない感覚はあるのに、腕は伸びた。上方二メートルぐらい先に、手首があった。動かせない感覚のせいか、それがわたしの手首なのかわからなかった。でもわたしの手首だという感覚はあったので、それを取り戻そうとした。腕を引っ込めようとした。手の甲が目の前にあった。巨大だった。どんどん巨大になった。わたしを押し潰そうとした。しかし、上方二メートルほどにある手首の感覚はあった。右手と左手の違いかもしれなかった。だからわたしはそれを払いのけた。右手で左手を払いのけたのかもしれない。どっちがどっちなのかはわからなかった。何故なら動かせない感覚は残っていたから。わたしの数メートル横でわたしの右腕か左腕かがのた打ち回っているような気がした。それはムカデだった。腕は二本でなければならない。だからわたしは、口の中のムカデを噛み潰した。歯の間から、小さいムカデが這い出て行った。わたしは嘔吐していた。とても臭かった。這い出られないムカデの方が多かった。ムカデはわたしの喉をつまらせた。腕がわたしの口に潜り込もうとしていた。右腕か左腕かはわからなかった。何故なら、金縛りは続いていたから。腕は血を流していた。何故なら、わたしに噛まれたから。
……わたしの吐瀉物が、鉄板で焼かれている。どろどろだったそれは、お好み焼きのように固まっていった。わたしは追加で吐いた。じゅうっという音とともに、吐瀉物は飛散した形で固まっていった。頭焼けはひどくなっていた。
ブタ玉ならぬムカデ玉、だろうか。
わたしは口だけになっていた。目や鼻や耳は、吐瀉物と一緒に吐き出されてしまった。色覚異常の目や、難聴気味な右耳は、噛み砕かれ胃液に溶け、ムカデや腕とどろどろになって、吐き出され、鉄板で焼かれ、固まっていった。
わたしはただ吐くだけの存在になっていた。最後に残った感覚が、頭焼けだった。それさえも吐いてしまいたくあるが、それを吐いてしまったら、わたしはわたしを刺した彼女になってしまう。わたしは彼女を食べてしまう。包丁を握るのは彼女の腕だが、まな板の上には彼女の腕が載っている。わたしは鉄板で焼かれている。
吐きながら、必死で頭焼けだけを残そうとした。わたしであってわたしでない肉体が、そうさせた。
頭焼けが、わたしを日常に、フィクションに、連れ戻そうとしていた。
歯の間に残っているムカデの足だけが、フィクションの中の現実である。
フィクションのわたしは、それをムカデの足だと気づかないだろう。気づかないまま、フィクションに閉じ込められる。
歯に挟まったムカデの足のせいで、わたしの肉体は、いつもよりぎくしゃくしてしていた。歩き方の、ほんの一部を忘れてしまったかのように、不自然に歩いていた。いつもの歩き方じゃないと思った。だけどいつもの歩き方は、完全には思い出せなかった。
医者に嘘の説明をしていた時、姿見に映るわたしは、若干左肩が下がっていた。
刺されたのは、右腕だった。
*1
田村隆一のテクスト『肉眼論』より。
*2
アルトーは、ルイス・キャロルのテクストについて(その評価含め)、「貴族がその礼儀正しいテーブルマナーで糞便を食べているようなものだ」と表現した。
ラカンの鏡像段階を連鎖させたかったら勝手にしろ。
その瞬間、圧倒的な現実感をもって立ち表れる世界を。自分を。何かを。
それは、フィクションでも日常的な現実でもない。「実存」なんて便利な言葉もあるが、わたしは好きじゃない。以降はそれを「何か」と言う。
それはフィクションでも日常的な現実でもないものだから、フィクションにも日常的現実にも、時々立ち現れる。
肉眼で見える世界。肉体が感じる自分。
日常を生きるわたしたちは、肉眼で物事を見えていない。肉体で自分を生きていない。それと比較すると、そういう風にしか思えない、「何か」。それを知ってしまうと、日常も映画も夢も同じフィクションであるとしか思えなくなる、「何か」。
だから、このブログに書いてあることも、全てフィクションである。お前たちの読むという行為すら、フィクションである。お前たちが理解したつもりでいる意味など、クレヨンしんちゃんと同じフィクションである。
ここにある文章は、クレヨンしんちゃんたちに向けて、語っている。わたしというクレヨンしんちゃんは、お前たちというクレヨンしんちゃんを殴りつけている。
クレヨンしんちゃんは、クレヨンしんちゃんでいろ。即ち、コメントなどつけるな。コメントするならば、自分というクレヨンしんちゃんを虐待していることだと理解しながら、しろ。
だからお前はコメントしたがるのだ。自分というクレヨンしんちゃんを虐待する暴力の楽しみが、そこにある。鬼子母神が流す血の涙という美酒に、酔いしれている。
鏡の国など、ここでは便所である。お前もわたしも、糞便である。(*2)
……とても苦しい夢を見た。痛みを感じる夢だった。わたしにとって痛みは、夢と日常を繋ぎ止めるものである。だから、痛みを感じなかったら夢である、なんて理屈は理解できない。痛みが夢に導く。痛みで夢から覚める。
わたしはバイだった。付き合ってた彼女は情緒不安定だった。情緒不安定過ぎて、顔形すら曖昧だった。目や鼻や耳は思い出せなくもないのに、その子を目の前にして、ああこういう顔だったな、と思う。でもすぐ忘れてしまう。そんなわたしに、彼女はいつも怒っていた。わたしがそうさせていた。おちょくっていたぶって怒らせるのは、自分でもイヤなのに、いつもそうしてしまう。だから、今考えると、わたしが怒らせたがっていたように思える。
彼女が怒っている時は、わたしは必ずその口を見ていた。目や鼻や耳が、彼女の怒りに任せて、どっかに飛び散ってしまいそうだったから。口だけでもあれば、飛び散らないだろうと思えたから。
ある日、その怒りは包丁を使った。わたしの二の腕を刺した。彼女は豹変した。ごめんねごめんねと泣きながら謝った。女も男も変わらない、と思った。四針縫った。医者には、料理していた彼女に、わたしがちょっかいを出して、彼女が大仰に驚いたせいでこうなった、と説明した。とても冷静に説明できた。世間に流布する事実とはその程度だと知っていたからだ。
二の腕はじんじん痛んだ。じんじん痛むのに、夜は眠らなければならない。眠れるわけがない。しかし体は眠ろうとする。わたしはこの感覚をよく知っていた。夢で痛みを感じて覚める時と同じ感覚だからだ。だからわたしは、日常と夢を繋ぐのは、痛みであると知っている。痛みが、夢に導くのだと……。
そこは、痩せた老人たちが、硝子の破片を握って、切りつけ合う世界だった。硝子は鏡のようでもあった。老人たちはとても背が高く、細く、杉の木が動いているようだった。手が四本ある人もいれば、足が一本しかなく、ぴょんぴょん飛び跳ねているのもいた。とてもぎくしゃくした動きだった。破片なので、それを握る手からも血がこぼれていたが、相手の血なのかもしれなかった。破片だからそうだろう、と思ったのだった。
栄養失調で、お腹だけ膨れたガキたちが、ところどころにいた。老人たちが、肉を持ってきてくれるのを待っているのかもしれない、と思った。ガキたちの膨れたお腹は、頭だった。目や鼻や耳がついていた。鼻から下はなかった。一方、首の上にある口は、さまざまな罵詈雑言を吐いて、老人たちの祝祭を囃し立てていた。
わたしは、そんな中、沼の上で寝ていた。沼というより、泥土の上。老人たちが流した血かガキたちが漏らした小便かわからないが、とても臭い泥の上で、わたしは寝ていた。
体が動かなかった。金縛りだった。助けを呼びたかった。こんなところからは逃げ出したかった。声も出なかった。動かない体の中でのた打ち回る体があった。オブラートにくるまれた数百匹のムカデ。食い破られた終わりだ。オブラートだから、血に溶けてしまう。ムカデは世界中に拡散し、繁殖していく……。動かない体とのた打ち回る体が奏でる軋みが、わたしの口という穴から漏れていた。
ムカデたちは、オブラートの中で繁殖していった。わたしの頭は膨らんでいった。時々、運よく出口に辿り着けた勇者ムカデが、わたしの口からうめき声と共に出て行ったが、口で起きたことなので、よく見えなかった。だけど、頭が膨張していく感覚はあった。三倍ぐらいになっているように思えた。頭痛というより、二日酔いの時の胸焼けに近い痛みだった。頭焼けだった。だから、うめき声しか吐けなかった。
わたしは腕を伸ばした。動かないはずなのに、動かせない感覚はあるのに、腕は伸びた。上方二メートルぐらい先に、手首があった。動かせない感覚のせいか、それがわたしの手首なのかわからなかった。でもわたしの手首だという感覚はあったので、それを取り戻そうとした。腕を引っ込めようとした。手の甲が目の前にあった。巨大だった。どんどん巨大になった。わたしを押し潰そうとした。しかし、上方二メートルほどにある手首の感覚はあった。右手と左手の違いかもしれなかった。だからわたしはそれを払いのけた。右手で左手を払いのけたのかもしれない。どっちがどっちなのかはわからなかった。何故なら動かせない感覚は残っていたから。わたしの数メートル横でわたしの右腕か左腕かがのた打ち回っているような気がした。それはムカデだった。腕は二本でなければならない。だからわたしは、口の中のムカデを噛み潰した。歯の間から、小さいムカデが這い出て行った。わたしは嘔吐していた。とても臭かった。這い出られないムカデの方が多かった。ムカデはわたしの喉をつまらせた。腕がわたしの口に潜り込もうとしていた。右腕か左腕かはわからなかった。何故なら、金縛りは続いていたから。腕は血を流していた。何故なら、わたしに噛まれたから。
……わたしの吐瀉物が、鉄板で焼かれている。どろどろだったそれは、お好み焼きのように固まっていった。わたしは追加で吐いた。じゅうっという音とともに、吐瀉物は飛散した形で固まっていった。頭焼けはひどくなっていた。
ブタ玉ならぬムカデ玉、だろうか。
わたしは口だけになっていた。目や鼻や耳は、吐瀉物と一緒に吐き出されてしまった。色覚異常の目や、難聴気味な右耳は、噛み砕かれ胃液に溶け、ムカデや腕とどろどろになって、吐き出され、鉄板で焼かれ、固まっていった。
わたしはただ吐くだけの存在になっていた。最後に残った感覚が、頭焼けだった。それさえも吐いてしまいたくあるが、それを吐いてしまったら、わたしはわたしを刺した彼女になってしまう。わたしは彼女を食べてしまう。包丁を握るのは彼女の腕だが、まな板の上には彼女の腕が載っている。わたしは鉄板で焼かれている。
吐きながら、必死で頭焼けだけを残そうとした。わたしであってわたしでない肉体が、そうさせた。
頭焼けが、わたしを日常に、フィクションに、連れ戻そうとしていた。
歯の間に残っているムカデの足だけが、フィクションの中の現実である。
フィクションのわたしは、それをムカデの足だと気づかないだろう。気づかないまま、フィクションに閉じ込められる。
歯に挟まったムカデの足のせいで、わたしの肉体は、いつもよりぎくしゃくしてしていた。歩き方の、ほんの一部を忘れてしまったかのように、不自然に歩いていた。いつもの歩き方じゃないと思った。だけどいつもの歩き方は、完全には思い出せなかった。
医者に嘘の説明をしていた時、姿見に映るわたしは、若干左肩が下がっていた。
刺されたのは、右腕だった。
*1
田村隆一のテクスト『肉眼論』より。
*2
アルトーは、ルイス・キャロルのテクストについて(その評価含め)、「貴族がその礼儀正しいテーブルマナーで糞便を食べているようなものだ」と表現した。
ラカンの鏡像段階を連鎖させたかったら勝手にしろ。